いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(455)「あなたの任地」

2015年01月29日 | 聖書からのメッセージ
 「創世記」12章1節から4節までを朗読。

1節「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい』」。

これはアブラム、後のアブラハムに神様が現れてくださって、神様が御業をなそうとされたときのことであります。なぜ、アブラムに声を掛けられたのか? 他の人でなくてどうして彼であったか、理由は分かりません。アブラムという人は、カルデヤのウルという町に生まれ育った人物であります。ところが、お父さんが一念発起といいますか、神様の導きであったと思いますが、ふる里を離れてカナンを目指して移住することにしました。その途中でハランという町にきました。そこにしばらく滞在しているうちにお父さんが亡くなってしまう。アブラムと親族はそのままハランに住んでいたのです。そのとき神様が声を掛けてくださったのです。何とおっしゃったかというと「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」ということです。これから国を出て、親族に別れ、また父の家を離れといわれます。「国」「親族」あるいは「父の家」とは、アブラムにとって非常に親しみのある、安心が得られる、そういう気心の知れた心安い地であり、人々です。

私どもも日本という国に住んでいると、あまり“国”のことは意識しませんが、一歩外国へ行きますといろいろなことで国を意識します。気が付かないうちに日本国であるとか、日本人だと意識する。その結果、見る物聞く物を比較するわけです。「こんなのは日本のほうがもっと良い」とか「これは日本のほうがおいしい」とか、食べ物や風物など「この国はどうしてこうなんだろう」と言って、だんだんと愛国者になってきます。自分の国が非常に懐かしいし、安心でもある。外国へ行きますと、いろいろな良い面が見えてくる。だから、自分の国で生活を営んで行くことは非常に安心であり、平安であります。そういう気持の上ではいちばん楽な場所でもあります。
また“親族”という人間関係、おじさんおばさん、いとこや甥や姪、もちろんいちばん身近な家族がいます。いろいろな面で、けんかもするけれども仲も良い。非常に深い関係がありますから、他人様とはちょっと付き合い方が違います。気安いといいますか、心おきなく甘えられるし、なんでも言える関係があります。
また「父の家」とは、もちろん、家族であります。親子兄弟はいちばん密接な生活の中心点、土台にあります。ですから、こういう「国」だとか「親族」、「父の家」とは、いうならば、人にとっていちばん過ごしやすい生活の場、あるいは生きて行くのに必要な全てのものが賄(まかな)われる場所でもあります。

ところが、神様はアブラムにそういう所を「出て」、「別れ」、「離れ」なさいと、そういうものから全部自分を切り離して、「わたしが示す地に行きなさい」と。神様が備えられる、神様が導かれる所に出て行けと言われます。神様に従うとはそういう慣れ親しんだ肉親、肉にあっての安心、そういう気持を持っているかぎり、神様に従う、あるいは神様に信頼することはできない。というのは、どちらかになるのです。神様に信頼するのか、あるいは、人や国や、あるいは親族や家族や自分の肉にあるつながり、そういうものを頼りにするのか、この二つの選択です。いずれを取るかということです。神様が私たちに求めておられるのは、徹底して神様だけに信頼する生き方です。私たちはともするとそういう肉にあるものを頼りとし、そういうものに安心を求め、そういうものに寄り掛って生きようとします。ところが、神様はそこから私たちを切り離して、「わたしが示す地」、神様が備えてくださる所へ行けと。それはどんな所であるか、私たちには分かりません。「ヘブル人への手紙」にはこのことを「行く先を知らないで」と(11:8)、記されています。
神様が示す地は、どこであるか分からないけれども、「ここへ行け」「あそこへ行け」と指示される。そのたびごとに前もっての情報はありません。「この町へ行くのはどうだろうか」と相談を掛けられて「これから他の所へやるけれども、どこがいいか。暖かい所がいいか」とか、そういうことを相談なさる御方ではありません。ある日突然のごとく「南へ行け」「北へ行け」と、神様が指示をなさる、命令なさるのです。その行き先にどういう生活が待ち受けているか、どういう人がいるか、そこで営まれる生活がどんな風になるのか、一切分からない。これは誠に不安と言えば不安であります。ということは、そういう情報によらないで、ただ神様だけを信頼し、信じて踏み出して行く、これが信仰です。何もかも条件が分かっていて、あそこへ行けばこれがある、こういうことが問題になるだろう、こういう困難もあるだろう。しかし、こういう良いことがある、こういう利点もあると、いろいろな条件を知った上で「よし、それじゃ、行ってみようか」と言うのであれば、そうであるかぎり神様を信頼しているのではなくて、むしろその情報を信頼している。聞くところ、見るところによって事を定めているにすぎない。神様が私たちに求めておられることは、ただ神様だけを信頼して行くことです。そのためには、私たちが「親族」「国」あるいは「父の家」という、自分のもっとも頼りとしているもの、心を引かれるもの、そういうものから自分を切り離して、そういうものを離れて、神様だけを信頼して踏み出すのです。

2節に「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基(もとい)となるであろう」と神様は言われます。神様に信頼して行くならば、その示された地で神様は必ず報いてくださるというのです。祝福と恵みをもって必ず守ってくださる。3節に「祝福する者を祝福し、のろう者をのろってくださる」とあります。いうならば、神様が私たちのなす手の業を栄えさせてくださる御方であることを信じて行く。神様のアブラムに対して約束されたのは、これだけのことです。そこで、アブラムはどうしたかというと、4節に「アブラムは主が言われたようにいで立った」と。彼はここから、神様が言われたように国を出て、親族に別れ、父の家を離れて、神様が導かれる所に従って出て行くのであります。

これはアブラムのことだけではありません。実は私たちにも常にそのことを神様は求めておられます。私たちは人生を生きて行く上で、いろいろな新しいことに出会います。次から次へと、自分の思わない、願わないような事態や事柄の中に引き込まれます。普段は、先を進んでいる(生きている)人たち、先輩の様子を見て、この年になったらこうなるに違いない、ああなるに違いないと予測します。生まれて子供の時を過ごし、やがて大人になって結婚したり、ここまで神様は導いてくださり、大体周囲を見ると似たり寄ったりといいますか、同世代の人間は同じような悩みや悲しみや苦しみや、うれしいこと、楽しいことももちろんですが、そういう中を通って来ます。ですから、自分もそうだと思う。殊に、身体的に力があるといいますか、若い頃は、少々の困難があっても「そんなもの、へっちゃらだ」と、気に掛けないでやって来ることができました。いうならば、自分の力を過信する時代があります。
しかし、年を取って来まして60,70,80となり、身体的に衰えて来ます。そうなると、できたら昨日も今日も明日も、今と同じ変わらない自分でありたいと、多くの人が願い求めます。だから、いま健康が与えられ、元気であって食べる物もおいしいし、自由に出掛けることもできるし、多くの人との交わりもあるし、「これでいい」、このまま明日も来年もその先も願わくばズーッと続いてほしい。やがて、いつであるか分からないけれども、アッと気が付いたときぽっくり天に行ったとなりたい。そう思います。
ところが、神様が私たちに期待しておられることはそういうことではない。確かに願いを言うならば、国を出ない、親族に別れない、あるいは父の家を離れないで、いつまでもそこにとどまっておきたい。自分が何十年と生活を営んできたその場所で、またそのままズーッと死ぬまでおりたい。あるいは、自分の生き方、生活のリズムだとか生活様式だとか、方法、これはもうできるだけ変えない。下手に変えたらパニックになるからできるだけ今のままでいい。年を取ってくるとそうなるのです。「着る物も昨日の今日、今日の明日、毎日同じでいい。風呂も1週間に1回でいい」と。「下手に入って風邪を引くといかん」と、だんだんとそのようになってしまいます。新しいものに対しての対応力といいますか、そういうものが乏しくなってくる。ところが、年を取るほど新しいことに対応せざるを得なくなるでしょう。体力的にもそうです。肉体的にもどんどん力を失います。よく申し上げますように、年を取るということは失うことです。それまで持っていたいろいろな物を全部取り除いて行く。年齢を重ねれば重ねるほど、失う物も多くなるのです。いうならば「国を出て、親族に別れ、父の家を離れる」とは、自分で願わずともそうなってしまうのです。そうやって自分の生活が変わるように神様は備えて下さるのです。

だから、今は自分で生活を営んでいますが、やがて独り暮らしもできないようになります。まずもって、夫婦で偕老(かいろう)同穴、墓場まで一緒に、なんて言うけれども、それはできません。必ずどちらかが先に何か事があります。そうすると、生き別れということもあるのです。ご主人なり奥さんが認知症になったり、あるいは介護が必要になったりする。
私の知っている方もそうやって長いこと別れ別れになっている。ある方は、同じ介護老人施設に入りましたが、奥さんは3階、ご主人は2階と、同じ建物でも階が別れている。というのは、奥さんが認知症だからその人たちのフロアー、ご主人は身体が不自由になっておられたから障害者のフロアーと別れてしまうのです。自分の意図しないままに父の家を離れるのです。家族がバラバラになる。私どもはいつまでも同じリズムで同じ状態で同じことを繰り返して行くことに安心を見出そうとしますが、それはできなくなってしまう。それは当然です。神様が私たちをして常に新しい所へ導き入れようとしてくださるからです。
私たちは常に新しく神様の備えられる「わたしが示す地に」出て行かなければならない。父の家や親族に別れて国を出て、親しいもの、慣れていた場所を離れて、そこから新しく踏み出して行く。これはなかなか勇気のいることであります。「わたしが示す地」とあるように、これは神様の道であること、神様が備えられたことであり、神様が後ろ盾となって祝福を与えようと備えておられることであると信じるかどうかです。これが私たちにとって大切なことであります。
私たちは年を取っていろいろな意味でこれまでできていたことができなくなる。いろいろな事柄が変わって行きます。生活が変わります。そうすると、つい嘆くのです。失望します。「あれもできなくなった」「これが駄目になった。どうしてこうなったのだろう」と落胆します。元のように、以前のようになりたいと願います。生活していると、自分が衰えて変化していくことに普段はあまり気がつきません。何かの事に当たって「自分はこんなに体力がなかったのか」とか、あるいは「自分はこういう年になったのか」と、身をもって知るのです。突然目がしょぼくれて先が見えない。「最近は曇り空が多いな」と思っていたら、何のことはない白内障だったと。気が付いて「大変だ」と思って病院に行ったら「白内障、手術をしたほうがいいですね」と、「自分がそんな年になったのか」と初めてそこで知るのです。
そのようにいろいろなことで歳とともに初めて出会うことが多くあります。だから“未知との遭遇”と、私はいつも言っているのです。未経験、未体験の世界へ私たちは踏み出して行く。これは年を取っている人ばかりではありません。若い人もそうです。親が年を取って来ます。それまでは親は元気ですから、力がありますから少々年を取っても自分たちでやってくれています。ところが、ある時から親が老化現象のために生活が困難になってくると、今度は若い者がそれを引き受けなければならない。そんなことは人生の予定の中にはない。あるとしても、漠然としていてもっと先のことだと思っている。ところが、ある日突然のごとく若い人は親たちの生活と深く関わらなければならなくなってきます。今まで経験しなかった事態や事柄の中に神様は導いておられる。それが「わたしが示す地に行け」ということです。
私たちは普段の生活で常に予測を立てて「こうなればこうなるに違いない」「ああなってほしい」「こうなってほしい」と先先を読み込もうとします。やがて年を取ったらこうなって、こういう風な自分でありたいと、そのような荒筋といいますか、シナリオを自分なりに考える。ところが、それはあくまでも人の考え、自分の考えです。神様は「わたしが示す地に行け」と。それがどこであるか分からない。しかし、必ず神様は「あなたを祝福する」と約束してくださっておられます。だから、私たちは「今のままがいちばん良い」と言うのではなくて、今度は次なる新しい地へ行くのです。
私どもは若くして五体満足、何もかも自分の思いどおり事が進んでいる時代がいちばん頂点、それからあとは全部下り坂と、このような捉(とら)え方をします。振り返ってみて、若い時どんどん上り坂を登って行く。ところが、大体30代40代ぐらいが頂点でしょうか、50超えて60の声を聞くと、かなり8割がた下りに掛ってくる。「私たちはもうだんだん消えて行くだけやから……、あるかないか分からん」と「明日があるかどうか分からん」と言いながら「いま死んじゃ、嫌だ」と思っている。しかし、人はどんどん下って行くのです。価値観の一つの枠組みで物事を捉えますが、聖書はそうは言わないのです。それぞれの世代を神様は新しいわざの中に生かしておられるのです。だから、神様は連続的に事を導かれるのではない。私どもは続いて頂点に行って、それから下がっておしまい、という流れを考えますが、神様はそうではなくて一回一回ステージが違うのです。ここまではそのように、次に神様は新しい立場に、新しい場所へと私たちを引き入れてくださる。

振り返っていただいたら分かると思いますが、結婚して子供が与えられて、そして子育てに大慌てして、ご主人は仕事で一生懸命にバリバリと働いてという時代がありました。時々家族そろって旅行などしたり、子供たちもどんどん成長して行くのがうれしくて、中学だ、高校だ、大学だと、大慌てでワサワサやっている。そういう時代も確かにある。やがて子供たちの学校が終わると、親たちも大体中老ぐらいまでになってくる。そうすると子供たちが結婚だ、何だと言いだして、お金は掛るし、いろいろなことで気が付いてみたら子供たちが全部出払ってしまって、食卓を見ると二人きりということになり、話すこともないからただひたすらテレビに向かい合って食事がおわる。なんだか寂しい感じがします。
しかし、違います。神様がその時、その時に生きる場所を与えてくださるのです。子育ての忙しい中にあるとき、今度は子供たちが巣立ってしまうとき、そして別のステージに、別の段階に、新しい場所に移されて行くのです。聖書はそういう人生の捉え方をしています。決して上がって下がってと連続的ではなくて、この生活はそこまで、次なる生活はここまで、そして今度は新しい所はここ。その所、所にあって神様は祝福し恵もうという。だから、アブラムに対して「わたしの示す地へ行け」と。それまで彼が生まれ育って来た親族や仲間たち、親しい者たちから離れて、本当は神様が示す地にもう一度仕切り直しをして行く。これが信仰に立って生きる私たちの在り方です。だから、やがて子供が巣立って行くでしょう。またその子供たちが家庭を持ってそこでいろいろな問題を持ちこんで来るでしょう。ところが、やがてそれも終わってしまって、今度はどちらかが先に召されてしまうかもしれない。あるいは、生活に困難を極めることになって、そういう施設に入ることになるかもしれない。それはそれで一つの変化なのです。新しい生き方です。

この度の家内の母が倒れて、今までと違った状況に陥ったときに、そのことを深く教えられました。家内はやはり肉親ですから大変心配いたします。これから先どうなるだろうか? 何とか元気付いてほしいという切なる思いがあります。元気になってほしい。でも見る状態はもう今までのような生活は不可能であります。それまでは少なくとも自分で何もかもができる。歩くことも、両足が若干(じゃっかん)不自由でしたから補助具を使いながら歩いていましたが、それもかなわなくなる。今まで3年半ぐらい生活していたケアハウス、そこから病院へ搬送されたのですが、そこが1ヶ月間戻って来なければ解約という約束です。1ヶ月たって戻るわけにはいかない状態です。そうすると、家内としてはやはり可哀想という思いもあるし、元気になってほしいとも思うし、前のように自分が好きなように生活をさせてやりたいという思いもあるし、いろいろと複雑です。片や現実を見ると、これは駄目かもしれない。じゃ、どうしたらいいのだろうか?何ができるのだろうか? 何とか元へ戻ることを模索するかぎり失望するしかないのです。
そういう様子を見ながら私自身も祈って教えられたことがこのことなのです。つい私どもは元気になって元に戻りたい。これは皆そうです。病気をしたときそうです。病気をしたら元気になるのだと努めます。ところが、神様は「わたしの示す地へ行け」と言われる。「新しいことをする」とおっしゃる。私たちの人生に今まで経験しなかった、思い描かなかった、しかし、神様はそこへ導こうとしてくださる。そのことを信じる。ですから、それまで自由に動くことができて、少なくともケアハウスでの生活が与えられたというのは、それはそれでひとつの大いなる感謝であります。喜びであります。しかし「それはもう終わったのだよ」と神様はおっしゃる。今度はまた新しい、お母さんに対しての生活を神様が「わたしが示す地」に行って始めなさいと。
神様が導かれることがあると信じる。それがどんな所であるか、まだ具体的なことは分からない。祈って主の導きを待ち望んでおりましたら、一つ一つ神様はちゃんとプログラムを与えてくださったのです。神様が祈りに答えて、義母も急性期を脱しましたから、救急救命で搬送されて3週間ぐらいが観察期間です。それもそろそろ終わるということで「じゃ、どうするか? 」と。そうしたとき、栄光病院のリハビリテーション科が「引き受けましょう」と言ってくれました。そこへ移る。そこは大体最大で150日間滞在することができるという話です。では、そのリハビリテーションでいろいろな生活機能を最低限できるようにトレーニングして、その後はどこへ戻るかと? その時に今までお世話になっていた所へは戻れないのです。新しい老健センターというやはり同じ栄光病院の関係ですけれども「グロリア」という施設がありまして、そちらのほうが「引き受けてあげましょう」と。だから、全く今までとは違いますが、一つの新しい生活のやり方、場所をきちっと神様のほうが備えてくださる。「わたしの示す地へ行け」と。私はこの流れをもう一度よくよく振り返ってみましたとき、「なるほど、神様はこういう道を歩ませようとしておられる」のだと。でも肉親として家内は「もう歩けなくなって……」と、あんなに喜んで外食するのが楽しみだったのにそれが出来なくなった。肉親の家内としてはもう一度好きだった物を食べさせてやりたいという気持ちになります。しかし、それは人の思いです。父の家を離れないといけない。神様が示してくださる所がある。そこに行けとおっしゃる。そこは「あれも食べられない。これもできなくなった」と、今までのようにないから気の毒だとか、不幸だということではない。また新しい場に、新しい所へ踏み出して行くとき、そこで神様は祝福を与えてくださる。今まで知らなかった、経験しなかった違う喜びと楽しみを神様は与えてくださる。だから、神様を信頼して踏み出す以外にないのであります。これは皆さんもそうです。私どもの生活には必ずそういう事態や事柄があります。

1節に「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。「わたしが示す地」、それはどんな所か私たちには分かりません。しかし、そこに「あなたの名を大きくし、あなたは祝福の基(もとい)とする」とおっしゃいます。

「イザヤ書」43章18節から21節までを朗読。

18節に「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない」とあります。まさにこれが「国を出て、親族に別れ、父の家を離れて」ということです。昔のこと、さきの事、自分が経験済みのこと、知っていること、慣れていること、安心だと思っていること、そういうものを一切考えないで、19節に「見よ、わたしは新しい事をなす」。神様はいつも新しいことをしてくださる。決して古いものの連続ではない。いったん切れるのであります、終わるのです。これをしっかりと理解しておかないといつまでも前に進まない。後ろのものをいつも握っていますから「いや、やっぱりこれがいい」と。こういう話を聞くと「そろそろ介護施設を利用しての生活に……、」と勧められ、「いや、私はいつまでも独りでおります」と言われますが、いうならば、「さきの事」や「いにしえのこと」、これを手放せない。それを握る。
ところが、神様は「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか」と。これは今朝皆さんに差し上げた「日々の聖言」のお言葉でもありますが、「新しい事をなす」「荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」。それこそ私たちの想像できない不思議なわざを神様はなさる。今朝その御言葉をお送りしましたら、ある方からすぐに返事が来まして「先生、私のことを知っていたのですか」と。「いや、知らない」「実は私はいま一つの問題があってそのことを祈っておりましたら、今朝の御言葉を聞いて、これで一つの心が決まりました。これは神様が私に与えてくださったことですから、信じて踏み出して行きます」と。その人のことを私は祈っておったのですけれども、ひとつの大きな人生の転換だったのです。そういうことがありまして、びっくりしましたが、私たちはいつもそうなのです。
つい普段の生活、今日の今日、今日の明日と同じ様に生きていますから、いつまでも同じ様に続いて行くと思いやすい。またそれを願いやすいのです。そうではなくて、神様のわざは一日、一日です。だから、その日一日で終わりです。私たちの人生はあるステップ、ある段階、そこに来たらそれで一つは終り、完結する。そして次にまた新しいスタート。私は家内の母を見ていてそう思う。ここでまた、新しい生き方、新しい生活、今までとは全く違うものになって行くに違いない。しかし、それこそが神様が備えてくださる「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る」と言われることです。

神様がいつ何時「わたしの示す地へ行け」とおっしゃるか分からない。そのとき「待ってください。もうちょっとあれを整理して、これを整理して……」「いや。あそこがいい」「ここがいい」としがみ付かないで、潔(いさぎよ)く、主が「こうせよ」とおっしゃったなら「はい」と従って行こうではありませんか。

 「創世記」12章1節に「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。だからいつまでも同じ様に続いてほしいと、願いはあるかもしれませんが、決してそうはならない。神様は「新しい事をなす」とおっしゃいますから、いつでも神様が「行け」とおっしゃったとき、「はい」と踏み出せるように、思いを整えて、神様に自らを委ねて行きたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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