鳳凰堂のランダムウォーカー <伏見の光>

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黄檗新生市場

2011-10-31 22:53:07 | インターネット・パソコン・デジカメ

 えーと、京阪の黄檗駅の前から万福寺の門前の方まで、「黄檗新生市場」という、アーケードつきの「商店街」があります。

 こちら、万福寺側の入り口。


こんな感じであけている店もあります。


ちょっと薄暗くて、古い感じだけど、まあ、普通やん・・・。

いえいえ、実は、この「商店街」の中で店をあけているのは4つ程度。それも、どう見てもお客さんが頻回に来るようには見えない。

こんな感じで、ほんんどの店は閉まっています。


看板なんかはそのままなのですが、もう、ずーっと前に営業はやめてしまっている。


ここは乾物屋さん。肌電球がこわいです。
1日何人のお客さんが来るのか・・・。通りかがりに買うというような場所ではありませんし・・・。


がらーん・・・・。どよーん・・・。
なんでこういう「商店街」がそのまま残されているのでしょうか。
つぶして宅地にでもすれば何軒も建て売り住宅ができるでしょう。
駅前で便利もいいですし。権利関係なんかが複雑で、そういうこともできないのでしょうか・・・・。そうなのかも・・。


時代を感じさせる看板が残っていたりします。営業していたのは何年前でしょうか。
「戦後の高度経済成長」期には、それなりに存在価値、意味があったのかな・・・。


なぞの黄檗新生市場探検でした。
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「重症児の授業づくり」6

2011-10-31 21:45:02 | その他
「感覚的感じ分けから認識をくぐった選択的指向性へ」と書きました。

 これは一般的な言い方ではありませんから、ちょっとわかりにくいかもしれませんね。

 本の方を少し読みすすめると、子どもの主体性について次の観点を大切にしようと思うようになったという記述があります。その内容とは「子どもの心の中に、目標や要求を育てることが大事」だということ、そして、「目標や要求は、必ず何らかの感情をともなって生起するということ」、この2つです。

 読めばごく当たり前のように思いますが、重要な観点でしょう。子どもに合わない、子どもの気持ちを引きつけないような教材や内容で授業を引っ張る、指導者の思いのみが先行して走ってしまうような授業にはならないように気をつけたいものだと思います。

 が、同時に当初は指導者の思いや願いで試行的に授業を設定して取り組んでみることも重要です。そうでないと、授業が始まらない、新しい創造がないと思うので。ただ、その時に、実際そうしてみて子どもはどうだったのか、なんでそういう反応を返したのか、あるいは返さなかったのか、そうした授業の中の子どもたちの姿を見て授業内容にフィードバックしつつ、内容を深化させていく努力というのがどうしても必要でしょう。

 そのためには、授業は行き当たりばったりの「一発もの」的な内容を繰り返すだけではいけない、時にはそうした「投げ入れ」的な特設的授業もあってよいですが、中心となるのは継続的に原則として同じ流れや授業の中での活動が設定された授業を行っていくことだと思います。

 そうすることで、子どもらは「わかる」のです。で、そのわかることが「目標や要求を育てること」につながるのですから。

 私たちはよく「見通し、期待感、イメージ、つもり」といった言葉を使います。こうした力が子どもらの中に育ってほしいと願っているからです。これは、それぞれの発達段階、認識のあり方によって具体的にねらうところは自ずから異なってはくるのですが、こうした力が、本書の指摘で言えば「目標や要求を育てる」ことにちながり、またそれは「何らかの感情を伴って生起する」ということにもなると思われます。



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御香宮(2) -安土桃山~江戸の空気-

2011-10-31 07:26:34 | インターネット・パソコン・デジカメ
境内に伏見城の石がごろごろしていたりします。今の桃山御陵がもともとお城があったところということなのかな。


こちら、拝殿。きれいに復元されており、なんとなく、安土桃山、絢爛豪華~という雰囲気。


こちら本殿。


本殿、裏から。こちらもきれいです。


境内にある東照宮。東照宮だから家康ですね。で、本殿をはさんで逆の位置には豊国社があったりします。こちらは豊臣なんで、徳川と豊臣が同じ境内に神社として同居しているというのが、まあ、なんともこの神社の由来に沿っている感じです。



本殿横では御香水が出ています。ポンプでくみ上げています。
最近、水質悪化ということで、一時飲用不可となっていました。でも、濾過器をつけたということで、また飲用可に。
ペットボトルに汲んで持って帰って冷やして飲みましたが、柔らかい感じが強いです。おいしいですね。


こちらは熊野の神社関係の祠。こういうのが多くて、他にいくつもあります。稲荷とか松尾社とか。


なにか?。あまり逃げません。


表門入って左側には、江戸時代の義民碑があります。越訴というのですね。


外に出て、西隣は幼稚園。ですが、ここは教会系。建物が、なんか山の分校みたいでしぶいです。耐震性は?。

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御香宮(1) -安土桃山~江戸の空気-

2011-10-30 21:34:45 | インターネット・パソコン・デジカメ
 アシックスのシューズショップへ行ったついでに御香宮に寄ってきました。

 ここの境内は一時預かりの駐車場にも使われているので、車をとめるためだけにも使ったりします。

 南側にある表門の方から境内に入ります。





 この門は伏見城の大手門を移築したとのこと。伏見城は秀吉の城ですね。現在ある鉄筋コンクリートの伏見城は位置が少し実際にあった場所とは違うようです。




表門を入ってすぐ右側には天満宮が。菅原道真がまつられているというもの。


牛さんがいたりしますが・・・。


ほんとにいるのは猫さんだったりします。




神社のことはここにわかりやすく整理されています。


神社のサイトはこちら。


主祭神を神功皇后ということなのですが、神社の境内に別の神社があり、様々な祠があり。このあたりがおもしろいです。



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白州

2011-10-30 21:07:10 | その他
 これはなにかというと、ウィスキーの小さい瓶をスキャナにかけて、あと、ちっょと補正したものです。


 これですね。


 ウィスキーなど日頃はほとんど飲まないのですが・・・。

 山崎の蒸留所は2回行きましたが、白州の方も行ってみたいです。中央自動車道「小淵沢IC」より車で約15分
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「重症児の授業づくり」5

2011-10-30 18:47:22 | 株式投資・資産運用
 また、本の内容からどんどんそれていってしまうのだけれど、重度の子どもの場合、実は、家庭におけるよりも、ある一定時間という区切りであれば、一番じっと丁寧に子どものことを見ることができるのは、その子の担任だったりする場合があります。家庭では、ずっと子どもについてその様子を観察しているわけにはいかない、様々なしなければいけない家事全般があります。学校では、子どものことをしっかり見ること自体が、教員の基本的な仕事
(もちろん、それだけではないので、ずっとじっと子どもの様子を見てばかりもいられませんが)の中心です。

 だから、その子、その人の人生のある一時期においては、学校の教員が最もその子の細かい具体的な実態がわかっている、そういうことはありえるわけで、そうだとしたら、その実態、特徴、課題、配慮点などについて、彼・彼女に関係する人で共通理解を得られるような提起を学校側からすることは、学校としての「責務」かもしれないと思います。

 話を元に戻すと、まず大事なことは、子どもたちにがちらの意図したはたらきかけの内容を、できれば心地よい形でうけとめることです。

 それが一定できたら、まあ、日によって、それはもう完全に寝てたり緊張しまくりだったり、いろんなことでできない日もあったりすると思いますが、そういう日ばかりではない、できる日、受け止められる日もある、となったら、
次は「感じ分ける」ことができるようになってほしい。これは、もう感覚的なものでかまわないので。

 「二色の世界」というような言われ方が時々しますが。つまりは、感覚的に違いがわかる。

 例えば、「暖かい-冷たい」「堅い-柔らかい」「甘い-酸っぱい」「動いている-止まっている」、そういう違いが感覚的にとらえられる。できれば、その変化していく過程もとらえられる。例えば「だんだん揺れが大きくなる」とか、「動く-止まる-動く-止まる」とか。

 そういう、感覚的な感じ分け、そういう力を発揮する、あるいは、育つ、広がるといいです。

 で、こういう経験を繰り返す中で、だんだんと「選択的指向性」のようなものが育ってくるといいなと思うのです。

 それは「それではなくて、これが好き」「あれではなくて、これが楽しい」といった、自分の指向性と関わった選択する力ですね。

 つまり、ここでは、単に感覚的に感じ分けるだけではない、自分の意志とか気持ちとか、そういうのものがだんだんと育って広がってくるといいと思うわけです。

 だから、このことを単純化していうと、まず

「受け止めることから感じ分けることへの感覚の育ち」

 があり、それらを繰り返し積み重ねる中で

「感覚的感じ分けから認識をくぐった選択的指向性へ」

の力を育みたいということになるわけです。

 「これが好き!」、反対に言うと「あれは嫌!」。最重度の子どもたちと一緒に勉強する中で、多くの子どもらの死に直面してきました。そのでの印象として言うならば、こうした「これが好き!」「これは嫌!」の力が育っている子ども、そういう力を持っている子どもは、命そのものの力も強いような感じがします。

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「重症児の授業づくり」4

2011-10-30 14:01:56 | その他
 本の内容からどんどんそれていってしまっていますが・・・。

 ちょっと関連づけて戻すと、本の中で紹介されているナッちゃんついて『「目の前にないものを心の中に思い描く力」は確かにあったように思います』と書いてあります。で、これが一歳半の力だというわけです。

 つまり、この子の場合は、こういうわかり方、大げさに言えば世界のとらえ方をしているということになるんでしょう。

 これとちょっと関わるようなこと。

 前の前の学校では、「」つきの教科について、障害の視点も含めつつ、それぞれの教科における指導のねらいの系統性というのはどのようなものか、それを具体的に文章としてあげながら整理していくという取組をしました。これが、多分もう15年ぐらい前になるのかな。

 その中で、どの教科の授業であっても、結局のところ、ベースのところで大事にするねらいというのは「わかる」ということだなと。それぞれの教科、あるいはそれぞれの発達段階において「わかる」ということはあるし、それを追求していく、わかる取組をする、わかるようになる取組をすることが授業の本質の一つなんだということを論議した記憶があります。私はこれを「わかるベース論」という名前をつけていました。

 で、そのわかり方というのは、単純化して考えたらどういうことになるのかと。

 まず、とにかく、はたらきかけを感じ取ってもらわないとしょうがないわけです。

 授業の中での様々なはたらきかけは、「刺激」という言葉で表現される場合がありますが、私はこの言葉は好みません。

 「刺激」というと、何かしら「針でツンツンする」というようなイメージがあることと(自分はね)、あと、刺激というのは意図的なものも意図的でないものもある。
授業における刺激というのは、これはこちらが意図をもって取り組んでいることが中心となるわけだから、そういう意味で、人の意図が含まれた「はたらきかけ」の方が言葉として適当ではないかと思うので、「はたらきかけ」という言葉を使うことが多い、

 だから、ます最初の段階として、「はたらきかけをうけとめる」ということがある。できれば、これは心地よく受け止めほしい。多少は、心地よくないようなものも含んでもいいかと思いますが、中心的にはやはり心地よい、楽しいはたらきかけで。

 これは見ること、聞くこと、さわること、体の動きを感じ取ること、いずれについてもそうです。あと、味とかにおいとか、そういうことも含まれますね。

 まず、受け止めると。深く寝ていて、いろいろなことをしても全然反応がないと・・。ということだと、これは成功しているとは言えない。だったら、やっぱり起きて、はたらきかけを受け止められる条件そのものを整えましょうと。まず、そういうところが課題となる子どもらもいます。

 とにかくやたらと緊張が強くて、落ち着いてはたらきかけを受け止めることができないと。だったら、そこのところ、緊張を緩和してやったりとすごせるようになってほしいなと、あるいは、てんかん発作が多くて、発作のあとは寝たりぼんやりしたりしてしまう。だったら、投薬等の調整で、うまく発作をコントロールできないか。

 こうした「体調を整える」こと自体が、ます゜基本的な課題になる子どもたちがいます。

 これは、学校教育としての課題なのかどうか。それよりもむしろ、医療の課題なのではないか。しかし、そのこと、体調を整えることが、子どもにとっての教育活動の前提になるのであればそこのところについて、できることは学校教育としても当然するべきではあります。

 例えば、睡眠・覚醒の状態の記録、起こしてもいいかなと思う時は覚醒を促すようなはたらきかけをする、発作の頻度とかその内容などをなるべく正確に、できれば動画などでも記録をする、そうした様々なことを通して、子どもの今の体調とか課題について、保護者、主治医、その他関係諸機関の人と共通理解、コンセンサスをつくっておく、そういうことがまず大事で課題になる子どもたちがいます。


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「重症児の授業づくり」3

2011-10-30 12:56:22 | その他
 この1章の冒頭の部分で『「ふれる・えがく・つくる」の学習で』という記述が出てきます。
 さて、この区分、言い方というのも学校ごとに色々と違いがあり、この教育課程論に入っていくと、なかなか共通の土台で整理をした上での議論が成立しにくいところがあります。

 学習指導要領との関係でいえば、重度の子どもたちの教育課程は、私自身はそのほとんどは「自立活動」として整理してよいと考えています。

 「自立活動」も、重度の子どもたちにとっては、運動機能面だけでなく、多様な内容、領域を含んでいます。学習形態の如何によらず、その指導のねらいからいえば、子どもたちに対する取組のほとんどは「自立活動」として整理できるものと考えています。

 「あそびの指導」であるとか「生活単元学習」という区分は、私自身の考えでいえば、それは、発達段階的には幼児期以降のところでわかりやすい形で成立しやすいため、そのような区分も可能かと思いますが、1歳半未満の発達段階のところでは、むしろ、「自立活動」として整理した方があてはまりやすいように思われます。

 また、「学習指導要領上は自立活動である」と整理してしまうことにより、この部分で、この時間は学習指導要領上はどの区分なのか等と考える必要がなくなり、単純にとらえることができるというメリットもあります。

 まあ、この「学習指導要領上の位置づけをどう整理するか」ということは、さして重要な問題ではありません。

 もとに戻って、学校における、授業時間の区分とか整理についてですが、

 例えば、現任校では基礎的な学習集団において一定期間継続的に取り組まれるクラスの中心的な授業は、これを「テーマ学習」という名称で呼んでいます。これと比較的似ているように思われるのが前任校の「課題学習」です。

 さらにその前の学校では本書にあるような「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「からだ」「うた・リズム」といった区分をしていました。
 
 それぞれの学校で、それぞれのハード、ソフトの条件や子どもたちの実態の中で検討されてきた内容で、これらを「これがいい」と単純に一つの形に統合することは難しいです。また、のようにする必要性や意味もあまりないように思います。

 また、名称が異なっていたり整理の仕方の視点が異なっていたりしても、実際の授業を見ると、それはさほど大きく変わりがない、ほとんど同じように見えることが多いです。

 ただ、例えば、授業を「課題学習」として整理するのと「みる・きく・はなす」として整理するのとがどう違うかといえば、私自身の感覚でいえば、それは指導者の側でのねらいの意識の仕方が異なるように思うのです。

 「課題学習」とした場合は、どの授業、学習、異なった単元であっても、共通して意識される基本的なねらいがまず大切にされる、意識されるように思います。それはクラスの教育目標であったり、個々の子どもらの個別の指導計画における中心的な課題やねらいであったりします。その上で、年間の学習内容としてどのようにバランスをとって、多様な内容を適切に配分するかという点にも留意するという形、発想となる。

 これに対して、あらかじめ「教科」、これは一般的なな教科ということでなく、重度の障害のある子どもたちにも教科の視点は重要であるという視点から整理した「」つきの「教科」ですが、を設定し、例えば「みる・きく・はなす」の授業という設定をする場合、それは視覚とか聴覚、見ることや聞くこと、そうした学習活動や場面の設定、それに即したねらいというのをまず考える、当然それは子どもらの実態に合った形で考えるのだから、子どもの中心的な課題とかクラスの教育目標につながってはいくのですが、まず最初の発想としては、学習活動とか場面をその整理された「教科」の視点から考えるということになるのではないかと思います。

 どちらも大差がないといえば結果的にはそうかもしれないですが、前者の方がどちらかといえば、中心的な学習活動は当然設定されるにしても内容は総合的なものとなり、後者の方は、特定の学習活動のみで授業が設定されることはないにしろ、それが授業の中心的な内容となる比率が高くなるように感じられます。

 ところで、重度の子どもたちに「教科」の授業を設定する際に、なぜ「みる・きく・はなす」等の「教科」を設定したのかということについて、かつて先輩の先生から、以下のような話を聞いたことがあります。

 それは、重度の子どもたちにとっての「教科」の設定というのは、人としての人格の完成を目指したもの、それと関わりがあることを体系的に整理しようとした発想があるのだということです。

 どういうことかというと、人が人であるには、人としての特徴を備えていることになるが、それは「言葉」「直立二足歩」「道具の使用」だというわけです。

 重度の障害のある子どもたちは、直接にはこれらのことは、現状の教育とか医療の中では達成できないことも多い。例えば、肢体不自由の障害が重度で自分で姿勢変換することが困難んな子どもが、いきなり二足歩行できるということはありません。そうであっても、様々な制約が現実にあっても、それに合わせた形で人が人である特徴に即した形での学習内容というのは体系的に整理できるのではないか、そうするののがよいではないかということから「」つきの「教科」という発想が生まれたと。

 例えば「からだ」は直立二足歩行へと連なる、「みる・きく・はなす」は、言葉によるコミュニケーションにつながる、「ふれる・えがく・つくる」は手指の操作とか道具の使用につながる、そういう教育内容として整理するのがよい、そしてそれはそれぞれ、人間がつくってきた文化というものにつながっていくのだと、そういう発想からの整理がされてきた。

 では、「うた・リズム」はどうなのかというと、これはちょっと視点が違って、そうした特徴がある人間がつくってきた文化の具体的な現れというか活動が音楽なんだと。で、そういう音楽文化を受け継いでいくことが、やはり教育の一つの大切な要素なんだと、そういうこととして考えられたものだということなのです。




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「重症児の授業づくり」2

2011-10-29 00:15:21 | その他
 第一部から、具体的な授業の話に入っていくのですが、まず最初に紹介されているのが、ナッちゃんという子どもさん。

 写真で見るだけで、しっかりとした「目の力」があることがうかがわれます。やはり、この「見る力」というのは、
機能的な意味でも認識的な意味ででも大きい。というのは、自分が今担当している子どもたちは、どの子も、程度の差は
あれ、視覚障害があるからです。

 また、宿泊学習の取り組みの内容を見ると、このナッちゃんは、一歳半以降の力があるような記述があり
ます。

 この中で、まず強調されているのが「そばで見ていてくれる大好きな人」の存在。

 いわゆる「第二者の形成」ということになると思いますが、とりわけ発達的に乳児期段階から幼児期前半段階にある子ども
たちにとっては、これは生活年齢による差異ということもあるでしょうが、この「第二者の形成」、安心できる大人の存在と
いうのは極めて重要でしょう。

 「どの先生もどの子もみられる」ことは大切で、基礎的な学習集団、できればもう少し大きな学習集団の中の教職員は、最
低限の子どもの実態や配慮事項については共通理解を図りつつ、具体的な子どもらの指導についても、必要最低限のことはど
の子についてもできるようにしておくことが必要です。

 と同時に、それは誰もが並行的に行うのではなく、やはり中心的に関わる、学校であれば「学校の母」「学校の父」的な第二
者となるべき人は、原則として固定することが適当であろうと考えられます。
 これが行きすぎると「その指導者でなければできない」「その指導者のやり方や方法に従わなければならない」というような
事態に陥る可能性があり、そこには注意が必要です。

 その子に中心的に関わる指導者の意向、そのねらいや方法等については、基本的にはそれを尊重することが大切ではあります
が、それも、基礎集団内での指導者間での論議をふまえ、時には相互批判的な視点も含めながら検討されたねらい、方法であるべ
きで、独善的なものとならないようにすることが必要です。

 (つづく)
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7821 前田工繊 1063円100株 売

2011-10-28 17:22:25 | 株式投資・資産運用
 ということで、直近、1015円で買った分を利食い感覚です。

 相場が戻してくると、安いところで買っていた分を随時売却という形になります。

 基本のPFは維持しながら、細かい売買で利益を確保し、相場が上下する中で全体として平均株価の値動きを上回る
パフォーマンスをあげようということを考えているわけですが、オリンパスのような個別銘柄の要因が加わることが
あるので、必ずしもこれがうまくいくとは限りませんね・・・。今日はオリンパス、下落です。

 この地合の中、オムロンも下落。なお、悪材料には反応しやすい相場のように見えます。
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「重症児の授業づくり」1

2011-10-27 21:59:46 | その他
重症児の授業づくり
三木 裕和,原田 文孝
クリエイツかもがわ


 さてと、ケガからほぼ一ヶ月が経過。短いような、やたらと長いような、なにかこれまでにない、わけのわからない時間の流れを経験しました。

 まだ肩には金属が入っていて動作の制限があり、急に腋の下を少し開くような動きをしたりすると痛みが走ったりします。
 現状では、まだ本格的なリハビリには入れません。「鍛える」という段階に至らないということです。それでも、歩いたりすることはできますし、あまり加重がかからないような動きをすることは、PTの先生からもすすめられているので、そういうことはすすめていこうと思います。

 で、ちょっとこうした関係の書籍なども再度読み返してみようと思います。

 本書は長く兵庫県で実践を積み重ねられてきている二人の先生による著作です。これまで、直接お話を聞かせていただく機会もありました。

 ここではまず書名で「重症児」という言葉が使われています。言葉の概念規定が明確にされているわけではないですが、ここでは、「医療的ケア対応を含む、重度の重複障害のある子どもたち」というような理解でいいかと思います。というと、なにをもって重度なのかとかいうことになるのですが、まあ、発達段階でいえば1歳半未満、運動面では姿勢変換ができないか、あるいは寝返り程度は可能という感じでしょうか。

 冒頭の「はじめに」のところで、1979年のいわゆる「養護学校義務制」実施時に「紙オシメを替えることも教育である」ということについての議論がなされていたとの記述があります。

 自分自身がこうした仕事について時には、すでにこの議論はありませんでした。それは単純に結論からいえばすでに「教育である」として整理をされた上で、日々の実践に取り組んでいるということになります。

 「はじめに」の中で「紙オシメをしている子どもを世話・介護される対象ではなく、紙オシメを替えて気持ちよくなったことを学ぶ主体者としてとらえることを提起した」という記述があります。
 ここの部分だけ取り上げても、今日でも様々な議論が可能かと思います。ただ、私たちが現場で子どもにのオシメを替える時、そこには当然、単なる生活上の世話とか介護とかいうことだけでない、大切な意味があるということは意識されるべきであり、実際、そのように意識をして日々の実践はすすめられていると思います。

 蛇足ながら、私が初めて子どもたちに関わった時は、まだ「紙」ではなく「布」が使われていました。

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5802 住友電気工業 873円100株 売

2011-10-27 21:52:00 | 株式投資・資産運用
 ということで、今日は細かく売りです。

 まあ、ちまちまと買いコストは下がっているのでいいかなと。

 ポールトゥウィンですが、売買手数料を差し引くと、確定利益は88、663円でした。
 で、もう売買対象にはしないと思うのですが、やはり、値動きがどうかなとつい見てしまいます。

 今日はと・・・。寄りから少し下落した後、反発に転じてますね。

 さて、ここからどうなのかなぁ?。そんなことはわかりません。

 ということで、このポールトゥウィン・ピットクルーで、SBIのIPOポイントを使ってしまいましたので、
また地道にポイントをためる、あるいは、単に抽選に頼るという形になります。
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5802 住友電気工業 850円100株 買

2011-10-26 19:26:06 | 株式投資・資産運用
なお、本日、上記の売買もありました・・・。

細かい・・・。まあ「自己売買で配当捻出」みたいな・・。

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ポールトゥウィン・ピットクルー、期待以下だが利益確保

2011-10-26 17:55:43 | 株式投資・資産運用
ということで、本日公開のポールトゥウィン・ピットクルー。

全然「ポールトゥウィン」と違うや~ん・・・。ウィンじゃなくて、ズルズル後退してますが・・。

公募200株から、まあ、多少ジタバタと売買してみたのですが、
結局のところは、公募200株を2750円と2670円くらいで売ったような形に。

公募2250円ですから、値幅だけだと9.2万ほど。
売買手数料を差し引くと8.5万強~9万弱というぐらいの利益かなと思います。

2,730(09:39)始値
2,775(09:39)高値
2,400(15:00)安値

ということで、安値引けですが・・・。さて、明日からどうですか・・・。

伏見の光的には「あとは野となれ・・・」状態です。
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5802 住友電気工業 876円100株 売り

2011-10-25 20:59:30 | 株式投資・資産運用
直近の850円100株買いから、細かく利食い感覚。

まだまだ含み損。下落で買い戻し。
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