ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

実家の想い出

2014年02月18日 | ガジ丸の日常

 実家の売却が終了した。家の中にあった夥しい数のモノはほとんど全て処分した。私の理想とする生活は、自分の生活に必要な道具がワンボックスカー1台に載るだけのものにし、いつでも引っ越しでき、どこにでも移り住むことができるということなので、「これは価値があるよ、持っておけば」と勧められたモノも構わず処分した。
     
  それでも、私の手元に残したモノが少しはある。大きなものでは折り畳みベッド、掃除道具入れ棚、長火鉢などといった家具、冷蔵庫、電気ストーブ、電子レンジなどの家電、その他、壁掛け時計、母の日誌数冊、食器や鍋類少々、そして、珍品いくつかなど。
 折り畳みベッドは、今使っている自作の木製ベッドが耐用年数を過ぎた時の予備、掃除道具入れ棚は価値のある物ではないが、私が木工を趣味としている時に母に頼まれ作った物で若かりし頃の想い出。捨てるに忍びなく、畑小屋で使っている。長火鉢もそう価値のある物ではないが、いつか、煙管をやりながら酒を飲む生活がしたいと思って。
     

  掃除道具入れ棚も想い出だが、想い出というと他にもっと大きな想い出がいくつか見つかった。一つは映画音楽全集というLPレコード数枚のボックスで、私が中学生の頃のものだ。「サウンドオブミュージック」や「ウエストサイドストーリー」、「風邪と共に去りぬ」など有名どころが網羅されていた。買ったのは当時同居していた従姉のMだが、これを私は何度も聴いた。それで映画に興味を持ち、映画大好き少年になった。
 別の一つは手動のコーヒーミル。高校生の頃に買ったものだ。コーヒー豆を買い、それを手動のミルで挽き、ドリップで飲む生意気 な高校生だった。もう一つは小さな焼き物が2個。高校生の頃、美術クラブに入っていて、そこで私は絵はあまり描かずに轆轤を回し焼き物をやっていた。下手糞ながら壺や皿、湯のみなどたくさんの作品を作った。作品は一つも残っていないと思っていたが、父の部屋から2個見つかった。
     
 映画音楽全集とコーヒーミルは欲しいという人がいたので、やった。私の作った焼き物2個は誰にも見向きされず、ちょっと悩んだが、とりあえず手元に置いた。
     

 浪人時代の想い出のモノは一つだけあ る。私が大学の頃に両親は家を建て替えた。建て替える前の古い家そのものがそれ。そこには浪人時代の心の想い出が一杯詰まっている。1浪目は首里に一人で住み、近くの伯父の仕事を手伝い、勉強はほとんどしなかった。それに憤慨した母の意見、及び、それを反省した自身の自覚で2浪目は実家に住み、実家近くの予備校に通った。予備校で数人の可愛い子と知合い、恋人もできた。
 高校浪人のK子(今でも名前も顔も覚えている)と仲良くなり、彼女と彼女の友人が2人して、私に勉強を教わる口実でよく私の部屋にやってきて、口実通りの勉強もしたけれどおしゃべりが多かった。K子は私のベッドで昼寝する大胆な少女であった。
     
 近くに住む女子高生2人も時々やってきた。これは純粋に勉強を教えていた。そして、同じく大学浪人の女子グループの数人も出入りするようになった。それだけ書くと、いかにも私がモテル男みたいだが、そうでは無く、男女数人のグループがあって、そのグループの溜まり場になっていたということ。私の家は予備校から最も近い所にあった。
 私の家に友人たちの出入りが多かったのは予備校から近いということの他に、私の部屋は家の玄関を入らずに外から出入りできる出入口が別途あり、私の両親に見られることなく、時間も関係なく気軽に出入りできたという理由もある。
     

 大学を卒業して、東京暮らしを引き上げ実家へ帰った。その時には家は建て替えられていた。1階はリビング、キッチン、ダイニング、仏間兼祖母の寝室、家事室、トイレ、風呂場などで、その他の寝室は2階にあり、私の部屋はその奥にあった。父の部屋、母の部屋を通らな いと外に出られなかった。窓は北向きと東向きの2つあったが、どちらにもアルミの格子が備えられており、窓から外へ逃げることもできない。刑務所のような閉じ込められた空間と感じた。弟の部屋はもっと悪い、窓は一つだけで、窓のすぐ向こう、1mも離れていない所は隣の家の壁で、暗い部屋となっていた。
 一昨年、弟が帰省した時、
 「定年になったら沖縄に帰ろうかと思っている」と彼が言うので、
 「俺はこの家に住む気はないから、お前が使ったらいいさぁ」と提案したら、
 「この家は暗いから、俺も住むのは嫌だな」という答えだった。
 新しくなった実家に、弟はたぶん3~4年しか住んでいない。私はフリーターのような時期が長く、アパートを借りる金が無いという理由もあって、それよりずっと長く、11~12年住んだ。その間、居心地は悪かった。良い想い出も特に無い。28歳の時に12歳年下の女子高生に恋をして、何度かデートに誘いキスまでしたが、結局は振られたという悲しくも苦い想い出があるだけだ。

  実家にあったモノには価値のありそうなモノも多くあった。古い本や壺類など。それらは公共の施設に贈呈したり、欲しいと言う人にあげたり、古本屋へ譲った。価値があるかどうかは判らないが、「珍品ではないか?」と思えるものもあった。
 一つは戦時中、爺さんが死体の山から拾ってきたという日本軍の銃剣、及び、アメリカ軍の水筒とフライパン。「たぶん、集めている人は多いので、高く売れるよ」とある人に言われたが、それらは公共の施設に寄贈した。
     
 同じようなものだが、これは戦時中では無 く、戦後の米軍払下げ品ではないかと思われる。母の部屋にあった行李のようなもの、衣服を入れるのでは無く、米軍の武器(ライフルなど)を収める箱だったのではないかという友人の意見もあった。
 もう一つは、父の部屋にあったカード(普通のカードと同程度の大きさ)、1945年9月2日という日付がある。戦艦ミズーリ号上での日本の降伏調印式の写真。英語をきちんと訳せないのだが、たぶん、ミズーリ号の引退式典かなんかの時の記念カードではないかと思われる。同じくミズーリ号での調印式を描いた記念絵葉書もある。
     
     
  最後の一つは、これは倭国の人は知らないのでまったく興味が無いかもしれないが、我々世代、本土復帰前の生活を知っている世代ならばとても懐かしいもの。

 我々が中学高校の頃まで、少年たちが飲む清涼飲料水で最もポピュラーだったのはベストソーダという銘柄のソーダ。当時コカコーラは10セントであったが、同じ量でベストソーダは5セントと安かった。数種の味があって、それも人気だった。
  株式会社ベストソーダは、本土復帰から3年後の1975年に経営不振で廃業となっている。そのベストソーダの空きビンは、土を掘り返す建築現場などから出てきたりして、そう珍しいものでは無い。私もいくつか持っていた。しかし、今回実家から見つかったものはベストソーダのお盆、会社創立何十周年記念かなんかで作ったものと想像するが、詳細不明。先輩や友人の何人かに見せたが、みな初めて見たとの答えだった。
     

 珍品と私が判断した米軍色の行李、ミズーリ号のカード、ベストソーダのお盆の3品は手元に置いてある。それを得意としている友人Kに頼んでネットオークションに出した。どのくらいの値段がつくか楽しみ。どんな反応があるかはもっと楽しみ。

 記:2014.2.6 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次

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