吉嶺史晴のブログ

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自分自身の演奏に満足できなくなってしまったら

2017-05-06 | リコーダー奏法
自分自身の演奏に満足できなくなってしまったら、どうしたら良いのだろう?
さっきの記事を書きながらあらためて思った。

普通は技術的なことを学ぶだけでそれだけでも充分にやることがあるわけで、この場合は、満足できないのが当然という状態だ。

しかし、問題はその段階を超えてしまった、あるいは何らかの理由によって、技術的なことはまだ完全ではないにしても自分の演奏そのものに満足できなくなってしまった状態。

僕自身は最初の頃から今までずっと満足できなかったので、演奏という行為自体は自分自身が満足できるとか、できないという観点はあまりない。バッハのシャコンヌをテナーリコーダーで吹けるようになったら満足できるんじゃないかと思って長い間、練習したけれどもそういうことはなかった。

それでは趣味で演奏している皆さんはどうだろう?
あるいは子供たちは?

やっぱり楽しくなけりゃ、やる気も出ないんじゃないだろうか。

それでは「楽しい」というのはどういう状態を指して「楽しい」というのか、これが問題だ。

僕自身だって、満足はできないけれど、それなりに「楽しい」から長いこと音楽に携わっていられるのだと思う。

教室の生徒の皆さんもそうだと思う。
でも、問題は「楽しさ」の質は段階によって変化して来るということ。
このことにどう向かい合うのか、ということ。
これがポイントなのではないか。

つまり最初の段階は楽譜を読めるようになるのが楽しい。
あるいは音を出すのが楽しい。
きれいな旋律を吹くのが楽しい。
速いパッセージが吹けるようになるのが楽しい。

というような段階がある。
誰もがこの段階を経る。
これ、なんだか低い次元のことみたいだけど、決して、そうではないと僕は思う。

こういう段階があってこそ、より豊かな世界があるわけで。この段階なしには奏者の成長はない。

そして、その次の段階としては、どんなものがあるだろう。
たとえば「音を出すのが楽しい」という段階があるとしたら、その次には「どんな音を出すのかということを自分で考えて、100パーセントうまくゆかないこともあるけれど、それを試みることが楽しい」ということもあるはず。

もっと先にゆくと「こういう音が出したいけれど、自分の技術と楽器の特性上、それは無理なんじゃないかと覚ること」が苦しくも楽しかったりする。

ここで、大事なのは「自分で考える」ということ。
これ、新しい局面だ。
つまり、それまではただ、音を出すだけでも楽しかったのだけれども、だんだんそれに飽き足らなくなって来て、自分で創意工夫をすること自体に楽しみを見つけるという段階だ。

もちろんそのためには様式に関する理解、和声や対位法に関する学びも必要になって来るはず。
このあたりのところをどうやって乗り越えることが出来るのか、という点。
この辺のところ、その人がひとりの演奏者として、ひとりの音楽家としてどのように成長してゆくのか、という分かれ目ではないかと思うのだ。


(追記)
これは「満足・不満足」というよりも「楽しいか、楽しくないか」というポイントで考えたほうが良さそうだ。
ヒントは段階によって何を楽しいか、と感じる点が異なってくるということ。
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