石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

88 佐渡にだけ残る釘念仏供養塔

2014-10-01 05:40:16 | 石碑

釘念仏供養塔 くぎねんぶつくようとう

死後、地獄では生前の業によって、四十九本の釘が打たれる。この釘は縁者が四十九万遍念仏を唱えることによって抜けるといわれ、版画の五輪塔の四十九か所の白抜きの場所を念仏を1万遍唱えるごとに墨で塗ったり、線香で穴をあけたりする釘念仏の信仰は、日光の寂光寺の覚源上人によって始めたとされる。
しかしなぜか、釘念仏搭は佐渡に約20基見られるのみである。(中略)佐渡以外で発見されることが期待される。(芦田正) 

上は、『日本石仏図典』より「釘念仏搭」の項を転載したもの。

ポイントは、下線部。

このブログNO83、84は「佐渡に残る足尾山塔」でした。

今回は、「佐渡にだけ残る釘念仏供養塔」。

「念仏供養塔」は、念仏(南無阿弥陀仏)をどのようにして多く唱えたか、その成果を記念する石塔です。

寒念仏」や「不食念仏」は厳しい条件下での念仏修行であり、「百万遍念仏」や「融通念仏」は集団で唱えた念仏の回数の多さを誇る記念碑です。

では「釘念仏」は、どうなのか。

系統としては、後者でしょうか。

なにしろ釘1本につき1万遍、四十九万遍の念仏を唱えて成就するのですから。

 

では、「佐渡にだけ残る釘念仏供養塔」巡りへ。

なぜか、その理由は不明ですが、釘念仏供養塔は、小佐渡海岸、小木の隣、旧赤泊村に集中してあります。

1 十王堂(丸山)

畑野から多田への県道を南へ向かって下り始めるとやがて人家がポツポツ、右に平泉寺が見えてきます。

平泉寺から約300mほど下った所の脇道を左へ。

突き当たった広場が十王堂です。

広場の奥に10基ほどの石造物があり、左から4番目が、釘念仏供養塔。

正面の上部に阿弥陀三尊の種字(中央に阿弥陀、右下に観音、左下、勢至)、その下に「釘念仏二千九百八十九万遍」、さらに「遍」の両側、右に「供」、左に「養」の文字が刻されています。

裏面は「元文四己未         川内村一人
         一結講中六十一人 丸山村五十五人         
    十月初八日          多田村 五人  」

 ここで注目すべきは、講中六十一人と念仏二千九百八十九万遍の数字。

念仏回数を講中の人数で割ると見事、四十九万。

49万回、南無阿弥陀仏を唱えたことで、61人の信者が、親類縁者の死者か、あるいは自らが、死後の世界の地獄において、49本の釘を打たれる責め苦から逃れることになったわけです。

では、49万回達成にどのくらいの時間を要したのでしょうか。

「十座十万遍」という真言があるのだそうです。

私も今回初めて知ったのですが、十座十万遍というのは、25人が「南無阿弥陀仏」を400回唱える、つまり計1万遍を一座とし、午前五座、午後五座、合わせて一日で十座十万遍になるというもの。

61人が4000回唱えれば、一日の念仏回数は244000回。

これで総計29890000を割ると122.5、122日と半日を要したことになります。

農業の暇な冬にやったとしても1年によくてひと月、122日となると4年がかりの大事業だったことになります。

達成記念の供養塔を建立したくなるのも無理からぬことでしょう。

各自ばらばらに家で4000回唱え、それを足したものではなく、61人が決まった日に一堂に会して、念仏を唱えたことは、石塔の側面の「月並」の文字に読み取れます。

丸山の十王堂を出て、県道を下ってゆくと河内集落へ。

2 観音堂(松ヶ崎河内)

参道を上がってゆくと、本堂に向かって左の木蔭に釘念仏供養塔はあります。

光り輝く6月の水田をバックに黒く佇んでいる傘塔婆がそれ。

逆光と苔で刻文は判読不可能。

祝資料によれば(祝資料についてはNO82をご覧ください)刻文は下記の通り。

            結衆
(正面)  釘念仏〇散供養塔
            敬白

右側面は「當山善男女三十四人聚頭唱念弥陀宝号」

左は「元文五申年四月上旬九日立」

ちなみに34人が49万遍念仏を唱えたとすると総回数16660000回。

お疲れ様でした。

 

釘念仏というと民間信仰、庶民信仰の匂いが強い。

そして、民間信仰だと謂れがはっきりしないのが普通です。

しかし、釘念仏の謂れは極めて明瞭、その氏素性は確かなものです。

釘念仏の起源は、日光輪王寺の前身寂光寺に求められます。

旧寂光寺に伝わる『釘念仏縁起絵巻』には・・・

寂光寺の僧覚源上人がある日突然息絶えた。側近たちは荼毘の準備を始めたが、上人の体は暖かく、野辺送りできないまま十七日が過ぎた。十八日目蘇えった上人は、仮死の間見た地獄について語り始めた。大地獄百三十六、そのほか多数の小地獄を見た後、閻魔王はこう語ったという。
『汝、今ここに来るへきときにあらす、されども娑婆の群生(ぐしょう)邪見にして、地獄におつる輩いやまさりぬれば、汝に地獄の姿見せ、衆生を救わしめんためなり』とぞ。
閻魔王、又のたまわく。『底下の凡夫、貪欲、愚痴にして、悪をなすこと限りなければ、死して後四十九日のあいだ、四十九の釘をうたる。罪業の浅深に応じて、釘の長短異なり、六寸、八寸、或は一尺六寸なり、頭に三、左右の肩に二、二つの手に六、腹に二十、脇に十四、足の左右に四、合わせて四十九なり。(中略)自業自得の報ひなれば、この苦しみ除くこと、十王の方便にもかなひがたし。娑婆において、仏に供養し、僧に布施する功徳によりて、その苦しみやうやく滅すといへども、三十三年すぎざれば、此釘ぬくることなし。汝、年月、浄業を修せしことなれば、すみやかに本国に帰り、迷妄の衆生を教化して、四十九万遍の念仏を勧むべし。いかなる業深きものも、この念仏の行満ちぬれば、その苦しみを免る』と」。

そう語り終えた上人の手には、五輪塔に49の釘のある札があった。誠にありがたいことで、見る者、聞く者不思議な思いに打たれ、その札を乞い受け、念仏修行をしようと願ったので、上人は版木に刻み広く施した。

これが今もなお輪王寺三仏堂で授与されている五輪塔札です。 

生きている間にこの札を受け、自ら49万遍を修すれば、往生間違いなしとするこの信仰は、極楽へのパスポートとしての逆修そのものだったわけです。

室町時代に日光の寂光寺を中心に始まった浄土信仰の釘抜念仏は、江戸時代になると全国的な広がりを見せるようになります。

寂光寺の「釘抜念仏過去帳」によれば、その信仰圏は、関東一円はいうにおよばず、信州、奥州二本松、紀州高野山、長州長門、筑前と広く、もちろん、佐渡もその範囲に入っていました。

 

次の目的地は、山田の公会堂。

石仏めぐりを始めて7年、毎年、佐渡へ帰るたび、レンタカーで島内を駆け回っている。

石仏があるのは、主要道から分かれた小路や農道の路傍です。

当然、ほとんどが初めての土地ばかり。

次の目的地、山田の公民館も初めての場所。

地図を見ると小佐渡山脈の山腹にあるようだ。

あちこち走り回って分かったことだが、海岸からの距離だと大佐渡の集落よりも、小佐渡の海側の集落の方がずっと山深い。

大佐渡の山の標高は高いけれど、集落は山麓までしかない。

ところが小佐渡の南側は、ほぼ山の中腹あたりまで、農地があり、人家がある。

へえっ、こんなところに家が!と驚くのは南佐渡に多いのです。

腰細川沿いに山へ。

対向車が来た。

「山田公民館は?」と聞く。

答えは「とにかく、どんどん行けばいい」。

人家が途切れても、人気がなくなっても、とにかく坂道を上ってゆく。

振り返ると眼下の柿畑の向こうに海。

突然、右手に、広場が現れる。

この山地に、広場は珍しい。

広場の奥の公民館は、元はお堂だったのだろうか。

3 山田公民館(山田)

公民館の右手に10基ほどの石造物が並んでいるが、木蔭に沈んで半分も見えない。

ではと、木蔭の中に入って見る。

しかし、今度は、逆光で石塔の文字が読めない。

背後のホワイトは、空でもあるが海でもある。

条件が良ければ、越後の山脈が見えるはずです。

どうやら釘念仏供養塔は、左端の石塔であることが確認できたが、石塔にレンズを近づけ、フラッシュをたいても読めないことは変わりない。

やっと確認できたのは「釘念仏供養塔」の六文字。

造立年も施主名もない極めてシンプルな石塔は、それはそれで珍しいといわなければなりません。

 

次の目的地、 磬台山へ行くのに往生した。

地図上の道路の分岐点が、畑ばかりで目印になる施設がないから、特定できない。

訊きたくても人影はない。

困り果てていたら軽トラが上ってきた。

「磬台山への道はややこしい」と男は云う。

落胆していたら、男は車をUターン、「後ろについてこいっちゃ」。

どこをどう走ったものか、軽トラの後を追って行ったら、磬台山に着いた。

4 磬台山入口(山田三川)

人家など全くない山道のカーブ地点に9基の石造物。

文字碑だけで石仏はない。

持参資料には、3基の釘念仏供養塔があるはずだが、2基しか見当たらない。

どれも刻字が浅くて判読しにくい。

          安政三辰年  當
 奉唱釘念仏供養塔
   七月求法日 講中

          明治八亥年
寺社情報サイト釘念仏供養塔
   十月求法日

石塔群の右横に長く上に伸びる石段。

石段上り口には「磬台山大師堂」とある。

上ってゆく。

大師堂の前に、四国八十八ケ所霊場本尊模刻石仏が相対して整列している。

まだ6月で草の丈も高くないから、石仏はちゃんと見える。

しかし、盛夏ともなれば、草に埋もれて何も見えなくなってしまうだろう。

石造物だから、訪れる人がいなくなってもこうして命長らえているが、用済みになって、見向きもされないまま、所在無げに立ち並ぶ石仏群は、真昼の太陽に照らされて、寂然たる雰囲気を一層強く醸し出しているように見える。

資料に記載されている2基の釘抜供養塔は、上の写真のどれかだろうが、目を近づけても、指で触ってみても、それらしい文字の片鱗を見つけられなかった。

ここ磬台山大師堂前とその下の石段横には、計5基の釘抜念仏供養塔がある。

ここは、佐渡で釘抜念仏供養塔が最も多い場なのです。

しかし、磬台山大師堂がある山田集落では、釘念仏は行われていません。

では、釘念仏はどこで行われているか。

それは、旧赤泊村の真浦、杉野浦、柳沢、徳和浜などの集落と小木町小比叡集落だと、ー佐藤一富「釘念仏供養塔について」『佐渡史学12巻』1979年ーには書いてありますが、なにしろ35年前の話、今でも行われているのかは確認してないので、わかりません。

佐渡では、僧侶が執り行う通夜儀式の後、集落の人たちによる通夜念仏が行われます。

佐藤一富氏によれば、真浦集落の通夜念仏は

①真言はじめ
②光明真言
③光明真言おさめ
④十三仏真言
⑤十三仏御詠歌
⑥おさめ(南無遍照金剛)
⑦南無大悲遍照金剛
⑧南無大悲観世音菩薩 おさめ
⑨真言の御詠歌
⑩念仏はじめ
⑪総おさめ
⑫三十三番か八十八番の御詠歌
⑬釘念仏(南無阿弥陀仏を唱えながら大ジュズを廻す。大ジュズの数は1086)
⑭善光寺御詠歌
⑮新仏の御詠歌(男の場合は不動和讃、女なら血の池和讃、子供なら賽の河原和讃)
⑯ひきねんぶつ 

当時は、鉦や太鼓を打ちながら、音頭取りに全員が唱和しながら、4時間も通夜念仏は行われたものでした。

多分、今は、ずっと短い時間になっていることでしょう。

真浦集落の釘念仏は、本来の49万遍念仏です。

新仏を、釘を打たれる責め苦から救う願いが込められていました。

しかし、杉野浦や小比叡では、念仏ではなく、釘念仏和讃を唱和します。

和讃とは、仏、菩薩、祖師、教義などをほめたたえる賛歌。

釘念仏和讃は、地域によって少しずつ歌詞が違うのですが、ここでは小比叡集落の「釘念仏和讃」を、少し長くなりますが、転載しておきます。

先に示した寂光寺の『釘念敷設縁起絵巻』と内容は、そっくり・・・

そもそも坂東しもつけの
日光山のふもとなる
釘念仏のえんぎあり
その山寺のおん名をば
寂光院とは申すなり
ころはいつぞの事なるに
文永七年霜月の
中冬廿日のことなるに
にわかにねはんの道にいる
御弟子これを悲しみて
おん身あたたかなるうちは
七日七夜を明かしける
七日七夜と申すには
よみじかへりをなされつつ
みでし これをよろこびて
後生のほどをたずねらる
我らエンマのおんまえで
ふしぎの事をさずかりて
またこの土へ立ち帰り
薬師如来のおんまえの
四十九本の釘みれば
長さ八寸また六寸
一尺二寸と三やうあり
その釘打つも打たるるも
その身その身のとがによる
忌日忌日は多けれど
四十九日は釘の役
十悪五逆の罪びとの
こうべに五本手に六つ
胸と腹とに十四本
腰と足とに二十四本
その釘打たるるその時は
上はうちようか雲の上
下はならくの底までも
一百三十六じごく
くずるるばかりに叫びける
十王たちは御覧じて
まことに不びんとおぼしめし
声を惜しまず泣きたもう
薬師如来のおんことは
慈悲なる仏にましませば
衆生を助くるそのために
釘念仏をはじめけれ
しゃばよりめいどに供養せよ
釘念仏を唱ふれば
こうべの釘と手のくぎと
ゆりて天へと舞いあがる
釘念仏と申すれば
胸と腹との釘ゆりて
七尺底へと舞いさがる
釘念仏を申すれば
足と腰との釘ゆりて
九品の浄土へ納まれり
釘念仏を申すれば
十悪五逆の罪消えて
未来助くる南無阿弥陀仏

 

このような和讃を唱和しながら、刷り紙の五輪塔の形をした卒塔婆の周りの49の白い穴を塗りつぶし、後日、墓に納めたものだという。

 

磬台山から更に山奥へ。

横山の観音堂を目指すのだが、これが分からない。

教えてくれる人はいつもの道だから、つい、分岐してることを忘れてしまうらしい。

分岐点には、人影はない。

右へ行くのを左に進んだりするととんでもないことになる。

迷いに迷ったあげく、三辻に出た。

現在地はどこか、地図で確かめようとしていたら、草叢に石塔があるのに気付いた。

5 女神山起点路傍

それが横山観音堂の次の目的地、女神山起点だった。

資料通り、釘念仏供養塔が2基ある。

文化4年(1807)造立の石塔は、刻字が明瞭。

当所講中十九人とある。

あたりを見回しても人家はない。

当時は、集落があったのだろうか。

もう1基は、ひょろ長い自然石の下部に「奉唱釘念仏供養塔」と刻されている。

小さなお堂ともども、長年、放置されて、荒れ放題。

三辻にあるということは、人目につくようにと、ここに造立されたのだろうが、草叢に埋没して、目につきにくい。

そもそも人通りがないのだから、人目につくことはあり得ないのだけれど・・・

 釘念仏供養塔とは別に2基の石塔がある。

いずれも不動明王を祀るもの。

「奉修唱不動尊秘法十ケ座慈救呪六百十五万遍〇〇」(〇以下は埋もれて不明)

 「郷内安全」を祈念して、修験行者が不動明王の真言「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソハタヤ・ウン・タラタ・カン・マン」を615万遍唱えたということだろうか。

昭和12年造立とある。

私が生まれる前年、この地では修験者が活動し、それを信仰する人々がいたことになる。

「念仏供養塔ー釘抜念仏を中心としてー(『日本の石仏第100号』所載)」の筆者、宮島潤子氏は、佐渡に釘念仏を勧化したのは、日光と佐渡を往還していた修験や行者ではなかったか、と推測しています。

その根拠として、宮島氏は、蓮華峯寺境内に東照宮があり、釘念仏供養塔の分布範囲が同寺の寺領と重なることを挙げています。

 

6 東光寺(徳和)

 佐渡には無数の石塔がある。

中でも私が最も好きな「石塔のある風景」は、下の写真。

 石塔左奥は、徳和の東光寺。

石塔前の道は、江戸期、佐渡奉行が赤泊から相川へ向かった殿様道です。

左から、「念仏供養塔」、「光明真言供養塔」、「釘念仏供養塔」。

 

佐渡では、真言宗寺院が多く、光明真言も「ねんぶつ」と呼ぶのが普通で、いわばこの3基は、多数作善の融通念仏を共通点にしている、といっていいでしょう。

 1の十王堂(丸山)で、側面に「光明真言二十三万千八百」と刻された釘念仏供養塔を紹介しましたが、ここでは側面ではなく別の石塔になっているわけです。

以上6か所9基で、今回の「佐渡に残る釘念仏搭」の報告は終わり。

佐渡には、24基あることになっています。

残りはいずれ佐渡へ行った時、探してみるつもり。

全国的に釘念仏が流行するなか、佐渡にだけ釘念仏塔が残ったのは、多分、開発されることがなかったからでしょう。

昔からの場所に昔のままでおわす・・・しかし、拝む人もなければ、供花もありません。

邪魔な廃棄物として処理される前に、文化財に指定してほしいものだと思います。

≪参考図書≫

☐佐藤一富「釘念仏供養塔について」(『佐渡史学昭和54年8月』所載)

☐宮島潤子「念仏供養塔ー釘抜き念仏を中心にしてー」(『日本の石仏2001年冬号所載)

☐宮島潤子「日光山寂光寺釘念仏供養塔」(『石の比較文化誌』平成16年所載)

 

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2 コメント

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はじめまして (ishida toshiko)
2014-10-10 11:11:14
はじめまして。最近、このブログを発見(?)して、その内容の深さと探訪地域の広さに驚いています。石仏に興味を持つ一人として、当ブログの完読をめざして、たびたびお邪魔しております。釘念仏の総本山の日光・寂光寺は一本の滝(寂光の滝)が残るのみで跡形もないですが、各地に残る石造物がかつての信仰を証明しているのですね。千葉県君津に享保五年のものがありますが、あまり多い塔ではないようですね。それを居ながらにして拝見できるとはラッキーと云う外ないです。有難うございます
釘念仏 (風間進)
2016-08-18 17:13:44
佐渡吉井大聖院の釘念仏文書に係る機会あり、釘念仏研究書を少し読んでおりまして、本ブログ拝見しました。
佐渡の刊行物サイトなど開いておりますので、お暇な時にご覧ください。
https://kazamasusumu.com/

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