いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(253)「今、主は語られる」

2014年07月08日 | 聖書からのメッセージ

 ルカによる福音書13章1節から5節までを朗読。

 

 3節「あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。

 イエス様の所に人々がニュースを伝えてきました。それは一つの不幸な出来事でした。ガリラヤ人たちが殺されて、神殿の神様にささげるべきいけにえの血に混ぜられてしまったとあります。具体的にどのような状況であったのか分かりません。神殿の中で殺害があったのかもしれません。不幸な出来事と言いますか、気の毒な事態であった。また、続いてシロアムの塔が倒れたために18人が死んでしまったというニュースもありました。シロアムの塔が倒れたのは、人為的なものであったか、あるいは自然災害、地震でも起こって倒れたのか、その辺は分かりませんが、これもやはり事故に遭って、思いがけない事態に遭って、人が死んでしまった。

 

このような不幸が起こりますと、きっと何かの祟りだと、日本でもよく言います。先祖がたたったとか、前世の因縁があったに違いないとか、いろいろなことを言って脅かされますが、イエス様の時代も同じように、あの不幸な目に遭った人たちは、きっと何か悪いことをしていたからだ、人には分からないけれども、きっと隠れたところで悪いことをやっていたのだろうという話になる。そうやって原因を探って、受け入れがたい事態をなんとか納得しようとします。

 

ところが、この時、イエス様は「そうではない」と言われる。そのような不幸に遭った人たちが、格別ほかの人たちよりも罪深かった、何か罪を犯していたのではない。となると、では、いったい誰がしたのだということになります。イエス様は、それは神様のわざであると、暗黙のうちに語っています。しかし、私たちはもっと神様の意図を知りたい。どうして神様はそのようなことをなさったのか。あの人たちだけがそんな目に遭うなんて。神様から呪われていたのだろうか?と考えます。実は、そこが問題なのです。神様がなさったことに、「どうしてなんだ」と言うところに、私たちの罪がある。神様がなさったことで、私たちに分からないことが多くあることをまず認めなければなりません。神様と私たちとの関係は、相入れない、全く次元の違う存在です。だから、神様からどのような取り扱いを受けようとも、これは当然であって、それが善かったとか、悪かったとか、私たちが言うわけにはいかないのです。そのようなことを若い人に言いますと、「そんな横暴な」、「神様は勝手ですね」と言われますが、神様がなさるわざが何のためであり、神様はなぜそのようなことをなさったのか、分からないのは当然です。これを認めなければ、神様を信じることはできません。神様がいらっしゃって、すべてのものが造られ、神様の御思いの中で私たちは生かされているのです。ところが、人は自分が神様になろうとしますから、何でも知っておかなければ収まらない。自分の許しなくして、どうしてこんなことになったのだと憤り、神様に対する怒りがわいてくる。だから、何か不幸な目に遭うと、あるいは思いがけない災難に遭うと、「どうしてなんだ!」「何でなんだ!」と言います。もちろん理由が分からないと心が落ち着かないのは確かですが、じゃあ、分かったからどうなるかと言って、どうにもなりません。大切なのは、そこでへりくだって「これもまた神様の御心であり、神様のわざが行われている」と謙そんになって認めること以外に、私どもはできないのです。ある意味では、素直に受け止めることしかできません。皆さんもよくご存じのヨブの記事が旧約聖書にあります。彼は素晴らしい人でした。

 

ヨブ記1章1節から3節までを朗読。

 

ヨブは大変恵まれた人物です。彼は子供が10人も与えられ、そして家畜やラクダ、その当時、これらは資産の指標です。これだけ持っていることは定期預金があるのと同じ感じです。自分の財産がどのくらいあるかはラクダの数だとか羊の数で表した時代ですから、今どきの何十億円になるのか分かりませんが、大変な大金持ち、恵まれた人物でした。そればかりでなくて、1節に「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」。こんな立派な人物はまたとない。物質的にも恵まれた上に、なおかつ品性においても、行動においても、大変まじめな、実に謙そんな人物です。「神様を恐れて」、そして「悪から遠ざかった」。悪いこと一つしない。家族はみな仲が良く、大変恵まれていました。4節に「そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした」。7人の息子たちは家庭を持っています。彼らはそれぞれの月ごとに日を決めて、自分の兄弟、家族、両親も含めて、みな招いて食事会をする。最近の家族には見られないような麗しい家庭です。親子げんかはないし、兄弟げんかもしない。みんな仲良く食事を共にするというのです。5節に「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた」。お父さんであるヨブは、その家族のために神様の前に執り成して祈る。何とかこの子たちが罪を犯さないように、神様に背くことのないようにと願ったのです。そのあとに「これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである」と。具体的にそういうことをしてはいないが、父親であるヨブが知らないうちに、子供たちが何か悪いことをして、神様に背いていることがあったら、それも許していただきたいと、燔祭をささげ、罪祭をささげ、いけにえをささげていました。こんな子供思いの親はないですね。立派な人物です。

 

ところが、その彼に次から次へと災難が起こってくる。まず自分の僕や家畜が取られてしまう。それに引き続いて、自分の息子たちの家にいろいろな災害が起こり、みな死んでしまう。徹底して彼はつらい困難に出会う。これほど一生懸命に神様を大切にしているのに、どうしてこんなことになったのだろうか。これがヨブの偽らない思いだったのです。でも、子供たちを失った時、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言ったのです。そこまではまだ良かった。ところが、サタンによって、今度は健康を失いました。体中に耐えられない重い皮膚病を患ってしまった。そのために灰の中を転げまわるような苦しみの中にあった。そして、ついに奥さんからも見捨てられてしまいます。何と言いますか、天国と地獄を一度に味わったのがヨブではないかと思います。とうとう彼は独りになって、悶々(もんもん)として悩みます。何を悩むか。自分の肉体がこうだから、こういう病気があるからどうなるだろうか、どうしようかという悩みではない。あるいは持ち物を失ったから、これから生活が成り行くだろうかという生活の思い煩いでもない。「こんなに私は正しかったのに、どれ一つとって神様の前に罪を犯したことがないのに、どうしてこんな目に遭うのか」と、そこで苦しんでいる。私たちの苦悩も同じことです。すぐ目先の「この病気がいつ治るだろうか」とか、「この問題がいつ解決するだろうか」とか、「助けてくれる人がどこかにいないだろうか」と、問題のほうに思いが行って、それで悩んでいると思いますが、いちばんの悩みは、「私がどうしてこんな目に遭わなければいけない!」、「どうして私がこうなってしまったの!」という、その思いが苦しいのです。だから、痛いつらいは我慢ができるけれども、そこのところの心の在りようと言いますか、その問題に対して、自分がどのように受け止めれば良いのかが分からない。そのような心の苦しみがあります。

 

私も以前病気をして「あなたはガンですよ」と言われた時、最初に「どうして私が!」と思いました。「私よりももっとそうなりそうな人がほかにもいるではないか。どうしてあの人でなくて、私なんだ」と、ついそのように思います。恐らく、皆さんも一度や二度、経験があると思います。「どうして私がこんな目に遭わなければいけない。それは私だって悪いところはあるけれども、あの人ほどは悪くない」と思ってしまう。ヨブだってそう思った。「こんな目に遭う。私はどうしてなのだろう」と。それで悶々(もんもん)とする。だから彼の三人の友達がやってきて、ヨブを何とか慰めようと、あれを言い、これを言い、いろいろなことを言ってなだめますが、一向に収まらない。問題が違うからです。私は「いろいろな悩みの中にある時、人の慰めなんてあまり意味がない」と思います。そばでいくら何を言われても、こちらの思いは違います。「何でだろうか」「どうしてだろうか」「神様がいらっしゃるのに、どうしてこんなことになった」と、そこまで考える。私たちが神様を神とすることは非常に厳しい。皆さん、周囲に悩んでいる方がいたら、あれこれ人間的な慰めや励ましは駄目です。役に立たちません。言えば言うほど恨まれます。私なんかも慰められると、「なに、自分はそんなことがないからだよ」と、「だから平気に言えるよ」と思います。だから、あまりそういう時には言わないで、黙って「早く神様に教えていただけるように、その方が早く神様に結びついて、直接神様から答えを頂くように」と祈ってあげる以外にない。

 

ヨブもそうなのです。周囲で親しい友達があれこれ言うけれども、聞く耳持たずです。ところが、そういう中で神様がヨブに働きかけて、直接語ってくださった。「ヨブよ、お前は何をそんな偉そうな事を言っているのか」。

 

ヨブ記38章1節から3節までを朗読。

 

この時、神様が直接ヨブに語りかけてくださった。「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」、「神様のご計画を疑う、あるいは神様のご計画を損なおうと、妨げようとする者はいったい誰か」と。「これはわたしがしているのだよ」ということです。だから、あなたは「どうしてだろうか」と、「その訳が知りたい」と言うけれども、「そんなにあなたが知っているというなら、今から尋ねるから答えなさい」と、神様が求めます。神様は4節以下に、次から次へとヨブに質問攻めをします。ところが、ヨブは何にも答えることがでない。

 

ヨブ記42章1,2節を朗読。

 

この時、ヨブは自分の苦しみ、痛み、その悩みを通して、神様がどういうお方であるかを初めて知ったのです。確かに、彼は神様を知っていました。しかし、神様に対する自分の姿勢がまだまだ不十分であり、不完全であった。私たちもそうだと思います。若いときの信仰は、知識偏重で、知ってはいるが、分かっていないことが多かった。自分の知識や何かで一生懸命に頑張る。その時はその時なりに、一生懸命ではありますが、しかし、ちょっと的が外れています。いろいろな問題や悩み、生活を通って、信仰を鍛えられ、試みられてきた時、聖書の御言葉は確かにそのとおりだと、文句なしに素直に受け入れることができるように変わってくる。だから、聖書を繰り返し読んでいますが、決して退屈しない。時を追うごとに、年齢を重ねるごとに、その間、いろいろな問題に度々遭って、痛い思いをして、泣いたり悲しんだり、失望落胆したりと、そういう中を通りながら、心の目が開かれていく。「なるほどそうだったのだ」「ここがこうなんだ」と、聖書の御言葉を深くくみ取るようになる。御言葉の奥にある神様のご愛を深く感じることができるようになる。そのためには、ある程度いろいろな事を通らないと分からないと思います。

 

最初に読みましたように、ヨブは品行方正、自分の義、自分の正しさを自負していた。自分も罪を犯すことがあるかもしれないが、人並みに、あるいは人よりも少しぐらいは真面目な人間、出来た人間だと自負していたところがある。自分の経験の範囲で神様を信頼し、神様にいけにえをささげ、礼拝していた。しかし、自分の健康を失い、すべてのものを失って、「どうしてだろうか」と思う。その体験を通して、初めて信仰の高みに引き上げられ、成長します。

 

その結果が42章1節以下です。2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」。神様はオールマイティー、全能の神である。アブラハムに対して神様が「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」(創世 17:1)と言われました。ヤコブにもパダンアラムから帰ってきた時に、神様がご自身をあらわして、「わたしは全能の神である」(創世 35:11)と言われた。そのように神様がご自身を悟らせてくださる瞬間があるのです。ヨブが語ったことは取りも直さず「あなたは全能の神です」と告白したことです。初めて彼は神様の何たるかを知ったのです。そして、「神様はどんなことでもおできになるお方だ」と知ったのです。神様は人の御用聞きではありません。「お前には何が必要か。どんな病気がいいか」なんて「この中から選びなさい」と、試練一覧表のようなメニュー表を出して、「ご注文いかがでしょうか」と言う神様ではない。神様が何をなさるか私たちには分かりませんが、神様はご自分の一方的な考えで、私たちを取り扱っていること、これを認めないことには、神様を信頼することにはならないのです。聖書には、神様はパロ王様をかたくなにすることもできるし、かたくななパロ王様の手から解放することもできる。神様はどんなことでもできると言われます。だから、おとめマリヤからすらも、イエス様を誕生させることができる。ましてや、死んだイエス様を墓からよみがえらせることだってできるのは当然です。だから、この時に、ヨブは「あなたにできないことはない」と、はっきりと告白しました。これはヨブにとって大きな恵みであり、収穫です。

 

そして、5節に「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」と。彼も神様が全能者であることは知ってはいた。知識として聞いてはいました。ところが、神様の前に初めてひざを折って、本当に謙そんになることができたのは、この悩みを通してです。これは誠に幸いなことであったと思います。7節以下を読みますと、10節以下にも詳しく記されていますが、ヨブの悔い改めを受け入れてくださった主はヨブの財産を二倍にし、繁栄を元に返したとあります。ある方は「先生、私はちょっと納得がいかないのです。いくら財産が二倍になろうと家族がどうなろうと、そもそもそんな悩みに遭いたくありません」と言われました。「それはそうかもしれないが、それは神様がなさることで、あなたが決めることではないでしょう」と。ヨブ記を読みながら、なおかつ「神にはできないことはありません」という意味が分からない。これが私たち人間の愚かな姿ではないかと思う。私はその方に「もう一度ヨブ記を読み直してください」と言いました。確かに「あとになってそれだけ恵まれるぐらいだったら初めからしなければいいじゃないか」と言う。これは人間の合理主義です。人の考えることです。あとでくれるなら、初めから取らなければいいではないかと。それのほうが、神様も楽でしょうと。しかし、そんな話ではありません。私たちに対して神様が求めているのは、神様を深く知り、神様の前に悔い改めてへりくだった者となることです。あとになってその財産を倍にしてくださったのは、付録であって、有っても無くてもいいようなものです。大切なのは、「あなたにできないことはありません」と、ヨブが神様を知ったことです。神様に密着する。そこで初めて神様につながるのです。これはわたしたちにも求められていることです。私たちはそのために生かされている、と言ってもいい。

 

ルカによる福音書13章3節に「あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。ヨブの場合はまだ悔い改める時が残されて、神様の祝福と恵みにあずかることができましたが、シロアムの塔であるとか、ガリラヤの人々たちはその機会を得ることができなかった。だから、イエス様は彼らが善いとか悪いとかの問題ではなくて、今この事を聞いたあなたがたがすべきことは何か?それは自らが悔い改めて早く神様のところに帰ること以外にないと、おっしゃったのです。私どもはいろいろな問題や悩みに遭うと、「どうしてだろうか」とあれこれ思い悩みます。弟子たちも心ひそかに「あの人たちは何か悪いことをしたに違いない。先祖がたたったに違いない」と、いろいろな理由をせん索していました。ところが、イエス様は、これは神様のなさることだから、人が推し量ることはできないと語っているのです。誰かがそのようなひどい目に遭った、悲しい出来事に出会ったと知ったとき、自分にそれが起こらないから「私は良かった、良かった」と言うのではなくて、「今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)とあるように、悔い改めて神様に立ち返り、憐(あわ)れみと恵みをいただく時が、今ここにあると知ることが大切です。私どもは「どうしてだろうか。あの人があんな目に遭ったのは、可哀想に何か悪いことをしたのだろうか」と、そんな原因をせん策ばかりしますが、事は神様がなさるのであって、私たちの領域ではない。

 

今年も振り返ってみますと、いろいろな事件が起こっています。先だっても、新聞のニュースを見ておりましたら、今年は中国の四川省で大地震が起こった年だったのです。あの地震で亡くなった人は7万人以上だそうです。改めてすごい数の人がなくなったと思います。イラク戦争でもそれ程の死者はいません。アメリカの将兵が死んだのは4千人から5千人ぐらいでしょうか。それとてもとんでもない数ですが、その他、イラクの一般市民が亡くなったり、テロで亡くなったりした人がいます。それだって総数はどのくらいでしょうか、恐らく7万人も一気に亡くなるなんて、これは大変な事態です。でも、もうそんなことがあったことは忘れて、平気な顔をしている。自分たちは「あのようにならなくて良かった」。以前福岡も地震が起こりましたから、次に起らないとは限らない。では、どうやって守るか……、話がそちらのほうに行く。「私たちは助かったけれども、と言っても、こちらも地震がないわけではないから、そのために何をしようか。水でも用意しておこうか、非常食を用意しておこうか」と、そういうために神様がそのことを起こしているのではない。どこかの県知事さんが「関東で大地震が起こったら、こちらのチャンスや」と言ったとか、そんなレベルの話しかできないとは、誠に情けない。「そうではない。あなたがたも悔い改めなければ」。そのような自然災害やいろいろなことが起こってきますが、その一つ一つは神様の警告です。「私にはそれが及ばなかったからラッキー」と言って、遊びほうけて、忘れてしまい、自分のしたい放題、勝手な生き方を続けるのであったら、あなたがたもみな同じように滅びる。私たちも滅びる時がくるのだと主は言われます。

 

その先、6節以下のところに、それに関連したことですが、イエス様が一つのたとえを語っています。

 

13章6節から9節までを朗読。

 

イエス様は一つのたとえを語っています。ぶどう園にいちじくを植えていた持ち主が、三年もたったが実らない。「もう切り倒してしまえ」と命じた。ぶどうの木を少しでもたくさん植えた方が、収穫があるのですから、いちじくの木が葉を茂らせて伸び放題にさせておくわけにはいかない。ところが、その園丁が、「ご主人様、もう一年待ってください」と執り成す。「私が肥料やってみますから」と。「それでも、もし来年実が実らなかったら切り倒してください」と。「いま私たちが置かれた状況はまさにそういう時代である」と、イエス様は言われたのです。神様の前でイエス様が今日も執り成してくださるゆえに、私たちは災いに遭うことなく、憐れみを受ける者とされている。だから、今でも病院には多くの人々が明日か今日かと、不安と恐れの中でベッドに横たわっている中にあって、私たちが今日こうして元気で神様の御許(みもと)に近づくことができ、御言葉を聞くことができるというのは、千載一遇の恵みとしか言い様がありません。今という時、この時、私たちがすべきことは、執り成してくださる主の憐れみが注がれている今こそ、悔い改めて、自分の生き方、歩み方、生活の一つ一つをいつどんなことがあっても主のみ前に立つことができるように整えていく。これが私たちに与えられた今の時です。この時、イエス様はいちじくのたとえを通して、今は恵みの時であると、警告してくださっています。

 

ローマ人への手紙2章3節から5節までを朗読。

4節「神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで」とあります。神様が私たちをいつくしんでくださって、愛をもって、この恵みの時を、悔い改めの時を残しておってくださる。そして、神様のご愛に導かれて、私たちが悔い改めるのを待っておられる。そんなこととも知らないで、そのあとに「その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」。神様の豊かなご愛と忍耐、寛容をいい加減に、軽くあしらってしまう、あるいは受け流しているのではないでしょうか。今が恵みの時、救いの時であることを、真剣に感謝し、喜び、自分の歩み方を点検して、絶えずいつどんなときにでも主のみ前に立つことができるように、自らを整えて生きるべきではないかと、パウロは求めている。5節に「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである」。神様が積極的に私たちを滅ぼそうとなさるのではなくて、むしろ、神様の恵みを、神様の憐れみを、そのいつくしみを軽んじて、かたくなで悔い改めない、そのような思いで過ごしていること自体が既に神様の怒りを自分に引き寄せている。あなたがたは自分から神様の怒りを自分にもらおうとしているではないかと、語っているのです。

 

「今は恵みの時、今は救の日」、今という時、いろいろな不幸な出来事や事柄を見聞きするたびごとに、自分はそうでないから「良かった、ラッキー」と言うのではなくて、「そうだ。私も今は恵みの時、主の許しにあずかって新しいいのちに生かされている」と、神様の前に身を整えて生きるべきであります。

 

ルカによる福音書13章3節に、「あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。私たちはまず自らの救いを達成しなさい(ピリピ 2:12)と勧められています。日々「恵みの時、今は救の日」、健康を与えられ、祈ることができるこの時、与えられたこの恵みをしっかりと受け止めて、それに応えていこうではありませんか。悔い改めるとはそういうことです。主のご警告を絶えず身に受けて、素直な、砕けた悔いた心をもって、神様のみ手に自分を絶えず置いていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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