いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(570)「あなたを照らす光」

2017年07月17日 | 聖書からのメッセージ

 「ヨハネによる福音書」1章1節から13節までを朗読。

 

 9節「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。

 

 1節には「初めに言(ことば)があった」という表現で始まります。ここで思い出されるのが、「創世記」1章1節のお言葉です。「はじめに神は天と地を創造された」と、「はじめに」から始まって、まず全ての根本はどこにあるかが語られます。「『創世記』の1章1節のお言葉を信じることができたら、その人の人生は完全に変わってしまう」と、よく言われます。確かにそうです。天も地もなにもなかった。神様だけがおられたのです。だから「全てのものの根源は神である」と告白している。ですから、それを信じることは、私たちも神様によって造られた者であることにつながってきます。そして私たち造られた者は、神様の御心にかなうものとして、ご自分のかたちにかたどって尊く大切なものとして造ってくださった。創造されたとき、神様はお独りではなかった。

 

 そのことが今お読みいたしました記事にも語られています。それを受けて1節に「初めに言(ことば)があった」と始まっています。この「言(ことば)」というのは、もちろんイエス・キリストをあらわすものですが、しかし、同時に「神様の言葉」という意味でもあります。ですから、「言(ことば)」とは、いわゆる私たちが「言葉」と書き、言の葉、葉という字を付けますが、ここでは「言」という一字で「ことば」と読ませています。その「言の葉」と「言(ことば)」に違いがあるのは、そこに大切な意味があるからです。人の日常会話として、普段しゃべり合う言葉、これは言の葉です。それに対して「言」とは、ロゴス、いわゆる「真理」と結びついた内容を持つものです。しかも、その「言(ことば)」とは、“神の言葉”ということです。これは人の言葉としてではなく、神様が語ってくださる霊の言葉、これが「言(ことば)」であります。

 

 「創世記」の天地万物を創造なさったとき、神様は言葉を発して全てのものをお創りになられた。「神は『光りあれ』と言われた。すると光があった」。そして全ての生きとし生けるもの、森羅万象あらゆるものを神様は手をわずらわすことなく、言葉をもって創り出される。言葉がひとつの力、神様の分身という意味合いであります。ですから、その「言(ことば)」は神と共にあって、「言(ことば)」によって私たちも造られた者であります。私たちの内に神の霊が宿り、魂が私たちの内に造り出される。神のかたちである、神の似姿として私たちが造られたことは、神様の力ある言葉によって私たちもここに在らしめらているのです。その言葉は、またイエス・キリストでもある。

 

 イエス様は神様の約束の成就であります。旧約聖書の多くの預言者たちを通して、神様が「後の世に救い主をあなたがたの所へ遣わす」と、約束してくださいました。イザヤ書にも語られています。その預言の言葉、神様の言葉でありますが、それは神様の御心でもあります。それが時を経て、「時が満ちて」とあるように、やがて神様の定められた時が来て、その言葉が具体化し、約束が成就したこと、これがイエス様の地上にお生まれになられたことです。神様のご計画に従って、神様の約束の言葉が成就する。そして、今も私たちの住んでいるこの世の中の全てのものを、神様が言葉によって約束したように、真実にそれを実行してくださっておられる。神様は私たちに一つ一つの約束の言葉を与えてくださっておられる。これが聖書、神の言葉であります。神の言葉は、人が日常で語る言葉、単語といいますか、言葉は同じでありますが、構成といいますか、文章として聖書という形で神様が語ってくださった事態が記され、その一つ一つの言葉に神の霊が宿っている。だから「 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」(Ⅱテモテ 3:16)と語られています。聖書の言葉に神の霊が宿ってくださる。そして、神様の霊は、神の言葉を信じる者たちの心、魂にいのちを吹きこむものです。これが神の言葉の力です。ですから、「マタイによる福音書」を読みますと、しばしば「預言の成就である」と語っています。例えば、イエス様のなさったことは、神様がきちんと定められたごとくに、預言に基づいて実現しておられる、と証ししています。ヨセフさんに御使いが現れて、マリヤと結婚するようにと勧めたときも、「インマヌエル、神、われらと共にいます」という、神様の約束の成就であると語っています。だから、神様は言葉をもって力をあらわしてくださる。その証しとしてひとり子イエス様がこの世に生まれてくださいました。だから、イエス様がこの世に来てくださったのは、神様の言葉の成就である。

 

 1節に「初めに言(ことば)があった」という、その「言(ことば)」は、やがて後にイエス・キリストというかたちで救い主として実現する神様の「言葉」、またそれはイエス・キリストご自身でもあるのです。その後に「言は神と共にあった」、「イエス・キリストは神と共にあった」とあります。創世の初め、天地万物が創られるとき、イエス様もまた神様と共におられた。全てに先立って神様がいらっしゃって、神様ご自身こそが言(ことば)なる御方、キリストなる御方です。その後に「(ことば)は神であった」と語られています。その言(ことば)なるキリストこそが神でもある。

 

 皆さんもご存じのように「三位一体の神」とキリスト教の場合よくいわれます。聖書のどこにもそんなことは書かれておりません。「三位一体の神って、聖書のどこにありますか? 」、「そんな言葉はありませんよ」、「じゃ、どうしてそんなふうに言うのですか」、「それは聖書を読めば、はっきりと『子なるキリスト』『父なる神』『聖霊なる神』が、一つであること、一体であると分かるように語られているじゃありませんか。言葉によるそういう表現がなくても、神様はそのように語っているではありませんか」。ここの個所もその一つであります。ここに「言(ことば)は神であった」、神様の言葉の成就としてのキリストは、またそれは神ご自身であったと。

 

 私どもはともすると神様とイエス様を分けて考えようとします。もちろん難しい神学的な議論、学者に言わせれば、「これは一つずつ意味が違う」と言いますが、そんなものはあまり役に立たない。イエス・キリストを信じることは、神様を信じること、神様を信じることはイエス・キリストを信じることであり、聖霊なる神、御霊を信じることでもあります。これは三つで一つです。

 

 老人ホームにお話をしに行くとき、イエス様と言われ、神様と聞き、聖霊と聞く。頭がこんがらがって、特に高齢者で記憶も定かでない方にそんなことを言ってもよく分からない。「分からん」と言う。私はお祈りしていたときに教えられたことは、イエス・キリストという神様、神様の名前はイエス・キリスト。「神様って、天照大神の神でしょうか」、「そうではない。イエス・キリストの神です」と。「そうですか」と言われる。これが分かりやすい。「イエス様」と言ってみたり、「神様」と言たりする。「どっちにしようかしら? 」、「今日のお祈りはどちらから始めようかしら……」。どちらでも同じことです。だから、イエス・キリストという神様、神様が人となってイエス・キリストと呼ばれる。そしていま私たちの目には見えないけれども、御霊なる神、神様は聖霊なる神であって、霊なる御方で、その方が私たちと共にいてくださる。神が私たちと共におられる。だから、よみがえった主が私と共におられるというのも、神様が私と一緒におられるというのも、同じことです。ときどきそういうことを聞かれる。「イエス様がいてくださる。神様はどこにおられるのでしょうか? 」、「一緒におられるのです」と。「あなたは何年教会に来ていらっしゃる? 」「長年来ていますが」、「今まで聞いていたでしょう」、「聞いてはいたけれども、どうしてかな? どうしてかな? と思いながら、これを尋ねたら恥ずかしいし……」と、気になさる方もいます。この際皆さんに知っておいていただきたい。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は一つです。

 

 そのことが1節に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と。2節に「この言は初めに神と共にあった」と、その言(ことば)なるキリストは「神と共にあった」。だから、神様が天地万物を創造されたとき、イエス様は「神と共におられた」。なぜなら「神の言(ことば)」ですから、神様の言葉の力として、そこで見ておられた。そのことは旧約聖書にも語られています。3節に「すべてのものは、これによってできた」とあります。「すべてのもの」、一切が「これによってできた」。神と言葉とによって出来たと。「イエス様も神様の御業を共に見て喜んでおられた」(箴言8:22-31参照)とあります。「できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」。全てのものが神様の、またイエス様も共にいて、その出来上がったものを見てくださった。

 

 4節に「この言(ことば)に命があった」、その言(ことば)は命に満ちたものであった。神様の言葉、それは主イエス・キリストに代表されるひとつの力でもありますが、その言(ことば)には命がある。「そしてこの命は人の光であった」とあります。「命」と「光」という言葉、これは神様のご性質を伝えるものです。神様は、命の源であり、また光でもある。5節に「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。光は、闇(やみ)の中に輝くのです。光の中にあって光は見えません。

 

 オリンピックのとき、聖火リレーをやります。小さなトーチ、最近は精巧になって、少々のことでは消えなくなっていますが、あれを持って走ります。先っぽに火が付いているのですが、あまり炎が見えない。さんさんと輝く太陽の下でそれを掲げて走っていますが、よく見ると炎がほやほやと陽炎のようになる。「消えているのではないか? 」と思うけれども、ついている。いよいよ大会が始まるときに、スタジアムで、炎天下のさんさんと輝く所で大きな聖火台に火をつけます。最近は燃料がいいのか、煙ひとつ出ない。なんだかうっすらともやのようなものが漂うから、「火が付いたのか」と思う。ところ夜になって来ると、聖火台の火が「あんなに大きな炎をあげて燃えていたのか」と思うぐらいにはっきりと見えます。まさに闇の中に輝くのです。

 

まさに5節「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」のです。どんなに漆黒の闇であっても光がそれを払いのけます。線香のような小さな光でも、昼間見たらついているのかいないのか分からない。ところが、マッチの火ですら闇の中で見ると、一瞬周囲の闇を取り除きます。マッチをつけたが、闇のほうが深くて火が見えなかったとはなりません。必ず光は闇の中に輝く。だから「光」と「命」は、ある意味では一つの事柄であります。なぜなら、光の差す所に力が湧いてくるのです。だから、太陽の光を受けていると、私たちは暖かくなります。太陽の光を受けて発電する太陽光発電というのがあります。まだ太陽の光を100パーセント電力に変える技術がありませんから、17%ぐらいが電力に変わる。これが80%ぐらい変わると膨大なエネルギーになります。光はエネルギー、力です。

 

だから、4節に「この命は人の光であった」と、「命」と「光」とが一つであることを語っています。暗いのと明るいのではどちらが好きかと問われると、やはり明るい方がいいですね。冬になってくると、だんだんと日の沈むのが早くなってきます。五時とか五時半とかで薄暗くなってきます。たそがれ症候群なんて言って、だんだん薄暗くなるとさびしくなって、認知症の人は「家に帰りたい」などと言い始めます。家にいながらそう言います。不安が湧いてくるのです。闇に対して人の心が落ち着かなくなる。それは光を求める心が人の中にあるからです。

 

ある老夫妻が二人でマンションに住んでおられました。ご主人はお医者さんでもあったのですが、奥様が認知症になって夕暮れになると、「帰りたい」、「帰りたい」と言う。「私は帰りますから」と言われて、ご主人は困り果てて、電話がありました。「先生、家内が帰りたがっているけれども、どうしましょうか? 」と、私は夜11時ぐらいにお伺いして奥様に「家族に連絡したら、今晩はここに泊って明日帰ってきなさい、という話だから、今日は取りあえずここに泊りましょう」と言うと、「ああ、そうですか。家族の者がそう言いましたか」と、家族の者ってご主人しかいないのですが、忘れているのです。それでやすむのです。すると、ご主人は大変喜んで、「先生は牧師なのに、家内のような症状を……、どうしてですか? 」と。ご自分は内科医だったものですからそう言う。「いや、これは認知症という病気で、もう奥様ぐらいの年齢になると血管性と言って脳の血管の細かい所が詰まって、だんだんと記憶力がおかしくなってくるのです」と言った。「はぁ、そういう病気があるのですか」と。「私は医学生の頃、そんなことは聞いたことがない。牧師先生はどこで医学を勉強されたのですか」と。勉強なんかしてはいませんが、年を取って夜になると何か不安になります。そうでしょう。病院なんかにいてもそうです。家内が母の看病のために施設にしばらく泊まりましたが、施設の方が「夜になるとびっくりしますから、前もって言っておきます」と。なぜかというと「昼間は皆寝ているので静かです。夜になると不安になるのか、奇声を発するのです」、まるで動物園のようになると言う。それは人の心に闇が大きな不安を引き起こすのです。光がない。それは部屋が暗くなるだけでも不安感が増す。私たちには想像が付きませんが、そういう不安が必ずあります。そのような闇の中にいるのは、極めて不幸な出来事です。しかし、闇を追い払うのはただ一つ、光です。光がなければ闇を追い払うことができません。

 

9節に「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」と。「すべての人を照す」、実は私たちの闇を取り除くまことの光です。私たちが見ている太陽にしろ、照明灯にしろ、あくまでも仮のといいますか、まことの光ではない。それは私たちの外側を照らします、またそれを見てひと時は華やかになります。今はクリスマスに向かっていろいろなイルミネーションが飾られています。そんなのを見ると心ウキウキして楽しくなります。パーティーでもそうですが、いろいろな色合いの光を照らすと楽しくなって喜びます。あれを真っ暗にしてご覧なさい。お通夜のときあんな照明はしません。しずむとおのずから暗くなります。だから、外側のそういう光はひと時心を弾ませたり、暗くしたりしますが、いちばんの暗闇は私たちの心、魂です。不安だとか、思い煩いだとか、憤り、怒り、悔やむ思い、そういう心に掛る事が重くのしかかってくると、まるで雨雲に覆われたように心は暗くなります。そのとき、何とかしてその心を晴れやかにしたいと思い、いわゆる、歓楽街に出掛けて行って、色とりどりの提灯の下でお酒を飲んで大騒ぎをしたり、カラオケを歌ってひと時憂さをはらしても、肝心の心は晴れやかになりません。まことの光、私たちの心の、魂に光を投げかけてくれるもの、それがないからです。9節に「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。本当に大きな福音です。「すべての人」、どんな人にでも、若い人も、年取った人も、男も女も人種に関わらず、全ての人を照らしてくれる。それは外側からではなく、私たちの内なるものを照らしてくださる神様の光があった。その光は何であったか? キリストです。1節以下にあるように、神様が神の光で私たちを照らしてくださる。「世にきた」とあります。この世に来るとは、私たち一人一人のことです。「ヨハネによる福音書」3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。「この世」とは、私たち一人一人のことでしょう。「ヨハネによる福音書」では、繰り返し「この世」と使われていますが、それは私たち一人一人のことです。だから、「まことの光があって、私の所に、皆さん一人一人の所に来てくださったのです」。光が差している。その光に私たちが心を開いて照らしていただくこと。これしかないのです。「光がきた」とおっしゃる。その光は神様ご自身です。なぜならば、神様は光なる御方だからです。

 

「ヨハネの第一の手紙」1章5節から7節までを朗読。

 

5節「神は光であって、神には少しの暗いところもない」。神様は光なる御方で少しの暗いところもない。曇りも陰も一切ないというのです。だから、私たちもその光に包まれて神と一つになる。神の光の中に私たちが同化してしまう。溶け込んでしまうことを神様は願っておられる。まことの光は私たちの内に来て、私たちと共に住んでくださって、私たちの内を照らしてくださる。まことの光が私たちの内を隅々照らしてくださるとき、見えなかったものが見えます。様々な汚れなどが明らかになります。

 

よく言われますが、白内障が進んでくると、だんだん世間が薄暗くなってくる。たそがれのように見えると。ところが白内障の手術をした後は、途端に何もかもが輝いて見えて、汚れが目立つと言われる。「私はどうしてこんな汚い所に住んでいたのか」と思う。鏡を見ると、自分の顔が「なんとしわだらけ、しみだらけ」と思う。「今までは真っ白な顔だ、と思っていたが、見えすぎる」と言う。

 

光が照らすと、今まで見えなかった物がはっきり見えるようになる。汚れていたものがはっきり分かる。これが大きな力です。そして光が私たちの内を照らしてくださるとき、力を与えてくれる。光は、植物が成長していくときに何よりも必要なものです。光が注がれることによって、小さな葉っぱを通して光合成を行って、植物は太陽のエネルギーを吸収しながら成長します。あの巨大な大木も、鬱そうと茂る原生林も、熱帯雨林も、もちろん水も必要ですが、さんさんと輝く光に照らされて、全てのものは命に輝くのです。まことの光が私たちの内に来てくださった。イエス様がその光です。

 

6節に「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない」と。ここに「神様を信じています」と言いながら、「やみの中を歩いている」、まだ神様の光を拒んでいる。扉を閉ざしているならば「偽っている」と。神様が私たちの光となってくださっている。心の扉を開いて、イエス様のお言葉を信じて、その光に照らされ、悔い改むべきは改め、また神様のいのちを頂いて力を受け、喜びと望みを頂く者となる。これが光の中に生きることです。なぜならば、イエス様もそのように語っていらっしゃる。

 

「ヨハネによる福音書」8章12節を朗読。

 

ここにイエス様はご自身で「わたしは世の光である」と語っている。「世の光」、私たちの光、私の光であり、皆さんの光であります。そして「わたしに従って来る者は」、イエス様に従って行く。光なる御方と共に生きる。光が照らしているところに常に付いて行く。ですから、イエス様といつも共にいることが、光に照らされ、光と一つとなって光の中に生きること。先ほどの「ヨハネの第一の手紙」で「神と交わりをもち、光の中を歩くならば」といわれます。それはイエス様を私たちの内に宿し、イエス様と共に生きることです。そのとき私たちの内に光を照らし、内なるものを清めてくださる。

 

その前の1節以下に何があったかというと、一人の罪を犯した女の人がイエス様の所へ連れて来られました。そして「この人は石打ちの刑、死刑だ」と糾弾(きゅうだん)する人々が言う。そのときイエス様は何もお答えにならないで、地面に何かを書いておられた。あまり彼らが問い続けるので「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた。そしてまた地面に物を書き続けておられた。すると年寄りから初めてだんだんといなくなった。やがてイエス様が女の人に「あなたを罰する者はいないのか」と尋ねると、「はい、もう誰もいません」と。イエス様は光を照らしてくださった。そのとき集まった人々のどこに罪があるかを鮮やかに照らし出す。光に照らされたとき、罪なる者はその光に来ようとしないで、むしろそこから去っていきました。光です、イエス様は。だから、イエス様がそのことを語ったときに罪人たちは出て行きました。しかし、自らの罪を認めていたこの女の人はそこから去ることはできない。イエス様は「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と。この女の人はイエス様の光の中に立ち返ることができた。

 

それを受けて12節に「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と言われた。

 

「ヨハネによる福音書」9章4,5節を朗読。

 

イエス様はご自身のことを「世の光だ」とおっしゃいました。「今は恵みのとき、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)です。言い換えると、イエス様が光となってくださっている今、救いのときです。「この世にいる間は」とイエス様はおっしゃいました。では、いなくなったらどうなるのか? この世にいる間とは、私たちがこの恵みにあずかる時が残されているこの時です。やがてその時が終わるときが来ます。世の終わりのとき全てのものが失われて行くときには、もはや誰も働くことができなくなる。闇が来る。光の届かない闇が押し寄せてくるとおっしゃいます。そして「わたし(イエス様)が光である」ことを証しするために、生まれつき目の見えない人の目を見えるようにするわざをなさいました。目が見えないとは闇の中にいるのです。その闇を取り除く御方がどなたでいらっしゃるかを具体的に一人の人の目を開いて、光を照らしてくださった。ヨハネは格別イエス様の光なるご性質であることを繰り返し、繰り返し語り続けています。「ヨハネによる福音書」を読んだら、このことを深く味わうことができると思います。生まれつきの目の見えなかった者とは罪の中にいる者です。この人の罪をイエス様は光をもって取り除いて、光にあずかる者と変えてくださった。私たちも罪のゆえに盲目であり、闇にいます。しかし、神様は私たちに光となって来てくださった。

 

初めに戻りまして、「ヨハネによる福音書」1章9節に「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。「まことの光」、イエス様を内に常に持っておく。毎日の生活の中でいろいろな不安や恐れや心配があって、心を闇が覆ってきます。そのとき何とかしてこの闇を追い払って明るい心に変わりたい、いのちに輝く者になりたいといろいろな手を打つ。それはあくまでもまことの光ではありません。私たちの闇を取り除くには、主によらなければ不可能です。いま私たちの所に光なる御方が来てくださって、イエス様のお言葉を私たちの内にしっかりと握って、主と共に一つとなる。「詩篇」にも歌われているように、「聖言(みことば)うち披(ひら)くれば光を放ちて、愚かなる者を慧(さと)からしむ」(119:130文語訳)とあります。イエス様が私たちの内に光となって宿ってくださるとき、全ての理(ことわり)、全てのものが見えるのです。だからいろいろなことがよく理解できるようになります。世間のことであっても、聖書をよく読んで御言葉をしっかりと信じるならば、商売であれ、教育であれ、あらゆることの真理、様々なことを悟ることができます。ですから、光は全てのものを明らかにして、はっきりと見せてくださる。目を開いてくださるのです。「み言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩篇 119:105)とあるように、私たちの行く道を照らしてくださる。だから光なるイエス様を絶えず内に持ち続ける。

 

 「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。「まことの光」なる御方が私のところに来てくださった。だから、いま抱えている問題や悩み、心配なこと、不安なこと、失望すること、また、納得できない、苛立つようなこと、怒りを覚えるようなこともあるでしょうが、しかし、そこからイエス様に私たちが心を開く。そうしますと一切の闇は消えます。そして私たちに何をどうすればいいか、何が真理であり、間違っていることであるか、白黒をはっきりと見せてくださる。神様の力がそこに届きます。またいのちが輝いて私たちを力にあふれる者と変えてくださる。いのちに満ちてきますと、どんなことにも負けない、全てのものを変える力が私たちの内に働きます。これは確かです。

 

ですから、9節「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。私たちの所に来てくださった。しかし、私たちはイエス様のことを知らないで過ごしてきた。いま私たちはこの御方を信じる者と変えられているのですから、イエス様を信じて、御言葉の光を受けて、いのちに輝いて行こうではありませんか。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 11月20日教会学校聖言 | トップ | 7月2日教会学校聖言 »
最近の画像もっと見る

聖書からのメッセージ」カテゴリの最新記事