大人のための歴史学

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エッセイ:脇役の日本史(3)源(土御門)通親(源頼朝を手玉にとった男)(1)

2017-03-12 17:42:53 | エッセイ
源頼朝は平家を滅ぼしたのち、朝廷に対して守護・地頭の設置を認めさせ、また朝廷人事に介入して、表面上は朝廷権威を尊重しながらも、実質的に天下の支配権を掌握した。最近は鎌倉幕府の成立を1185年と見る見方はこれに由来している。盤石と見られた頼朝権力だったが、晩年は失策を重ね権力の後退が見られる。その公家側の挽回に大きな役割を果たしたのが、今回取り上げる、源通親、またの名を土御門通親と呼ばれる人物である.

 ちなみに、同じ源氏だが、頼朝は清和天皇の流れをくむ清和源氏のうちでも、特に河内源氏と呼ばれた家柄で、この系統の源氏は軍事貴族の道を選び(あるいは選ばざるを得ず)関東・東国に下って、それらの地域の武士たちと主従関係を結び武家の棟梁として家を保とうとした。一方通親の方は、村上天皇の流れをくむ村上源氏であり、貴族社会では藤原氏に対抗できるぐらいの家柄を保ち、官人貴族・廷臣貴族としての命脈をつないでいた。ちなみに源氏や平氏は皇子皇孫が姓を賜って、皇族の籍から離脱して臣下の地位に下ったものである。紫式部の「源氏物語」において光源氏が母親の家柄が低いことや、皇子として残れば皇位継承の争いに巻き込まれることをあらかじめ避けさせる目的で、「源氏」の姓を賜ったという設定になっているのは、こういう制度を下敷きにしているといえる。

さて頼朝に目を移すと、彼の晩年の失策の一つとして、大姫入内問題がある。大姫は気の毒な生涯を送った女性である。それはかつての許婚者が源(木曽)義仲の息子、義高だったことに端を発している。木曽で挙兵した義仲ははじめ関東平野への進出を狙っていたが、既に関東平野に勢力を広げつつあった、頼朝との衝突を避け、北上して北陸道を通って都を目指した。その際に頼朝との間の同盟関係維持の手段として、義仲の息子と頼朝の娘が婚約することになり、義仲の息子が鎌倉に送られてきたが、これはお察しの通り、一種の人質である。こうして義高と大姫はであったわけだが、父親たちの打算をよそに、両者は仲睦まじかったと伝えられている。義高自身も両源氏の友好関係維持の目的を理解しており、言動には注意をはらっていたようである。ところが、やがて父親同士は平氏打倒の主導権をめぐって対立し、ついには頼朝は軍勢を送り義仲を討ち果たしたのである。

 この間、頼朝の妻政子は義高を逃がそうと図った。しかし、頼朝はその計画を察知し、家来に命じて義高を討ち取ってしまったのである。これを聞いた大姫は悲嘆に暮れ、以後ふさぎがち、病気がちにもなったというから、幼女の中に芽生えていった愛情は父親たちの予想を超えて本物だったようである。当然母親の政子は夫頼朝を詰問したが、頼朝にしてみれば、そうした温情で命を長らえた自身が、今平家を討とうとしているのだから、危険な芽は今のうちに積んでおくに限るという、「大人の事情」に従ったまでであろう。しかし、頼朝は娘の気持ちを軽く考えていたようで、いずれ娘も気を取り直すに違いないと軽く考えていたらしいのが、悲しいかな父親としての彼の限界であった(いつの世も父親は娘の気持ちを汲み取るのが下手なようだ)。予想に反して大姫は何時までも義高を慕い続け、父親を憎んだのである。この辺りはやはり母親の政子の読みの方が娘の気持ちをよく理解していたといえよう。(これもいつの世も変わらぬ真理といえそうである。しかし逆に息子の気持ちはわからないかもしれない。)(続く)
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