オッホの森 ≪イーハトーブ事件簿≫

宮沢賢治、わんこそばを中心に岩手県花巻地方の出来事を紹介。

原爆犠牲者らの分骨 詩碑下に眠る崇拝者二人

2024年07月28日 | 宮沢賢治
昭和28年9月18日付毎日新聞岩手版(8面)に宮沢賢治没後二十周忌に関連して、「宮沢賢治めぐる秘話」と題する記事が掲載されている。
内容は
  1. 賢治の遺志をついで農民指導者となった山形の松田甚次郎(昭和19年8月10日他界)の遺言により、翌年未亡人が分骨を持参して詩碑の下に埋骨した。
  2. 賢治研究家の広島大学の小倉豊文教授夫妻は、花巻に疎開しようとしていた矢先に文子夫人が原爆の犠牲となって他界。花巻訪問を希望しながら果たせなかった夫人の遺骨を昭和22年に詩碑の下に埋骨した。
  3. 高齢のため病床に伏すようになっていた政次郎は二十周忌も近づいた昭和26年に改宗を決意、翌27年7月23日に改宗を実行、藤沢町の安浄寺墓地から石神町身照寺に骨堂を移設、賢治の骨は別に埋骨して新しい墓標を建てた。
     これに関して弟清六の談話も掲載されている。
    「父は法華経を信仰をしてはいたが改宗することは菩提寺を変えることとなるので檀家総代をしたりしていた関係で中々面倒だったのでしょう。最近年も老い病床につくようになって決断がついたようです。死後二十年で兄の遺志が達せられたわけで地下で喜んでいると思います。」(原文通り)
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円万寺から江釣子森山

2024年07月06日 | 宮沢賢治
奥田博著『宮沢賢治の山旅』に載っている山のうち、最近は里山というような低山を登っている。
今回は江釣子森山379m。
  江釣子森の脚から半里
  荒さんで甘い乱積雲の風の底
  稔った稲や赤い萱穂の波のなか  「秋」


2019年9月にも登っているのだが、この時は円万寺からのルートが分からず渡り温泉へ抜ける間道から高圧鉄塔の管理道路を頼りに登ったのだった。
3日(水)に円万寺へ行ってヤグネ(エグネ)の写真を撮影したついでにルートを探索したところ、少し歩いただけだが「この道に間違いない!」と確信したので、梅雨の合間の昨日、仕事が終わった午後2時過ぎから円万寺へ向かった。

円万寺境内から花巻の田園風景を一望する。

ポンプ場。車は右折して観音山頂上へ。徒歩で直進すると崖に突き当たり、いったん右手の車道に出て再度左の細道に入ると参道の階段へ。
15:00  祖母杉を見ながら観音堂の右わきを通って入山、左方向へ少し上ったあと下って右へと進む。観音山を巻いていったん下り、江釣子森山へ向かうものと推測する。



15:07 山の主の様な松の大木が前方右手に。ここを過ぎると急な上り。

15:12 登り切ると石柱があり、左方向へと道が続いている。

15;20 北から別ルートと合流。
101番鉄塔の標識のようだ。
15:22 101番鉄塔到着。前回来た時に鉄塔の奥に道が続いていたが、それが円万寺からのルートだったと納得。


15:27 前回通った渡り側ルートとの分岐。これを直進

やがて広場のような場所に到着。この先が急登となる。ストックがあった方がいい。
15:47 頂上。三角点と標識。

すぐ下山開始。16:25 登山口へ帰着。
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宮沢賢治の遺骨 その4

2024年05月28日 | 宮沢賢治
賢治の遺骨について2022/9/24, 2023/7/17, 2023/8/8 と書いているが、今回が最後になると思う。
というのも、決定的と思われる昭和11年6月6日付の岩手日報朝刊3面に掲載された以下の記事を見つけたから。



 今までも妹トシさんの遺骨は国柱会本部(三保)に分骨・納骨されているのに、賢治の遺骨は納められなかったのだろうか、という疑問はあったのだが記録が無いため確認できなかった。

 この新聞記事を見て身延山に問い合わせたけれど、やはり記録は残っていないとの返事であった。もし有ったとしても個人情報の取扱いに厳しい現在、公開はしないだろう。新聞記事の内容の裏付けはできないし、関係者からの証言も不可能と思われるのでこの記事を信じよう。

それにしても亡くなって3年も経ってからの分骨納骨の理由は何だろうか。
この昭和11年には11月に羅須地人協会跡に詩碑が建立されるのだが、賢治の一周忌の頃から詩碑建立の希望はあったのものの意見がまとまらずに実現しないでいたものが、この年の夏ころに共立病院の佐藤隆房院長から建碑推進の意見が出されて一気に実現に向けて動き出している。時期的に関連があるものと考えられ、その動きの中で身延山と詩碑の下に遺骨を納めることが決定したのではなかろうか。
 実際身延山に納骨されたのなら、賢治自身も喜んでいることと思う。

 また、平成23年3月に東山の石と賢治のミュージアムで開催された「グスコーブドリの大学校」に於いて中尊寺仏教文化研究所長の佐々木邦世氏が講演された記録の中に、
 「昭和34年に、賢治の晩年の詩の碑をここに建てたわけです。金色堂の入り口のところに。(中略)これは、金色堂建立850年の記念として、宮沢賢治祭を昭和34年5月10日に行った。(中略)いろいろお力添えを頂きました清六さんが謝辞を。そしてもう一人の謝辞を薗実円師が、当時の中尊寺の貫主です。このようにして式を次第したわけでございます。その後に宮沢賢治先生の霊位を、金色堂に合祀しているんですね。近ごろ、この事実を皆さん忘れている。」
 とあり、先日この合祀について中尊寺に問い合わせたところ「記録は残っていないので確認できない。」との回答だった。
 遺骨は埋葬されていないとしても賢治の霊を祀っているのは間違いないので、改めて金色堂にお参りしたいと思っています。
【2024.6.12 追記】
吉田矩彦氏のご教示によって、国柱会ホームページに以下の記述がある事を知った。
  「賢治の遺形も、昭和57年の賢治五十回忌に大霊廟に納鎮され、申孝園には賢治の辞世の歌碑が建立された。」
遺形とは具体的に何を指すのかは不明だが何らかの遺品であろう。
6/12 早速中尊寺へお参りに。



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宮沢潤子さん逝去

2024年04月17日 | 宮沢賢治
宮澤清六さんの愛娘で、現在花巻駅前で賢治グッズの販売と喫茶店「林風舎」を経営している宮沢和樹さんのご母堂である絢子さんが4/16 PM3:45 逝去されました。1937年昭和12年生まれの86歳でした。


 生前には色々な賢治にまつわるエピソードをお話し下さり、下の画像の様に現在「茶寮かだん」になっている大津屋別宅を一緒に訪問したり、まだ食べたことが無いという賢治の好物だった「天ぷらそばとサイダー」のセットをやぶ屋に食べに行くなど沢山の思い出があります。


天国で一足先に旅立たれたご主人やご両親はじめご先祖の皆さん、賢治さんとも楽しくお暮しになる事でしょう。
ご冥福をお祈りいたします。
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2024今冬一番の冷え込み

2024年01月16日 | 日記
昨日は花巻市に暴風雪警報が発令、市では災害警戒本部を設置するなどの対策をしたが、夜から風も収まり放射冷却もあって今朝は今冬の最低気温を記録した。日中も氷点下の真冬日予想!
ダイアモンドダストは見られなかったが、家の前の畑の雑草に霧氷が付き、青空に映えてキラキラ輝いて綺麗だった。





去年のクリスマス頃はマイナス8℃でお湯の配管が一部凍結、外部コンセントが劣化したため凍結防止ヒーターが接触不良となっていたのが原因だったので、DIYでコンセントを交換したのだった。
おかげでこの気温でも凍結しなかったのは幸い。
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