寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

沖縄本土復帰45周年について思うこと

2017年05月16日 09時40分53秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今から60年少し前、大学のクラブに沖縄県の出身者Aがいた。

彼はおっとりした性格のよい人でした。クラブで山へ行った夜

一つのテントで寝ることになり、シュラフに入って自分の故郷

のことに話が弾みました。私はその年まで19年間の前半分の年

月のは東京ですごし、後半分を宮城県で過ごしたので故郷とい

えるものが二か所あるという話をしました。彼は、俺には故郷

と呼んでいいかどうか分からないが、沖縄県の出身だと言って

いました。

 というのは終戦後の沖縄県は、地元の方々にとっては半分は

米軍の基地として占有され、残りの半分に押し込められるよう

な生活を押しつけられてきたというのです。故郷というのは、

その人にとって他県の人に自慢できることがあるものですが、

彼にとっては沖縄県には自慢できるもの(こと)が何もないとい

うのですね。私は報道などで戦争中の沖縄の様子を知っていま

したが、それは想像に絶するものだったようです。沖縄に米軍

が上陸してからは、着の身着のままであちこちの洞窟を逃げ回

り、あげくに日本兵によって洞窟からも追い出されることがあ

ったと言うことでした。私の東京大空襲とその後の学童疎開、

そして食料生産開拓団として荒地に入植して懸命に畑作りを手

伝った経験などにくらべものにならないほど大変だったことを

知りました。

 彼が大学へ入学するために沖縄県を出る際には、日本人であ

りながら身分を証明する身分証明書を常時携帯していなければ

ならないと言っていました。この処遇は、耐えがたいことだっ

たでしょう。米軍統治下にあった沖縄県民がそれを耐える生活

をしてきたのです。私たちはそのことを決して忘れてはいけな

いでしょう。

 沖縄県の本土復帰した年の翌年、ある政府関係機関?の「沖

縄県自然基本計画」策定のために全県の自然調査クループから

依頼されて石垣島の河川の水質調査を手伝ったことがありまし

た。

 当時の石垣島には戦争の爪痕は私の目には消えていたように

見えました。地元の方の話では、石垣島の代表的なホテルが米

軍に接収されていたことがあったと言うことでした。私も調査

期間中そのホテルの1室を利用することができました。

 石垣島は自然にあふれたところでした。道路をリクガメが歩

いていたり、川には多数の魚が泳いでいました。農地にはパイ

ナップルがたくさん栽培されており、その缶詰工場が数カ所あ

ったようです。その一つを見学したとき工場内にはいわゆる軍

歌が流れていて、そのリズムに合わせて製造過程の一つひとつ

がベルトコンベアー上で進んでいました。

 また、山裾のあるところではゆったりした雰囲気の中で、ウ

ナギが養殖されていました。

 しかし15年ほど前に学生と河川水の再調査に行ったときには

すっかり様子が変わっていました。観光化が進み高層ホテルが

並び初めて行ったときの印象は残っていませんでした。外から

見ると自然が薄くなっていくのは残念だと思うのですが、45

年という時の流れには逆らえないのでしょうね。

 沖縄県の基地問題をなんとかしなければいけないのでしょう

が、中国や北朝鮮の軍備拡張との関係で、基地縮小は先延ばし

にされてしまうのを心配しています。

 

 

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