いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(391)「サタンに勝利せよ」

2014年11月23日 | 聖書からのメッセージ
 「テモテの第一の手紙」6章11節から16節までを朗読。

 12節「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである」。
 
イエス様の救いにあずかって信仰生活を送ることは、非常に楽といいますか、救われたのですから、問題もなく事もなくすべてが順調になって上手い具合に行くだろうと期待をします。また、世間でも信心するとか、信仰を持つのは、心の平安が与えられて幸せになるに違いないと思われています。そういう考えが一般的に広がっています。ですから、私が牧会伝道者であることを知りますと、「素晴らしいですね、いつも穏やかに事もなく楽しいことでしょうね」と言われる。「それに引き換え凡人である我々は、毎日がドロドロの戦いです」と言われます。なるほど、イエス様の救いにあずかって、いろいろな意味で神様は恵んでくださる。心に平安を与え、望みを与え、慰めを与えてくださる。そういう御方であることは確かです。しかし、それを自分のものとして握る、身に着けるのはなかなか一筋縄ではいきません。いろいろな戦い、困難を伴います。そう言われると、ちょっとおじ気づくかもしれませんが、あまり良いことばかりを言って、後で「だまされた」と言われるのも心外ですから、むしろ、戦いや困難が伴ってくることをまず知っておかなければならないし、また、覚悟しなければなりません。

時には「イエス様のことを知らなかったら良かった」と思う方もいます。聖書の言葉を知ったが故に、したいことができなくなるし、心にもやもやが湧(わ)いてくるし、フラストレーションになって「こんなんだったら、信仰なんかしなかったらよかった」と、嘆かれた方がいらっしゃいますが、確かにある面ではそういうことが言えます。それは、私たちの心に神様と相容(い)れない、そういう性質があるからです。水と油というように、お互いが反発し合う。神様に従えない思いが心にある。いうならば、聖書ではその事が罪と言われています。自分が正しい、自分がいちばん善い、自分が考えるのが最善、そして、自分を神のように絶対者とする。世の中はそういうものです。「まず自分を頼らなければどうするか」と「自分がしっかりせよ!」と言って、若い人を叱ったりしますが、「自分が頑張る、自分が考えて自分で努力して自分の道を切り開くんだ」と言えば、恰好は良いのですが、そういう考え方が私たちに根深くある。本来人は生まれながらにそういう性質を持っています。それは、ある意味では幸いなことです。ところが、そこで問題になるのは、私たちが神様を認められない。いうならば、自分が神様となって、「自分が考えていることが絶対正しくて、自分が願っていることを実現し、夢をかなえて幸せになる」と思っているから、自分以外の何かに、神様に頼るとか、神様の導きに従うとか、そんなことをしていたら自分があやふやになるといいますか、自信を失う。そうならないように、「俺は正しい」と思いこんで生きている。ところが「お前は正しいと言っているけれども、それは違うぞ」と言われてご覧なさい。はしごを登っているとき、外されたように、「じゃ、何につかまったらいいのだ」と、不安になる。「神様を信頼しなさい」と言われても、神様はどこにいるやらいないやら訳が分からない。つかむにつかみようがないし、自分の心が宙ぶらりんになってしまう。宙に浮いたような心もとなさ、不安定になってしまう、と言われたことがあります。確かに、そういうことがあるでしょう。神様にしっかり信頼し、確かな手応えを感じ取ることができなければ、恐らく宙ぶらりんな気持ちになってしまうでしょう。そこで大切なのは、私たちが神様をしっかりと自分のものとしてつかみ取ることです。これが私たちに求められていることであり、また、日々の戦い、日々の生活もそこにあるのです。だから、旧約聖書で預言者ホセアが語ったように「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」(ホセア 6:3)と、いわれるのです。神様を知ること、そして、神様に信頼する者となる。私どもが変わると、そこに今まで思いもしなかった、想像もしなかった世界が広がってきます。それはまるで卵の殻を打ち破って、中にいたヒナが全く新しい世界に、広々とした世の中に飛び出して行くようなものです。私たちが神様を信頼し、神様が共にいらっしゃることを心に堅く信じることができるならば、殻を打ち破って新しい広やかな世界に生きる者となります。確かにそのとおりであります。ところが、そこへ行くまで、そこに至るまでがなかなか難しい。難しいというのは、生まれながらに持っている自分を第一にしよう、自分が考え、自分が計画し、自分の思いどおりにすることが善であり、自分の生きる目的であるという思いを取り除いて、空っぽに、そこをすっかり更地(さらち)にして神様を信じる心を造り出して行かなければ信仰が確かなものとしてそだちません。古いものをぶち壊して、新しく立て直して行く。イエス様が「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ 3:3)と言われたのはそこなのです。「自分を打ち壊す」とは、自我であるとか、自分の中に凝(こ)り固まったこの世の価値観であるとか、日々の生活の中でしがみついている思いを断ち切って、目には見えないけれども、全てのものを力ある御手をもってしっかりと握って持ち運んでくださる神様がおられることを信じる。ここに至る戦いや困難が必ず生じます。

自分の力で、人の思いで世の中を生きて行くのだ、と頑張って、若い時など特にそうですが、あるいは壮年期に掛けて、自分の地位や社会における責任などが増えて、信頼され、慕われ、自分の計画、自分の思いで物事を進めて行く。その人にとっては実に痛快なことであります。そうすると、いよいよ自分が正しいと確信しています。だから、社会で活躍した男性は、信仰に生きることが困難です。自分に自信がありますから。

 私の知っている方、ある大手の大企業の役員ですが、奥さんは大変熱心な素晴らしい信仰を持っておられるのです。ところが「あなたも信じたら」と勧めると、「何を馬鹿な」と言われる。「そんな神頼みしてどうなる」と。ですから、その姉妹は残念に思って、いつも祈っておられる。しかし、人はそもそも弱い存在なのです。ただ、自分が弱いことを認める、いわゆる、自分が頼りない者であることを正直に認める、これがいちばん難しい。ところが、神様はちゃんと時を備えられて、その人がお手上げになるようになさいます、と言うと、ドキッとして「何をされるのだろうか」と思いますが、「神様に頼るしか道がない」というところに追い込まれる。それが戦いでもあるし、そうなるということは、大きな恵みであります。しかし、そういう時は苦しいですから、できるならば苦しみに遭わないうちに早く神様の前に降参したらいいのです。本当にそう思います。しかし、なかなか人は一筋縄ではいかない。皆さんもそうでしょう。自分のことを考えれば、人から右と言われて「はい、そうです」と言えない。右と言われれば左、左と言われれば右と、必ず逆を行くのが私たちの性格ですから、素直になれ、といい募(つ)のっても、これは無理です。だから、やはりここは神様に任せるほかには道はない。神様のお言葉を通して御思いを聞いている私たちは、神様の愛のむちに遭わないうちに早く立ち返って「永遠のいのちを獲得しなさい」と勧められています。

 そのためには12節にありますように「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて」と。イエス様に従って行こうとする、信仰に立って生きようとするとき、いろいろな戦いに遭うと、聖書にはあります。その戦いは外側の戦い、人との戦いではありません。ある方は「先生、今年も新年聖会に出たいと思って自分は用意しておったのですが、ところが、年頭から親戚の者がどやどやとやって来て、とうとう私は出られなくなりました。私の信仰を妨げるサタンでした」と言ったから、私は、「来てくださった方々はサタンでも何でもない」、「じゃ、どうしてですか。私は聖会に出たいと思ったのですよ」と。「だったら、断わればよかったじゃないですか。丁重に『また時を改めて』とおっしゃれば良かった」、「いや、義理があって、そんなことを言ったらあとが困るじゃないですか」と。「誰が困るの?」「私が」と。「そうでしょう。あなたの中にサタンがいるではないですか。あなたが本当に聖会に出たい、主の臨在に近づきたい、という願いを持っているところに、神様が試みに親戚の人を送ってくださる。あなたは親戚の人に恨み・つらみを言うけれども、それはお門違い。言うべきはあなた自身の心ですよ」と。「いま自分がこの時、まず第一にすべきことは何なのだろうか。神様がいま私に求めていることは何だろうか」と、よく祈って、「今年だけは少なくとも聖会には出させて頂きたい」と思うのだったら、たとえ親戚から嫌われようと、何を言われようと、精いっぱい丁重にお断りをして、まず神様に近づけばいいことであって、それを親戚のせいにして、自分の心に刺される思いをごまかしているじゃありませんか」と、ちょっと厳しかったけれどもそう言ったのです。私どもの信仰の戦いとは、外側から来るものではない。私はこうして一生懸命しているのに、サタンがやって来てできなくなりましたと。そうではなくて、戦いの大きな敵は私たちの内側にあるのです。

 「エペソ人への手紙」6章10節から18節までを朗読。

 11節に「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」と勧められています。悪魔とかサタンというのは、外側から、私たちの皮膚の外側からやって来るものではありません。私たちの内に巣くっているサタンの力、罪の力が働きかけてくるのです。その「悪魔の策略」、そこに対抗して立つには、自分の力ではどうにもならないのです。「よし、今度はこう決めよう」とか「覚悟しよう」とか「こうすることを決めよう」と、 “一年の計は元旦にあり„なんて言いますから、「今年はこういう目標を立てて……」「これは一日何回やる」とか「これはこうします」とか、決めます。分かりやすいのは「日記を書きます」とか、あるいは「何をどうします」とか、特に子供の頃にはそういうことをよく言われます。私も小学生や中学生の頃、両親から「ちゃんと計画を立てて」と言われて、一日がかりで計画を立てる。いい計画が出来て、それを紙に大書して机の前に貼ったり、壁に貼ります。でも、そんなものを実行できません。歳を取ると、大体できないことは分かってきますから、計画すら立てもしない。立てたくても先がないから、その必要もなくなりましたが、いずれにしても、私たちは何かを決めてそれを遂行(すいこう)していく、それを完全にやり遂げる力はありません。出来ないいちばん原因は、心が弱いのです。どんなに決心してみても、肝心のいちばん中心になる私たちにいのちが乏しい、弱い。そのためにすぐに負ける、誘惑に。友達が何か言ってくると、ちょろちょろと行って、するべきことを忘れてしまう。ちょっとしたことですぐに……。だから、後になって「しまった。今日もこれができなかった、あれもできなかった」と、一日を悔んで終わる。「よし、また明日」と常に、明日、明日で、今日はない、そういう人生を生きている。私たちは本当に弱い自分、できない自分であることを徹底して認める。これが神様に出会うための秘けつです。だから、ここに「神の武具で身を固めなさい」と勧められています。自分の力を発揮せよというのではない。人様を見ると「あの人は意思の固い強固な人だし、決して人に負けることもない、こんな私のようにしょっちゅう悔んでばかりいて、後悔ばかりしているような者とは違う」と、横の人を見るとそう思うかもしれませんが、似たりよったりで同じです。あの人もこの人も人であることに変わりがない。強そうに見えるのは、人前だけですから、心の中は全部神様が見ていらっしゃる、知っていらっしゃいます。だから、あまり人を見て、羨(うらや)んでも仕方がない。そんな周囲を見なくてもいい。その代わり自分をよく見て、自分がどんなに弱い者であるか、力のない者であるか。自分は何にもできないのだ、と徹底して行く。これがこの戦いに備えるための前提です。

12節に「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく」とありますが、「血肉」とは、私たちの外側のものとの戦いです。先ほど申し上げましたように、自分の決めたことを邪魔するとか、それを妨げようとしてくる力、子供であったり、ご主人であったり、親戚の者であったり、友達であったり、そういう私の外にある力、外にある事柄によって自分が妨げられている。自分の力が発揮できないでしまったと、嘆(なげ)くのではありません。「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」。何かすごい相手に見えますが、いうならば、私たちの心の中にある自我性、あるいは自分を強い者と見せようとする力、それはサタンの力です。常に私たちの心に、「あんたが大将!」と言ってくるものがいるのです。そうすると、「神様は後にするか」と「今はひとまず自分でやってみよう」と、そうやって神様から私たちを引き離してくる力、これが全てサタンです。私たちは神様に頼らなければおられない者ですが、それを「そうじゃないぞ。お前だって一端(いっぱし)できるじゃないか。あれもやったじゃないか。これもやったじゃないか。そんなに嘆くことはないぞ」と言って、私たちに自信を持たせるといいますか、私たちを天狗(てんぐ)にしようとする、おだててくるのがサタンであります。だから、サタンは決して怖(こわ)い顔をして、黒装束をまとって、三つ又のすき、鎌(かま)でも持ってやって来るのではありません。聖書には「光の天使のごとく偽装して来る」(Ⅱコリント 11:14)と、まるで、神様の御使いであるようにやって来るから、一見分からない。気がつかないうちに私たちの心がそちらへ引っ張られて行って、神様から離れてしまう。だから、サタンとは私たちを神様から遠ざける力との戦い、それが12節の後半の「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」というのです。私たちに対してサタンは常に働いてきます。

 今年も新年聖会をさせていただきまして、誠に神様に感謝だったのですが、一日3回の三日間、計9回です。そうすると、大変恵まれます。力が与えられて神様の臨在に触れて、いろいろな意味で自分の思いを洗われるのです。また、悔い改めるべきことも教えられ、新しくされて、いよいよ神様に近く居る幸いな恵みを感謝できる。ところが、聖会が終わって、今日あたりぐらいから、サタンが「そんなに喜んでいてどうする? 見てご覧、あなたの部屋を、台所を、冷蔵庫の中を見てご覧、何もないではないか」と、いろいろなことを目に見せる。そうすると「あれもしておかなければいかん。三日間も聖会に取られたので、家の中はやりっぱなし、来年は二日にしとこう」とか、そんなことを思い始めると途端に、心が沈んでくる。そして、「恵まれて、あの時、あの三日間、あんなに喜んで感謝した。本当にうれしくて涙も出そうなぐらいになったが、どうしてだろうか。手のひらをひっくり返したように、心がむなしくなってシュンとなる。今年の正月はいちばん最悪やわ」と思う。それは私たちが主の臨在に触れて、神様の喜びに満たされていると、サタンが妬(ねた)ましく思う。激しく私たちを奪い取ろうとして、サタンは力を働かせてくる。それに負けてはおしまいです。そうではなくて「こうやって私の心をとらえて冷や水をぶっかけるように、私を沈ませてしまうのは、神様でない別のものが私を神様から引き離そうとしている」と悟ることです。だから、私たちが神様を喜んでいると妬む奴がいる。それを知っておいていただきたい。そして、今そういう状態であるとき、まさに戦いであります。そこで私たちは謙遜になる、へりくだるのです。これが戦いに勝利する第一条件です。

だから、13節に「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」。「神の武具」、神様の与えてくださる力に満たされる。その後の14節以下に「真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15 平和の福音の備えを足にはき」と、「真理」、「正義」と「平和」、これはイエス様が私たちのために備えて下さったもの、いうならば、主イエス・キリストご自身、これを私たちのものにすることです。イエス様の前に私たちがへりくだって、十字架の主に近づいて行くことです。「真理」「正義」と「平和」、これはまさにイエス様の十字架です。そこに自らを低くすることです。これが私たちの勝利の秘けつです。

「ヨシュア記」3章14節から17節までを朗読。

これはモーセが率(ひき)いてきたイスラエルの民が40年の荒野の旅路が終わって、いよいよヨルダン川を渡ってカナンの地に入ろうという時であります。カナンの地は、神様がイスラエルの民に与えると約束した乳と蜜の流れる誠に恵み豊かな地であります。そこへ彼らが入ろうというのですから、こんなうれしい話はありませんが、実はそこはいろいろな民族がすでに住んでいます。それぞれに街々を造り、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)している所です。そこへ百万人を超えるイスラエルの民が民族移動で入って来るのですから、これは大ゲンカになるのは目に見えている。神様は、そこで戦いなさい、そこをあなたに与えると約束してくださいました。与えるのだったら、もっと楽な、何もない所を用意してくれたら良さそうなものを、よりによっていろいろなものがうようよ住んでいる土地を「お前にやるから……」と。これは明らかに私たちのことであります。私たちの心の中にいろいろなサタンの力が働く場がある。それを取り除いて清くして、神様が与えてくださる、神の民の住まいと変えて行く。これがいま私たちの立たせられている立場であります。だから、信仰生活とは、イエス様が救いを完成し、永遠のいのちを私たちに与えてくださったのでありますが、私たちがその約束を自分のものとして獲得して行く。イスラエルの民も「カナンの地をあなた方に与える」という神様の約束でありますから、その約束を信じて行ったところが、すんなりとは入れない。そこにいろいろな古いものがたくさん、前から住みついているものがある。それを一つ一つ戦い取って行くのです。その事がヨシュア記に語られている。神様は「与える」と約束しているのですから、ただ行けばいいのです。行けば戦いになります。その戦いを恐れていては、神様の約束を手にすることができません。

永遠のいのちの生涯もそうであります。私たちはイエス様の十字架によってあがなわれて、「神の子」といわれています。神の子供で、雲かかすみを食べて何もいらない、という無欲恬淡(てんたん)としているかというと、そうではないでしょう。あれも食べたい、これも食べたい。あそこも行きたい、ここにも行きたい。いろいろなものが私たちの生活の中にまだある。この世にいる間、私たちの心が一筋に神様だけにはならない。神様が私たちを永遠のいのちにあがない取ってくださったと信じていながら、現実は、どこにそんな姿形があるかしら、と思うような自分であります。ところが、神様は「救いは完成した」とおっしゃる。それは約束でありますから、そこを勝ち取って行かなければならない。しかし、先ほども申し上げましたように、自分の力ではできないのです。「神の武具で身を固めていく」。だから、毎週、毎週礼拝に集い、また各集会に励んで、神の武具を頂くのです。また、日々皆さんが神様との交わりの祈りの時を、御言葉を通して自分の内に神様の武具を頂いて、サタンに打ち勝って、サタンを押しやって勝利する。心の陣取り合戦であります。神様のものとして、神様に付ける者、全く神様と一つとなる。いうならば、イエス・キリストと一心同体になるまで、私たちを神様は整えてくださる。神様は「後はお前たちがしっかりやれ」とおっしゃっているのではない。イスラエルの民がこれからカナンの地へ入って行こうとするとき、その地を探りに行きました。そうしましたら、たくさんの他の民が住んでいる。おじけづくのです。それに対して神様が「強くあれ、雄々しくあれ」、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう」(ヨシュア 1:5)と励ましておられる。わたしが行くのだから、神様が一緒におるのだから戦いなさいと。

最初に出会った困難はヨルダン川を渡ることでした。目の前にとうとうと流れる川がある。今読みましたように、ヨルダン川は刈り入れ期間は一面水いっぱい。川と言っても、下流のほうに行くと川幅は広いですけれども、水が流れている所はちょろちょろです。あんなのを渡るのは訳ないでしょう。ところが、大雨が続いたりしますと、何もなかった川の縁の近くまでいっぱいに流れます。そんな所を渡ろうなど、簡単には行きません。恐らく、イスラエルの民もヨルダン川を渡れと言われても橋もないし、渡し船もない。その上、流れは激しく、川幅は広くなっている。その時、神様は一つのことをお命じなった。14節以下に「こうして民はヨルダンを渡ろうとして天幕をいで立ち、祭司たちは契約の箱をかき、民に先立って行ったが、15 箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、6 上から流れくだる水はとどまって」と。箱とは契約の箱です。神様がイスラエルの民にお命じになって造った箱、その中にはマナとかアロンのつえとか、それから十戒の板とか、そういう物が入っているわけですが、それを祭司たちがさおで担いで行く。その箱を先頭にして、ある程度の距離を置いてイスラエルの人々は続きなさい、とお命じになられた。そして、ヨルダン川に来ましたとき神様は、まず先頭である契約の箱を先に立てて川に入りなさい。これは大きな戦いです。なぜならば、祭司たちが箱を担いで水の中に入ってご覧なさい。ひとたまりもなくおぼれてしまうに違いない。でも、神様のお言葉を信じて契約の箱が先に行く。

この一年、いろいろなことがあるに違いない。信仰の戦いを戦わなければならない事態や事柄、渡りかねるような川の縁に立たせられるかもしれない。「どうしよう」とおじ惑うときがあるかもしれない。そういうときに、契約の箱をまず先に進み行かせよと言われます。いうならば、私たちがいろいろな問題に出会うとき、その問題に当たるのではなくて「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ 6:33)とあるように、まず、神様のもとに来て、思いを整え、心を整えて踏み出して行く。これが大切です。イスラエルの民に神様は「このヨルダン川を契約の箱を先頭にして渡れ」とおっしゃったのは、まさにそこです。いろいろな問題に当たったときに「どうしよう!」と、大慌てをしてすぐにあちらに走り、こちらに走り、右に左にと飛び回る。そして、しばらくして、へとへとになって、「そうだ。お祈りを忘れていた」と。「それでは駄目だ」とここに書いてある。だから、まず契約の箱を先頭にして、問題の中にまず、足を踏み入れる。そうすると、流れていた川がせき止められてしまった。そんなこと、前もって分かっていればいいですが、何も分からないまま、信仰を持って踏み出して行くとき、神様のほうが働かれるのです。

そして、17節に「すべてのイスラエルが、かわいた地を渡って行く間、主の契約の箱をかく祭司たちは、ヨルダンの中のかわいた地に立っていた。そしてついに民はみなヨルダンを渡り終った」。イスラエルの民が全部渡る間、契約の箱を担いだ祭司たちが川の中にズーッと立ち続けたのです。10分やそこらじゃないですよ。百万人近い人たちが全部渡って行くのですから、その間ジーッと立っておかなければならない。契約の箱とは、神様の印(しるし)です。そこに神様がいらっしゃるわけではないけれども、契約の箱によって、神様がそこに臨在してくださる、その中心にあることを証しする箱です。だから、私たちの生活の中でも問題に当たったとき、まず契約の箱を担いで行く。いうならば、イエス様の十字架を仰いで、神様の臨在と共に事に当たる。そうしますと、思いがけない、私たちの想像のつかない道を神様は開いてくださる。そこを渡って行くことができる。

その後、エリコの町に出会ったでしょう。その時にもヨシュアが、エリコの町をどう攻略しようかと思い悩んでおったとき、神様の使いが「主の軍勢の将として来た」と言った。そのとき「何を語ってくださいますか」とヨシュアが尋ねると、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」と。これも問題解決への大切なひとつの道筋であります。ここでは「足からくつを脱げ」、いうならば、「わたしは主のはしためです」と、自分の力を捨て去って空っぽになって神様の手に自分を委ねる。僕となって従うということを神様は求められる。

そのとき思いもかけない作戦が伝えられた。常識では考えられない作戦です。エリコの堅固な城壁で囲まれた町を一日一回ずつ回れというのです。7日目には7回まわって後でワーッとときの声を上げ、遠くで宿営している人たちもそこで声を上げなさいと。そんな作戦をまともに信じるには、足からくつを脱がなければできない。聖書のお言葉を信じるのもそうです。いろいろな問題に当たって「これは聖書とは関係がない。神様の言葉とは関係がない。私が何とか考えなければ、この問題を解決するためにどのようなことをしたらいい? 」と、インターネットでいろいろと調べて情報を集めて、「あれが良かろう」「これが良かろう」と、そんなことをしている間は絶対に駄目です。そうではなくて「足からくつを脱ぎなさい」。全ての物を捨てて、僕となってもう一度聖書に聞く。主が何とおっしゃるか? 聖書にはいま目の前の問題、事柄に関係のない言葉ばかりが書いてある。「こんなことが関係あるかしら?」と思うでしょう。ヨシュアも聞いたときに「エリコの町を攻略するのにそんな方法でうまくいくだろうか?」と思ったに違いない。聖書のお言葉は、自分の今と違うように思いますが、そうではない。私どもがその問題に当たって一生懸命に神様に祈り、「神様、どうぞ、力を与えてください。この問題を解決する道を備えてください」と祈って、聖書のお言葉を読んでご覧なさい。そうすると、神様が思いもかけない知恵を与え、また、道を具体的に教えてくださる。これは確かにそのとおりです。この一年、いろいろな戦いの中にあるとき、このヨシュアはカナンの地を得るためにどんな戦いをしてきたか、その度ごとに彼らがどういう姿勢を神様の前に整えたか、しっかり味わってください。これが「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて」ということです。

「テモテの第一の手紙」に戻ります。6章12節に「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい」。「永遠のいのちを獲得しなさい」、いうならば「カナンに地をあなたのものとしなさい」ということです。どうぞ、この一年、また、どのような戦いの中に置かれるか分かりません。しかし、いつもどんなときにも自分を捨て、自分の弱さを認め、自分の足らなさ、知恵のない者であることを認め、本当に空っぽになって、神様だけに「主よ、憐れんでください」と、主にしがみついて、主の知恵に満たされ、主の力に満たされ、主の御思いに従って、この戦いに勝利して行きたいと思う。これが私たちに期待されている道筋であります。どうぞ、共に祈りつつ御言葉に立って、サタンの策略に勝ち抜いて行きましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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