ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

主役はベルリン、多言語作家による都市像――多和田葉子『百年の散歩』を読む(2)

2017年07月11日 | 読書ノート
女性彫刻家を名付けた通りがもう一つ登場する。コルヴィッツ通りだ。反ナチ、貧民や労働者に寄り添った彫刻家―私はかつて観たケーテ・コルヴィッツ展で、メッセージ性の強い作品に辟易したことを告白しなければならない。感動が当たり前のように設えられた展覧会場で、沈黙しているしかなかったことも。
通りで「わたし」は子供の幽霊に出会う。栄養失調で、夫であるコルヴィッツ先生に診てもらっているという子供の幽霊は「取り逃がしてしまった」お菓子を必死で探している。(こうした幽霊の出現の、自然な表現が実にうまいのだ。)けれど子供の飢餓を訴えるコルヴィッツのポスターと入れ代わりに幽霊は消えてしまう。飢えた子供たちそれぞれの個性を消し去り「ドイツの子供たち」という名前を与えたポスター。そして「祖国のために」戦場に送り出した息子を失ったコルヴィッツが、最晩年に悔恨の果てに生み出した「ピエタ」像。一人の母親ではなくマリアにしたのだった。全体主義的な感動の気配を感じて少し距離を置く「わたし」の視線に、私も救われたのだった。
反ナチ活動家をモデルにした芝居をする高校生たちにも危うい愛国心を見る。あるいはドストエフスキーの「賭博者」を上演する人たちに西側社会の戯画を見、スターリン時代に造られた巨大な石の絵本に、兵士たちの幻影を見る。
圧巻は終章「マヤコフスキーリング」だ。リングとは輪状になった通りのこと。マヤコフスキーリングは大通りを外れた小さな輪。ここに入った途端、「わたし」の時間や運命は反転したようになる。そしていつしかマヤコフスキーに成り代わって、壮絶な三角関係の輪に入り込んでしまっている。安定の中に身を置くブルジョア夫婦と革命詩人。そこから飛び出したマヤコフスキー=「わたし」もまた、一つの決断を下していた。
私は『百年の散歩』というタイトルから、どうしてもガルシア・マルケスの『百年の孤独』を思い出してしまう。それほどに本書には孤独が充満しているのだ。
不夜城の、多民族の、様々な言葉が行き交う雑踏の中から、ひしひしと孤独が迫ってくる。本書を一貫して物語的趣向で引きつけているのが「あの人」の存在だ。
「わたし」は、喫茶店で、公園で、あてもなく「あの人」を待つ。名前も性別もわからない。本当に約束したのかどうかも定かでない。もしかしたら「わたし」が勝手に作り上げた幻ではないか。都市の孤独が生み出す亡霊かもしれない。そもそも「こんなにたくさんの人がいて、自分の会いたいたった一人の人とは会えるんだろうか」という街なのだから。
「あの人」の断片を寄せ集めてみると、おぼろげに輪郭が浮かび上がってくる。「大都市は肌に合わないと言う人」、「自分の領域はぎりぎりまで守り」「他人の領域に好奇心から入り込もうとしない人」・・・ことごとく「わたし」とは正反対ではないか。それでも当初は待つ時間をいとおしく過ごしていたはずだ。孤独の中の小休止のように、「待つ」ことで孤独から逃避していたのではないか。しかし終章、「わたし」は晴れ晴れと「あの人」に決別を告げるのである。どこにも帰属しない、「散策者」を国籍とする「わたし」は、孤独を毅然として引き受けられるのだ。(霜田・この項終わり))
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