寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

野の音は 昼から夜へ 移り来て

2012年08月26日 23時06分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ツクツクホウシが鳴き出すと、さしもの暑い夏も夜は肌掛けが必要になりました。自然界では、昼のセミや、小鳥たちの啼き声も残暑を一所懸命引き延ばそうとしています。しかし、夜ともなると、ガチャガチャやコオロギなどが音を競って秋を告げ、睡眠を妨げるようになりました。

 林の梢に見え隠れする月は上弦の細い姿に変わっていました。

 最近、このブログに書いてきた「その日から」(子供の戦争・戦後体験記)をまとめて1冊の本の体裁にしてみました。ブログの方は、引用回数の多い第1部、第10回の分を残して削除しました。冊子にするのは結構大変な作業ですが、失敗をくりかえしているうちに、少しずつコツのようなものを覚えてきました。1ページは35字20行にしました。文字サイズは自分が小さい文字は読みにくくなってきたので、12ポイントにしました。用紙はA4横の縦て割にしました。総ページ数は327ページになりました。総文字数は、20万字弱になってしまいました。

 ブログ上では第2部小学校卒業までを書きましたが、現在中学校時代にはいりました。挑戦動乱に伴い、当時住んでいた場所の近くが、駐留軍(米軍)の演習場になったために米軍の兵士との交流も出来ました。MSA援助とかララ物資などの文字が飛び交うようになったのもこの頃です。ブログでは、戦中戦後を通じて、食べ物の話が頻繁に出てきます。それくらい生きていくことが大変な世の中だったのでしょう。配給米では足りなくなると、母が農家へお米を買いに行くのですが、統制品だったためになかなか売ってもらえず、物ぶつ交換でしかお米は手に入りませんでした。姉の着物が少なくなっていき、お祭りに行ったとき、農家の娘さんが姉の着物を着ているのを見た姉の悲しそうな顔が未だに目に浮かびます。子供心に心を痛めました。

 しかし、当時のいろんな経験は、その後の人生に大変な財産となり、あのときのことを思えばとがんばる支えになったことは、事実です.


鹿児島は こわもての山と 西郷どん

2012年08月11日 00時17分43秒 | 旅行記

鹿児島は 強面の山 西郷どん(1)
  鹿児島には、仕事をしていた頃から数十回は訪れている。若い頃には沖永良部島や与論島のサンゴ礁の調査に行く途中で、列車から船への乗り換えの間の数時間を過ごす程度であった。これらの島での調査に関する余聞についてはいずれ書くことにする。

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鹿児島といえば、初めに思い出すのは桜島と西郷さんであろう。桜島は錦江湾の中にできた活火山であり、ほとんど毎日のように噴煙を噴き上げている。激しいときには鹿児島市内に火山灰が降り積もり、視界が悪くなることもあるという。そのために交通渋滞が発生するという。
写真2は、東急ホテルに宿泊したときの朝に写したものである.朝日を浴びて噴煙のこちら側は黒く見えるが、噴煙は白い色をしていた。

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次のの写真はあまりにも有名である。
   大正3年(1914)1月12日の噴火はすさまじく、原五社神社の鳥居が写真のように上部を残して火山灰に埋もれてしまった。その高さは3メートルあったというから2メートル半以上の降灰があったと記録されている。今この鳥居はそのときのままに保存され、鹿児島県の文化財に指定されている。
  この写真は、その鳥居の説明が書いてある。
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桜島の右側にでた朝日からエンジェルロードはまぶしかった。


教育の話・・・いじめの原因?

2012年08月03日 13時23分07秒 | 日記・エッセイ・コラム

 新聞もTVも最近の報道はほとんど五輪一色になっている。しかし日本人の成績は今ひとつ伸び悩んでいるような気がするのは、筆者だけではないと思う。それでも、金メダルはともかく、銀メダル、銅メダルをとれるということは大変な努力の結果だろうと感心している。だが他方で、期待するところが大きかったのだと思うが、金メダル獲得数が少ないのは残念なことである。
 五輪報道のかげで、学校で起きているいじめ報道が少なくなっている。学校では命の大切さについて、十分な教育をし、考えるように指導していることと思う。しかし、未だにいじめが発生していることには何か外の原因があるのかもしれない。もちろん親の責任も問われなければならないだろう。
 筆者の子供の頃にも、前に書いたような気がするが、いじめと似たようなことがあった。それと、今の言葉で言う”ネグレクト”のようなこともあった。
 しかし、昔というか筆者の子供の頃にはどこにでもガキ大将という存在があった。ガキ大将には、多くの子供は従うのが不文律のようなものであった。ガキ大将はある程度の分別を持っており、年下の子同士が喧嘩をしているそばにいて、ある程度喧嘩の勝敗が決まりそうになると、必ず仲裁に入り決して最後まで続けさせることはなかった。その後は、何事もなかったように一緒に遊ぶというのが普通のことだった。
 筆者の知る範囲では、今は年齢差のある子供たちが一緒になって遊ぶことが少なくなったような気がする。同年代の子供たちだけで遊ぶと、何か行き違いが発生すると、修正されることなくどんどんすすんで溝が深くなってしまう傾向にあるようだ。その結果、重大なことになるのかもしれない。
 いわゆる、いじめが行われると、それを止めようとするものが出てこない。それは止めようとした子が次の対象になるからだという。たとえば止める子が出てくると、先にいじめられていた子は、いじめていた子と一緒になって次の子をいじめるという。それは再び自分がいじめの対象にならないためであるという。
 このような現象の原因を考えてみると、今の義務教育の教員は忙しくて子供たちの日常生活に目が届かないということにあるらしい。何がそんなに忙しいのか筆者には理解の外であるが、どれほど忙しいのかを数値で表現できることはデータを出して、これだから教員なり事務員なりの人数を増加してほしいという要望を出しているのだろうか。こんなことを書くとそんなことはいつもやっているというかもしれない。しかし一般の人たちはそのような話を聞いたことがない。
 基本的な原因は、文部科学省の教育行政がはっきりした目標を持っていないのが原因かもしれない。百年後の世界を考えた教育目標を定め、教員が教育指導だけに専念できる学校作りをしてほしいと思う。