いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(275)「あなたは何を信じるか」

2014年07月30日 | 聖書からのメッセージ

 マルコによる福音書11章20節から26節までを朗読。

 

 22節「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。

 

 これはイエス様がエルサレムへ出かけて行く途中の出来事です。イエス様はエルサレムに来られたとき、その近くのベタニヤ村にいるマリヤ、マルタ、ラザロたちと親しくしていますから、彼らの家を宿泊所として、そこからエルサレムへ通っていたようです。前日朝、イエス様が弟子たちと共に歩いていましたが、イエス様はちょっとおなかがすいたと、11章12節以下のところに記されています。するとそこに葉が茂ったいちじくの木がありました。イエス様は何か実があるのではないかと思って近づいたけれども、何もなかった。「いちじくの季節ではなかった」とあります。イエス様はその木に向かって「二度と実がならないように」と。言うならば「枯れてしまえ」と、子供っぽいかんしゃくを起こして言われた。弟子たちは気に留めなかったのです。「先生は何て馬鹿なことを言って」と思ったかもしれません。同じ道を夕方帰ったのです。そのときも別に異常はなかった。ところが、次の日、今お読みいたしましたように20節に「朝はやく道をとおっていると」、また前日と同じように道を通って行きました。そうすると、そのいちじくが枯れているのです。「根元から」とあります。もう完全に枯れきってしまった。日照りが続いて枯れるときでも、木の葉が先っぽからだんだん黄色くなって、枯れてしまうまでに一ヶ月とかそのくらい長い時間が掛かります。それでも、枯れたようでも根には命が残っていて、雨がまた降ると一気に新しい芽が出てきますから、なかなか根元から枯れることは大変です。それが一瞬にしてと言いますか、一晩にして起こったのです。それを見たペテロが、21節「そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、『先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています』」と、びっくりした。「そんな馬鹿なことがあるか」と思ったが、翌日見るとそのようになっていた。その時イエス様が22節「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」とおっしゃったのです。

 

なんだかペテロの言っていることとイエス様の答えとがかみ合っていない。「ちゃんと説明してくれたら、よさそうなもの」と思います。「神を信じなさい」とはどういうことなのか知っておきたいと思います。私たちは「神を信じなさい」とは知っていますし、自分も信じているつもりです。ところが、「神を信じなさい」とはどうすることなのか?私たちはあまり考えようとしません。だから、イエス様がここでそのことを語っているのです。

 

私たちの住んでいる世の中、現代社会は客観主義と言いますか、何かで証明ができる世界に生きています。しかし、これは長い人間の歴史の中ではごく最近のことです。ルネッサンス期以前は客観主義ではありません。朝起きると太陽が東から昇って西へ沈んでいきます。「太陽が昇って沈んでいくな」と思って生活をしています。長年それで来たのです。ところが、ある時コペルニクスが「どうも違うらしい」といって地動説を唱えた。それまでは地球が真ん中にあって、その周りを太陽や月が回っていると思っていた。ところが、「そうではない。太陽が真ん中にあって、地球がその周りを回っている」。これは完全に180度方向が違うのです。それからというものは、いわゆる科学主義とか客観主義というものが人の生活にはびこってきた。それから18世紀、19世紀、産業革命以降、証明できること、客観的に証拠立てることが正しいことだ、それが真理だという考え方が浸透してきました。それはある面では科学の発達を助け、生活の便利さを作り出していく切っ掛けではありましたが、それによって人は自分で感じること、信じていることに自信をなくしてしまった。毎朝、太陽を見て「今地球がこれだけ回ったのか」とは思わない。やはり相変わらず太陽は東から出て西に沈むという生活をしている。そこで一つの問題は、地球が太陽の周りを回っているという真理と、私たちが日常的に感じている太陽が東から西へ動いているというのと、どちらが正しいのか。そうすると「それは科学的に観測したとおり、太陽が動かないで地球が動いているのが正しいのだ。東から西に太陽が動くはずがない」と答える。「でも見てご覧なさい、朝起きたら太陽がちゃんと動いていくではないか」と。「いや、それは錯覚だ」と説明をします。そういう客観的な世界でこれまで来たのですが、20世紀に入り第一次世界大戦が済んでから変わって来ました。客観主義と言いますか、「そのように学問的、あるいは、数字で証明できるばかりが真理ではなく、そうでない世界もあるのではないか」ということです。

 

そのように変わってきた動機は、生きることは人が中心であって、物事が中心にあるのではない。例えば、今申し上げた「太陽が中心にあって、地球が回っている」というのと、日常的に私たちが感じる「いや、そうではない。太陽が動いているのだ」というのと、どちらが人にとって幸いなことか?まだ月にロケットが行かないとき、月を見て「あそこにうさぎが住んでいる」という世界があった。ところが、「見てご覧。お月さん、ほら、ウサギがおもちをついているでしょう」なんて言うと、小さな子供だって「そんな馬鹿な!」と言います。問題は、何がいちばん親しみやすいのか、自分にとっていちばん喜べる、安心するところはどこにあるか、それを生活の中心に置こうではないかという考え方。簡単に申し上げるとそういうことです。言うならば、人間中心の人本主義、主観主義というものが第一次世界大戦後から、注目されるようになったのです。難しくは「パラダイム・シフト」というのですが、パラダイムとは人の固定観念のことで、その方向を変えていくことです。

 

実は私たちの心の中にもどこかで客観主義が正しいと思っています。学校教育だとか周囲の見聞きするものを通して得られた世界です。そういうものになじんでいる、それが正しいことと思っている。何か考える時、「これは本当にいいのだろうか。これは正しいことだろうか」と、人に聞きます。そして、皆が「客観的に見て……」と言います。「客観的に見て、これは正しいのだろうか。私はそうは思わないけれども、客観的に見たらこれだろう」と。自分の気持ちを変えなければいけない。そういう考え方が私たちにありますから、神様の話を聞きながらも常に「客観的でなければ、何かちゃんと証明ができる、あるいは皆がそういう風に納得する方向でないといけないのではないか」と。

 

多数決などもそうですが、国会の議論などを見ていると、「自分は反対だったのだけれども、立場上……」、とか、「自分はこの政党に所属している以上、自分は言えなかった」と後になって言う。これは明らかに客観的な世界、自分は一つのグループ、一つの価値観を共有する政党に所属している。これを抜きにして自分はあり得ないと思っている。ところが、本人の心では「この政党でこの方針に決めたけれども、自分はやはり違うと思うよ」というものがある。「でも、この政党はこうなんだし、この社会はこうなんだから、これに順応しよう」という発想は、自分を捨ててしまうことです。

 

言うならば客観主義なのです。自分の考え、自分の感じるところ、自分が正しいと思うことから離れて、多くの人々の意見、あるいは世の中で通念となっている事柄が正しいに違いないと、そちらの方に寄り掛かろうとする。ところが、イエス様が私たちに求められるのはそのようなことではありません。「神様を信じる」ことは、極めて主観的な世界なのです。神様がいらっしゃることを客観的に証拠立てる方法はありません。「ローマ人への手紙」1章に神様がいらっしゃることは否定できない事実である、見てみなさい、すべて造られたものは神様のわざではないかと語られています。なるほど、信じている人にとってはそのように見える。ここにきれいな花があります。でもこれを見て、ある人は「これ幾らするかな」と見るかもしれません。それは客観的にも証明できます。専門家が見れば「これはこのくらいの値段でいいでしょう」となります。ところが、ほかの人から見ると「これの科学的な成分はどうなっているだろうか。分析したい」と。いろいろ調べて、この花の成分はこれとこれとこれと証明できるでしょうが、神様の「か」の字も出てきません。こういう組織になっている、こういう材料が使われている、こういう元素、要素がそこにこめられていると、化学分析はできます。人間だってそうでしょう。人間の体は分析していけば一覧表にすることができます。カルシウムが何%、水分が何%と化学物質を調べ上げることができる。その調べた結果、神様がいたという話は聞かない。言うならば、客観的に数字や何かで、ここに神様がこんなかたちで存在すると証明して納得することはできません。となると「神様はいないのか」と言われると、それも証明できないのです。結局、あなたが信じるのか、信じないのか、これだけなのです。

 

だから、信仰について知りたいと来られて、いちばん戸惑うのはそこなのです。「神様がいることをどうして知ることができるか」「それを分かるようにしてほしい」と。これは難しい。「信じなさい」と言う以外にない。「いや、信じるにも何か切っ掛けがいる」と言いますが、残念ながらそれはないのです。「こんなものは枯れてしまえ」と、いちじくの木を呪われたのです。常識、あるいは人間の考える客観的な世界から言うなら、そんなことはあり得ない。ところが、そういう事態になってしまった。ペテロは「これはちょっとおかしいのではないか。不思議だ、こんな事は有りようがない」と言ったとき、イエス様が「神を信じなさい」と言われた。有りそうもないこと、「どうしてこんなことが起こったのだろうか」、「どうしてこうなったのだろうか」と思ったとき、結局は「神を信じなさい」、ここに尽きる。言うならば、私たちの世の中にいろいろな理由の分からないことが多い。まさに、いちじくの木が一晩にして枯れるようなことは、実は私たちの生活にいくらでもある。あるけれども、私たちは訳が分からないから不問に付すというか、自分の考えから除外してしまう。あるいは、考えるにしても何かへ理屈を付けて「きっと、これがこうなったのだから、こうなのだろう」「あ、そういうことか」と、訳の分からない理由をつけて納得していることが多いのです。「神を信じなさい」と言われるのは、「神様がいらっしゃるのだから、神様がなさったらできないことはない」ということです。「だけど、その神様はどこにいるのだ」と疑う。「いや、いるもいないも、あなたが神を信じることですよ」。神様を信じるとは「先生がそう言うから仕方ない、信じようか」というのではない。「私が、神様がいますことを信じます」と、これが第一です。理屈はありません。時にそういうことがあります。「今度は不思議な出来事にあって、これはもう神様としか言い様がありません。こういう事態に出会った以上、神様を否定できません」と言う。その人にとって、その事態が神様を信じる一つの根拠となっているのです。しかし、そのような信じ方はやがて色あせてきます。めっきがはげます。別の事態が起こったり、自分に都合の悪いことになると「やっぱり、あれは偶然だったよ」「あれはたまたまそういうことがあったから、ああなったんだ」と、だんだん変わってきて、神様の「か」の字もなくなってしまう。私たちが神様を信じるのは、そのような自分の外側のこととしてではなくて、自分自身のこととして信じなければ、神様を信じることはできません。

 

それは、今ここでイエス様が「いちじくの木は枯れてしまえ」とこうおっしゃって、それで枯れてしまった。それに対してペテロは「どうしてこんなことになったのだろうか。見てください、先生、とんでもないことが起こりましたよ」と訴えた。その時、神様を信じない。「ここに神様がいらっしゃるのだ」と信じることができたら、あるいは神様を信じていれば、逆に何があってもおかしくないじゃないか。私たちもそうなのです。「神様を信じます」と言いながら、何かあると「どうしてでしょうか、何ででしょうか。どうしてこんなことになったのでしょうか」とうろたえて、バタバタ走り回りますが、「それは神様がなさったのでしょう?」「え!神様はこんなこともするんですか」と言う。「神を信じる」とはどうすることなのか?

 

先だっても、ある姉妹が思いもかけない出来事に出会って、立ち往生してしまった。長年、50年以上も教会に来ていて「私はこんなに祈っていたのに、神様はこんなことをしてしまって、どうするのですか。私は死んだ方がまし」と憤慨する。「それが大間違いです」と言ったのです。「神様を信じていたらこうなったと嘆かれるが、むしろ神様がいらっしゃるからこうなったのではないか」と言ったら、「神様はそんなこともするのですか!」と言われる。神様があなたを造り、生かし、ここに置いているのです。神様がいると信じるのは、自分がこうやって生きていること自体が神様によるのだと信じていなければあり得ません。自分が生きている、自分の生活は私がやっている、私が努力してきた、私が働いて頑張ってきたから、こうやって生きている。あの人のこと、この人のこと、家族のこと、いろいろな事柄については、神様がしていると思う。こんなにお祈りしているのに、神様は聞いてくださらない。「願いに答えてくれない神様なら、私知りません。もうやめたい」と言われますが、それは自分が今ここにあること自体を神様がいらっしゃるからだと認めていない。創世記の一番最初に「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」(文語訳)とありますが、この決定的な事実を他人事として考えている限り駄目です。自分のこととして……、そういう意味では、客観的なものではない。主観的なものです。神様が私を造り、ここに置いてくださったと、私は神様を信じる。これがすべてです。そういうことを人に言うと、「じゃ、あなたが神様から作られた証拠はどこにあるの?あなたは何でそんなことを信じるの?」と言われると、びっくりして、「そうだった。私はどうして信じているのだろうか?信じる根拠はなかったし、やっぱりこれは妄想というか、単なる幻想、ただ自分で身勝手に考えているだけで、客観的に何の意味もない」と疑います。しかし、神様はいないものと決めてしまったら、神様はいないのと同じです。

 

と言うのは、自分がここにいますと信じることによって初めて、存在している。私たちは客観的な存在ではなくて、極めて主観的な自分です。だから、死んで火葬されたら、そのもの自体がなくなります。何もなくなる。そのうち覚えている人もいなくなるから、私たちは存在しなかったも同然です。私たちは今ここに自分が生きていると自覚しているから、生きている。呼吸をしているから、客観的に、医学的に証明して、血液が循環して脈拍はあるから、私は生きて存在しているのとは違う。私が私であるという、もう一つ肉体の問題とは違ったところで、人は初めて生きるものとなっているのです。その「生きる」ことは、神様と結びついた事柄です。その神様は私が信じるとき初めて、神様がいらっしゃることになる。「では、私が信じてあの人が信じないから、あの人にとってこの神様は役に立たないのか」と言うなら、「そのとおりで役に立たないのです。信じないかぎりは」となります。だから、私たちの信仰は、私と神様という関係以外にあり得ない。私が神様を信じる。そして、神様はすべてのものの創造者として生きていらっしゃる。私はそう信じる。それで家族の人に、あるいは神様を知らない人に、「あなた、そんな馬鹿なことをしては駄目よ。私たちは神様によって造られたのだから、あなただって神様から造られたのだから、神様がいらっしゃるんですから……」と、いくら言ったところで、その人自身が「そうです。神様が私を造り生かしてくださいました」と信じないかぎり、その人にとって、いつまでも神様とは無関係です。いらっしゃらないのと同じです。あなたが信じる以外に神様がいらっしゃるということは分からないし、また人に説明もできません。

 

22節「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。神様がいて私がここに生きている。神様が許して私を生かしてくださっている。信じるその人にとって神様はいらっしゃるのです。存在している。それを信じない人にとって、神様はいないのと同様です。神様なき世界に生きている。だから、結局、私が信じるのか、信じないのか、これに掛かっている。家族を代表して、私が信じてあげますからというのは意味がない。これは非常に厳粛なことであると同時に極めて大切なことです。何があっても私は神様がいらっしゃることを信じていく。それが私にとって幸いなことだからです。そして、信じるとそのように神様は答えてくださいます。

 

だから、22節以下に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい。23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう』」。これはなかなか分かりにくい言葉です。というのは、受け入れがたいからです。皿倉山に向かって「洞海湾に入って、あそこを埋めてくれ」と、言ったら動き出すかと、恐らくそうなるかもしれません。なるでしょう。ここにあるように「信じて疑わないなら」と。これはどういうことかというと、神様を信じたらできないことはないのです。神様がなし得ないことはない。だから「心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成る」のです。神様を信じる。事柄を信じるのではなくて「神を信じなさい」とイエス様は言われました。神様がいらっしゃるのだから、そういうこともあるでしょう。だから、徹底して神様を信じていくと、何があっても動じない、うろたえない。ところが、何か事があると、「どうしてだろうか」「何でやろうか」「死んだらどうなるだろうか」と、神様から心が離れてしまう。神様がなさると言われるのですから、「大丈夫です。神様がしてくださるのですから」と、神様に思いを向ける、つないでいく。これがなければ、私たちの信仰はむなしい。だから、良いことでも悪いことでも、どんなことでも神様にはできないことがありません。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)と言われています。だから、神様を信じる。神様を信じるのは、私が信じるのであって「皆が信じているから、私もひとつそれでは信じましょう」という話ではない。あるいは客観的にこういう証明ができるから信じるというものでもありません。100人が100人「そんな馬鹿な」と言っても、「いいえ、私は信じます」と信じればそのとおりになるのです。その人にとって神様はそのとおりになさる。

 

 ロシアの作家でゴーリキーという人がいますが、その人の代表作に『どん底』という演劇があります。それは社会の底辺、貧しいホームレスのような人たちの生活、そこを舞台にしているドラマです。当時、まだ革命前のロシアですが、ロシア正教が中心で、神様がこうしてくださった、神様が……、と信じている。ところが、その後、どうもそうではない。この世は不公平で、富が偏(かたよ)って多くの人々が苦しむ。何の罪のない者たちが、生涯こういう貧しい生活を強いられるのはおかしい。神様なんか信じるものではない。人が頑張らなければいけないのだと。言うならば、神様を信じるのか、神様なしで人の力で行こうとするのかという話です。その中でこういう趣旨のことを語っています。神様を信じる宗教は人をだまくらかしているのだ。現実にこういう困難がありながら、それは神様の御心ですからと言って、お前たちはだまされているんだぞ。そうじゃなくて目を覚ませ!もっと現実を見よ。自分達はもっと努力をすればこんな貧民くつから抜け出せる。あるいは社会改革を起こして、富んでいる者を叩きのめしてその富を分配しようじゃないかと。その中で印象に残った言葉があるのですが、「宗教によって神様を信じて夢見ていようと、それがだまされたものであろうと、その人にとってそれが幸いだと感じておれるならば、なぜそれを駄目だと言い得ようか」と。自分がこれで安心がある、喜びがある、そう信じているんだったら、別にそれで何が不服があるだろうか。そういう人に向かって「お前、それは駄目だぞ、目を覚ませ」と言ったところで、その人がそれを捨てたら、それに取って代わって彼に安心を与えるものは何があるかと。ないじゃないか。お金か?あるいは生活環境か、あるいは何かそういう目に見える物質的なものをいくら与えたところで、その人の心を満たすことはできないと。神を信じることが私たちにとって幸いであるならば、それが最高の生涯なのです。だから「あなたは神様を信じないなんて、そんな馬鹿な。人でありながら、どうして神様を信じないのですか」と、人を説得しようとしますが、それは意味がありません。その人が信じるのか信じないのか。信じた人がそれで満足していれば、喜んでおりさえすれば、それで不安がなく、地上の人生をそれなりに喜んでおれば、それはそれで何か不足があるか。こういう考え方はあるグループの人たちに言わせれば「そんな自己本位な人生を生きるのはおかしい」と言って、攻め立てられますが、世の中のそういう客観主義と言いますか、そういうものに毒された考え方だろうと私は思います。どんな生活でも、その人がそれで満足しているのだったら、何も不足はない。ただはっきりしているのは、神様を信じていくとき、平安があり、喜びがあり、望みを持っていくことができる。それは事実です。それは信じる者にとってそうなのです。信じない人には何の役にも立たないことに違いありません。私たちは常に「あなたは、神を信じるのか、信じないのか」を絶えず問われているのです。

 

 だから、22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい。23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう』」。そのとおりです。神様にできないことはありません。そして、できないことのない神様が、いま私にこの生活を、この境遇を、この事柄を託しておられる。与えてくださっているとするならば、私たちは何の不足があるでしょうか。神を信じていくとき、私たちは神様の主権と言いますか、神様がしていることを認めなければ信じたとはなりません。神様の手の中に握られていることを、皆さん一人一人が、自分が信じることが大切なのです。どんなことの中にも、神様を信じる者として生きていく。これが実は幸いな生涯です。それは信じる人にとって幸いなのです。これを客観的に見て、そうなれば誰でも幸せですよと、信じている人はそう思いますが、信じていない人にとっては、何の喜びもありません。

 

 だから、「是非、うちの息子のために、神様のことを教えてやってください」と言って連れて来られる。でも、連れて来られた本人は苦痛でたまらない。顔を見ればすぐ分かるのです。そうすると「本当に気の毒だね」と言うしかない。「まぁ、早くお帰りなさい」と言う話になります。というのは、信じた者にとっては幸いです。しかし「私が幸いなんだから、きっとあの人も幸いになるはずだ。無理やりでも信じさせてやってください」と。「嫌と言ったら首に縄でもつけて……」と言うけれども、それはダメです。客観的な世界であれば、それは言えます。「私がこうだから、あなたもこうなるに違いない」と言えることはあります。「あの人は神様を信じないで不幸な人やね」と思うでしょう。でも、その人は「だまされてしまって、前田教会なんかに行って、あんなことでうれしい、うれしいと言っている。あれはちょっとおかしいんじゃないの」と言われるに違いない。これは主観の問題です。しかし実は、主観の問題が大切なのです。それぞれの人が自分はこれを信じるという何かを持って生きている。そうなると、「あなたは何を信じているのか?」と問われます。

 

多くの聖徒たちは神様を信じて義とされました。アブラハムも、モーセも、あるいはペテロもパウロもそうです。神様を信じたのです。それは彼ら自身が神様の力に組み込まれて、自分の人生を神様のものとして生きたのです。ダビデの生涯でもそうです。彼は常に神と共にありましたから、生活のことごとくの事柄が神様に結びつく。皆さんも自分ではなくて、神様はいつも私の生活の隅から隅までどんな所にも働いておられる御方ですと、信じていく者でありたいと思います。そうすると、すべてのことが感謝です。またこれから神様はどのようにしてくださるかという期待があります。大きな望みがわいてきます。失望することがいりません。逆に過分な期待もしなくなります。神様がなさるのですから「さぁ、これからどうしてくださいますか」と。しかも、山をも移すことのできる御方です。

 

だから、24節に「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」。「得たりと信ぜよ、然らば得べし」(文語訳)、かなえられたと信じる。いや、神様はかなえられないはずがない。神様はできないことのない御方ですから、それを信じる。「はい、願ったとおり、祈ったことについて、神様は必ずなしてくださる」と信じていくことができます。その事柄を信じるのではなくて、神を信じるのです。そして、信じた人にとって、それは大きな喜びであり、安心であり、また力となり、望みとなっていきます。信仰を捨てるのではなくて、信仰に立っていのちにつながっていく者となりたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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