いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(569)「インマヌエルの生涯」

2016年10月31日 | 聖書からのメッセージ

 「マタイによる福音書」1章18節から25節までを朗読。

 

 23節「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます」という意味である』」。

 

 今日からアドベント、待降節といわれる週間に入ります。「待降節」というのは、イエス・キリストの御降誕を待ち望む時という意味であります。この間は神様がどのような救いと恵みを与えてくださったかを、しっかり思い巡らし、その事の確信を得させていただく、そういうことを思って過ごすときでもあります。ですから、格別待降節に入ったことで、「いったい神様の救いとは何だっただろうか? 」イエス様がお生まれくださったことと、私とはどんな関係にあるのか? そこをしっかりと考えていただきたい。そしてクリスマスの恵みが何であるかをわきまえ悟る。それを自分のものとしていただきたいと切に願います。長年教会に来ておりますと、「またクリスマスか」と思ってしまいやすいのです。

 

 しかし、クリスマスは私たちの信仰の土台といいますか、中心点でもあります。殊にイエス様が生まれてくださったこと自体が、神様の私たちに対するメッセージ、神様が伝えたいと思っておられることがそこに込められているからです。

 

 今お読みいたしました記事は、イエス様のお生まれになられたいきさつについて語られています。18節に「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった」とあります。ここではヨセフという人のことが語られていますが、私たちが親しんでいるのは、マリヤさんの記事です。これは「ルカによる福音書」1章のほうに語られています。御使いガブリエルがマリヤさんの所へ来て「恵まれた女よ……」と、彼女に受胎告知をする。美しい記事がそこに語られています。私たちはどちらかというと、マリヤさんの話のほうに心を引かれ、印象が強く残ります。しかし、ヨセフさんも大切な役割を果たしているのです。ヨセフさんが寝ているときに夢の中に神様の御使いが現れたと語られています。

 

 20節「彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである』」とあります。主の使いがヨセフさんに現れてくださった。「マリヤさんだけで駄目だったのか? 」と思いますが、正式に夫婦である二人を用いようとなさった。これが確かにありますが、20節に「ダビデの子ヨセフよ」と呼び掛けられています。これは旧約聖書に預言されたことですが、「後の世になってダビデの子孫から救い主が生まれる」(サムエル下7:12、ミカ5:2)という神様の約束の成就であります。マリヤさんはダビデの子孫であるとか、ダビデの家と関わりのある人物であるというわけではありません。ナザレの小さな村の出身であった。今では有名人ですから、名もないとは言えませんが、その当時では極ありふれた一人のおとめにすぎなかった。しかし、聖書の約束、神様が旧約時代から多くの預言者たちを通して約束してくださった約束は、「ダビデの子孫から生まれる」と言うのです。ですから、そのためにこのヨセフを神様が選んでくださった。だから、御使いが「ダビデの子ヨセフよ」と呼び掛けたのです。マリヤさんとヨセフさんの間に生まれたイエス様はその意味においてダビデの子孫として認知される御方であります。だからといって、一般の夫婦関係の下で生まれたのではなく、20節後半に「心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」と語られています。神様は、夫婦関係による肉にある子孫としてイエス様を生まれさせたのではなく、霊によって生まれる御方、神様の力によって人の世に下った御方であることを証ししておられる。ですから、形の上ではお父さんがヨセフでお母さんがマリヤという関係ですから、与えられたイエス様はダビデの子孫ではありますが、先祖伝来のつながりとしての子供ではなく、ダビデにつながる信仰の系譜、流れの中にイエス様を置いてくださったのです。ダビデの子孫とは、系図として肉にあってつながって、ひいおじいさんがいて、おじいさんがいて、親がいてという、そういう人間関係としてではなくて、イスラエルという国に置かれ、忠実に神様に仕えた人、ダビデの信仰に連なる者としてのイエス様、そしてダビデの子孫である者の中から、神の民を造り出してくださるという約束であります。

 

イエス様の誕生には幾重にも様々な意味が重なり合っています。何だか目くらましを食らったようで、「あら、どこでこんなことになったのかしら? 」と思ってしまいます。クリスマス物語は万華鏡のようにクルクルッと色合いが変わって行きます。これがまた神様の御業です。もし人がたくらんで実行したなら、まさに1+1=2 2+2=4というような実に分かりやすい単純な構図にしかならなかったでしょう。しかし、これは神様のなさったわざです。神様が驚くべきご計画をもって人を救い出してくださる。永遠の滅びから救い出すために実行してくださった事であります。だから、そこには人の理解を越え、常識を越え、あるいは理屈を越えた事があるのです。

 

 よく言われますが、「おとめマリヤから子供が生まれるなんて、そんな馬鹿な話はない。そんなことはあり得ない」と。福岡にいた一人の兄弟はお医者さんでもありました。あるとき、電話をして来られて、「先生はおとめマリヤから子供が生まれると信じますか? 」「はい、信じます」と。「実は私も最近信じるようになりました」と言われる。「良かったですね」「それがですね。あれはちゃんと理屈に合うのですよ」と。「想像妊娠というのがあって、それがどうのこうの……」と、私はよく理解ができなかったのですが、聞いていました。おとめから生まれることが理解しにくい。よく申し上げるように、おとめマリヤから救い主が生まれたこと、そしてイエス様が死んでよみがえられたこの二つはキリスト教のつまずきの石だと。ある方から「それさえ言わなきゃ、もっと繁盛するのに」と言われたことがあります。しかし、人の常識を超える、人間の理解でき得ないことを神様はなさるのです。そうでなければ神様とは言えないでしょう。私たちが考えて納得できる程度のことしか出来ない神様だったら、私たちより小さい、力ない神様ですよ。私たちの思わない、想像しない、考えないほどに、神様はもっと偉大な御方です。だから、死人を生かすにしても、あるいはおとめマリヤから生まれさせることだって、神様にはできないことはない。だから、「神様を信じる」というとき、そこまで信じなければ意味がない。「私は神様を信じとります」と言いながら「イエス様がおとめマリヤから生まれたなんて、それは想像妊娠だ」と、また「よみがえるなんて、そんなことはあり得ないよ」と言うのであれば、そんなふうに思っているのだったら、「神様を信じている」とは言えません。神様にできないことはない。これを信じるのです。

 

 しかし、このときヨセフさんは困ってしまった。いいなずけではありましたが、まだ結婚していません。ところが、彼女が懐妊したなんて、これが公(おおやけ)になったら当時としてはとんでもない事態です。この時代は結婚しないのに子供をもうけるなんて石打ちの刑に遭わんばかりのことです。今でもイスラムの世界では、厳しい所ではそういうことを問われます。だから、ヨセフは「ひそかに離縁しようと決心した」のです。さも有りなんと思います。ところが、神様は、マリヤに宿った子は人の業によるのではなくて、神様の霊が宿った結果であると。その子をイエスと名付けなさいと、ヨセフに語っています。21節「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。罪から私たちを救う者となる。罪の中から私たちを救ってくださる御方だと。罪からの救いとは、どういう形で来るか? 23節に「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これはイザヤ書7章に語られているお言葉ですが、そこが引用されているのです。「イエスと名付けなさい」と言われて、その後「インマヌエルと呼ばれる」とあります。ヨセフさんとマリヤさんの子供として生まれたイエス様は、聖霊によって宿ったものではありますが、私たちと寸分たがわない肉体を持った人間として生まれてくださいました。「インマヌエルと呼ばれる」というのは、イエス様がどういう御方でいらっしゃるか、イエス様の権能といいますか、役割、イエス様が生まれてくださった目的をあらわしたのが「インマヌエル」という言葉です。だから「呼ばれる」とは、名前として呼ばれる意味ではなく、イエス様は何のためにどういう御方としてお生まれになったか、ということです。その「インマヌエル」という意味は、「これは、『神われらと共にいます』という意味である」。これがイエス様によって語られている神様からのメッセージ。クリスマスは、イエス様の誕生を通して、あるいは、イエス様の三十三年半のご生涯を通して神様が語り続けてくださった事、それが「インマヌエル」。それは「神われらと共にいます」という意味だというのです。私たちを罪から救うとは、神様が私たちと共にいるものとなる。共にいてくださる御方となることです。

 

というのは、本来、私たち人は神様によって造られ、神様と共にあったのであります。「創世記」の初めに語られているように、人が神様によって創られたとき、神様にかたどられて尊い者として、神様に似るものとして造られました。もちろん、神様と等しくではありません。神様ではありません。あくまでも被造物、造られたものですが、その造られたものの中でもっとも神様に愛されるべきものとして、近いものとして創られました。それどころか、神様の命の息を吹き入れられて、神様の霊が内に宿るものとして創られたのであります。そしてエデンの園に置かれました。ですから、エデンの園での生活というのは、まさに人が神様と共に生きる。被造物、造られた者が造り主なる神様と一つとなって生きる、そういう場所がエデンの園です。エデンの園というと、楽園で朝から晩までご馳走を食べて、温泉にでも入ってラクチン、ラクチンという楽天地ではありません。エデンの園での生活は、神様と人とが一体となって生きる生活です。ところが、この幸いな神様と人の関係、神様の前に全く裸で恥じない関係であった者が、神様に罪を犯して、神様から切り離されてしまった。人が己の罪のゆえに神様の祝福と恵みを受けることができなくなった。それがエデンの園からの追放です。いうならば、神様と共にある私たちがそこから離れてしまうのです。切り離されてしまう。そして私たちは罪ととがとに死んだ者となったと。しかし、神様はそういう私たちを「全部捨てた」とおっしゃるのではない。あわれんでくださる、愛してくださったのです。神様は私たちを何よりも大切なものと思ってくださっておられる。「イザヤ書」43章にありますように「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」(1節)。神様は罪を犯した私たち、永遠の滅びに定められた私たちでありますが、しかし、私たちが神様の尊い作品、掛け替えのない大切な者であるがゆえに、どんなものをも惜しまないと語っておられます。「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」、尊くて大切な、目に入れても痛くない、あなたはそういう者だよと、神様は私たちに熱烈なご愛を注いでくださっておられる。しかし、罪を犯した結果、神様はそれを罰しなければおられませんから、エデンの園から追放なさいましたが、これで事終わりではなかったのです。そこからが神様の苦悩の始まりです。もちろん、人は神様からの祝福から離れて罪ととがとに死んだ闇の中に生きる者と変わってしまいました。その結果、私たちの心に思い図ることはまことにあしきことばかりで、地には不正と不義と暴虐と様々な悪がはびこる世に変わってしまう。私たちもその中にあった者であります。そして己を神とし、己が力を誇りとして、そして怒りと憤りとむさぼりと様々なあしき思いによって、人は神様の御思いから遠ざかり離れてしまった。これが神様の作品であろうかと、疑わせるような現実がいま私たちの周囲にあるじゃありませんか。かつて、私たちもそういう中にいたのであります。しかし、神様は義なる御方でいらっしゃいますから、罪を犯した私たちをエデンの園から追放なさいましたが、なお私たちを愛してやまない。何としても、もう一度、あのエデンの園の生活へ、神様が創ってくださった初めの恵みの中に私たちを取り戻そうと切に願ってくださる。神様の一方的なご愛です。そして、そのことを着々とご計画してくださって、「時を定めて」とあるように、神様の救いのご計画の時が進んで二千年以上前になりますが、あのベツレヘムの馬小屋におとめマリヤから一人のイエス様をこの世に送ってくださいました。これは人類のハイライトといいますか、中心の出来事です。その中で「インマヌエル」、「神われらと共にいます」という恵みに生きることができるようにしてくださる。神様のひとり子であるイエス様は人のかたちをとって、私たちの内に宿ってくださいました。

 

 「ヨハネによる福音書」1章14節に「そして言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。ここに「そして言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」とあります。この「言(ことば)」というのは、御子、イエス・キリストご自身のことであります。また「言は神と共にあった。言は神であった」とあるように、その御子は神ご自身でいらっしゃったということです。よく「三位一体の神」ということを申しますが、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神、これは別々の言葉を使いますけれども、実は一つです。神様ご自身と言ってもいい。ですから、ここにあるように「言(ことば)」というのは、神様の御子でいらっしゃる、神様のひとり子のことであります。その「(ことば)は神と共にあった。言は神であった」と。イエス様は神の位に居給うた神ご自身でいらっしゃる御方、14節に「そして言(ことば)は肉体となり」、言い換えると、神様が人のかたちをとって、人の体となって、被造物となって人の世に来てくださった。その具体的な印(しるし)が、イエス・キリストです。神様の霊がマリヤさんの上に臨んでイエス様を宿すことによって、インマヌエルの姿をそこにあらわしてくださった。それは私たちにもそうしてくださるためです。イエス様がおとめマリヤの中に宿って、時満ちてベツレヘムに生まれたイエス様は、「私たちの救いがこのようなものですよ」とあらわしてくださった姿です。私たちも神様の霊によって新しく生まれなければ神様の祝福と恵みに立ち返ることができない。あのエデンの生活へ、恵みに、救いにあずかる道は、この道しかないのです。イエス様が具体的にご自分の歩みを通してそのことを証ししてくださったのです。

 

 「マタイによる福音書」1章23節に「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。イエス様のお生まれになったことだけでなくて、あの十字架に死に、よみがえってくださったイエス様のご生涯の全てを通して「インマヌエル」、神様が共におられるのがここですよ、ここにあるじゃありませんか、「この人を見よ」といわれたのです。これこそが神様が私たちにあわしてくださった救いの完全なあがない、救いの全き姿です。これがイエス様ご自身であり、また私たちにも同じ恵みをいただくのです。

 

 ニコデモ先生がイエス様の所へ来ました。そのときにイエス様は「だれでも新しく生れなければ」(ヨハネ3:3)とおっしゃいました。水と霊とによって生まれなければ神の国を見ることも入ることもできない。神の国とは、まさに「神われらと共にいます」ことであります。その神様と人とが共に生きることができるのは、新たに生まれ直すこと、それは、イエス様がお生まれになったように、私たちの肉体に神の霊が宿っていただくこと、これが具体的にペンテコステの事態につながってくるのですが、私たちは、クリスマスの恵みを日々体験しているのです。イエス様がおとめマリヤの中に肉体をもって宿ることによって、救い主となってくださいました。「神われらと共にいます」と、神様が私どもの中に宿って共に生きてくださる。これが神様の私たちに与えようとしてくださる救いであります。罪を赦し、取り除いて、そして人が神様と共に生きることができるように。だから、イエス様はご自身を十字架に私たちのいけにえとして、身代わりとなって私たちのために死んでくださいました。それを信じる私たちは、いまイエス様が内に宿ってくださって、私たちもまた神様と共に生きるものとされている。

 

 だから、クリスマスの出来事は、ただ単にクリスマスだけに終わらないで、それはイエス様を信じる者の在り方といいますか、生き方、これがまさにインマヌエル、神われらと共にいますという生活であります。そこにクリスマスが具体化されて行くのです。ですから、クリスマスの出来事は、二千年前、はるか昔の出来事ではなくて、いま私たちの内にも霊が宿ることによって、私たち一人一人が新しく生まれ変わる。どんなふうに? イエス様と同じように神様の力によって、新しく神の子供とされる。だから、パウロは「最早(もはや)われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2:20文語訳)と言っています。イエス様が私の内にあって生きてくださる。それは、マリヤさんに聖霊が臨んで、ひとり子イエス様がお生まれになったように、パウロは、イエス様が私の内に宿ってくださって、私は昔の私ではない新しく生まれた者であると語っています。いま私たちもイエス様の救いにあずかって、神様と共に生きる者とされているのです。だから、イエス様は特殊な人とか、特別な人ではない……、ないと言えば誤解を招くかもしれませんが、実は私たちは皆イエス様に連なる弟分であり、妹分です。だからパウロは「ローマ人への手紙」8章に「それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(29節)と語っています。私たちのいちばん上のお兄さんになってくださるために生まれてくださった。私たちはイエス様を信じることによって、神様の霊が私たちの内に宿ることによって、かつての罪に死んで、肉に生きていた者ではなく、今度は神様と共に生きるインマヌエルの生涯へ引き入れられたのです。キリストと同じように神様と共に生きるものとされているのです。これをしっかりと確信していただきたい。なぜなら、それがクリスマスだからです。私たちはクリスマスをただ単に他人(ひと)事のように「昔イエス様が生まれたそうだ。ひとつお祝いして……」という、便乗型といいますか、人の誕生日に便乗してご馳走を食べようかという、そんな話ではありません。私たちにとってクリスマスは、私たち自身の誕生であります。新しく生まれ変わること、そして生まれ変わった私たちはキリストの兄弟分です。弟であり、妹であります。いちばん上のお兄さんがイエス様です。そして「神われらと共にいます」というのは、ただ単に私がいてイエス様がいらっしゃって、一緒に共同で、という意味ではありません。一つとなる、一体となることです。一つ体になることです。だから、私は私、イエス様はイエス様という関係ではありません。もはや私はないのであります。イエス様と同化していくのです。これが私たちの頂く救いの完成であります。今はその過程の中にありますが、私たちの卑しきからだが栄光のからだへと変えられて行く(ピリピ3:21)。 キリストと全く同じもの、キリストが私たちの内に造り出される、これが私たちがいま生かされている目的であります。兄弟でありますから、似たものです。親は神様、天のお父様ですから、神様にいちばん近い似たものはイエス様です。それでイエス様を信じる私たちもイエス様の兄弟姉妹、だからイエス様は繰り返し「あなたがたの天の父は……」、「あなたがたの天のお父さんは……」とおっしゃる。イエス様は「わたしのお父さん」といっておられる所も沢山ありますが、また私たちに対して「あなたがたの天のお父さんは……」と語られる。私はいつもそこで大きく励まされ、慰められるのです。「そうだった。神様は私のお父さんではないか」。だから「そのお父さんは、あなたがたによくしてくださらないはずがあろうか」と。もっとも「自分のお父さんは私に冷たかった」という人にとっては「お父さんに期待できん」と思われるかもしれませんが、人のお父さんは限りがあり、力がありません。しかし、神様はできないことのない御方ではありませんか。私たちをご自分の子供として造り変えてくださる。そして私たちの内にキリストの姿かたちを造り出す。なぜならば、ご自分の子供として、インマヌエルにあずかることになるのです。だからイエス様は「インマヌエルと呼ばれる」とありますが、今ここにいらっしゃる皆さんもインマヌエルと唱えられているはずです。主われらと共におられる。「あの方を見たらイエス様がおられるようだ」と。思われる……、思われなくても別に構わないけれども、本人がそのことを感謝し、喜び、そして自覚していくこと。「今日も主が私と共にいてくださる」、イエス様と一体となって生きる。

 

 「エペソ人への手紙」5章30節から32節までを朗読。

 

 30節に「わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである」とあります。私たちはキリストの手や足や頭やそういう体の一部分、いうならば、キリストという体にくっ付いている。だからキリストと一体です。私たちもそうでしょう。この手は誰々さんの物、この頭だけ私の物、とは言わないでしょう。私の手、私の頭であり、私そのものが手でもあり、頭でもあり、足でもある。だから、キリストという一つの体の、手であり、足であり、頭であり、何であるか分かりませんが、いずれにしてもその一部分である。「一部分だからキリストとは関係がない」とは言えません。一体ですから、切り離せません。31節に「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。これはよく結婚式で引かれる言葉でもありますが、これは何も結婚する人のことではありません。実は「キリストと教会」、教会というのは、私たち一人一人のことであります。イエス様の救いにあずかった私たちとキリストとが、ちょうど夫と妻とが結婚して一つとなるように、私たちもキリストと一体となる。だから、どこからどこまでが私で、どこまでがキリストと分けられない。もっとも最近結婚した人たちは分けているようですが、離婚するときに分かりやすいように品物を、これは夫の物、これは私の物と、という話を聞きます。そもそもそれは結婚にはならない。一体とは一つなのです。イエス様と私たちが一つになる。32節に「この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている」。インマヌエルというのは、私たちとキリストとが一体となる生涯です。だから、一気に短時間にそうなるわけではありません。私たちの生涯を通してインマヌエルの生涯を送る。その証しとしてイエス様は、私たちのモデルとしてこの世に下ってくださった。イエス様の歩んだ御足の跡を私たちが踏み従うように、ご自身がお手本を残してくださった。私たちはその弟分であり、妹分であります。

 

 「神われらと共にいます」という、この言葉の意味を日々の生活の一つ一つのことでかみしめて、「いま私はキリストのものとなっているだろうか? 一つとなっているだろうか」と自問する。イエス様が神の位を捨て、人の中に下って肉体をとって人となってくださった。「いま私にキリストの霊が宿って、人となったキリストのように神様のものとなりきっているだろうか?一体となっているだろうか?」、「私はイエス様から離れているところがありはしないか」。常にそのことを自らに問うていただきたい。もし離れるところがあったならば、何としてもイエス様と不即不離、離れないでしっかりと結び溶け合う者となりたい。実はパウロもそれを願ったのです。「キリストを得るために」と、「ピリピ人への手紙」にそう語っています。「キリストを得るために全てのものをふん土のごとく捨てた」(3:8~)と、彼は言うのです。

 

イエス様が神の位を捨てて人の世に下り、「神われらと共にいます」という恵みの生涯へ私たちを引き入れようとして来てくださった。そして文字どおり神様と人とが一つとなって歩んでくださったご自身の短い地上のご生涯を通して、私たちがいかに生きるべきかをあらわしてくださった。私たちも、その方の御足の跡に踏み従って、私たちの性情、性格をことごとく、思うこと、語ることのすべてに至るまで、キリストの姿かたちに変えられるまで、栄光のすがたへと、神様はそのことを切に願って今日も臨んでおってくださいます。主のご期待に応えて行く者でありたいと思います。

 

「マタイによる福音書」1章23節に「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と。「インマヌエルの生涯」これはキリストをあらわすだけでなく、私たち救いにあずかった者の生き方、その人生の意味はここにあるのです。「神われらと共にいます」、どうぞ、このことをしっかりと味わい、また新しい年を迎えたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 

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