こども棋聖戦開催記念特別展示
十一世井上因碩
奉納碁盤
会場のマービーふれあいセンターには、十一世井上因碩が吉備寺に奉納した碁盤が本大会期間限定で特別展示されていました。
(以下展示参考資料より)
十一世井上因碩奉納碁盤(吉備寺所蔵)
徳川家康は、慶長17年(1612)に碁打衆、将棋衆8人に俸禄を与えることとした。この後、囲碁界では」四つの家元に家禄を与えられ、徳川300年の間、碁の研鑚に没頭できた。その家元とは、本因坊・井上・安井・林であった。
このうち大阪の井上家は、吉備真備を囲碁の元祖として敬い、襲名の度に吉備寺(倉敷市真備町箭田)に参詣して報告した。そのため吉備寺には、井上家ゆかりの碁盤が二面残されている。
展示している碁盤は、有名な十一世井上因碩(いんせき)(幻庵=げんなん)が奉納したもの。十一世井上因碩は、名人の技量がありながら名人とならなかった棋士として、本因坊元丈・安井知得・本因坊秀和とともに囲碁四哲と称される。碁盤全体を使うスケールの大きな棋風が特色であった。
裏面には次の銘がある。
苦心誰惜両雄争 ※注釈参照
天保甲午(1834/因碩36歳)仲夏日
官 大国手(稀代の名手の意味)井上因碩
注釈 明代の詩人・呉寛の漢詩の一節で、「真剣に二人が(碁を)競っていても、誰も気に留めない」、漢詩全体では「勝負する人生は疲れるけれども、それでも自分は碁を打つ」という意味合いである。
碁盤箱書き
聊以忘憂
十六世 井上因碩
署名した十六世井上因碩(1890−1961])は、井上家最後の家元。その十六世(区別するために恵下田と呼ばれる)が、碁盤を奉納した十一世に贈った言葉である。
十一世井上因碩(幻庵)は26歳のときに家元を継ぎ、29歳で八段準名人に昇ったが、その後、江戸幕府の碁所就位について本因坊丈和と激しく対立した。この争いは「天保の暗闘」として知られている。しかし、終に夢叶うことはなかった。そのためか、晩年はもの悲しい余生を過ごした。
「聊以忘憂」とは、「少しでも憂いを忘れてほしい」という意味である。

吉備真備駅近くの吉備寺で展示されています。









