いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(316)「神の民の選択」

2014年09月09日 | 聖書からのメッセージ
 「申命記」30章15節から20節までを朗読。

 15節「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた」。

 イスラエルの民はエジプトの奴隷の生涯から救い出されて、神様の約束の地、カナンを目指して荒野を旅してきました。40年近くの長きにわたって苦難に満ちた旅路ではありましたが、神様はイスラエルの民と共にいまして、いろいろな事の中で助け守ってくださいました。そして、いよいよカナンの地が目前、ヨルダン川を渡ればカナンの地だ、という所までやってきました。このとき、神様はモーセに「もうお前はそれでよろしい。わたしのところへ帰ってきなさい」とおっしゃって、モーセを天に召されます。モーセは残念ながら約束の地カナンを自分の目で見ることはできませんでした。人間的に考えますと、誠に悔しかっただろうと思います。カナンの地を目指して40年間、かん難辛苦を耐え忍んで、彼は民を引っ張ってきた。いうならば、大事業の完成を間近にして「お前はよろしい」と外されるわけですから。最後まで見届けをしたい、と思ったに違いありませんが、これは神様の決定なさることであります。 

私たちも自分の思い、考え、自分の計画だと「これをこうして、ここまで来たら、ここでひとつ心を定めて身を引きましょう」とか、「この辺になったら私もこの世の命は終わるかなぁ。そのくらいまでは何とか頑張って……」と思っているでしょう。しかし、神様はどうなさるか分からない。モーセは立派だったと思います。神様のその命令に一言半句逆らわず従ったのです。しかも、「申命記」の終わりに書いてありますが、「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった」(34:7)と。元気はつらつだった、というのです。老いさらばえて、もうろくして役に立たなくなったから、神様は召されたわけではない。だからこそ、モーセが生涯を終わるときは、一重に神様が定められた、としか言い様がないのです。だんだんと衰えて、青息吐息いつ死ぬかと民が見守る中で終わったのだったら、「これは寿命か」と思うでしょう。でもそうではなくて、気力も体力も充実しているときに天に召されてしまうことは、神様がそうなさったとしか言えない。神様はいつもそのように、実にこと鮮やかなわざをなされます。モーセが率いてきた大事業がいよいよ完成間近になって、あと一歩というところで、神様はモーセに「わたしの所に帰ってきなさい」とお命じになると同時に、「申命記」の最初にありますように、神様はモーセに対して、これからの生き方、新しいカナンの地に入って行って、そこでどういう生活をすべきであるか、事細かく語ったのです。「申」という言葉は「申し述べる」という意味でしょう。そして「命」とは、神様の命令、神様の命(いのち)を申し伝える記事です。ですから、「申命記」を最初からお読みいただくと分かりますが、イスラエルの歴史、またそれまで神様がどんなにご愛と恵みを彼らに注いでくださったか、そういう事を細かく覚えると同時に、これから入って行くカナンの地ではいろいろな誘惑や戦いがある。その中で何をどう守るべきか、懇々(こんこん)と繰り返し、言葉を変えて語り述べています。

 その中で、15節「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災(わざわい)をあなたの前に置いた」と。ここで神様が「命とさいわい」「死と災(わざわい)」、これを「あなたの前に置いた」から、どちらを選ぶか、ということです。19節中ほどに「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた」とも言い換えられています。これは同じことでありまして、「命と死」「さいわいと災(わざわい)」と15節にありますが、19節には「死とのろい」という言葉に変わっています。「災(わざわい)であり、のろい」、これを「あなたの前に置いた」。19節の後半に「あなたは命を選ばなければならない」と勧められています。

いま私たちに対しても同じことが語られているのです。神様はイスラエルの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入って行きます。そこには既に36近くの豪族たちが国を造って城を構えていますから、その土地を戦い取っていかねばなりません。これは大変な困難を伴います。そこには様々な誘惑があり、彼らの心をくじくような、あるいは神様から彼らの目をそむけ、心を奪い取る様な事態もあるに違いない。

カナンの地とは、まさに私たちの今の信仰生活そのものです。私たちはいまイエス様の救いにあずかって、この地上に生かされていますが、この世というのは、神様を知らない、神様を信じようとしない世界であります。その中にあって私たちが神様を信じて、イエス様の救いにあずかった喜びと感謝をもって生きようとするとき、いろんな戦いがあります。まず、こうやって「日曜日の礼拝を守ろう」と思うだけでも戦いです。また日々の生活の中で右にするか、左にするか、進むか退くか、立ち止まって何をするか、いろいろと選択と決断が迫られる。そのたびごとにどうしても戦わなければならない。私たちは神様を信じて行きますから、神様と私たちの関係で決めようとする事柄と、世間一般、世の中の人が「よし」とする、こうあるべきだ、という生き方とは必ずしも一致しない。むしろ、この世の生き方は、ある意味では偶像崇拝といいますか、真(まこと)の神様でないほかのものを神とする。健康であったりお金であったり、あるいは身分や家柄だったり、学歴であったり、そういうものを自分のより所として生きて行きます。ところが、その中にあって、私たちは神様に信頼し、神様の御心、御思いに沿って生きようとするとき、おのずから戦いが生じるのはやむを得ないといいますか、当然であります。だから、戦いがない、という方は、信仰が偽物ではないか、と思っていただいたらいい。戦わなければいけません。それは外側との戦いというよりは自分の内側との戦いです。そのことが「エペソ人への手紙」にも、「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(6:12)とあります。いうならば、サタンが働くこの世にあって、神様に従うのか、それとも世に従うのか。あるいは自分の内に強く働いてくる肉の思いに従うのか。これはいつも戦いです。

15節に「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災(わざわい)をあなたの前に置いた」と言われますが、まさにこのどちらを選ぶかに、私たちの信仰の戦いは直結しています。カナンの地に導き入れられたイスラエルの民は、最初にエリコの町との戦いがあります。それからアイとの戦いもあります。次から次へといろいろな民族との戦いの中に置かれながら、そこで土地を勝ち取っていくのです。自分たちのものとして勝利していく。それと同じように私たちもこの世にあってどれだけ信仰の戦いを戦い抜いて、自分のものとして領地を広げる。自分自身の信仰が神様にいよいよしっかりと結びついていくことが戦いの成果です。日々の生活の中で、経済問題もある、人間関係の問題もある、家庭の問題もある。あるいは親子の問題、自分自身の性状性格に悩むこともあります。いろいろなことが次から次へと起こってきます。これで終わりとはなりません。しかも、年を取ったら取ったで、その年齢に応じた問題がまた起こってくる。そういうことを通しながら、体験するべきことは、神様が今も生きておられ、よみがえったイエス様は愛をもって私を顧(かえり)みてくださっていることを知る。また、この御方に信頼すれば絶対間違いがない、と確信させてくださるのです。これが私たちに求められている戦いです。別の言葉で言うと、私たちの内なるものを清くしてキリストに似る者へと、キリストの身丈(みたけ)に達する者に私たちを造り変えてくださる。

いろいろな問題の中を通ることによって、自分を知ることができます。また、自分の姿にあ然として、悔い改めて神様の前にへりくだることもあります。また神様を信頼している、頼りにしていると言いつつ、神様以外のものに心があることを如実(にょじつ)に知らされる事態もあります。だから、試練に遭うとか苦しみに遭う、いろいろな問題に遭うことを避けよう、それから逃げようとしますが、それは大きな損失です。それは、私たちにとって必要なのです。その中で直接神様と対決するといいますか、神様に触れるため、出会うためなのです。そういう問題を通してでないかぎり、私たちは生ける神様に触れることができない。事がなくて、物事が思いどおりに順調に行っているときは、「感謝です。神様、有難うございます」と喜ぶに違いないけれども、本当に神様を心から信頼できるかというと、悩みに遭うとき、そのことが分かります。私もそのことをよく体験します。調子のいいときは「自分もそこそこに信仰があるな」と思う。「私も捨てたものじゃない。やはり10年、20年、50年信仰したかいがあったな」と思っている。ところが、ちょっと事が起こってご覧なさい。グラッと揺れる自分を見る。そうすると、途端に「私は40年も教会に行っていて、こんなざまなんて、いったいどうなっているの、もうやめたわ」と言う人もいるし、「そうか。ここはもう一度神様に対する姿勢を問い直して、自分自身を神様の御心にかなう者に造り変えていただきたい」ということになる人もいるでしょう。まさにこれが「命とさいわい」「死と災(わざわい)」どちらを選ぶか、ということです。そのような戦いや問題、悩み、事柄の中にあって、清められ、整えられ、造り変えられていく。そして「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(Ⅱコリント 3:18)。これが生かされている目的であります。

カナンの地は「乳と蜜の流れる地」という言葉で、その恵みの豊かさを表しています。確かに、カデシ・バルネアでカナンの地を探ったとき、偵察(ていさつ)に行った12人の人たちがカナンの産物を抱えて来ました。立派なぶどうや他の果物やいろいろな物を持ってきて「カナンの地はこのように作物が豊かだ」と言いました。ついそれに目をくらまされて、「カナンの地は、乳と蜜の流れるような、そういう物質的な意味で豊かな生活が保障されているのか」と思いますが、「ヨシュア記」をお読みいただくと、そういうことは書いていません。行ってみたら果物は取り放題、食べ放題、飲めよ食べよ、食べ飽きてと、竜宮城の様な話はどこにもない。次から次へと戦いの連続です。どうして、これが乳と蜜の流れる地なのだろうか、と思います。15節に「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災(わざわい)をあなたの前に置いた」。そして更に19節に「あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」と約束されています。カナンの地は乳と蜜の流れる地である、だから、その様な地として受け止めるために前提となることがある。それは「命を選ぶ」ことです。神様が備えてくださった「さいわいと命」を選び取ることが求められている。もしカナンの地で「死とのろい」を選ぶのでしたら、いくら乳と蜜の流れる地だ、祝福の地だ、といわれながらも、それを選んだ人にとっては悲劇です。まさに滅びであります。だから、乳と蜜の流れるカナンの地、といわれるものは、目に見える外側の事柄として、物質的な条件としてではなくて、そこに入って生活する者たちの選択と決断、それによって得られる事柄です。

私たちもそうだと思うのです。イエス様の救いにあずかったら安心が与えられ、喜びと感謝があふれていのちに輝いて生きることができると、救いの生活、救われることは素晴らしいことだと聞く。ところが、実際に信仰に入って、イエス様を信じて救われた、と思って、生活を始めてみるけれども、一向に自分の生活自身は変わらない。「お金には困るし、健康もうまくいかないし、人との関係もむしろちょっとおかしくなってしまうし、どうして私はこんなややこしい信仰をしたのだろうか」と悔やむ方が、時にいらっしゃる。それは「命とさいわい」の道を選ぼうとしないからです。それは一重にあなたに懸かっているのです。神様は「祝福と命とさいわい」「死と災(わざわい)」という二つの道を私たちの前に置かれます。「さぁ、あなたはどちらを選ぶのだ」と、絶えず問うているのです。だから、その中で「神様、私はあなたが備えてくださった命の道を歩みます」と、命の道を選ぶとき、そこは喜びと感謝と命と望みに満ちた道です。ところが、「死とのろい」との道を選ぶのなら、「私は何十年来の信者であります」と言ってみたって、滅びであります。だから、常に私たちは今という時に絶えず選ばなければならない、決断しなければならないのです。

どのようなことが命かというと、16節に「すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう」、これです。16節に神様を愛すること、それから神様の戒めと定めと、おきて、いうならば、神様の御心を行うことです。これが「命とさいわいの道だ」と神様はおっしゃる。「それを捨てるならば、死と災(わざわい)の道です」というのです。

これはいま私たちにも同じく求められていることです。イエス様の十字架のあがないを信じ、こんな私のために命まで捨てて愛してくださった主がおられる。その主はよみがえって、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)とおっしゃる。私と共におられるイエス様は、私たちの内に住んでくださる方です。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ41:10)と、どんな中にも共にいてくださると言われる。そのイエス様を主として、私の仕えるべき御方、と信じて、その御方のみ声に従う。その道を選ぶのか選ばないのか。これが私たちの命か滅びかの選択と決断です。

私どもはイエス様の救いを信じて洗礼を受けて、信仰告白して救いにあずかった、いうならば、命の道を選んだわけです。「あのとき選んだから、そのままズーッと有効だ」、「一度選んだから、永久保障にあずかったのではないか」と思われるかもしれませんが、そうではない。「そうではない」と言われたら、「いつ保障切れになったの、有効期限はいつかしら」と思いますが、それは信じ続けなければ駄目です。昔、そういうことをした。いうならば「イエス様を知らなかった自分が神様のことを聞き、知り、そして、信じて救いにあずかって、『イエス様を私の主と信じます』と告白して、洗礼を受けました」と言われる。では「いつごろ?」「さぁ、何年ぐらいだっただろうか、2、30年前になると思いますけれども……」「季節はいつごろですか?」「秋やったかなぁ、まぁ、その辺です」と。「それで、今はどうですか?」「いやー、あのころの熱心さはないですなぁ、懐かしいなぁ」と、過去の勲章をぶら下げていても、それは意味がない。救われた自分であることを絶えず信じて、救われた者として生きているのかどうか、ということです。これが絶えず問われている。だから、聖書にイエス様が「こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」(ルカ 13:30)とおっしゃっています。今日、初めて「そうだったのか。こんな私のためにイエス様は命を捨てて罪を赦してくださったのか。感謝です」と信じ、喜んで「それじゃ、今日は主のために、主の御心に従って」という人は、たとえまだ洗礼を受けていなくてもその人は神様の救いにあずかっているのです。命につながったのです。けれども、その命からいつでもポロッと外れる可能性はあります。そうならないように、常に毎日そのことをリフレッシュしていく。自分の導かれたこと、恵みを確認していくことです。15節の「きょう、命とさいわい、および死と災(わざわい)をあなたの前に置いた」、19節に「あなたは命を選ばなければならない」、「命を選べ」と神様が求めておられるのです。だから、イエス様を信じて「主を愛し、神様が定められた道を歩み、また神様の御言葉に従って御心に仕えている自分です」と言えるかどうか。これが大切です。過去がどうであったとしても、昔がどんなであったとしても、それはもはや過ぎ去った事です。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日」(Ⅱコリント 6:2)です。私どもの救いは、いうならば時々刻々、今という時以外にはありません。昨日ではないのです。明日ではない。今、私たちの目の前に「命と滅び」、「命と死」の道が置かれ、「さぁ、どちらを選ぶか?」と求められているのです。朝起きてから夜寝るまで、右にするか左にするか、食べようか、食べまいか、いろいろなことで、私どもは選択と決断をします。どんな小さなことにもそこが命の道です。

では、それが「命の道」であるかどうかは、どうやって知ることができるか? 見た感じでは分からない。「どっちが命の道だろうか」と並べて、「どれがいいと思う?」と、人に訊(き)いても分かりません。では、どうしたら分かるか? これは神様に直接訊(き)くのです、祈りです。「神様、今、私の前の道とこの道がありますが、どれを選ぶべきでしょうか」。常に神様にその道を問うということ、これ以外に選ぶ手掛かりはありません。恐らく、命とさいわいの道を、命と祝福の道を選びたい、と思っているに違いない。「イエス様を信じて天国に行けますよ」と勧めたところ、「皆が天国に行くんだったら、地獄のほうがすいているだろうから、私は地獄で結構です」と言った人がおりましたが、中にはそういう人もいるかもしれませんが、10人が10人、恐らく「命とさいわい」「命と祝福」の道を選びたいのです。世間の人もそうだと思います。「幸せになりたい」と思って、ああもし、こうもし、いろいろなことをしては失望落胆し、望みを失っています。私たちは「命とさいわい」「命と祝福」の道を選ぶ者でありたいと願います。その秘けつはただ一つです。それは神様に問うことです。問わなければ駄目です。祈ることをしなければ、それが「さいわいの道」にならないのです。では、神様が「右だ」「左だ」と声を掛けてくれるか、というと、そうではありません。時に訊(き)かれます。「神様はどんな声で答えてくださいますか」と。そんなのは分からない。けれども、私たちの思い、心の中に、「神様が喜ばれるのはこれだな」と、今まで思いもしない、考えもしない思いが雲の様にスーッとわいてくる。このような経験を既にしておられるでしょう。「今日はこれをしたいと思うけれども、あっちもしなければいけない、こっちも……、神様、どちらにしましょうか」と、お祈りしていると、「これを先にしたほうがいいに違いない」と思う。だんだんとその思いが強くなって、神様は私たちを押し出してくださる。背中を押してくださるのです。そうなるまで祈るのです。先生が「祈れ」と言ったから取りあえず祈るわ、とパッと祈って、後は自分の好きなことをしている。それでは駄目です。「静まってわれの神たるを知れ」と言われるように、神様が今このことを導かれるのだと、確信が与えられるまで私たちは動かない。「先生、そんなことをしたら、一日いくら時間があっても足りません」と言われたことがありますが、神様は時間をちゃんと都合付けてくださいますから、決して遅くなることはありません。ただ私たちが焦(あせ)るのです。自分が慌(あわ)てるのです。早く決めなければ、早くどっちかに……と、それでチャチャッと自分の経験に頼ったり、人のしているのを見て、「あれがいいに違いない」とやってみたり、そろばんをはじいて、「こっちのほうが安い」とか「こっちのほうが高い」とか、安い、高いだけで決めるとか、神様以外の尺度といいますか、物指しで事を計ろうとする。これはいちばん不幸な道です。だから、「神様、御心を教えてください」と求めること、問うことを決して忘れてはならない。そうしますと、神様は必ず教えてくださいます。

「サムエル記上」23章1節から5節までを朗読。

ダビデがサウル王様に命を狙(ねら)われて逃げているときであります。ケイラという村がペリシテ人によって収穫した穀物を奪われる、という事件が起こった。「何とか助けてくれ」とダビデのもとに知らせて来た。彼は、2節に「そこでダビデは主に問うて言った」と。まず彼は何をしたか?というと、神様に祈ったのであります。「それは、困っている人があったら、助けるのは当たり前だ」と、すぐにそういう決まりきった反応の仕方をしやすい。こうだから、こういうときはこうすべきだ、こういうことがあったら、これはやめたほうがいい。このときはこうだと、経験則といいますか、あるいは社会の様々な決まった手順にぽんと乗ってしまおうとする。ところが、そのニュースを聞いたときにダビデは祈るのです。「わたしが行って、このペリシテびとを撃ちましょうか」と。「ケイラの人々が気の毒な状態であるから助けたい。助けたいけれども私が行くべきなのか、あるいは、神様、あなたがほかに備えていることがあるのでしょうか」と訊(き)いています。私どもは「わたしは親なのだから、当然行きます」という。「これは私がすべきことなのでしょうか」と祈る前に、初めから決めてしまうでしょう、皆さん。「こうあるべきだ」「こうすべきだ」「私は○○だから」とか。まず、それらの常識や当然のことなどを捨ててかからなければ、神様の導きを知ることができません。だから、そこで主に問うたのです。そのときに神様は「主はダビデに言われた」と。12節の後半に「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」。ダビデは「あ、やっぱりこれは行くべきだな。神様の思いはそこにあるな」と神様の御思いを確信したのです。彼には命を共にする仲間がいましたから、彼らに「さぁ、今からケイラに行ってぺリシテ人と戦おうじゃないか」と言ったときに、部下は「いや、それは無理だよ。自分たちすらも今、命を狙われて逃げているじゃないか。そんなことはできるわけはない」と、部下たちはダビデを思って説得する。一緒に危険な中を、命を懸けて付いてきた部下です。その部下がそんなにまで自分のことを言ってくれる。皆さん、そんなことを言われたらどうしますか?「そうか。お前たちの言うことだから、それのほうが御心に違いない。行くのをやめよう」となるかもしれない。情にほだされる。人情であるとか、感情であるとか、そういうものに弱い。「肉の思いは死である」(ローマ 8:6)と。しかし、ここでダビデは彼らの言葉は聞きますが、更に祈るのです。4節に「ダビデが重ねて主に問うた」。そのように迷うとき、彼は繰り返し祈ります。そして「主は彼に答えて言われた、『立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します』」。「大丈夫、あなたはペリシテ人を打ち破ることができる」と、神様からの確信をダビデは得た。そのとき部下ももはや何も言わない、彼に付いてくるのです。

私たちに必要なのはここです。祈って自らが「これは主から出たことです」、「これは神様が私に今、求められていることです」とはっきりと確信を持って歩みだすことです。事柄の内容によって決まるのではない。ある人にとってはそれが御心であっても、同じことが他の人にとっては、やめるべきだと導かれることがあるのです。

パウロが伝道旅行で地中海を回っていたとき、どうしてもエルサレムに帰らなければならなくなった。ところが、エルサレムでは彼の命を狙う陰謀、たくらみがなされていた。そのことは公然のことで、皆知っていたのです。パウロも知っていました。しかし、彼はお祈りしたとき、どうしても自分はエルサレムへ行くべきだ確信したのです。「御霊に迫られて」(使徒20:22)とあります。彼は御霊の導きに従ってエルサレムへ帰って行く。ところが、途中で度々引き止められます。「パウロ先生、行かないでください。エルサレムではあなたの命が狙われますよ。殺されるのですから行かないでください」と引き止められる。引き止める人たちも「御霊の示しを受けて」(21:4)と語られています。御霊って変なことをする。こっちでは『行け』といい、あっちでは『行くな』という。矛盾しているようですが、これは正しい御霊の働きです。その人その人に必要な導きを神様は与えられる。あることについて、ある人にとっては、それはやめるべき事柄、ある人にとっては進めるべき事柄でもあります。だから、人を見ては駄目です。同じ境遇だから、あれもこれも似ているから「あの人がああしたのなら、私もそうしておこうか。これは神様の御心だろう」と言うことは出来ません。一人一人が神様の前に祈って、たとえ夫婦であっても、親子であっても、導きは違うのですから、それぞれがきちんと「これは主の道です。神様の御心です」と確信して歩むこと、それが命を選ぶことであり、さいわいな道を選ぶことです。

「申命記」30章15節に「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災(わざわい)をあなたの前に置いた」。皆さんの前にいつも二つの道があります。どちらを選ぶか。私たちはまず祈ること、祈って主の導きを確信するまで動かない。その代わり、主が「これは道なりこれを歩むべし」(イザヤ30:21文語訳)と、迫られたときは、たとえ自分にとってそれが辛いことであろうと苦しいことであろうと、あるいは自分が損をしなければならない立場に置かれようとも、するべきことはしなければ、神様の前に責任を果たせません。そうしなければ「命とさいわい」を得ることはできません。

 カナンの地に入りましたイスラエルの民も、その後いろいろな戦いの連続でありましたが、神様の御心を求めて祈って従ったとき、祝福と恵みがそこにありました。しかし、主のみ声を聞かないでやったときは、あのギベオンの民の場合のように、またアイの町での失敗のように、悲惨な結果になります。

今も常に「命とさいわい」「死と災(わざわい)」が絶えず置かれている。私たちはそのどちらを選ぶかの選択と決断をしっかりと神様の前に定めて、「命の道」を生きようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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