ふうてんの猫の猫耳東風的フリチベ生活

働きながら和製MBAと工学博士取得をしていた自称苦学生バックパッカーの日記。
今は学位もとって大阪で技術戦略考えてます

湯浅氏の貧困を椅子取りゲームに例えるレトリックに反論する

2009年07月29日 | 格差社会を考える
湯浅氏は立派な活動家だと思う。
しかし、ことに貧困を訴える話ではよくレトリックを使う
たとえば、社会保障費は毎年、防衛費の数分の一という規模で増えているのに、2000億円削減している とかいうペテンを使う

そういうレトリックは活動家には心地よいのかもしれないけど、社会の抱えている問題を、ありのままに見ようとする人たちには弊害だと思う。

たとえば、湯浅氏の貧困を椅子取りゲームに例えるレトリック


以下引用


音楽が止まった瞬間、十人が八つのいすに座ろうとする。しかし、結果として必ず二人は座れない。このとき人々が何に注目するかだという。

 「座れなかった二人に注目するか、それともいすの数に注目するか」

 二人に注目すれば、座れなかった原因はいろいろと思い当たる。音楽をちゃんと聴いていなかった、太りすぎていて動きがにぶかった、朝食を食べてこなかった、などである。

 「本人の問題を探そうとすれば必ずなにか出てくる。完璧な人はいないわけで、だから自己責任論というものは必ずしも間違いとは言えない。無駄遣いをしたことや怠けたことはだれにもあるはず」

 たとえいすの数が一つになってもこの考え方は通用しうる。座れなかった九人にはなにか問題があったのだろう、努力が足りなかったのだろうと。

 しかし、本人に自己責任を問い続けるとどういうことになるか。「本人はうまくいかなかったのは自分のせいだと思っているから、自己責任だよといわれるとそれ以上なにも言えなくなり黙ってしまう。なぜうまくいかなかったのかの問いと答えを、本人の中に閉じ込めることになる。一種のいじめだ」」


この例えはレトリックであり、事実とは違うウソであると思う。

少なくとも、関東大卒フリーターに関して言えば、この椅子取りゲームは
「○○イベント、先着1000名。 朝7時より整理券配布」というようなルールが示されている運によらない公正な椅子取りゲームである
ようは、そうした座席の争奪戦が、ちゃんと早朝に起きて並ぶという努力をすれば、自動的に勝てるような椅子取りゲームであるように、
大卒同士で競う就職活動というのは、大卒として相応の能力とコミュニケーション能力を高めれば勝利できるという意味で、先着準のために努力して朝起きるということにすぎない

ただ、そこには、学生中や卒業後にバックパッカーで世界を放浪してみたり、ニートをしてみたり、フリーターをしてみたり といった、
「整理券の配布って朝7時からっしょ? 10時ぐらいまでにいけば整理券もらえるかなって思ったっすけど、なんか世の中あまくないみたっすね。」
ってな感じで、たまたま他人より努力しなかった人が、椅子からあふれているだけで、私たちは社会で、いわゆる椅子取りゲームのような運に頼るようなゲームをしているわけではない。

また、さらにこの椅子取りゲームのたとえでいえば、立っている人は、椅子が汚いとか、小さいといって座らなかったら、ゲームに参加していなかった、リュウガクセイ という人たちや ケンシュウセイ という人たちが、 その椅子に座るようになった。
実社会では、飲食店で働く人たちや、農業で働く人たちですね。

世の中にはつまらない椅子に座るくらいなら、立ってホームレスをする という選択を主体的なり、妄想的なりで選んだ人たちがいるわけです。

大卒に関していえば、決して、どんな椅子であっても座ろうと必死に頑張った人たちによるゲームではないわけです。

ここで注意したいのは、そういう大卒フリーターたちの自己責任があることを当然として認めたとして、彼らの人生がいつも解雇とホームレス化におびえるようなものであっていいということではありません。
他の人たちがしてきたような相応の教育訓練を全寮制で1年間ぐらい一日12時間ぐらいは詰め込んで、椅子取りゲームのルール(労働市場)のなかで、ちゃんとゲームを楽しめるようなスキルを身につけるように社会がサポートするべきだと思いますが、7時から整理券配布だというのに、前日楽しく飲んでいたら、寝過ごしたので10時過ぎに到着したけど、席がないなんていう格差ゆるさなーーーい!! とかいう社会を実現したいわけではありません。

中卒の方々や高校中退という方々は、明らかに体格が異なる人たちと、激しいロックで椅子取りゲームをさせられているようなものなので、ゲームが楽しめるようにするために、相応のサポートを社会がするべきだと思いますが、椅子の選り好みをするような大卒フリーターに対しては、朝早くから並べるような人になる という訓練を施すことでよいと思うわけです。

湯浅氏は椅子取りゲームのたとえを、ランダムに立っている人が決まっているような誤解を与えるようなレトリックを使っているが、日本の貧困研究の学者たちがいっているように、貧困に陥る人たちは、特定の条件を持った社会階層にすごく偏っているわけですから、大卒程度であれば椅子に座れるのはランダムではなくて、個人の椅子に対する努力と執着と我慢次第である、というのは認めるべきだろうと思います。

その上で、椅子に座れなかった人が、椅子にすわれるような能力なり人間性なり辛抱(ニートよりはまず働こうとか)を身につけるには何をすればいいか議論するべきで、椅子(相応の給与が得られる仕事)につける人はランダムで決まるというような、椅子取りゲームに例えていたら、実際にとるべき政策は、立っている人にカネをあげよう というクレクレ団にしかならなくて、能力開発の機会を提供しようとする社会民主主義的な発想とは異なってくるのだと思います

僕は湯浅氏の活動には敬意を払いますが、問題を歪めるレトリックの使い方はとても賛同できません。
彼は頭脳が明晰だから、そういう大衆が理解しやすく扇動しやすい論法を使うのでしょうが、そういうやり方は同意しかねるなぁと思います。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いす取りゲームのたとえについて (ぷー)
2010-05-09 11:52:38
 興味深く拝読させていただきました。
が、湯浅氏も貴殿も言及しておられない点があるように見受けました。
 それは「そもそもいす取りゲームの参加者である『大卒』がものすごく増えていること」。
前回就職氷河期と比べても、10万人近く増えているはずですよ。これで「いす取りゲーム」が厳しくならなかったらウソでしょう。
 おまけに、昔なら「一般職から寿退社」とみなしていられた女性が、就職戦線に参入してきている(このこと自体は間違いなくよいことです)。そりゃあ「フツーの男子学生」が数万人単位であぶれますよね。
椅子までの距離は? (かえる)
2015-12-15 20:22:46

人生はまるで椅子取りゲームをしているかのように思わされています。
ただし、最初から全員が平等に椅子を狙える位置に立ててはいません。
そこには貧困の連鎖の問題があります。
人は皆、場所や環境を選んで生まれてくる事は出来ません。
それなのに、自己責任の及ばないオギャアと生まれたその瞬間から既に不平等な位置に立たされる。
世の中の格差が広がれば広がるほど下の人間は椅子から遠くに追いやられます。
努力論だけでは到底埋められぬ程の差がそこにはあります。

それをあたかも全員が公平な状態でゲームに参加していると思っている人がもしいるとするならば、その人は上手い事上から洗脳されてしまっている人なのだと思います。

コメントを投稿