風おばぁの独り言

日常を徒然に…レース編みなど…

母の手仕事…2

2014年06月16日 | 追憶…

親の心子知らず!…諺のとうりだね。はんせ~ぃ

子育てを終えた母と私が密かに楽しんだのは

テレビ塔の側にあった紀伊国屋書店や隣の喫茶店でした。

待ちあ合わせしたり、一緒にケーキセットやランチを楽しんだ。

あの時、私と喫茶店に居た母は凄い満足な笑顔だった

その気持ち…いま自分が娘とランチや珈琲を楽しむ時と同じだったに違いない・・・・・

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晩年の母が「もう着物も縫うことも無いだろうから…」と渡された物。

象牙の印付けヘラと糸巻。

どれ程使い込んだのかヘラはすり減っている

糸巻は漆塗りに金箔の手書きの絵が描いている。

糸も渡された時のまま(母が座布団を作った時の、とじ糸だと思う。)

渡された時…

「着物なんぞ縫えないし!必要のない私に、なんだって?渡すの!」

「どうすんのよ!これ?えーーーっ?どうする?」

と、心で思いつつ、私の針箱の引き出しに直行・・・・・長い間眠っていた(今も)

母の手仕事の針山が、其々の姉妹にお揃いで届けられていたのには非常に

それも数年前に分かった…

最近のこと~~~

次女の家でM&k奈姉妹の給食用ナプキンやお弁当袋が入ってる引き出しの中に

懐かしいお弁当袋を見っけた!

娘達が高校生の時にお弁当入れに!

と、自分がウキウキして何個か作ったお弁当袋のひとつ…

ピンクのループエンドが白色に色あせて、なが~~い歳月を使い込んだお弁当袋。

大切に使ってくれていたんだね

会社に勤めても、結婚しても、孫の幼稚園にも弁当袋を大切に使っていた次女!

    アンタはえら~い!

母さんゴメン!私は不出来な娘です

今の時代は丹前なんて使わない!手入れも大変で不要な丹前の処理に困惑気味だった。

捨てるのも何だかな~ぁ?と想いつつあまり気にも留めず!

そう!たまに押入れ片付けにも、そのまんま

遥か昔に作った自分のお弁当袋を見つけるまで、正直なところ次回は断捨離と!

思っていたが、もう少し側に置いておこう!

母の手仕事の気持ちが今なら痛いほどわかるから・・・・・

 

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母の手仕事…1

2014年06月16日 | 追憶…

いまになってわかる母の手仕事の気持ち・・・・

小学3~4年生の頃ブラウス?かセーター?服の記憶が残っていないが…

擦り切れた肘に林檎のアプリケを作り刺繍で仕上げた、母の繕い服。

瞼を閉じれば、今でも色鮮やかに林檎のアプリケの記憶が甦る。

担任の女性教師が気づき「素敵!可愛い!」と言ってくれた。

照れながらも、母を褒められた気持ちで凄く嬉しかった。

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母は少しの暇も無駄にせず裁縫か編み物をしていた。

母の実母(私の祖母)が遊びに来た時は、とってもいい笑顔の母

母娘は繕い物や着物の仕立てに、端切れの布を繋ぎ合わせてバックや袋物を作り

針仕事をしながら束の間の母娘の時間を楽しんでいた。

普段と違う本当に幸福感がいっぱいのだった母…

~~~~~子供心にも伝わった祖母の眼差し~~~~~

一人娘の母は愛情豊かに育てられたようだ…

祖母は時々、針の手を休めては愛情深い眼差しを母にむけてた。

その時の祖母も素敵な笑顔だった。

遠く離れて暮らしていた実母との再会…

が…娘に戻れて、母の側に居られる時間はどんなに幸福だったのだろう。

祖母も…母に戻れて、娘の側に居られる貴重な時間だったのだろう。

母娘共通の手仕事の趣味と会話も尽きることなく、反物が着物になり布切れが形になった。

 

~~~母は私にも長丹前を仕立てて残してくれていた~~~

時々押入れを片付けした時にしか見なかった。

昨日は、断捨離も兼ねて押入れの片付けをし、一度も手を通してない未使用の

手縫いの長丹前を広げつくつくと眺めた…

丁重な手縫いの仕立てに改めて驚愕

丹前下も糊がビシッと効いて新品。

時代の流れに着物を着なくなった母…断捨離の着物をリメーィクした。

肩や足が冷えないようにと娘や孫をあんじ仕立てたのだろう!

次回に続きを書くことにしょう。

 

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祖母の皿…

2014年03月17日 | 追憶…

いつの頃か定かではないが、我が家に存在してた有田焼の和皿一枚…

確か?20年以上前に長姉がこの皿に盛って、我が家におすそ分けで持って来た記憶があるが…

長姉の性格と趣味を推し量っても有田焼の和皿?器に拘る性質ではないはず?

「お皿返して!」と一度も催促が無いまま、20年以上も我が家の戸棚の片隅に存在してた。

長姉とおしゃべりしてても肝心なこの皿の存在を話し忘れ20数年経過…

来客が多くおもてなし上手で料理が得意な祖母の皿だと推測すると合点がいくが…?

祖母の皿!と確信がないまま…

皿の持ち主は肉親と分かっていながら、自分の忙しに追われて長姉に返さずにいた

ズボラな妹…

姉ちゃん!ごめんな!…でもな~ぁ!「返せ!」とも言わずにいた姉ちゃんも…

さすがアタイの姉ちゃんだい!

 

~~~~~~~~~~~~~ついに持ち主が判明~~~~~~~~~~~~

やはり祖母の家に有った和皿だった。

長姉が祖母宅からおすそ分けしてもらった時に、盛られた料理の器…

この和皿が我々孫の姉妹間で回っていたらしいのだ…

其れだものね!長姉も何の拘りなく「皿返せ!」とも言わずに20数年過ごせたんだ~ぁ

 

晴れて祖母の形見の皿となった。…あ~ぁすっきり!

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牛すね肉の塊を輪切にして大量に煮込む。

和&洋料理にも使い回しができる様に香草類は入れず途中アクをすくいながら…

コトコト弱火で約40分程煮込む。

柔らかくなったすね肉は茹で汁と共に料理別に仕分けし冷凍保存。

すね肉のビーフカレーは美味しいよ!

 ネェ2から貰った九州産の蓮根と牛蒡に人参だけのごった煮!

茹で汁と調味料を入れ落し蓋をして、コトコト煮汁を煮詰めると…

根菜の煮物一品!

 

常備菜として牛すね肉と根菜野菜のごった煮だったけど…

皿に盛りつけた途端に華やかで美味しそうに映えたよ。

明治生まれの祖母が拘った料理の彩りや器。

この和皿にどんな料理を盛り付けて来客をもてなしたのだろうか…

明治女の凛とした祖母の姿を想い、大切に使いたい

 

肉にも味が染み込みがすすんだよ。

 

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父の想い出・・・・2

2014年02月15日 | 追憶…

父の初恋・・・娘の私が言うのもおかしな話だが父の想い出を手繰ればこの話は欠かせない。

            

 

甘露・スイカ・メロンなどの果物が父の目に触れると不機嫌になった。

食べる時は種の排除を母に念入りにさせ、父が確認し許可がでてから口にした。

「種を食ったら腹をこわす!」

私達姉妹の幼い頃は父の「よし!食べていいぞ!」で口にした。

私はある日、友人の家で出されたその果物の種を飲み込んでしまったことがあった。

その夜は子供ながら父に言い出せぬまま、一晩中眠れれず恐怖の一夜を過ごし

した経験がある。

私が思春期を迎えた頃には、父の神経質とも思われる種の拘りも薄れだしていた

そんなある日の朝に…私に胃の違和感が…

最初は胃の痛みが、徐々に腹痛にかわり微熱もでだした。

母は「冷えたんじゃない!」とストーブの前で背中あぶりをさせた。

外出もままならず食欲もなく段々と苦しくなる。

夕方になっても一向に痛みがひかずストーブの側で横になっていた。

近所のおばさんが夕食の食材を買いに行こうと母を誘いに来た。

おばさんが私の不調に「なんか変じゃない!病院へ連れて行ったら!大丈夫?」

母はただの腹痛だろう!と判断していたがその掛け声に、

私にバス代と病院代を持たせて近所のおばさんと買い物へ行ってしまった。

バス停までの徒歩やバスの乗り降りや揺れに、痛みがお腹まで響いて海老のように

背中を曲げてそーうっとお腹に響かない様に歩くのが精一杯の状態だった。

内科医師の触診と血液検査で虫垂炎の診断。

外科医師の往診中の不在と、私の家族に連絡がつかない事もあり。

内科医師は抗生薬の処方と明日の入院の指示をした。

「明日の朝一番に入院の支度して家族と来るように!今夜は氷で冷やして」

行く道より帰りの道のりの辛かったこと…

帰宅した父は不調の私に「どうした?」

母…「盲腸だって!投薬もあるし冷やしておく様に指示されてる。明朝に入院予定。」

途端に顔色が変わりパニック状態の父・・・・

血相を変えて母の対応に怒鳴り散らしすぐ病院に連絡をしろ!…

母は、診察時間が過ぎてることや時間外の病院への連絡に遠慮もあったのか躊躇していた。

尋常でない父の怒り「バカ野郎!」と掴みかからんばかりの剣幕に圧倒された母…

連絡がつき当直の看護師…「外科の先生が患者さんを直ぐ連れて来て!と言ってます。」

痛みが強く父母が私をどうやって病院へ運んだか記憶にない。

「緊急手術を要します!ただちに手術しないと腹膜炎になり重症化します。」

その時、父の手が小刻み震えていたのが診察台から見えた。

父は夕食もとらずにそのまま一睡もせずに一晩中私の手を握りしめて付き添った。

麻酔が切れ術後の痛み…「痛いか!大丈夫だ父さんがついてるからな!」と私の手を握

りしめてくれた。父の温かい手の温もりが痛みも薄らいで心強かった。

父の性格と外科医師の当直が重なり緊急手術の判断が幸いした。

術後に翌朝なら腹膜炎併発だった!と、医師から説明があったらしい。

父の知っている頃の医学も医療も進歩し、一般の人の病の意識と知識が向上し時代が変わっていた

私の時には普通の虫垂炎なら簡単な手術で一週間の入院で済んだものだ

重症化してれば、市内の市立総合病院や国立病院に医科大学と搬送されて長期な治療が可能。

看護師が「年頃の娘さんに付き添うお父さんは初めて!」と言われた。

翌日は休暇をとり朝食もせず午前中付き添ってくれた。

退院するまで毎日、帰宅前に立ち寄り見舞いに訪れた父。

この行動が父の遠い日の淡い初恋につながる。

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2番目の妹も一年後位に虫垂炎になり入院手術となり死にい至る病ではないことが父の

虫垂炎(父の時代は盲腸炎と言われていたらしい。)の恐怖から解放された。

もうパニックもなく落ち着いて妹にも母にも対処していた。

それからどの位の歳月が流れたかのか定かではないが…ある夜、晩酌の酔いも手助けしたのか

ポツリ、ポツリと胸のうちを話し出した父。

父さんはな!…お前の盲腸の時に脚がガクガク震えた。子を失うかもしれない恐怖でな!

幼友達の死に際に立ち会い、何もしてやれない!救う手だても分からずに、茫然と死と向き合った時は

ただ…ただ虚しく恐ろしかったんだ。

そんな事もあってなーぁ・・・・・思い出して震えたぞ!

父さんが育った時代はな、当時の田舎の認識では医者に診せる時は生きるか死ぬかの重症

の時くらいだった。

父さんが14~5歳の頃かな、幼友達がアジ瓜を食べてから腹痛を発症し臥していた。

親も周りの誰もが単純な腹痛と思っていたんだ。父さんもそう思っていた。

余りにも苦しがるので、親が医者に診せた時には、盲腸から腹膜炎を併発し手の施しがない!

「会いたい人に逢わせて!」…医者から手遅れを宣告されたんだ。

後から人づてに聞かされたのは、その医者は何故?手遅れになるまで診察させなかったんだって

言ったらしい・・・・

その幼友達の少女は父の名を告げたそうだ…

その子の親に呼ばれた父さんは、幼友達の手を握ってな…

「○○子しっかりしろ!がんばれ!」と声を掛けたんだ・・・・そうしたら父さんに気づいてな・・・

もう私、ダメだ!○○○さん!」と父さんの手を握ったまま、父さんの名を呼んで逝ってしまった。

アジ瓜の種が盲腸に入り炎症をおこして腹膜炎。たかが種に命を取られるとは・・・・

病気の知識を少しでも知っていた人が居たなら手遅れにならずにすんだのにー・・・・・

そうか!なるほどね!あの日に失う恐怖を思い出したんだ。

私…「それって!父さんの初恋の人だったんだ!」

妹…「そうだよ!初恋だよ!」

矢継ぎ早の娘たちの質問攻撃に…

父…「お前達は何を言ってやがんだ!バ、バカもの~ぉ!親をからかうな!

娘の言葉を否定も肯定もせずに、照れながらグーィと酒をあおりそのまま酔いつぶれた。

自分の心を偽れない不器用な一面に、母も私も妹も酔いつぶれた父に爆笑した。

大切なひとを失う恐怖が(種の)拘りとあの日の、父の尋常でない怒りや行動と手の震えが繋がった。

思春期の衝撃が心の傷として残り、長い歳月チクチク棘が刺さったままだったのだろう。

私の虫垂炎で棘の痛みがいっきに噴出したと思う。

緊急を要する患者の搬送に、今はドクターへりも救急車もある!

1963年に消防法が改正され、各自冶体消防が救急業務を行うように義務化され全国に復及が

進んだのだから、父の少年時代の医学や医療の整備がどれ程のものか、うかがえる。

時には、頑者で意固地になり手に負えない不器用な一面に母や娘を手こずらせたたものだ。

そんな父の淡い初恋!せつなかったね父さん。

 

 

 

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父の想い出…

2014年02月12日 | 追憶…

その光景を目にした瞬間、懐かしい想いが、胸いっぱいに広がり身動きができなかった。

その場に立ちすくんだ・・・・・

買い物中の祖父と孫のありふれた光景だが、k奈が夫に背負われていた。

この光景は父への遠い記憶が甦った。

父は5人の娘の父親だった。幼い日の記憶には・・・・

一番目の妹も・・・・2歳頃

2番目の妹が産れてからは父に背負われたり抱っこされる回数がが多かった。

2番目の妹も・・・・3歳頃

末の妹が産れた日の2月。

その日は猛吹雪、父が2番目の妹を背負い黙々と猛吹雪の帰路を歩いてた。

他人の眼も気にせず、我が子の育児に参加し愛情豊な父だった。

当時としては珍しい父親でもあったはず。

末の妹は・・・・・

父も背負っていたが、長姉と私が背負うことが多かった。

残念ながら自分が父に背負われた記憶は幼すぎて覚えてない。

3人の妹も私と同様に父の背中の温もりは覚えてないはず・・・・

ただ・・・父の膝枕で昼寝したのは昨日のように覚えている。

頑固一徹で照れ屋で己の信念を曲げれない不器用な生き方は、当時の一般的な

父親像そのものだった。

その反面、厳しい環境と時代を生き抜いてきた父は妻や子供をとても大事にしていた。

今更ながら思い知らされる愛情と不器用な父のエピソードの数々。

娘たち(孫)にも愛情豊かに接してくれた父。

無償の親の愛情を当然のように受けて育ち大人になった自分は父に孝行しただろうか?

日々の自分の家庭を築くのに精一杯で、父の方向を見ていなかった気がする。

父の老いの孤独や寂しさに寄り添い本気で、父の話を聴き向き合ったのだろうか?・・・・・

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少ない回数だが夫も娘たちを背負ったり抱っこして子守りをした時代もあった。

私同様に父親に背負われた記憶は消えていると思う・・・・・

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今は育じぃじぃに変貌した夫はk奈のピアノのレッスンのお伴もする

 

k奈を背負う姿に父の姿が重なった日でした。

父のエピソードの一部を次回に書くつもり。

 

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