吉嶺史晴のブログ

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リコーダーという楽器に対して思うこと

2017-01-03 | リコーダー
リコーダーという楽器に対して思うことを少し書いてみたいと思います。

「リコーダーはひとつの楽器である」ということです。

なんだかバカみたいな感じがするかもしれないのですが、そう思うのです。
それはやはり、おもちゃではなく、楽器なのである、という思いを込めてそのように書いています。
楽器なのですからいろいろな音がでるはずなのです。
なんだかどんどんバカっぽい感じですが、本当にそう思って書いています。

「木の暖かみのある音色」とかそのような表現、いいものだなと思います。
でも吹き方次第では「耳をつんざくような大音響」もでるわけです。
ここが大事なところです。

今はプラスチックのものが普及していますが、私自身はそれらを手にすることはほとんどありません。レッスンの際に生徒さんが木製リコーダーの代替品として持ってこられる場合にはそれで音を出してみることがある程度です。
自分のリコーダーとしてはプラスチック製のものは私の選択としてはありません。
それは楽器として奏者の意図を反映させるという機能は木製のもののほうが優れているという一点に尽きます。

また、リコーダーは古楽器であるということに縛られたくないと思っています。
ずいぶん前のことですが発表会で生徒さんの一人が演歌の旋律をリコーダーで情感たっぷりに演奏したことがありました。
私はそれを素晴らしいと思いました。
しかし、ある生徒さんはそれが嫌いだったようです。その方にとってはリコーダーは古楽器であり、あくまでもヨーロッパの古い音楽を演奏するためのものということでした。その発表会の後、その生徒さんはまもなく教室をやめてしまいました。

バロック音楽も演歌もいっしょくたにするような教室では学びたくないと思ったのかもしれません。

これはもしかしたらデリケートなところかと思います。

でもいっしょくたにするもしないも音楽は音楽です。今、何故、日本の端っこでヨーロッパの古い音楽を演奏するのだろうという問いはいつでもそこにあります。

答えらしきもの。それはそれが良い音楽だからです。

ある人にとっては演歌は良い音楽です。
良い音楽を自分の好きなリコーダーで演奏して何の悪いことがあろうか、というのが私の考えです。

リコーダー本来のレパートリーとされているもの、つまりルネサンス、バロック、そして現代的なものについてはそれらの様式を守って演奏したいと思います。
しかしながら様式というものは変化します。
音楽学における研究成果も進歩しています。
しかしながら研究成果をそのまま反映した演奏というものは非現実的なアイディアです。

なぜならば昔のことが100パーセント忠実に再現されるということはありえないからです。
この点において古楽器奏法などという言葉の背後には常にある種の妥協が存在することがわかります。

私自身は演歌をリコーダーで演奏しようとは思いません。
しかしながら演歌をリコーダーでしかも、全くの無伴奏で演奏した生徒さんの思いは痛いほど私には伝わって来るような気がしました。その曲でなければいけない必然性があったからこそその方はその曲を演奏したはずなのです。

そこには最新の音楽学の研究成果とか、そのようなことではなく、もっと切実な何かがあるように思えます。
単に表面的に古楽奏法らしきもののうわっつらを撫でただけの演奏よりもはるかに私はその演奏が好きでした。

リコーダーは楽器です。
おもちゃではないです。
「モダンフルートと比べると音が小さい」などと言われると悲しくなります。
本来のリコーダーの鳴りを体験したことのないような方はそのようなことを平気で言う方がおられます。

でも昔の人は(今のリコーダー奏者も)、そういう楽器を使いながら表現しようとしているわけです。
もちろん、リコーダーでなければ表現できないような音楽もあります。

少しずつリコーダーという楽器が認められてゆくことを願っています。
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