いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(362)「一粒の麦として」

2014年10月25日 | 聖書からのメッセージ
 今朝(2010年7月15日)はいつもの木曜会とは少し形を変えて行いたいと思います。といいますのは、福岡の今週の聖日礼拝で隈上望都(くまがみ・もと)さんの献身式を執り行いました。その望都さんのお証詞をしていただきたいと思います。
 
 隈上望都姉。

 お証詞をさせていただきます。今日は泣かずにお話をできたらいいなと思っていたのですけれども、今も和義先生にご紹介をいただく中で、本当に自分の「掘り出された穴と切り出された岩」(イザヤ 51:1)、とを思って、考えてみましたら、もう既に涙声になってしまいました。頑張ってお話したいと思いますが、聞き苦しいところがあったらご容赦ください。

 それではお証詞させていただきます。

 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ 6:33)。2004年4月18日にこのお言葉のとおりの恵みに言い尽せぬ感謝と喜びとをもって私は受洗にあずかりました。牧師の家庭に生まれ、それからくる様々な呪縛から解き放たれたいとあらゆる道へと逃亡を試みたものの、すべてがことごとく閉ざされ、私の帰る場所は他にはない、との確信を持ち、主の前に全面降伏し、信仰生活を送り始めました。しかし、当初の喜びや感動はいつの間にか薄れ、仕事や日常に追われる中で、私が神様から離れて行くのにはさほど長い時間は必要ありませんでした。仕事が忙しい、疲れている、ほかに休みもないしと、様々な理由を付けては教会から遠のく日々が続きました。教会を離れ、また主を離れ、その後ろめたさからなお一層帰るべき場所に帰れなくなっていた私は、その後ろめたさゆえに祈ることも、またお言葉にすがることもできずにいました。いつしか人を頼みとし、また肉の欲に心を捉(とら)われた生活を送り、気づけば多くの負債を負う身となっていました。
自分自身ではどうすることもできない状況に置かれても、なお主を離れた報いだと自分を責め、また主を求めることができずにいました。しかしやがて自分が犯した罪の大きさに押しつぶされそうで苦しくて、つらくて、ついに私は主に祈りました。「神様、どうぞ、もうこの罪深い者を見捨ててください。あなたのものであるはずなのに。持ち主の許(もと)へ帰ることもできません。あなたの御心にかなう者になることもできません。お従いしたい、と思ったはずなのに、こんなにも中途半端でどうしようもない私をどうぞ、もう御心に留めたりしないでください。あなたに見放されれば、どんなに落ちぶれても神様に見放されたのだから仕方がないと、思うことができる。神様がいなければ、こんな罪悪感にさいなまれることも、良心のかしゃくに悩むことも、葛藤(かっとう)することもなくなる。だから神様、どうかもう私を救うことはあきらめてください」。馬鹿なようですけれども、当時の真実な願いと祈りでした。

自分の人生を振り返ってみると、絶えず「徹底的にわたしに従え」と神様から迫られている気がしていました。しかし、自分がそのような者になり得るはずもないと、長い間それに気づかないふりをしていました。神様が望むような人間にはなれない、ならば、いっそ神様が「もう期待しても仕方がない」と思うような人間になってしまいたい、と思っていました。しかし、そのような思いと祈りに対して神様はとんでもない計画をもって応えられました。数々の問題を通して、私は再び教会内で生活することが許され、また、榎本先生方を通して問題解決の道も与えられました。「見捨ててください」とお願いしたはずだったのに、神様に一番近い所に強制送還され、「御心に留めないでください」と祈ったはずだったのに、完全に神様の監視下に置かれました。どうも私は神様から逃げられないのではないだろうか、改めてそのように思い始めた私は、そのとき初めて主の御心が何であるかを知りたいと願うようになりました。

教会での生活が始まったことにより、礼拝をはじめとする各集会に近づくことを許され、再び私の信仰生活が始まりました。そんなある日の聖日礼拝の説教箇所が「ルカによる福音書」の19章でした。イエス様がエルサレムに入る際、弟子たちにロバの子を連れて来させる有名な個所です。その中の「もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」(31)との一節、いつしか気づけばこの御言葉が頭の中をぐるぐると巡(めぐ)るようになりました。「主がお入り用なのです」「主がお入り用なのです」、神様はこの御言葉をもってことごとく私に迫られました。「主が私を求めておられる」と、そのように気づきながらも、このように罪深く主に背(そむ)き続けてきた人間がどうして主にお仕えできるだろうか、またどこかで投げ出して主を失望させるのではないか、そのような葛藤の中で眠れぬ日々を過ごし、またより真剣に祈ることを求められました。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」(イザヤ43:1)「あなたは、わたしに従ってきなさい」(ヨハネ 21:22)「わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」(イザヤ 43:13 )と、あらゆる御言葉をもってご計画をあらわされ、また圧倒的な力で私を引き出そうとされる主の御業の前に、もうあらがうすべはありませんでした。

2010年4月11日、「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」(黙示録 2:10)伝道集会でのお言葉と、和義先生が献身に導かれた際の証しを聴き、それまで悩んでいたモヤモヤした思いの全てを引っ張り出された思いがしました。何もかも空っぽになった私からは、とめどなく涙が溢れていました。その涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、先生のもとへ行き、与えられた思いを告げました。「献身したいです」と。

それからの2カ月、この御言葉のとおりの苦難が待ち受けていました。様々な試みの中で徹底的に自分の弱さを知ることとなり、「献身したい」と言ったことを何度も後悔しました。「こんなに弱い者が、本当に神様にお仕えできるのだろうか。できないのなら早めに『やっぱりやめます』と言っておいたほうがいいのではないだろうか」「何であんなことを言ってしまったのだろう」、そのような思いが錯そうするなかで切に主を求め、また祈り、与えられた献身の思いが本当に御心にかなうことであるのかを、問いました。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ12:24)「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。地に落とされた麦粒の私が今まさに生きたまま腐って土に帰ろうとしているところにとどめを刺された気分でした。主の前にとうの昔に死んでいるべき者が、何の未練か何度もよみがえり、何とか生きてやろうと往生際(おうじょうぎわ)悪くうごめいていましたが、神様に「勇気を出して死ね」と、こうもはっきり言われてはほかにすることがありません。
主に背き続け多くの罪を犯し、またキリストを十字架につけた罪人のかしらであるこの私。救われるはずのない、汚れきったどうしようもない、それでも主に「赦してください」とすら願えなかった私を、主がお入用であるならばすべてを捨てて、今、お従いしようと思うに至りました。「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(Ⅱコリント 12:9)神様はご自身の栄光をあらわすために誰よりも弱い私を召してくださいました。私は弱い。しかし、その弱さを用いてご自身をあらわそうとされている主のためにいま私は勇気を出して死にます。この小さな麦粒を主がどのような実りに変えられるのか、そのご計画のためにすべてを主にお返しし、すべてを主にお委(ゆだ)ねし、大いなる期待をもって待ち望みたいと心から願います。

 和義牧師のお祈り

 愛する天のお父様、尊き聖名をあがめて心から感謝いたします。あなたが愛してこの地上に命を与え、今に至るまで顧(かえり)みてくださった姉妹を、時を定めて「人の子よ、帰れ」と、ご自身の御許(みもと)に召してくださったことを、誠に有難う感謝いたします。いま姉妹はあなたの呼びかけに応えて献身の壇(だん)を築いて新しい生涯を始めようとしております。どうぞ、主よ、あなたが姉妹と共にいまして、約束にしたがって共に歩んでくださって、すべてのわざを備え、あなたの御栄光をあらわしてくださることを切にお願いいたします。また姉妹の献身と共に、私ども一人一人が御前に自らをささげてこの生涯を歩み行くことができますように導き顧みてください。この豊かな御愛と恵みを心から感謝いたします。尊き主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。

 「ヨハネによる福音書」20章19節から23節までを朗読。

 これはイエス様がよみがえられた日の夕方のことであります。弟子たちがユダヤ人を恐れて一つの家に閉じこもっておりました。戸を閉めて猫の子一匹ネズミ一匹通られないぐらいの戸締りで、閉じこもっていたのです。そこへイエス様が入って来てくださった。しかも「安かれ」、心配するなと、安心しなさい、とおっしゃった。そして「手とわきとを、彼らにお見せになった」。皆は十字架に死んだものと思っていますから、「え!これは大変だ。幽霊だ」と、「いや、大丈夫、足があるよ」と、「手を見てご覧、傷があるじゃないか」と、胸の傷を見せてくださった。「ちゃんとわたしはよみがえったのだよ」ということを証詞してくださった。そして、最初に言われたお言葉が今の21節、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。父がわたしをお遣(つか)わしになったように、父なる神様が御子イエス様をこの世に、私たち罪人のあがないのいけにえとして遣わしてくださった。遣わすといって、素晴らしい温泉旅行に派遣したわけでも、あるいは、何か楽しい行事に遣わしたわけでもないのです。父なる神様はイエス様を最も過酷(かこく)な困難な中へと派遣なさいました。それは十字架の死を受けることに尽きたわけです。それに対してイエス様は、決してそのことに不満、不平、つぶやくことは一切ありませんでした。むしろ、この日この時のためにわたしはここにあるのだと、はっきりと父なる神様の求め給う御思いを知っておられました。ですから、敢然(かんぜん)とゲツセマネの園で汗が滴(したた)るぐらいの厳しい悩みの中に置かれましたが、そこから立ちあがって十字架の道を歩まれたのです。イエス様は全くご自分を捨てたのです。「一粒の麥(むぎ)、地に落ちて死なずば」(文語訳)と、神様の御言葉、御思い、神様の御旨にご自分を委ねて一切捨ててしまう。これがイエス様のご生涯です。だから「ヨハネによる福音書」6章に「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」(38節)とおっしゃっています。いうならば、「自分」がないのです。わたしがどうしたいとか、わたしがこうありたいとか、わたしはこうなりたいという、私が、私がという、その思いを父なる神様の御心に全部ささげてしまう。これがイエス様のご生涯、またイエス様が遣わされたのはそのためでもあります。ですから、21節に「父がわたしをおつかわしになったように」と語っています。父なる神様がわたしをこの世につかわしてくださったそのようにわたしもまたあなた方をつかわす。今度は私たちも同じように父なる神様の、イエス様が遣わされたように、今度はイエス様によって私たちもそれぞれの家庭に、仕事に、あるいは地域に社会に遣わされている者である。

遣わされるということは、私たちが遣わした御方の意思に全く従うことです。これがなければ遣わされたものの意味がない。派遣(はけん)というのは派遣した人、あるいは派遣した御方の意図(いと)に従って、その御旨に従うこと、これがすべてであります。「いや、派遣されたのだから、私はちょっと時間があるからあれをしましょう。これをしましょう。あちらに行きましょう。こちらに行きましょう」「私はしたくない」「私は……」、それでは、遣わされたということにはなりません。ちゃんと自分が遣わされた者となりきっていく。

いま望都姉の献身のお証詞を聴かせていただきましたけれども、実はクリスチャンは、皆、献身者なのです。献身という言葉を聞くと、皆ドキッとして、何もかも取られそうな気がしますが、そうではありません。ささげるのです。ささげると言ったって、そもそもこれは神様のものだったのです。「だった」ではなくて、今も神様のものなのです。それを勝手に「これは、私のものだ」「私のものだ」と、自分たちが神様のものを盗んでいるわけです。そして、使っている。世間では横領罪という罪があります。預(あず)かったものを勝手に「私の好きな物、ブランド品を買おう」と、買ってしまって、「預けたお金はどうなった?」「無くなっております」となると、これは横領罪で訴えられます。私たちの罪はそこにあるのです。全部神様のものを預かって使わせていただくのですが、「お前勝手にこれを使え」と預かったのではない。派遣されている、遣わされているとは、それを預けた人の意図にかなうものとならなければいけません。それには自分を捨てなければ、自分をささげなければ全うできないのです。だから、イエス様の救いにあずかるとは、取りも直さず、私たちすべての者が身をささげてしまうこと、これなのです。だから「望都姉が献身した。ああ素晴らしいね。あの方は献身したけれども、私はあんなことはできません」と言うのは、駄目ですよ。「あの方はああしたけれども、私はできません」ということは、「私はクリスチャンをやめます」という話になりますから、神様がこうやって一人の姉妹を献身に導かれた、ということは、取りも直さず、「お前たちもだぞ!」と駄目押しをしてくださっているのです。だから、ここは他人(ひと)ごとではない。献身はあの方に任せて私は勝手にしたい。しかし、他人には任せられないのであります。ここにあるように「わたしもまたあなたがたをつかわす」と。私たち一人一人が神様の御心に従う。御旨にかなう者となっていく。これが求められているすべてであります。ですから、どうぞ、献身は望都さんに任せて私は……、という思いではなくて「私もでは、姉妹と一緒に献身の壇を築いて、ここで私のすべてを主にささげます」と、「心も、思いも、感情も、肉、欲、情を共に十字架につけた」とパウロは語っています。一切を主のものとしてささげてしまうこと。そして「では、今は私は空っぽですか」と、ところが、神様は私たちに今日も生きる命を託(たく)してくださる。今度は、自分のものではなくて、神様が遣わしてくださった。神様は私たちにその使命を果たすために必要な物を必要なだけ与えてくださる。だから、毎日毎日が借りものの生活であります。自分のものはないのであります。命も、時間も、お金も、また人も仕事も、家族もそうです。どれ一つとって自分のものはありません。そして、それはすべて主のものなのです。だから、神様から私たちは日々に託せられ、また委ねられ、派遣され、それぞれの所へ遣わされて、遣わしてくださった御方の御心に従い行く。これがクリスチャンの生涯の根本原則といいますか、歩み方です。だから、私たちはどんなときにも自分を捨てて生きる生涯です。捨てるというと、これはまた惜しいような気がしますが、私どもはすぐ握って離すまい、離すまいとしますけれども、そうではなくて、捨てるのです。自分を無にしていくこと、ここを絶えず努(つと)めていく。捨てると神様が満たしてくださる。

今ここ21節にありますように、「わたしもまたあなたがたをつかわす」。神様が私たちを遣わしてくださる。そして、遣わしてくださった御方が、それぞれに必要な知恵も力もどんなものも神様は豊かにあふれるばかりに満たすことがおできになる。健康であろうと、経済であろうと、何であろうと、だから、私たちはどこまでも「私は主のものです」と、主にささげていくことです。

だから「イザヤ書」43章に「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」という素晴らしい約束のお言葉があります。皆さんはこれを聞くと、「うれしい。感謝です」と言われますが、「あなたは、わたしのものだ」ということは、「私は主のものです」とささげなければ意味がないのです。神様が「お前はわたしのものだ」と「分かりました。でも私は私のものです」と言い続けたら、主のものにはなりきれません。主のものですから、主にささげなければいけません。私どもは自分勝手に都合の良いように、「神様、私はあなたのもの。あなたは名を呼んでくださって、私は神様のものになったそうだ」と言って、「では、あなたは?」と問われると、「え!私は私のもの」だと言うならば、約束は実行されません。これは相互契約ですから、神様が名を呼んで「お前は、私のものだ」とおっしゃった以上、そのように私たちも「これは私のものではなくて、主のものです」とお返ししていく。お互いが成り立って初めてこの御言葉の意味が完成するのです。ところが、私どもは自分がささげるのはできるだけ後にして「神様、私をどのように見ていますか。私をどうしてくれますか」と求めることが先になります。「あがなったよ、愛しているよ」。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」(Ⅰヨハネ 3:1)と言われて、「うれしい。うれしい」と言うけれども、「では、あなたはそれにどう応答したのか? 」と言われると、「いや、私は私のものです」と、いつまでもそうやっているかぎり、神様の喜び、恵み、力、望み、平安を得ることができないのです。御言葉を信じて、それに対して命を懸けて、本当に捨てて掛っていく。そうすると、そのように神様は応えてくださる。

 その一つのモデルとして望都姉をここに置いてくださったのです。「私たちもそうあるべきなのだ」という、モデルでありますから、献身はあの方に任せて……、という発想ではなくて、いつも見る度に「私もああなりましょう」「私もあのように献身の生涯を歩きましょう」と、是非生きるよりどころとして、見本として見ていただきたい。

 私たちは主から遣わされた者たち、主にあがなわれた者、いうならば、神様のほうが「お前は、わたしのものだ」とおっしゃってくださったのですから、それに対して私たちは何と答えるか。「はい、私はあなたのものです。この身もあなたのものです。この子供たちも家族も私の健康も、主よ、あなたのものです」と、どんなときにも主にささげて、主のものとなりきって、主が遣わしてくださったそれぞれの持ち場立場にあって、真剣に主の御声に従い、主に仕えていく者となっていきたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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