大人のための歴史学

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エッセイ:脇役の日本史(4)源(土御門)通親(源頼朝を手玉にとった男)(2)

2017-03-12 18:21:16 | エッセイ
 そこで弱った父頼朝は入内させて天皇のお后にでもなれれば気も晴れる(あるいは自分を許してくれる?)と思い、入内計画を進めたと言われている。尤もそこで生まれた皇子をやがて即位させ、天皇の外戚となろうという政治的打算もあったことも指摘されている。しかしすぐにお気づきのように、これでは平氏政権や藤原摂関政治の二の舞である。学界ではここらあたりに頼朝の貴族性の残滓があったという評価、つまり武家の棟梁としての一つの限界があったという評価になっている。この辺の彼の本心はわからない。父親としての個人的心情と政治家としての打算の双方が入り混じったと見るのが妥当なところだろう。しかし、この娘可愛さと野心が、盤石と見えた頼朝の権力構造にひびを入れる結果になったのである。

 大姫入内計画を聞いて機嫌を悪くした貴族がいる。藤原(九条)兼実である。九条家は藤原摂関家の一つであった。したがって、兼実は当然のことながら、藤原氏の伝統的な政治手法である外戚政策、すなわち娘を入内させて生まれた皇子を即位させ天皇の外祖父として力をふるうことを狙って、実際に娘を入内させていたのである。そこに強力なライバル出現と相成ったわけで、面白いはずがない。

 実はそれまで頼朝と兼実は政治的な盟友関係にあった。すなわち、頼朝は弟と義経にこともあろうに自分の追討の院宣を出した後白河法皇に不快感は示しつつも(間接的に「日本国第一の大天狗」とあてこすっている)、敢えて責任は追及せず、その地位も存続させたが、法皇をけん制するため、朝廷に改造人事を迫った。その中で、頼朝は意中の貴族(つまり親頼朝派)をメンバーとする「内閣」のようなものを作らせ、朝廷の基本方針を事実上ここで決定させた。一方反頼朝派の貴族は朝廷中枢部から追放された。

そしてその「内閣」の首班、つまり総理大臣格の地位に兼実を推挙したのである。兼実は以前より頼朝に好意的態度をとっていた。さらにこれらの「閣僚」メンバーには、ご丁寧にも「知行国」という形で、それぞれの国の支配権まであてがい、経済基盤まで用意したのである。このあたりの頼朝の抜かりのなさと凄腕には瞠目せざるをえない。ともあれ、これで朝廷は頼朝寄りの姿勢を自ずととるようになる。頼朝は、自身は朝廷とは一定の距離を置きながら、しかし朝廷をいわばリモートコントロールする方法を選んだのである。(続く)
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