いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(450)「十字架が語るもの」

2015年01月23日 | 聖書からのメッセージ
 「コリント人への第一の手紙」1章18節から25節までを朗読。

 18節「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。

 教会に来ますと、十字架があちらこちらに掲げられています。この教会でも玄関の入り口の塔の上には十字架が掲げられていますし、講壇の前にも十字架の印が貼(は)り付けられています。十字架というのはそもそも何だろうかと考えてみると、これは極悪罪人を処刑する刑罰の道具であります。

 ヨーロッパなど、中世時代とか、あるいは少し近代に近いあたりのお城だとか、領主の館などが見物の場所となっています。そのような歴史的建造物には必ず博物館があり、そこに刑罰で使った道具、拷問にかける道具などが展示しています。首輪であるとか、金具で出来た足かせであるとか、そういう物が陳列しています。そういう古い刑罰の道具を今は観光資源として使っているわけです。

 では、教会もそのたぐいで、十字架という刑罰の道具を誇りにして、眺めるためかというと、決してそういうことではありません。確かに、十字架は刑罰に使われる物でありますが、聖書に語られている、殊に新約聖書を通して語られている十字架、今お読みいたしました18節に「十字架の言(ことば)は」とあるように、刑罰の道具としての十字架ではなくて、特定の一つの事柄を指しています。これは主イエス・キリスト、イエス様が十字架にかけられなさった、その十字架のことであります。イエス様は2千年前にエルサレムの郊外ゴルゴダの丘で十字架にかけられて、そのご生涯を終わられました。では、「十字架の言(ことば)」とありますから、その十字架が何か語っているのでしょうか? 十字架に機械仕掛けの装置があり、声が聞こえてくるというわけではありません。その十字架を通して語られていることがある。十字架が語るわけではありませんが、見る者をある一つの思いに導いていきます。ハトを見ると平和の象徴と言ったり、オリーブの冠をいただくと、“勝利”を讃えることであるとか、象徴といいますか、目の前の具体的な具象、具体的な形や事柄を通して背後に隠れた意味合いを表す。これを象徴行為といいます。国旗などもそうですが、日の丸を見ると「日本」という国を語る。まさにそういう意味でイエス様の十字架が私たちに語ってくれるものがあるというのです。それは18節「滅び行く者には愚かであるが」、ところが「救にあずかるわたしたちには、神の力」、ここに「愚かなこと」と「神の力」という二つのことがあります。

イエス様の十字架はどういうことであったか振り返ってみたいと思います。そもそも聖書のいちばん最初に人が神によって創(つく)られたものであると語られています。人ばかりでなく森羅万象、ありとあらゆるものが全知全能なる神様によって創られ、そしてエデンの園に人が置かれたと。その時の人と神様との関係は何の隔てもなく、障害もなく、まさに神様と密接な交わりを持ち続けることができる。神様との親密な関係があったのです。そして、人はあくまでも被造物、造られたものとして、創り主なる神様の意思に従う、御心に従う。神様のご支配の中に自分を委ねて平安であった。アダムとエバといいますか、人間が裸で恥じない生活をしていたと語られています。ところが、人と神との関係が壊れてしまう。このことが「罪」と聖書には語られています。その罪はどうして起こってきたか? それは人が自分の力で、自分の知恵で、自分の業で生きる者となり、神様から離れた結果です。へびがエバを誘惑したという事件が語られていますが、これは一つの象徴的な話であって、いうならば、人が神になろう、神のように知恵に満ちた、力に満ちた者になろうとした。そのために神様のしてはならないという、禁止を破るのです。神様に盾突くといいますか、神様に反抗してしまった。これがまず大きな躓きの始まりです。
よく「原罪」と言われます。「原」というのは「始まりの」という意味ですが、罪の始まりがそこであるのです。その後、人は神様と相(あい)交わることができなくなる。エデンの園から人が追放されるという記事があります。それは、神様と人とが切り離されてしまう。神様の前に人が平安でおることができなくなる、交わりが絶たれてしまったことに他なりません。そのため、神様の恵みを受けることができなくなり、永遠の滅びに定められたのです。しかし、神様はそれで終わりにしなかった。永遠の滅びに定められた私たちをなお憐れんでくださったのです。
神様は私たちを愛してくださった。アダムとエバが罪を犯してエデンの園を追放される。確かに神様は義なる御方でいらっしゃいますから、そうせざるを得ないわけです。「まぁ、いいや。このぐらいのことならお目こぼしや、大目に見てやる」というわけにはいかない。神様は一分一厘揺るがすことのできない義なる、聖なる御方でいらっしゃる。むしろ、いい加減になさる神様であったら、真実な神様とはいえません。神様はご自分が義なる御方であることを全うしなければならない。それを貫いて行かなければならない。もし神様が義を貫かれたら、人は全て滅びであります。しかし、同時に神様は人を愛してくださった。なぜそんなにまで私たちを愛したか。それは私たち一人一人をご自分のかたちにかたどって尊い者として創ってくださった。ここです。
神様は、全ての被造物、ありとあらゆるものを創られましたが、その中でただ人だけを神様のかたちに似たものとして、創ってくださった。そして、命の息を神様は私たちの内に宿してくださった。そういう私たちを神様は捨てるに捨て難(がた)い。それはそうです。どんな出来の悪い子供であっても、我が子というのはやはり捨てられません。どんなことがあっても親はその子に大変心を使います。不肖な子であればある程、心を痛めます。しかも、それが自分の身を分けた分身のようなものでありますから。神様のかたちにかたどられた者は、神様にとって分身といいますか、もちろん神ではないわけで、被造物でしかありませんが、しかし、最も神に近いものとして創ってくださった。だから、詩篇8篇にダビデはそのように歌っております。「ただ少しく人を神よりも低く造って」とあります。だから、いくら進化論がどうのこうのといって、人の先祖は猿であるとかいいますが、どんなことを言ったところで、大きなことは神様に近いものとして、神様の大切な一部分として、私どもは造られた者であります。それだけに神様は義を貫いて永遠の滅びに定めることを忍びない、惜しいと思ってくださる。

そのことが「ヨナ書」を読みますと語られています。ヨナがニネベに行くことを嫌ってタルシシへ行こうと船に乗ったとき、神様は彼を海の真ん中に放り出して、大きな魚に飲み込まれ、その結果、ニネベの町に行かせました。ニネベの町の人々が神様に背いて滅びに向かっているというので、警告を与えるために、そういう預言者として彼は遣わされたのであります。彼は40日間にわたってそのニネベの町中に「もう、あなたがたは滅びる。神様から滅ぼされる」と警告を与えたのです。ところが、その人たちは警告を聞いて悔い改めるのです。王様から町の人に至るまで全員が荒布をまとって、神様の前に出まして「申し訳なかった」と悔い改めた。その時、神様は彼らのその悔い改めを受け入れてくださって、その滅びを取り消してくださった。
気に入らないのはヨナです。「せっかく自分が1ヶ月間言いまわって、お前たちは滅びる、と言ったのに、どうして神様は滅ぼさないのですか」とふて腐れて、ニネベの町の郊外に小さないおりを造って「わたしは知らん」と決め込む。ところが、暑い日差しが強くなった。「暑いな」と思っていると、神様は「とうごま」を備えてくださった。一晩にしてそれがズッと伸びてヨナの頭の上に日陰を作ってくれた。彼は「助かった。これで涼しくなったぞ」と大喜びをした。ところが、その次の日、小さな虫がやって来てとうごまの根っこをかみ切ってしまった。一瞬にしてそれが枯れたのです。そのとき彼は「惜しいことをした。せっかくこんなに涼しくなったのに、どうして枯れてしまったのだろうか」と言ったとき、神様は「あなたは自分で労せずして得たとうごまが枯れたことですらも惜しむではないか。どうしてわたしはニネベの人たち12万あまりのこの民を惜しまないでいられようか」と。神様はこの人たちを憐れんでくださったのです。

神様は私たちにそのような深い憐れみといいますか、ご愛を持ち続けてくださった。神様はエデンの園から罪を犯した人たちを追放なさいましたが、それで「清々した、あんな出来損ないはいらん」とおっしゃったのではないのです。むしろ私たちを神様は追い求め続けてくださる。絶えず、私たちに帰る道を整えて、呼びかけてくださった。その歴史のなかで神様はイスラエルの民を一つのモデルとして選んで、神様のご愛と恵みにあずかる道筋がどうあるべきかを、律法を与えて万物の創造者なる神様に仕える民の生き方を具体的に示してくださったのであります。そして、その延長、その最終結論として、神様はひとり子をこの世に遣わしてくださった。なぜならば、私たちの罪をあがなうには命をもってあがなう以外にないからです。
神様に対して罪犯した者は命をもってそれをあがなう。そのことをイスラエルの民に対して神様は具体的に全焼の罪祭という、様々な動物の命をその身代わりとしてささげることをお命じになりました。しかし、神様はその動物ではなくて、もう一つ完全なるあがないの犠牲を備えて下さった。私たちの罪を全く消し去るために、動物はいくら数多くささげたところで動物はあくまでも動物です。牛であろうと羊であろうと、山ばとであろうと、どんな物であってもそれで永遠のあがないにはなりません。ただその時その時、毎回、毎回それを繰り返しささげ続けなければならないのです。ところが、神様はそうではない、もっと完全なあがないとして、私たちの罪のいけにえを備えてくださった。それがご自分の御子、イエス・キリスト、神の子であります。
2千年ほど前にベツレヘムの馬小屋に人となってくださったイエス・キリスト。「彼は神の位にいたもうた神の御子であった」と「ピリピ人への手紙」に語られています。ところが、父なる神様の御心に従ってこの人の世に下ってくださった。神の位を離れて人となり、僕(しもべ)となり、人の世に生きてくださった。それは私たちと同じ悩みと苦しみを受ける者となってくださるためです。そして、ご自分の命をもって私たち信じる者の罪を清めてくださる。イエス様は母マリヤ、父ヨセフの許(もと)で地上の生涯を送られましたが、30歳を超えたときに神の子として、救い主としての公(おおやけ)の生涯に入られました。それから神の国のことについて、神様の愛について、恵みについて、神の福音を語り続けて、多くの人々に悔い改めて救いにあずかる道を示してくださった。ところが、そのイエス様は最後にユダヤ人たちに捕えられてゴルゴダの丘で十字架にかけられました。私たちの罪のためにあがないとしてイエス様は十字架に命を捨ててくださった。それを信じる私たちに神様は救いを与えて下さるのです。私たちの罪を清めて取り除いてくださったのです。これがいま私たちの受けている神様の恵みであり、十字架はまさにそのことを語っているのです。

「ヨハネの第一の手紙」4章7節から12節までを朗読。

9節「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」とあります。神様がこの世にひとり子、イエス・キリストを遣わしてくださる。それによって私たちを生きる者としてくださる。「いや、そんなことはない。私はそもそも生きています。年は取ったけれどもまだ元気です」と、思われるかもしれませんが、ここで言う「生きる」とは、まことの神様のいのちにつながることです。
私たちが生きるというのは、ただに肉体が健康であるとか、元気であるとか、何の病気もないから私は生きている、まだ死んでない、という意味での「生きる」ことではありますが、聖書が語っている「生きる」とは「命の息を吹きいれられて人は生きる者となった」とあるように(創世記2:7)、神様との交わりがなければ人は本当に生きることができない。神様から命を注いでいただく。これが私たちの力であります。イエス・キリストは私たちの内に命を投げ込んでくださる、生きる命を与えてくださるために世に来てくださったのであります。十字架の上にイエス様が死んでくださることによって今度はそのいのちが私たちに注がれるのであります。
人が神様に罪を犯したために神様からの命が途絶えてしまう、切れてしまう。そのために人は死んだものになったのです。「死んだもの」とは、私たちがこの地上にあって、ただに肉体的に生きるだけの生活になってしまう。そして神様を離れて、人が己を神とする者となる。これは神様から呪われた者の姿であります。死んだ状態とはどんな状態でしょうか。それは自分自身を振り返ってみてお分かりのように、そこには喜びがありません、満足がありません。また望みがない、常に不安と恐れが心を支配して、何か事があるとすぐに「どうしようか」、「ああしようか、こうしようか」と悩みます。また人の世の様々なうわさや言葉に心が揺れ動きます。「これはきっと私の喜びにつながるに違いない」と望みを持とうとしても、必ず失望に終わります。私たちが生きるいのちに欠けてしまうとき、喜びを失うのであります。生きていること自体に苦しみを感じる、力を失くしてしまう。これが死んだ者です。
ですから、「エペソ人への手紙」にあるように「あなたがたは先には罪過と罪とによって死んでおった者」とあります(2:1)。肉体は元気であっても魂が死んだものとなる。そのとき、喜びを失い、輝きを失うのです。だから、自分の中に本当に喜びがあるだろうか? 生きていることに感謝ができているだろうか? と問いかけてみてください。ともすると事情や境遇によって喜ぼうとします。思いどおり事が行く、願いがかなうと、それで喜ぼうとしますが、その喜びはあくまでもその事柄に付随した喜びであって、私たちのいのちとは関係がない。それが失われると失望落胆、望みを失います。いのちが私たちの内に宿ってくださると、たとえ周囲の状況がどうであれ、悩み悲しみ苦しみがどんなにあっても、心に絶えず平安があり、望みがあり、喜びが与えられます。これが人の生きる力であります。肉体的な命でもそうですが、だんだん年を取って命が少なくなってくると、最近のように朝冷え込んだら「ああ、寒いね」と、身動きならなくなります。そういう周囲の状況で常に振り回される。ところが、まだ生まれて何ヶ月もしない、幼い幼児や乳幼児の時は何があっても命にあふれていますから、そういう肉体的な命ですらも若い活力にあふれているとき、どうしなくても体が動きます、常に動いています。私たちの魂の命もそうです。どんな木枯らしが吹くときでも大嵐の中、大波の中にあっても絶えず変わることのない平安、望みをもち続ける、これがいのちです。

だから、イエス様が弟子たちと一緒にガリラヤ湖を渡るとき、突風が吹いて大嵐になった。ペテロや弟子たちは大慌てで「もう沈むかもしれない、死ぬかもしれない」と思いました。そのときイエス様は、「舳(とも)の方でまくらをして眠っておられた」とあります(マルコ4:38)。とうとうペテロが「先生、起きてください。もう死にそうです」と言ったときに「あなたがたは何をそんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」と言って、イエス様は風と波とを叱った。瞬時にして穏やかになった。イエス様は父なる神様に結び付いていますから、死んだとしても何ということはない。イエス様は完全な命の源である御方でいらっしゃいますから、そんな大嵐であろうと何であろうと、それに左右されないのです。常にそこで平安でおられるのです。そのいのちを私たちに与えてくださる。

これが9節に「わたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」。滅びの中に置かれた、罪のゆえに神様から切り離されて永遠の滅びに定められていた、死んだ者であった私たちにもう一度神の民として、神の家族として私たちを取り戻そうとしてくださった。神様はご愛のゆえに、イエス様をこの世に遣わしてくださった。主は十字架に釘づけられて、いばらの冠をかぶせられ、胸をやりで突かれてむごたらしい十字架の死をお受けになりました。それは私たちの罪がどんなに深いものであるか、抜き難いものであるかをあらわした光景であります。この十字架こそ実は私のものであり、私たち一人一人のいのちにつながる道なのです。
イエス様が死ぬことによって、イエス様が命を失うことによって、今度は信じる私たちにいのちが与えられる。逆説的です。イエス様が死ななければ私たちの内にいのちがないのであります。だから、イエス様はお亡くなりになる前に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」とおっしゃいました(ヨハネ 12:24)。イエス様が一粒の麦のごとく、十字架にご自身の命を捨ててくださった。それによって、信じる私たち全ての者に、今度は新しいいのちが注がれる。これが「十字架の言」です。だから、日々の生活の中でいろいろな悩みに遭い、困難に遭い、悲しいことやあるいはつらいことに出会うと、私たちは「何でやろうか」、「どうしてやろうか」と、そのことばかりに心を奪われますが、私たちが見るべきものはそういう事情や境遇、事柄ばかりではなくて、十字架の主です。イエス様に目を留める。私たちのために主がどんなことをしてくださったか。どんな大きな事を私のためにしてくださったか。いま私にとってこの十字架が何であるかをもう一度よくよくしっかりと見据えていただきたい。そうすると、今まで心が騒いでいた、大荒れに荒れていた事柄の中に光が差してきます。閉ざされて出口がないと思われた所に、むしろ、そこから新しい道が開かれて行くのです。私たちにとってこの十字架を抜きにしてはいのちがありません。ところが、私たちは案外とそれを忘れます。私たちはいま何によって生きているのか。イエス様の十字架を通して注がれて来るいのちによって生きているのであります。この十字架こそ私の罪のあがないとなってくださる、罪を赦す道であった。そしていま神様の前に義なる者としていただいているのです。

 「コリント人への第一の手紙」1章18節に戻ります。

 「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが」と。「滅び行く者」とは神様の救いを信じようとしない者、神様のご愛を信じようとしない者です。そのような人にとっては、十字架は「愚かである」、馬鹿げたことに思えると。確かに考えてみるとそうです。神のひとり子、救い主として世に来てくださった御方が、ローマ皇帝の支配下にある当時の権力者によって、この世の力によって捕えられて、十字架に何の抵抗もなく死んでしまうなんて、そんなものを信じて何の役に立つか。いうならば、十字架は負け犬ではないか。イエス様は何もできなかった、なさらなかった。その当時の多くの人々はそう思いました。
イエス様の十字架は何の力もない、無能無力のお手本のようなものです。だから、両脇に釘づけられた犯罪人の一人が「お前が救い主であるならば、自分を救ったらどうだ。そして俺たちを救ってみよ」と言いました。しかし、それに対してイエス様は何にも答えることがない。確かに十字架の記事を読みますと、そこにはこの世的な勝利、私たちを励ましてくれる、後ろから押してくれるような話はひと言もありません。全部負けです。捕えられ、あちらこちらに引き廻されて、何一つイエス様は答えることもなさらずに、唯々諾々と引っ張られて行き、ゴルゴダの丘で釘づけられて、しかも犯罪人の仲間にされてしまう。
周囲の人々は「もうそろそろイエス様が何かしやしないか」と見守っている。それこそ父なる神様に呼び求めて天から火の戦車ぐらい送ってもらえやしないかと、何か起こるに違いないと思って十字架を見続けたのです。ところが何にもなく、終わりました。ついにその取り下ろされた御遺体が墓に葬られました。多くの人々には、馬鹿げたこと、そんなものを信じて何になる、という事態であったと思います。それは私たちが自分の罪について無知だからであります。愚かであるからであります。だから「滅び行く者には愚かである」と。
いま本当に自分が生きているかと顧みると、ただ事情や境遇、事柄と、目に見える肉にあってのこの世の生を生きるだけです。そこには平安がない、喜ぶことができない、感謝ができない、満足がない、望みがない。無い無いづくしの中で生きているのです。そうではなく、わたしたちを造られた神様はもっと違った生きる道を私たちに備えてくださったはずであります。神様のいのちの道へ私たちを引き返してくださった。イエス様ご自身が私たちのいのちとなるために、この世に来てくださった。それは私たちが自らの罪を認めてイエス様を私の救い主と信じること、私が十字架に死んだ者であって、いま生きているのは私ではない。
パウロは自分が義なる人間、正しい人間、自分ほどの立派な人間はいないと自負していた人物であります。ところが、彼はよみがえったイエス様に出会ったとき、木っ端みじんに自分の偽善といいますか、人前に繕(つくろ)った自分が砕かれて死んだのです。条件をあげつらえば家柄もいい、学識もあり、宗教的に熱心だし、いろいろな面で誇りとするものはいくらでもある彼です。ところが、彼のいちばん心の奥底には、赦し難い罪があった。それは神様に対して自分を義なる者としていたことであったのです。よみがえってくださったイエス様に出会って、その光に照らされたとき、それまで立派な人間だと誇っていたのだが、実はそうではなくて、自分こそが罪人の頭であると悟りました。それまで熱心にクリスチャンを迫害していた自分は「神のために」と言いながら、自分を誇りたいためのことでしかなかった。ですから彼はそこではっきりと悔い改めてイエス様の十字架こそが私のものだと信じるのです。
「ガラテヤ人への手紙」に彼は「わたしはキリストと共に十字架につけられた」とはっきりと告白しています(2:19)。十字架はただイエス様が死んでくださった、私のために死んでくださったというばかりでなく、もう一歩踏み込んで、私もまたイエス様と共に死んだ者ですと、自分を十字架に結びついて行くことです。そうしますと、私たちがどんな事情や境遇、事柄の中に置かれていても絶えず主を見上げて行く。「そうでした、私も、神様、罪なる者が赦されてイエス・キリスト共に死んだ者であった。そして今なお生きているのは私のために死んでよみがえったこの主を信じる信仰によって生きているのです」。彼はそう言いました。

 どうぞ、私たちもこの十字架を見上げるときに、まず自分もキリストと共に死んだ者、いま生きているのはキリストが、よみがえった主が私と共にあって生かしてくださると確信する。ですから、十字架は私たちが死んだ場所であると同時に、その十字架の死を通して、墓からよみがえった主を信じる。それは新しいいのちとなって私たちを生かすためであります。その原点がまさに十字架です。だから、18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが」と言われます。それを信じようとしない者は滅びの道を選び取っているにすぎません。ところが「救にあずかるわたしたちには、神の力」、まさにイエス・キリストを信じて、キリスト共に死んだ者となっていくとき、よみがえってくださったイエス様が私の内に力、神の力が注がれます。もはや私が生きているのではなくて、神様が私を生かしてくださる。

 パウロは、その後、イエス・キリストを証詞する伝道者としてその生涯を全うして行きました。彼は身体的にも弱さを持っていました。しかし、彼を生涯突き動かしたといいますか、押し出してきた力は何であったかというと、それは十字架を通して注がれた神様のご愛に励まされて押し流されて来たのです。私たちもいま生きている動機は何か? 私を生かしているものは何か? それは十字架を通して注がれた私に対する神様の大きなご愛なのです。神様がこんな者を愛してご自分のひとり子をも惜しまないで十字架の死に渡し、そして今はキリストのものとして、神のものとして私どもを握ってくださる。私たちをそれぞれ置かれた所に生きる者としてくださっている。

 どうぞ、私たちがこの神の力によって日々生きている者であることを確信して行きたいと思います。どんなことがあっても十字架から注がれてくる神様のご愛、神様の力を絶えず受け続けて行きたいと思います。そうでなければ私たちには力がないのであります。事が起こりますとすぐに右往左往し、揺れ動きます。しかし、十字架を見上げて、ただ一点を絶えず見つめて、その十字架の主と一つとなって何があっても、私は死んだ者、死んだ私を生かして今日も神様の力が注がれていることを認めて行こうではありませんか。その力に私たちはすがって、そして一つ一つ与えられることを感謝して受け、神様の御業を日々体験したいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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