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映画「最後の誘惑」私の宗教の疑問

2017-05-20 15:46:26 | 映画・テレビ
前々回、宗教を中心に据えた理想的な生き方として、私が感動した「大草原の小さな家」の(思い出)というエピソードを書きましたが、今回はイエス・キリストの人間像に迫った映画「最後の誘惑」について、お話ししたいと思います。
この映画には、何でもキリストが女性を抱くシーンが出てくるらしく、いくつものキリスト教の団体から、猛烈な抗議を受けたという実話があるそうです。
ところが、この映画を作った監督は「タクシードライバー」や「レイジングブル」で、世界的に評価の高い名監督マーチン・スコセッシが撮っているのです。
しかも、今年の始めに同監督は、キリスト教の殉教者を扱った「沈黙」も撮っていて、宗教にかなり思い入れがある人みたいなのです。
調べてみると、マーチン・スコセッシは若かりし頃、キリスト教の神父を志した時期があったらしく、それだけ、宗教に熱心で、素晴らしい才能を持っていたなら、単なる興味本意で、イエス・キリストのそうした場面を描いたとは思えないのです。
それに、私はこの映画を観ることで、人々が宗教に望む何かが見えてくるような気がしたのです。
そこで、始めてこの映画を観た訳ですが、まず、この映画は冒頭の部分で語られているように、聖書の福音書を忠実に描いているのでなく、創作の部分がかなり多いそうです。
だから、聖書にはイエス・キリストのそうした場面はもちろんあるはずもなく、その部分に創作を加えたところに、キリスト教関係者は激怒したみたいです。
では、なぜそんな場面をこの映画は必要としたのか?
それは、この映画の原作者が、イエス・キリストの極めて弱い人間的な部分を、いかにして克服し、神になったかを描きたかったからだそうです。
そうした事を念頭に置いて観てみると、確かにイエス・キリストは、普通に今まで抱いていたような超人的なタイプではなく、神の声が聞こえるのを疎ましく思い、神の子として生きるのを否定したり、マグダラのマリアと、性交する場面が出てきて、かなり衝撃的な内容になっています。
でも、私はこの映画を観ているうち、イエス・キリストが聖母マリアから処女懐胎により誕生したことを、ふと思い出したのです。
あれは、本当だったのでしょうか?
私はもしかしたら、ヨセフとマリアに男女の交わりがあってはキリスト教を説くのに都合が悪いのと、キリスト教に神秘性を持たせるために作られたのではという気がしてきたのです。
ではなぜ、キリスト教を説くのに都合が悪いのか?
それは宗教の多くがキリスト教に限らず、人間的なあらゆる欲望を克服したところに真の幸福があると説いているからです。
ですから、性欲も克服しなければならないものだとして、聖母マリアは処女懐胎したということになったのでは?
それに、牧師は結婚しても構わないけど、神父は独身を通さなくてはいけないという決まりまであるそうですし。
それに、仏教のほか、神道や、道教では、厳しい修行の場所に女人禁制を設けているではありませんか。
ところが、ネットで調べてみると、今の神父は、破戒神父といって、結婚している人もいるみたいです。
理由は、性犯罪を犯す神父が増えてしまったために、神父の結婚を認める動きになったのだとか。
そういえば、仏教も性欲を克服しなければならないものと捉え、お坊さんは結婚してはならなかったそうですが、今では結婚しているお坊さんは多いですよね?

でも、私は性欲を断ち切れないなら、なぜ、神父や、お坊さんをやめないのか、ちょっと疑問なんです。
キリスト教でも仏教でも結婚してはならないという決まりがあったはずなのに、どうして結婚が許されるようになったのでしょうか?

やっぱり、坊主丸儲けって言葉があるくらいだから、一度美味しい思いをしたら、そう簡単にはやめたくないのかしら?


でも、それなら、信者が黙って、見過ごすはずはないかも?

そこで、私なりに、性欲に負けても、神父やお坊さんを続けられる訳を考えてみました。

私が参考にしたのは、元プロ野球監督の野村克也さんの言葉です。
この人、ある時インタビューで、「伸びる選手を見分ける方法は?」と尋ねられた時、監督時代を振り返って、「それはな、いかに女好きかで決まるのさ」と答えていたのです!
つまり、好きな女をモノにしたいという気持ちがあればあるほど、選手は伸びるのだとか。
そういう選手は女のためなら、どんな努力も惜しまないそうです。
私はこのエピソードから、宗教が、清らかな精神を保つために性欲を克服しなければならないものという考えから、パワーの源に解釈を変更したのではないかと考えたのです。

性欲は、人間の三大本能の一つですから、あまりにも屈従を強いられると、屈折したり、凶悪な性犯罪を起こしかねない。
それなら、性欲をコントロールすることのほうが大事なのではと気づき、神父もお坊さんも結婚しても構わないことになったのかも知れないですね。

それでは、次に映画「最後の誘惑」で、イエス・キリストが、マグダラのマリアと性行為をした場面をなぜ創作したのかを考えてみたいと思います。

これは十字架に磔にされた時にイエス・キリストが叫んだ「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになるのですか?」にヒントが隠されているように思います。

この言葉はイエス・キリストの最期の言葉として、あまりにも有名ですが、その真の意味は私もよく分かりませんでした。
でも、ちょっと考えただけでは、神様に失望して、あんな悲痛な言葉を口にしたのではと受け取れなくもないですよね?

だけど、あの言葉はイエス・キリストが発しましたが、イエス・キリスト自身の言葉ではないと解釈されているそうです。
イエス・キリストが十字架に磔にされたのは、地上のすべての人々の罪や穢れを一身に引き受けて、自分の命と引き換えにして、許しを乞うためでした。
そのために、イエス・キリストは地上のすべての人々の代弁者として、あの言葉を発したとされているのです。
そして、イエス・キリストのその行いは確かに神様に聞き入れられたのです。
その証拠が、死んで三日後に復活したという伝説です。
イエス・キリストが復活したということは、キリスト教では重く受け止められているようで、復活は、キリスト教において、最初の最も基本的な宣教の内容を形成しており、キリスト教神学の中心的位置を占めているとか。
だからこそ、昔、日本で、キリスト教が迫害された時、殉教を余儀なくされた人々が死を恐れず、寧ろ喜びに満ちた表情を浮かべながら死を受け入れることが出来たそうです。

つまり、映画「最後の誘惑」でのイエス・キリストとマグダラのマリアの性行為とは地上のすべての人々の極めて人間的な欲望を現したものだったのです。
と同時に、それはイエス・キリスト自身の極めて人間的な願いでもあったのかも知れません。
男性として生まれていながら、女性も知らずに童貞のまま一生を終えて、それで後悔しないのか?
愛する人と廻り合い、か弱い女性を自分の力で守り、幸せな家庭を築いて、子供にも恵まれるというごく普通のありふれた生き方をイエス・キリストも望んだことはあったのでは?

しかし、それでは宗教にはならないですよね?

一度はごく平凡な人生を望んだイエス・キリストはユダの悲痛な叫びに、目を覚ますのです。

宗教心を篤くするには人生でもっとも大切な命を神に捧げ、復活することが必要なのだと。

そうして、地上のすべての人々の罪や穢れを一身に引き受け、十字架に磔にされて、死後、三日目に復活を遂げたイエス・キリストは信仰の対象となる神の子、救世主として、永遠に人々の胸に生き続けることになったのではないでしょうか。



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