カディスの緑の風

スペイン、アンダルシアのカディス県在住です。

現在は日本の古い映画にはまっています。

小津安二郎監督が映画に託す追悼の意 

2013-11-02 23:17:30 | 映画


前の記事で、小津映画に見られる、「陰膳」のことに言及したが、

小津安二郎における戦争の影響――追悼の陰膳

わたしの別のブログで、陰膳について下記のようなコメントを残された方がいた。


オマージュかどうかは、そういう解釈もありうるな、とは思いますし

筋は通ってるな、と思います。ただ、子供に死者にする食べ方で

(そうと知っていて)食べさせる・・・私だったら、

いくら映画作りでも、大人としてやらないなぁと違和感を感じたのです。

その説(オマージュという説のこと、筆者記す)が正しいとしたら、

私は小津映画が好きだっただけに、ちょっと残念な気持ちです。

まぁ、私が仏教感に縛られすぎているだけで、表現としては

許されるのでしょうね。アートだからってことで。







子供に死者にする食べ方で食べさせるのは大人げない、というご意見なのであるが、

果たして陰膳のようなものは忌み嫌うものであるのか?


調べて見たら、陰膳、という風習は仏教のものではないそうである。少なくとも

お寺さんでは必然ではない。遺族の意志で陰膳をもうけるかどうか決めるそうである。

因習として、家族が自宅で行うものであるそうな…。



それに小津の作品に不吉、とか、呪われている、とか、そのような印象を受ける人が

多いのはなぜだろうか。それもまた不思議な現象である、とわたしは思う。


それで、次のような記事を書いたので、こちらのブログでも発表することにする。





以下の文章はわたしの別のブログに載せたものをコピペしたものです。


泥中の蓮――小津安二郎のことば






小津監督の作品をほとんど見て、それも何度も繰り返し見て、

いろいろなことが胸をよぎり、そして疑問がふつふつと湧く。


先日記事にした『小津映画に見られるちゃぶ台配膳の謎』に書いた

配膳の不思議がその一つであるが、ほかにも謎は多い。


例えば、『麦秋』など、丸の内のビル街を映し出したショットにみえる

街灯は、なぜあのようにちゃちいものなのだろう、そしてその同じ街灯が

『お早う』の新興住宅地の向うの土手わきに、

ちゃっかりお目見えしているのはなぜか???とか、

『麦秋』の映画の紀子(原節子)の上司(佐野周二)の靴下が

縞々模様で、子供っぽいのはどうしてだろう、とか

まあ、そんな他愛のないところに目が行ってしまうのは、

わたしの映画を見るときの悪い癖であるが、

「ちゃぶ台配膳の謎」の次に大きな疑問だったのは、

やはり『麦秋』において、奈良の大和から上京する「大和のおじいさま」

と呼ばれる老人(高堂国典)、つまり長男(笠智衆)の父親(菅井一郎)の

兄、という人物が出てくるのだが、その耳の遠い老人を

歌舞伎鑑賞に父母が連れて行くその場面である。

桟敷席の三人の顔が大写しになる間、

舞台は見えず、せりふまわしだけが聞こえる。

そして、観客が退場したあとのがらんとした歌舞伎座の一階席が

数秒映し出されるのである。



『晩春』ではお能の舞台を延々と映し出されたのとは

対照的である。



しかしこの謎も、小津の『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』

というエッセイなどをまとめた本を読んで、その答えが見つかった。


以前にも記事に書いたが、小津は1937(昭和12)年から

一年10か月に渡って、日中戦争に召集され、中国で戦った。

飲み仲間で、同業の山中貞雄監督と戦地で一度再会したが、

その後、山中貞雄は赤痢で病死した、との知らせを聞く。

小津にとって山中の戦死は実にこたえたらしい。

戦地からの手紙の中でこのように記している。


山中も入った野戦病院。白い天井も、白い寝台も、何の草花もない

名ばかりの病室に、戸板を並べて藁を敷いた寝台に、

枕を並べた戦友たちの間から、

一人武運拙く静に眠って行った山中が、今こそ激しく身近に

感じられた。いい奴だった。得難い友達だった。僕は目頭を拭った。



『麦秋』では歌舞伎座の正面を映した場面で、演目がちら、と出てくる。

それは『天衣紛上野初花』。河竹黙阿弥の作である。

山中貞雄監督は『河内山宗俊』という映画を出征の前の年1936年に

制作しているが、この映画の原作となったのが、この河竹黙阿弥の

『天衣紛上野初花』なのである。


そして『麦秋』の紀子が結婚相手として選ぶのは、

戦死した兄、省二の友人であるが、

彼は兄からの手紙を持っていて、その中には麦の穂が同封してあった、

「徐州戦の時分、僕はちょうど『麦と兵隊』を読んでいたんだ」

という言及がある。

火野葦平が「麦と兵隊」を書いたのが1938年、

山中貞雄が28才で戦病死したのも1938年なのである。



小津は誰もいない歌舞伎座の場面を映し出して、

戦死した友人へ黙祷を捧げているのだ。

こんな暗号のような場面やせりふをところどころにちりばめて

小津は山中への哀悼の意を表明し、レクイエム、とした、

と見てまちがいないだろう。

高橋治著の『絢爛たる影絵 小津安二郎』という本にも、

『麦秋』の亡兄とは山中貞雄、という記述がある。


こうして解読してみると、例の配膳のことも、やはりそうか、と納得がいく。

お茶碗の位置を逆にすることによって、小津は山中貞雄へ捧げる

「陰膳」に見立てたのである。



ところで「陰膳」という風習を調べて見ると、

これは旅や戦争に出た人の無事生還を祈ったり

または故人となった人を偲んで捧げる食事だそうで、

「仏教ではなく習俗である」という。

そして捧げた食事は家族が食べるのが供養、ということで、

捨てずにいただくのが通例だそうである。


こうしてみると、子供であっても陰膳で捧げられた食事をいただくのは

別におかしくない、むしろ当たり前のことなのである。


小津映画の解釈はネットで検索できるブログなどにさまざま見られるが、

中にはたとえば、女性がかぶりものをしているのは不吉な予告である、

として、電灯の笠が女性の頭上にあるのもかぶりもので不吉である、とか

『東京物語』で紀子が義母の肩をたたく場面では、

首をしめるようなしぐさをして、義母へ復讐をしており、

お小遣いとして義母に差し出すのは、縁を切る手切れ金、などという

いきすぎた解釈には笑ってしまうが、小津映画に

亡霊的な存在や、呪い、など、いわば「不浄」の

暗示を見てしまう人たちがかなりいることに驚く。


わたしとしては小津の作品は、見る人それぞれの感想があって当然、

と思うのであるが、やはり不吉なものを感じる、というのは

小津の真意を汲んでいないのでは、と思う。


前述の小津のエッセイ『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』に

収録された小津の言葉を、少々長いが引用したい。








『泥中の蓮を描きたい』

私のねらいなどといって別に変った方法もなく、私なりにやっているんです、

手っとり早くいえば自然のままに撮っているといえるでしょうが、

しかしこれは方法的なことで、その本質面をいうとなると

一寸考えてしまいますね。


例えば私の戦後撮ってきたものなどから

大方の人が理解して戴ければと思うんですが、

これでは余り卑怯になるかしら・・・・・


とにかく私がキャメラに向かう折に

根本的なものとしていつも考えているのは、

キャメラを通して深く物を考え

人間本来の豊かな愛情をとりもどしたいということ・・・・・

そりゃ戦後は風俗やら心理やら、いわゆるアプレゲールといわれる奴は

今までとは違っているかも知れませんが、

その底に流れるもの、

ヒューマニテーといったら抽象にすぎるかも知れませんが

ほのぼのとした人間の温みとでもいったようなものを、

どのようにしたら最もよく画面に表現し得るか・・・・・

この辺が私の常に考えていることで、そしてやりたいことなんです。


泥中の蓮・・・・・この泥も現実だ、そして蓮もやはり現実なんです、

そして泥は汚いけれど、蓮は美しい、

だけどこの蓮もやはり根は泥中に在る・・・・・

私はこの場合、泥土と蓮の根を描いて蓮を表す方法もあると思います、

しかし逆にいって蓮を描いて泥土と根をしらせる方法もあると思うんです。


戦後の世相はそりゃ不浄だ、ゴタゴタしている、

汚い、こんなものは私は嫌いです、

だけどそれも現実だ、それと共に

つつましく、美しく、そして潔らかに咲いている生命もあるんです、

これだって現実だ、この両方ともを眺めて行かねば

作家とはいえないでしょう、

だがその描き方に二通りあると思う、

さき程いった泥中の蓮の例えで・・・・・





この「泥中の蓮」語録は有名であるが、小津は蓮の花を描いて

泥土と根を知らせる、という描き方をつらぬいた。

これは木下恵介監督が、「反戦」という立場を明らかにして

作品を作っていることを意識しての発言であったと思うが、

現在、戦争がすでに過去のものとなり、人々の記憶から消え去りつつあり、

戦争を知らない世代ばかりになり、日本の世相もすっかり

変わってしまった今、わたしたちが小津の作品に

描かれた蓮の花ばかりを見てしまうのは

しかたがないことかもしれない。

そしてその隠されたイメージを不吉な、呪われたものとして

見てしまうことも…。




『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』という本を読んでいるが、

著者の与那覇潤氏はこう書いている。


・・・結婚と家族形成の欠如、および戦争映画製作の欠落。そして、

小津安二郎の作家人生にうがたれたこの二つの事象に十全に配慮した

批評自体が、今日に至るまで欠けているのではないか。

私たちはなにか、とてつもなく大きな勘違いをしてきたのではないか。

現実の婚姻が欠落した小津という映画作家が作為的に捻出した

「問題にならない程生暖かい」イメージに、現存する日本家族の

「リアル」を勝手に読み込み、逆に本来彼こそが「リアル」に

描出しうるはずであった戦場の光景の不在を、特に疑問に思うこともなく

見過ごしてきた人々――それが戦後、この国で「日本人」を

構成することになる。



という観点から、日本近現代史専攻の与那覇氏は

小津のすべての作品、未発表作や、失敗作も含めて、

小津映画を読みなおす作業をし、日本の「昭和史」を

新たな角度から問い直している。



わたしはまだ完読していないが、示唆に富んだ、

なかなか読みごたえのある著書である。


こうしてわたしの小津研究はまだまだ終わるところを知らない。


長い記事になってしまった。読んでくださった方には

心から感謝します。






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