カディスの緑の風

スペイン、アンダルシアのカディス県在住です。

現在は日本の古い映画にはまっています。

小津安二郎における戦争の影響 - 追悼の陰膳

2013-10-25 12:44:24 | 映画




小津映画をずっと見てきているが、『麦秋』を始めてみた時、

あるショットに大いなる違和感を感じた。








なぜこのような配膳のちゃぶ台だけを、静かに数秒写すのだろう。

小津ともあろう人が、ご飯茶碗と汁椀を逆に配置する、とは、これは

たんなる間違いではない。なにかわけがありそうだ、と思ったのである。


そのあと、『お早う』を見た時も、同じようなちゃぶ台のシーンがあった。








そのことがずっと引っかかっていたのだが、

最近、小津安二郎の戦争体験に関するエッセイや本を読んで、

ああ、これは亡くなった戦友に捧げるお膳なのかもしれない、と感じた。


それで戦前の映画のDVDもひっぱり出してきて、食卓の光景があったと思われる

めぼしいものを拾い見してみたのだが、『麦秋』の食卓ショットのように

逆の配膳だけが静かに映し出されているショットはない。


料亭の食事でも、汁椀はきちんと右におかれている。

もちろん、料亭では酒を飲むのが目的だから、

お膳にはご飯茶碗はおかれていないが…。




それで、わたしの別のブログで、↓のような記事を書いてみた。

戦後の映画で顕著になるちゃぶ台のショットで見られる

茶碗の位置をぎゃくにした配膳は仏前に供えるときだけ、だから

このちゃぶ台ショットは、小津の戦友たちへの弔いの祈りが

こめられているのではないか、という解釈をかいた他愛のない記事である。


小津映画にみられるちゃぶ台配膳の謎




書きこまれたコメントを読むと、配膳のことにはほとんどの人が気付かないし、

また、これはフード・コーディネータが知らずにおいている、というような

解釈をしている人もあって、そういうもんかなあ、とあてがはずれたように

感じたのだが、中にお一人、次のようなコメントを残してくださった方がいた。





戦後から顕著になるこの配膳は決して役者が左ききだとか、

配膳したスタッフがお間抜けだったというものではなく、

敗戦色色濃い日本で映画という娯楽をする人々と共に分かち合う

追悼の陰膳ではなかったか?と思いますね。また、

戦地に赴いていた兵士たちが帰還して来た時期でもあり

必ず無事に父や兄、息子が戻ることを 信じてラジオ放送に

耳を傾けていた人々と気持ちを寄り添う姿勢であったかとも思いました。





この『追悼の陰膳』という表現にアッと胸をつかれた。

小津の意図はまさにそこにある、と思ったのだ。



そして戦死した戦友だけでなく、いまだに戦地から帰還していない兵士の

家族の気持ちにも寄り添う姿勢、ということ。

そこまでわたしは考えていなかった。



しかし小津の戦後の映画、特に『麦秋』と『東京物語』では

戦争からいまだ帰還していない次男、という家族の一員がいる。

『麦秋』では母親はいまだにラジオの「尋ね人」を聞いているし、

『東京物語』でも、どこかで生きているんじゃないか、と

思っている母親のセリフがある。


笠智衆演ずる父親は「いやあ、もう帰ってこんよ」とあっさりと言うのだが、

やはり母親にとって息子の死は遺体や遺品を見なければ信じられないのだ。

その気持ちを何気なくあらわして、母親役の東山千栄子がうまく演じて

淋しげである。



映画や小説は、監督や作者が意図した以外の、

別の意味を読み取ることもできるが、

やはり小津監督の作品は表面に出さない深い意味をこめていることが多々ある。

それを感じ取る、理解するには、やはり小津監督の胸中を察する必要がある、と

近頃わたしは思うのである。



この前の記事で紹介した小津のエッセイ『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』

の中には、かの有名な小津の言葉「泥中の蓮」の記事がある。







泥中の蓮・・・・・この泥も現実だ、そして蓮もやはり現実なんです、そして

泥は汚いけれど蓮は美しい、だけどこの蓮もやはり根は泥中に在る・・・・・

私はこの場合、泥土と蓮の根を描いて蓮を表す方法もあると思います、しかし

逆にいって蓮を描いて泥土と根をしらせる方法もあると思うんです。






(『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』第Ⅴ章 映画への愛情に生きて
「泥中の蓮を描きたい」前著P.200 ~ P.202)




小津の美学とは何か…。それは哀しいことを哀しい顔であらわすのではない、

そういったものをできるだけはぎとっていって能面のようにあらわす哀しさこそ

美しく潔い哀しさなのだ、という哲学である。



お椀の位置を逆にして静かにそのちゃぶ台だけを映す。

それは小津のいう、蓮を描いて泥土と根をしらせる、という理念に

もとづくものではないだろうか。


二時間にも満たない短い映画の中にめいっぱいこめられた小津監督の思いは

まるで謎解きのようにミステリアスでもあり、また無意識のうちに伝わってくる

懐かしい人間味の暖かさでもある。






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