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エッセイ:脇役の日本史(11)木曽(源)義仲(むしろ「田舎者」を逆手に取る)(上)

2017-04-06 11:21:04 | エッセイ
木曽義仲(源義仲)といえば、自然児、純朴だが直情径行、政治力に乏しいなどのイメージだろう。小説を除いて、義仲関係の評伝・研究書が乏しい中、伝統的な手法で義仲像を描いたものに、下出積與氏『木曽義仲』吉川弘文館(読みなおす日本史)、がある。そこでの描かれ方は、まさにそうだ。しかし、近年の捉え方は少し違ってきている。永井晋氏『源頼政と木曽義仲-勝者になれなかった源氏』中公新書、はその手ごろな入門書だが、その義仲像を紹介しながら少し考えてみたい。

木曽義仲といえば、良くも悪くも自然児・野生児であり、当時から「木曽の山猿」、都や公家社会の礼儀をわきまえず、洗練された文化を解さない田舎者・無礼者というのが定評になっている。しかし、永井氏の著書では義仲の意外なしたたかさが指摘されている。例えば義仲というと必ず引き合いに出されるのが、『平家物語』の中の「猫間中納言」の話である。この猫間中納言は藤原光高という貴族の通称なのであるが、頼み事があって義仲の屋敷を訪れた。義仲は「猫が会いに来たのか」と珍しがり、それが貴族であることを知ってもてなしを命じた。義仲は木平茸の料理にてんこ盛りのご飯を添え、しかも汚れた茶碗でそれを差し出し、自分はむしゃむしゃと食べながら光高にも食べるよう強く勧めたが、閉口した光高は食べたふりをして箸を置いて頼み事もせずに早々に帰った。これで義仲は都人の嘲笑を買った、という話である。これは下出氏の本にもそのように紹介されている。

なお、この逸話は『平家物語』中の話であるので創作の可能性もある。しかし、永井氏はこれを合う程度信憑性に足る話と仮定したうえで、平茸は木曽の名産品でもあり、汚れた茶碗は義仲曰く精進用の茶碗」で特別な品であって、これは義仲としてはそれなりの誠意をもって遇したのだとする。さらに当時対立しつつあった後白河法皇が義仲に都合の悪い要求を突き付けようとしてよこしたこの公家を、巧妙に追い払うための手段だったとしている。また、一箸だけつけるのは、こういう場合に出されるどんな料理でも(例えば都風の料理でも)、使いの者は一箸だけつけるのが習わしだとも述べている。つまり、義仲は法皇からの厄介な使いを、こういうやり方をとって体よく追い返したということになるのである。

また、後白河法皇との対立の原因となった皇位継承の問題も、平家打倒を呼び掛けた令旨を発した以仁王の遺児、北陸宮を担ぎ出すことは、自身の挙兵と平家の都からの追い落としという功績を背景にライバル頼朝の追い落としを図るためには不可欠であった、と永井氏は見ている。実際、自身が擁立した天皇が在位する限り、義仲の発言権は強大化し、それまでとは毛色の変わる新王朝・新宮廷ともいうべきものが出現する。逆に後白河の発言は低下するのだから、後白河も見過ごせない大事なのである。氏の言うように、義仲にはそこまでの野望や読みがあったとみるべきだろう。慌てた法皇は、くじ引きで決めること(つまり神の意思で決める)を提案し、いざくじ引きしたところ、両者が推すのとはまた別の第三の候補者が引かれてしまい、慌てこの決定を取り消している。

後白河法皇といえば、井上靖の小説『後白河院』(新潮文庫など)に代表されるように、冷徹で権謀術策に長けたイメージが高いが、実は当時の人の間でも研究者の間でも評価は分かれている。永井氏の筆致は少なくとも、都に入りしたたかな存在に成長した義仲と、意外にもそれに翻弄されている法皇や・公家社会をというイメージで記されている。少なくとも氏の注目された事例を見れば、これらの事例から見れば、氏の意見にも充分にうなずけそうだ。

しかし、やがて彼は急速に滅亡の道を走っていく。その理由を次に考えてみたい。(続く)
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