いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(360)「愛による希望」

2014年10月23日 | 聖書からのメッセージ
 「哀歌」3章21節から33節までを朗読。

 22,23節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。

 この御言葉はよく耳にする言葉です。また、励まし、力を与えられるお言葉の一つであります。3章1節からを読みますと、大変苦しい悩みに出会った人のことが語られています。1節に「わたしは彼の怒りのむちによって、悩みにあった人である」と告白されています。神様のむちといいますか、怒りによって、悩みを与えられた、と語っています。それから、2節以下には大変苦しいつらい出来事、そういう悩みの中に置かれたことが切々と語られています。とうとう彼は全く望みを失う境遇に置かれます。19節に「どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。20 わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」とあります。「魂がうちにうなだれる」、風船がシュンとしぼんだように心がなえてしまう。魂に力を失ってしまう。この哀歌を歌った人は預言者エレミヤだと言われていますが、彼ばかりではなく、私たちもそのような中に置かれます。まさに、うなだれて望みを絶たれるような事態や事柄が多々あります。

ところが、この哀歌を歌った人は21節に「しかし」と歌っています。「しかし、わたしはこの事を心に思い起す」と。私はそのような望みのない中、魂がしおれて、うなだれてしまう、その中にあって、望みがないと思えた中で、「しかし、わたしはこの事を心に思い起す」と。この一つのことに心を向けると、「それゆえ、わたしは望みをいだく」ことができる。しかも、そこに心を向けると、望みがわいてくる、というのです。そのように力の源になるものがあれば、どんなに幸いか分かりません。私どもが暗い、望みなき中、失望落胆しているときに、「これがあるから大丈夫」「このことに心を向けさえすれば力が与えられる」というより所というものがあることは、本当に幸いだと思います。この記者は「この事」と言っています。この事が望みにつながってくる。それは何であったかというと、22節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。神様のいつくしみ、慈愛、あわれみ、神様が私たちに注いでくださる御思いは尽きることがない。これはどんなことがあっても変わらない、また消え去ることがない、ということです。そこに思いを向ける。ここに私たちの心がとどまりますならば、「望みがある」と言えるのです。ところが、私どもは、事情、境遇、事柄によって望みを得たい、「何とかこれがああなってほしい」とか、「こうなってほしい」と、自分の期待している事柄、自分が願っている方向に物事が進んでくれることが望みだ、と思います。ですから、現実がそのようにならない、願ったのとは到底似ても似つかない裏腹な現実に出会うと、失望します。「どうして、こうなった」、「何でだろうか」と言って、悶々(もんもん)として、いよいよ闇に沈んでいく。希望を失ってしまう。そして、自分をあわれんで自己憐憫(れんびん)、「自分は世の中でいちばん不幸な人だ」と思うのです。

90歳前後の兄弟が骨粗しょう症であちらこちら骨折の痛みを覚えて、奥様は認知症のために入院して、ご本人もケアーハウスといいますか、そういう介護施設に入っておられました。望みがない、というのです。よく電話を掛けてこられました。そのときにその方が言われる。若いときに信仰に導かれた方、そのころは大変熱心な信仰を持っておられました。年を召されるにつれて教会に出てくるのが困難になってきました。そのため私の所へ電話を掛けてこられる。また私も兄弟の所を訪問しておりました。その方は大変落ち込んで失望落胆すると、いつも電話をして来る。「先生、私ほど不幸な人間は世界にはいないでしょう」と言われる。私は「いや、そんなことはありません。あなたのような方は沢山いますよ」と言うと、その方は不満そうに「そうでしょうか!」「いや、もっとあなたよりも不幸な方は世界にはたくさんおられますよ。だから、あなたもまだまだ軽い方ですよ」と言っても、納得しません。1日に2度も3度も電話を掛けてくるたびに、同じことを言われる。私は「ああ、そうだ。この人はそう言ってほしいんだ」と悟り、「ええ、そうですよ。あなたほどの人は、まず、いませんね」と言ったのです。すると「ああ、そうでしょうね。やっぱり」と言って受話器を置かれた。なるほど、人は自分の思うような答えを願うものだ、と思いました。自分はいちばん不幸だ、と嘆(なげ)いてみても、そこからなにも善きものが出てこないのです。いくら自分をあわれんで、自分は世界で最大の不幸者だ、といくら認めてみても、あるいは人から太鼓判を押されて「あんたは、いちばん不幸者よ」と言われてみても、では、それで希望がわいてくるかというと、それはありません。「ああ、やっぱりそうだったのか。じゃ、安心」とそれで納得するならば、それはそもそもがあまり不幸な人ではなかったのです。

3章の1節から語られているように、次から次へと大変な苦しい悩みに遭って、「魂はわがうちにうなだれる」と、失望落胆した中から、ただ一つのことを、「わたしはこの事を心に思い起す」と。それは「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。言い換えると、「神は愛である」ということに目を留めるのです。ところが、私どもは「神様が愛であって、いつくしみとあわれみが絶えることなく尽きることがないのなら、どうしてこうなるのだ」と言いたくなる。「神様がそんなに私たちを愛してくださるのだったら、どうしてこんな目に遭うのだろうか、どうしてこんなことになるのだろうか」と言って、自分の置かれた境遇、事柄を悔やみ、嘆きます。しかし、神様の御愛は事情や境遇、目に見える事柄を通してあらわされているのではありません。

「ヨハネの第一の手紙」4章7節から10節までを朗読。
10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」とあります。「ここに愛がある」、どこに? 神様がご自分の愛するひとり子を私たちの罪のあがないの犠牲として、いけにえとしてこの世に遣わし、十字架に釘付け、胸をやりで突き、いばらの冠をかぶせて罪人として断罪してくださった。これが神様の愛だというのです。だから「ここに愛がある」という。このことを抜きにして神様の御愛を知ることはできません。私たちは、神様が愛してくださるというと、私の願い事を聞いてくれ、思い通りの事をしてくれて、頭をなでておんぶに抱っこ、優しくしてくれるのが愛だと期待しますが、そうではない、というのです。だから、神様が私たちを愛してくださったその御愛はどこにあるのか、それは私が死ぬべきところ、滅ぼされるべき私の代わりにご自分のひとり子を身代わりとして一切の罪を負わせ、十字架によって完全な赦しを与えて下さった。これが愛なのです。だから、事情や境遇、目の前にこんな問題がある、こういう悩みがあり、次から次へと自分の思わない願わないことが起こってくる。「どうしてこれで、神様が愛なのだ」と言う。それは筋違いであります。そもそもそれは別の問題であります。いや、それよりもっと奥に十字架によって表された神様のご愛を信じること、これが大切な命なのです。10節に「神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」。御子をおつかわしくださった、その御子は私たちの罪のあがない、供え物です。本来だったら私たちが、神様の前に自分をささげるべきいけにえを、イエス様がご自分の御体をささげてくださったのです。だから、いま私たちはキリストと共に既に死んだ者であり、神様の御愛のゆえに生かされている者であります。神の愛と十字架とは一つなのです。だから、神様が私を愛してくださっているとは、言い換えますと、神様が私の罪を十字架に消し去ってくださった、と告白することと同じであります。だから「神は愛なる御方で、私は神様によって愛されています」と言うとき、明らかに「私は十字架にキリストと共に死んだ者であって、今は罪を赦された者として神様が生かしてくださっておられる」ことを認めることです。そうしますならば、いま私たちがどんな問題の中に置かれ、悩みの中に置かれていても、困難の中に置かれていようとも、神様は私のような者のためにひとり子の命を代価として十字架によって私をあがなってくださった。神様はご自分のものとして私たちを握ってくださっている。ここに愛がある。そのことをしっかり心にとどめていくとき、私たちは失望が希望に変わってきます。

「ローマ人への手紙」5章3節から5節までを朗読。

3節に「患難をも喜んでいる」と、なぜ患難を喜ぶことができるか、それは「患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っている」とあるように、患難から希望がわいてくるからだ、というのです。「希望は失望に終ることはない」と5節にあります。この世の希望といいますか、望みは、すぐに失望に変わります。「こうなったらいいな」とか、「ああなってほしい」「きっと、こうなるに違いない」と、私たちは日々の生活の中であれこれと希望を持ちます。望みを持ちます。そうしないと私たちは生きておれません。はかない小さなことにも私たちは望みを持ち続けます。

特攻隊の青年が生きて帰ることができない、と分かっていながら飛行機に乗って飛び立っていく。そのときの心理を解説した本を読んだことがあります。自分は死ぬしかない、と分かっている。それなのに、なお飛び立って行けるのは、何か? なぜそんなことができるか。人というのは、必ず99パーセント駄目であっても、最後の1パーセントにひょっとしたら何かの都合で生きて帰られるかもしれない、という思いを持っているというのです。これが完全に100パーセント絶望に瀕(ひん)してしまったら、もう立ち上がること、動くことすらできなくなってしまう。しかし、彼らが最後に「私は死にます」とは言いつつも、心のどこか奥底のところで希望を持つ。「ひょっとしたら、何か故障でもあって不時着するかもしれない」あるいは「何か事があって、私はたとえ突っ込んで行っても、ひょっとしたら私だけが生き残るかもしれない」。皆そういう何か希望を持つ。しかし、その希望は打ち砕かれてしまう。これが現実です。

ところが、5節に「希望は失望に終ることはない」とあります。決して失望することがない希望。それは「なぜなら」と、「わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。神様の霊によって、神の御霊が私たちの心に、神様がどんなに私たちを愛してくださったかを、十字架の御苦しみを通して、あの十字架のイエス様を通して、私たちの証詞された神様の御愛が絶えず、新鮮にわき上がってくる。これは御霊によらなければ分かりません。聖霊が私たちの心にキリストの御愛を注いでくださるのです。だから、私たちが心低くして十字架を見上げるとき、御霊はどんなに神様が私たちを愛してくださっているか、十字架の御愛がどんなに大きく深く、また命に満ちているものであるかを味あわせてくださる。それは私たちが一生懸命に黙想したり、何か努力して知り得ることではなくて、神の御霊が私たちの心にそのことを教えてくださるのです。そうすると、神様の御愛に心が満たされ、希望といいますか、力といいますか、望みがわいてくるのです。

 私もこうしていま牧会伝道の御用にあずからせていただいていますが、私はそもそも牧師などになる気は毛頭なかった者であります。これは皆さんに繰り返し申し上げているとおりであります。しかし、神様が臨んでくださったとき、心をひっくり返されるのです。並みのクリスチャンであればいい、と自分なりに思っていました。ところが神様は、私の心に臨んで霊を注いでくださった。そして、神様は御愛を教えてくださった。それまで神様の御愛を知らないわけではない。理屈としては知っていました。説明もできます。しかし、身をもってその御愛に触れる体験をしていなかったと、そのときの経験を通して教えられました。神様は私に臨んで心を動かし、思いをひっくり返された。初めのうちはいったい何事が起こったのだろうか、自分にはこんな思いはあるはずがない、私の思いとは違う。そういう戦いがありました。しかし、だんだんに神様が心を解きほぐしてくださった。そして、どんなに私を愛してくださったか、私は神様の御愛にどのように応えてきただろうか。そのことを問われたのです。神様は「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)と、ひとり子を賜うほどに、この世……、いうならば、私を愛してくださった、とおっしゃる。それはあの十字架によって、わがままな自己中心な私の汚れ、罪を赦してくださった。そればかりか、それまで生きてきたいろいろな事柄の一つ一つに、神様はあわれんで、祈りに答え、願いに答えてくださった。神様の恵みによってそこまで導かれていながら、私は神様の御心にどのように応えただろうか、どういう応答をしてきただろうか。そのことを深く探られた。そのとき神様は大きな御愛をこのような者のために注いでくださったのだと悟ることができました。私には、神様からそのようなひとり子を私の身代わりとして十字架にまで捨てていただけるほどの値打もない。それどころか捨てられて当然、滅ぼされて当然であった者が、今日も憐れみを受けている。その神様の御愛の大きさに圧倒されたのです。そうなると、自分のこれからの人生がどうありたい、こうありたいとか、そんなことは吹っ飛んでしまう。ただひたすら、神様の御心に従う者となりたい。神様がここまで私を生かしてくださったご目的は何だったのだろうか。神様が私に願っていることはいったい何だろうか。そのことを切に求めたい、そういう願いがわいてきました。そのためには何を犠牲(ぎせい)にしてもいとわない、どんなものを捨てても惜(お)しいとも何とも思わないのです。

パウロもまた、そうでありました。ダマスコに行く途中でよみがえってくださったイエス様に出会ったとき、彼はたたきのめされて自分を失いました。そして、そこから新しい人生に180度方向転換したのです。それまでクリスチャンを迫害していた、イエス様に敵対していた彼は、今度はイエス様を宣(の)べ伝える者に変わったのです。そのとき彼には誇るところがたくさんありました。肉の誇るべきことはいくらでもある、と語っているように、彼は実に有能な人物であり、また経済的にも、いろいろな面でも恵まれた境遇に置かれていた。だから、そういう生活を送ろうと思えば、彼は当時の社会の立派なリーダーになっていたに違いない。しかし、彼はキリストのゆえにすべてのものを損と思うようになった。(ピリピ 3:8)彼は一切を捨ててキリストに仕える、主のものとなった、これがパウロの生涯です。それから後、彼の人生は誠に波乱万丈です。悩みと苦しみと様々な問題の中を通って行きますが、しかし、それはただ神様の恵みであったと語っています。

 「コリント人への第一の手紙」15章8節から10節までを朗読。

 彼は自分が使徒と呼ばれる値打も価値もない者だ。そればかりか、実際には教会を迫害したような者、キリストに従うクリスチャンを迫害し、投獄し、罪に定めた張本人(ちょうほんにん)でありました。だから、神様からするならば、一番の罪人、彼は後々も「罪人のかしらなのである」(Ⅰテモテ 1:15)、首領といいますか、第一人者だ、と語っています。自分が実際神様に敵対し、背(そむ)いてきた。しかし、その彼にご自身をあらわしてくださいました。8節に「月足らずに生れたようなわたし」とあります。いうならば、早産の子供のように、生きる力すらもない彼に、神様はよみがえったイエス様を啓示してくださった。パウロは初めてイエス様に出会ったのです。そして、その神様の恵みによって、10節に「わたしは今日あるを得ているのである」。いま、今日生きているのはただ神様の恵みによるのだ。ここまでいろいろな働きをしてきたが、その後に「わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく」と、「わたしと共にあった神の恵みである」。彼は使徒と呼ばれる仲間たちのどんな人よりも多くの働きをしてきた。だからといって、彼はそれを誇るわけではない。それどころか、そこまでできたとすれば、それは神様の恵みによるのだと語っているのです。彼は神様の愛に根ざして、愛にうながされ、励まされ、押し出されて歩み続けた生涯でありました。

私どももそうであります。私たちのいちばん目を留めておくべき事柄がここにあるのです。神様がどんなに大きな御愛をもって私を愛してくださっていらっしゃるか。主の十字架を通して私のような者にもこうしていのちを注いでくださり、今日も生きる者としてくださった。ここに絶えず目を留め、思いを向けていきたい。

 「哀歌」3章22節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。神様の慈愛、神様のあわれみは絶えず私たちに注がれている。そして「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。「これは朝ごとに新しく」と、神様の御愛は、何年か前の古いものではない。絶えず新鮮に朝ごとに新しく、新しく、今日も神様は私を愛し、私のために十字架のあがないにより、その執りなし、いさおしによって、生きる者としてくださる。だから、私たちはいつも朝起きるなり、今日も神様の十字架のいさおしによって、神様の憐れみにあずかり、いつくしみによって生かされている者であること感謝していきたい。そのことを新鮮な、フレッシュな思いをもって、それに満たされたいと思うのです。それは御霊によらなければ得ることができません。そのために、まずへりくだって神様の前に出て、「主よ、今日もあなたの霊に満たし、あなたの御愛を注いでください」と祈り求めましょう。神様の尽きることのないいつくしみ、あわれみを受ける者とされていきたいと思うのです。そうするとき、私たちがどんな境遇に置かれていようと、悩みの中にあろうと、必ずそこに望みを与えられます。今はこうあるけれども、大丈夫、このことも神様はご存じだから、神様は力ある御手をもって一つ一つ導いてくださる。私には分からないけれども、神様、あなたは愛をもってこんな者を愛し、罪を赦し、ご自分のものとしてくださっているから、大丈夫ですと、神様の御愛に目を留めるのです。人ではない、境遇ではない、事柄ではなくて、神様の御愛に絶えず目を留めていきたい。そうするときに希望がわいてくる、望みが与えられる。

「哀歌」3章30節から33節までを朗読。

悲しみも苦しみも、実は神様の手の中にある、ということです。神様のひとり子を賜うほどの大きな御愛に目を留めますならば、同時にいま置かれている、与えられている問題や事柄すらも「これもまた、神様が備えられたことです」と言えるのです。愛を通して与えられた問題、いま私が受けている悩みを、その愛を通して受け止めていく。そのとき望みがわいてくる。そればかりかその悩みすらも喜んで担(にな)うことができる。その中で耐える力を神様は与えてくださるからです。だから、何か事があるとき、思いがけないこと、苦しいつらいことがあるときに、そこで十字架の主を仰いで、神様の限りない大きな御愛に思いを向け、その御愛の中にすっぽりと自分を委(ゆだ)ねていきますならば、その問題もまた、神様の手の中にあることを深く知ることができます。事柄も神様が握っていることを知ります。そうすると、今まで失望していた思いが、喜びに変わって、望みがわいてくるのです。

いろいろなことを通して私はそのことをこれまでも味わいました。今でもいろいろな問題がありますが、問題を見ていると、「どうしてこんなになったのだろうか」「何でだろうか」「これは、もう駄目だろう」とか「こうなったら、こうしかなりようがない」と、問題の中に頭を突っ込んでしまって、望みを失います。しかし、主は「汝ら静まりて我のたるを知れ」(詩篇46篇10節文語訳)とおっしゃる。神様の前に近づいて、静まって、祈って、神様を見上げて、十字架の主を見るのです。「神様は大きな御愛をもってこんな者を愛してくださっている。その神様がいまこの事柄を起こし、この問題の中を通してくださるのだったら、神様、あなたのなさるわざに、御心のままに」と、自分を委(ゆだ)ねる。そこまで主に近づいて行く。これが主の御愛に根ざしていくことにほかなりません。そうしますと、私たちの心に安心が与えられ、また望みがわいてきます。具体的な事柄がどのように展開していくか、この先どうなって行くか分からなくても、神様の御愛にしっかりと結びついていくとき、決して失望することがないからです。

32節「彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる」。ここに「彼は」と、彼とは、神様のことです。主は私たちに悩みをも与えられるけれども、いつくしみ、慈愛が豊かな御方ですから、必ずあわれんでくださる御方だ。そればかりか33節に「彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである」。神様は決して私たちを耐えられないような試練に遭わせることがない。逃れるべき道を備え、負えない苦しみを与え給う御方ではありません。どんな中でも絶えず十字架の主を仰いで、神様の大きな尽きることのない、変わらない御愛をしっかりと手触るように、その御愛に自分を結び付けて、神様の御愛の御手に導かれていきたい。これから先がどうなるか、これは分かりませんが、しかし、神様は決してへまなことをなさる御方ではない。間違ったことをなさる御方では決してありません。いや、それどころか、失敗と思えたこと、行き詰まりと思えたこと、これは駄目だと思えた事柄を通して、驚くべきことを神様はしてくださいます。

このたび、一人の姉妹が献身に導かれました。隈上望都(くまがみ もと)姉です。機会を改めてお証詞をしてもらうときがあると思いますが、望都姉のこれまでの生活をそばで見てきましたが、神様という御方は人の想像を超え、期待を超え、思いを超える御方です。「もう、これは駄目だ」、「もう、これでおしまいかな」と、そこに追い込んでどんでん返しをなさるのです。思いがけない事態、事柄を神様は起こしてくださったなと。そして、新しい生涯へ望都姉の思いを切り替えてくださる。こんなことになるとは夢にも思わない。そのような“神業”を神様はなしてくださるのです。そのことを思うときに、私たちは何も失望することはありません。

ひとり子を賜うほどの大きな御愛を注いで、私たちを今日もかえりみてくださっていらっしゃる。今どのような事柄の中に置かれ、事情境遇にあろうとも、私たちが目を留めるべきは十字架の主です。主がどんなに私を愛してくださったか、その御愛にしっかりと結びついて、23節にあるように「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。主の御愛は朝ごとに新しく、私たちも古い自分ではなくて、新しい朝、毎朝、主の御愛に満たされ主を見上げて、希望と望みと力を頂きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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