いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(313)「喜び仕えよ」

2014年09月06日 | 聖書からのメッセージ
 「使徒行伝」20章17節から27節までを朗読。

 19節「すなわち、謙遜(けんそん)の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた」。

 このときパウロは地中海沿岸の各地にイエス様の福音を伝えて、伝道旅行をしておりました。ところが、具体的な状況は分かりませんが、どうしてもエルサレムに戻らなければならない用事ができてしまいました。そのころには、パウロに対して強い反感といいますか、憎しみを持つユダヤ人たちがたくさんいたのです。殊にエルサレムにある教会はもっぱらユダヤ教から改宗した人たちが中心で、ユダヤ教の本山があるところですから、それだけに彼に対する風当たりがとても激しい場所でもありました。だから、彼がエルサレムに戻って行けば、命を失うといいますか、ここにありますように「投獄と患難とが、わたしを待ちうけている」という危機的な状況の中にあったのです。ですから、多くの人々は「もう行かないように」、「エルサレムに行かないでください」と切に願いました。しかし彼はどうしてもしなければならない、行かなければならない用事といいますか、使命があったのです。この22節に「今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く」と語っています。神様が「行け」とおっしゃるのだから、わたしは行かなければならない、とこれは徹底した彼の確信、信仰でありました。そういうことで彼はエルサレムに戻っていく途中でありましたが、ミレトという港町に船が着きました。

ミレトから少し離れた所にエペソの教会がありました。エペソの教会は彼にとっては格別思い出深いところで、彼がエペソの町にしばらく滞在して伝道した結果、そこに教会が建てられ、しかも自分の愛する弟子であるテモテが後にそこで牧会伝道をするようになります。ですから、親しい仲間がそこにいました。何とか彼らに最後のお別れをしたい、と思いました。それで17節にありますように、ミレトの港町から使いを送って、教会の主だった代表者たち、長老たちに来てもらいました。そのときに彼らに語ったのが、いま読みました18節以下のパウロの言葉であります。この中で格別19節に「すなわち、謙遜(けんそん)の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた」と彼は語りました。エペソの地に初めて足を踏み入れて以来、イエス様の福音を宣べ伝えるために彼は大変大きな戦いの中にありました。使徒行伝を読みますと、エペソの町のアルテミス神殿の細工人デメテリオに迫害を受けたこともありましたし、エペソの町はいわゆる世俗的な悪に満ちた所であっただけに、彼の伝道といいますか、神様に仕える業(わざ)は困難を極めたことも確かです。しかし、そういう様々な試錬の中で、「謙遜(けんそん)の限りをつくし」、自分の身を低くして「涙を流し」とあるように、エペソの人々に対して抱いている彼の真実な思いをもって仕えてきた。殊にここで教えられたいことは「主に仕えてきた」ことです。なるほど、彼はエペソの地の人々の救いのために、その人々のことを思って、それをしたわけでありますが、しかし、彼にとってはその人々のためというよりは、もうひとつその奥に、エペソの人々の背後にある神様に対して目を注いでいたことです。自分がエペソの町に遣わされたのは、自分で来たのではない。自分の力や計画で、自分のプランに基づいて、その町にやって来たのではなくて、一重に神様によって遣わされてきたのだ。そして、わたしは神様に仕えている者、主に仕える者なのだと、これが彼の自覚であります。

これは、必ずしもパウロだけではありません。「それはパウロ先生のように立派な人の場合はそうだろうけれども、私なんかペエペエの信徒ですからそんな大それたことは言えません」と思いますが、そうではありません。私たち一人一人はすべてが主に仕える者、神の僕(しもべ)として召された者であります。ですから、イエス様がよみがえられたとき、弟子たちがユダヤ人を恐れて一つの家に息を潜(ひそ)めて隠れておりました。そこによみがえったイエス様が入って来られて「安かれ」と言われて、手を広げ、ご自分であることを証詞してくださいました。その後「わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ20:21)とおっしゃいました。そして「聖霊を受けよ」と。また、最後の晩餐の後でイエス様がお祈りなさったその祈りの中でも「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」(ヨハネ17:18)と祈っています。いうならば、私たちがイエス様の救いにあずかるとは、言葉を変えていえば、僕となって神様に仕える民だ、ということです。だから、私たちはそのことをはっきり自覚しておかなければならない。私の願いや私の幸せのために、私の求めているものが実現する、いわゆるご利益的な恵みが与えられるからイエス様を信じます、というのではありません。私たちの生き方、この地上における人生での自分というもののあり方が変わるのです。私たちは主に仕える者、いうならば、仕えるとは僕となることです。私たちは神様の僕として選ばれ、召されているのだ、ということです。だから、皆さんがそれぞれいま遣わされている、置かれている持ち場立場、それぞれのご家庭、あるいは職場、地域社会、そのところで常に遣わされた者として、派遣された神様に仕える者として立てられているのであります。では、やることは何か? もちろん普段と全く変わらない。していることは同じでありますが、私たちの心が変わるのです。主婦となって家族のために朝から晩まで台所仕事に、掃除や洗濯やそういうことに立ち働くのは、昨日も今日も変わりはありません。しかし、今ここに主が私を遣わしてくださって、台所での仕事、炊事や洗濯や買い物やそういう日々の決まりきった仕事、ルーティーンワークをしてはいるけれども、そのことを通して実は主に仕えている自分であるのです。家族のためにしているように見えますが、家族のためにしているのではない。

このときもエペソの人々のために、エペソの人々の魂の救いのために、という切なる願いをもってパウロがここに語ったように「涙を流し」「数々の試練の中にあって」なお「主に仕えてきた」と。私どもは試錬、苦しいことに遭うと、「何でわたしはこんな目に遭わなければいけない」と言って、プイと横を向きますが、そうではないのです。私たちはいま主の僕として立てられているのです。神様の僕として、主に仕える者であること、これを絶えず自分に言い聞かせる、自分自身に自覚を持たなければそうなり得ません。だから、いろいろなことをする場合、いま私はいったいどういう者としてここに立っているのか? 立たせられているのか? いま私はどういう身分でいまここに立っているのか? 私たちにはいろいろなこの世の役割があります。妻として、あるいは母親として、あるいは夫として、あるいは父親としてと、いろいろな役割を持って立っています。事によっては主人として、あるいは子供に対しては父親としての事柄があります。あるいは奥さんやご主人に対しては妻としての、あるいは夫としての対処の仕方がある。それぞれの事柄に応じてその人の持っている幾つかの職分といいますか、ある役割がはっきりしています。案外とそういうことは自覚しているのです。息子や娘に出会ったときは、無意識のうちにスイッチが切り替わって、自分は父親だ、母親だ、という顔になるじゃないですか。ところが、ご主人と二人きりになってお茶でも飲んでいるときは、コロッとまたスイッチが変わって「妻です」というような顔になる。人はうまい具合に自分の役割を切り替えながら生活しています。でも、私たちに与えられているもう一つの顔がある。なんてことをいうと、十面相や百面相のように仮面を取り替えるような感じがしますが、そうではなくていちばん根本があるのです。それは、私たちがどんな顔をしようと、夫の顔、妻の顔、あるいは父親母親の顔であろうと、いちばん根底に、「私は主に仕えている、主の僕だ」という役割、これが欠けていると私たちは疲れます。父親として疲れる、妻として疲れる。もういい加減この主人と離れたい、と思うようになる。それは、そのいちばん事柄の奥に、いま私は主の僕としてここに置かれているのです、という自覚、確信を持たないからです。そうすると私たちはどんな試練の中にあってもそこでへこたれない。それで逃げ出すことをしない。だから、この19節に「謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって」と、確かに私たちの日々の生活には次から次へといろいろな問題や事柄の中に置かれます。あるいは、自分のことだけでなく家族の問題もありますし、いろいろな周囲の人々のことや地域の問題もあるでしょう。あるいは職場や働いている場所でのいろいろな困難もあります。ところが、そういう問題や悩みに遭うと私どもは「こんなにしてやっているのに……、あの人のためにもこの人のためにも、こんなに私は尽くしているのに、何でこんなことになるのだろう。私がそんなことをなぜ言わなければいかん」と思ってしまう。そのように思ったとき、主に仕えている、という自覚が消えている。何をしてもそこで「私はいま主に仕えているのだ」と言えるとき、どのように取り扱われても、そんなことは気にならないのです。

 「コリント人への第二の手紙」6章3節から8節の前半までを朗読。

 ここに繰り返して「神の僕」と語られています。4節に「あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている」。また8節には「神の僕として自分をあらわしている」と。これはパウロが「主に仕えている」と言ったことと同じです。神様の僕なのです。だから、4節に「かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも」と。様々な試練の中にあって主に仕えてきた、と彼は語りました。まさにその試練とは「極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まり、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓(きが)」の中にあっても、ただキリストのために、主のために、という思いをもって、神様の救いを多くの人々に伝えていたのです。そのゆえにこそ投獄されたり、むち打たれたり、様々な飢餓や苦しいつらい中を極度の忍苦といわれるような試錬に遭うわけです。もし、そんなものに遭いたくなければ、彼は黙っておればよかった。自分だけひっそりと、自分の信仰ですから、「神様、わたしは神様を信じていますから」と、人に言わなければよかったのです。でも彼は言わないではおられない神様からの迫り、なにかが押し迫ってきて押し出されるがごとくにして、彼は語らざるを得なかったのです。だから、多くの滅び行く魂に対して、彼は何としても「イエス様の救いがここにあるのですよ。イエス様以外に私たちを救ってくださるものは何もないのです」と言う。それゆえに逆風に遭う、困難に遭うわけでしょう。だから、そのような困難を避けるのであれば黙っておればよかった。しかし、彼は黙っておられない。なぜならば、神の僕なのです。神様が「言え」とおっしゃったら、言わなければおられない。「行け」とおっしゃったら行かなければおられない。まさに神様にだけ仕えて行くのが、彼の根本の土台、方向、あり方なのです。

これがイエス様の救いにあずかった私たちの日々の生き方でもあります。だから、8節に「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても」と。私たちは「こんなにしているのに、この人はこう言った」「あんなにしているのに、あの人はこう言った」と、すぐ人の評判を気にします。ところが、私たちは神の僕ですから、僕たる者はその主人、誰が主人かというと、私ではない、自分ではない、私の主はキリスト、私の主は神様ですから、その主に仕えていく。ということは主人が喜んでくれればそれでいいのです。だから、人が褒めようとそしろうと、あるいは好評であろうと悪評であろうと、人が何と言おうと、それは別に構わない。私どもはそんなことにとらわれない。神の僕とは、そこです。神様が喜んでくださるのかどうか、私の主人でいらっしゃる神様はこのことを喜ばれるだろうか。主人でいらっしゃるイエス様は私にこのことを求めておられるだろうか、そこだけに力を尽くす。だからその前の5章9節に「そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである」。「ただ主に喜ばれる者となる」ことです。私どもは誰に喜ばれようとしているのか。誰に気に入られようとしているのか。そのことを絶えず振り返ってみていただきたい。案外と奥さんであったり、家族であったり、子供であったり、誰かに気に入られたい、良く思われたいという心が働いている。だから、したこと、なしたことが気になる。「あれはうまくいっただろうか。気にいっただろうか」と。人に贈り物をしても、「どうだった、あれは気に入った?」と聞く人がいます。人の評判、人を気にする。だから、誰かに何か贈り物をするにしても、その人のためにしている、というのではない。主がその人のためにしてやりなさい、と神様が私に命じているからするのであって、その人を喜ばせるためではない。「いや、だってせっかくあげるなら、相手が喜ぶほうがいいでしょう」と、それは神様が決めなさるのです。だから、私たちは神の僕として、いつもそれをすべきかどうか祈らなければいけない。勝手に自分で決めては駄目です、僕ですから。「神様、このことはどうしたらいいでしょうか」「これは、今するべきでしょうか」と祈るのです。私たちは自分の心のままにやるから、あるいは相手の人ばかりを目の前に見てその人の喜ぶ顔ばかりを思い浮かべて事をするから、ちょっと顔がおかしかったりすると「何でやろう、あんなにしたのに」と思う。それでは主の僕になり得ません。

パウロは信仰に立って4節にありますが「あらゆる場合に、神の僕として」自分を立てていく。これが私たちの生き方です。主が「せよ」とおっしゃるならば、たとえどんな困難があっても苦しくてもつらくても、それを負うことが私たちの神様に仕えていく道でしょう。だから、イエス様は「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ 11:28)と言われ、その後に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と。イエス様が「くびきを負うてわたしに倣(なら)え」とおっしゃいます。私たちが僕となって仕えていく。イエス様ご自身もそうだったのです。父なる神様の御許(みもと)からこの世に救い主、キリストとして遣わされて人の世に生きてくださったイエス様は、この地上にある間ズーッと神の僕としてひたすら父なる神様に仕えて歩まれたのです。それは「ヨハネによる福音書」に語られているとおりであります。「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」(ヨハネ6:38)と言っておられる。イエス様ご自身が私たちの模範といいますか、モデルなのです。しかもイエス様は神の僕としてのご生涯を歩まれました。だから「イザヤ書」53章にイエス様のご生涯が預言されていますが、神の僕、苦しみの僕としての姿です。そこに書かれているように、私たちのために悩みを受けて十字架に命を捨ててくださる。そのイエス様の姿はまさに神様に仕えている神の僕の姿。だから、私たちもいま召されているのはそのためなのです。ですから8節に「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」。「神の僕として」、どうぞ、私たちはいつもこのことを自覚して、私は主に仕えている、今ここで私のわざを神様が喜んでくださるのだ、主が私を「よし」とおっしゃってくださっているのだ、とはっきり知りたいと思う。その確信を持って一日一日を歩む。神様に仕えるとはそういうことです。

「ガラテヤ人への手紙」1章10節を朗読。

ここにはっきりと「人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか」と問われています。これは私たちの試金石といいますか、私たちの思いを確かめる問いです。神様に喜ばれる者となること、これが主に仕える道筋であります。家族であろうと、友人知人であり、誰のことであろうと、そこでその人のためにしているのではない。私を遣わしてくださった、私を生きる者としてくださった、命を懸けて愛してくださる父なる神様に私は仕えていると。いろいろなことの大小を問わず、いろいろなことの中でこのことを徹底していきたいと思う。そうしますと、私たちの心は実に穏やかになります。周囲のものに煩わされない。なぜ、私たちの心がいつも落ち着かないで騒いだり、思い煩いの中にあるかというと、「これで良かったのだろうか」「あれで良かったのだろうか」「ああしたらどうなのだろうか」「こうしたらどうなのだろうか」と迷い続けている。その迷いの原因は、誰に気に入られようとしているかを探ってみたらよく分かる。「こうしたら、あの人に当たる」「こっちにしたら、こっちの人にいけない。どうしようか。どうしようか」、それで半日は過ぎるでしょう。だから、「いや、そうではない。何があってもこれは主が私にいま求めていらっしゃる。神様、これですね」と、神様と私の間でこの一点がピシッと決まればもう迷わないのです。そこがずれるから、あちらにフラフラ、こちらにフラフラ、「あの人のまゆ毛がゆがんだから怖い。こっちに行こう」と、ヒョロヒョロするのです。ここにありますように、「人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか」。そして「人の歓心を買おうと努めているのか」。つい私どもは気になって「あの人はどう思っているだろうか」「この人はどう思っているだろうか」と、そんなことばかりに思いが行くから、なかなか「これで良かった、感謝です」と言えない。

私はよくそのような経験をさせていただきます。主がいろいろな方々を教会に送ってくださる。そして、いろいろなかかわりを与えられますが、その中でどれをどこまですべきか、どういうことをしてあげたらいいのかと、切に祈ります。そして、主が「よし」とおっしゃること、主が求めておられることをさせていただく。その人が喜ぼうと喜ぶまいと、できるかぎり主が「せよ」とおっしゃることをさせていただく。あるところまできて、主が「それでよろしい」とおっしゃったとき、何といいますか、後腐れがないといいますか、すっきりと心に感謝ができる。「ここまでさせていただいたから、主よ、有難うございました。あなたのみわざです。神様、あなたがここまで力を与えて導いてくださって感謝します」と、一つの事をそこで一線を引いて神様に事を納める。これができるのは、神様に喜ばれることを求めていくからです。そうしますと、神様は絶えず私たちに干渉(かんしょう)してくださる。御霊によって、聖霊によって私たちの心に思いを起こさせ、「これは道なりこれを歩むべし」(イザヤ30:21文語訳)と、求められる所に従って「はい」「はい」と従っていく。時に周囲から「やりすぎや」とか、あるいは「そんなことをしなくてもいい」とか、あるいは「もっとこうすべきだ」とか「ああすべきだ」と、いろいろな声が聞こえようと「いま私がこれをしなければいけない」「いま主がこれを求めておられる」と信じてそこに歩んでいく。そうしますと、神様はあるところまで来ると、必ず「よし、もうそれでよろしい」と「今度はこちらにお前は行け」と、方向転換をきちっとさせなさいます。そのときに一つの事が終わるのです。そこで終わると心がすがすがしい。その事を相手がどんな風に評価しているか、喜んでいるやら、気にいったやら、そんなことは一向に気にならない。それよりも、主に仕えることができた、主に従うことができた喜びのほうが大きいのです。しかし、そうでなければ、その後に「しすぎたな」とか「あの時、ちょっとケチったからな」とか、心のどこかに尾を引いている、何か苦い根っこが残る。僕となりきってしまうと、本当にすがすがしい思いで事を一つ一つ畳(たた)んでいくことができるのです。だから、10節にありますように、「もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」。私たちは今、キリストの僕である、主に仕える者であることを徹底して、自分の生き方、自分の生活の土台としていきたいと思う。

 「使徒行伝」20章19節に「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって」、しかも彼が受けた試練は自分の身内のような者、「ユダヤ人の陰謀」です。仲間から、同じ民族であるユダヤ人から、そのユダヤ人のために彼は働いてきたわけでしたが、そこから更に異邦人の世界へと追い出されて、そして、なおかつそこにまでユダヤ人は自分を迫害しようとしてきている。その中にあって「主に仕えてきた」と。私たちも心から「今日も主に仕えることができました」と言い得る生き方をしようではありませんか。

一つ一つ与えられた使命、事柄があります。いろいろな事態や事柄の中に神様が私たちを置かれます。そのときそこで謙そんになって、神様の前にへりくだって、主の僕となりきって、「主の御心はいかに」と「主の御思いはどこにあるでしょうか」「私がすべきことは何でしょうか」「どこまですべきでしょうか」、一つ一つ祈って、「これが道だ、お前が行け」と押し出されたら、それに従うのです。これが僕の仕事です。そうしていくと、私たちの心に喜びがわいてきます。そして、その事を神様がきちっと最善に整えて終わらせてくださる。「いつやめようか」「いつ早く身を引こうか。こんなのにかかわっておったら腐れ縁でえらい目に遭いそうだから、早く逃げよう、逃げよう」と、逃げ腰になっていては駄目です。主が「行け」とおっしゃるならばトコトン行けばいい。その代わり主が「やめよ」とおっしゃるときがくるならば、そこでスパッと主の命(めい)に従う。これが私たちの生き様です。救いにあずかった私たちのキリストの僕としての生涯です。どうぞ、このパウロのように「主に仕えてきた」と、主に仕える日々でありたいと思う。一日一日を「今日も主よ、あなたの御心にかなうことができました」と、心から喜ぶことができる者に……。そうやって内なるものがいつも主につながって行きますならば、神様は絶えず上から力を与えてくださる。また望みといのちと喜びに満たしてくださいます。

 この主に仕える僕となりきっていきたい。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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