いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(251)「得たりと信ぜよ」

2014年07月06日 | 聖書からのメッセージ
 マルコによる福音書11章20節から26節までを朗読。
 24節「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」。
 イエス様がベタニヤ村からエルサレムに出かけていく途中で、いちじくの木が枯れるという思い掛けないことが起こりました。それは前日の朝、同じ道を歩いていた時、イエス様がいちじくの木を見て、何か食べるものがありはしないかと近づいたところ、何もなくて葉ばかりが茂っていたのです。それで「こんな木は枯れてしまえ」と呪われたのです。弟子たちはそんなことに頓着してなかったのですが、翌日、なんとイエス様がそう言ったいちじくの木が枯れていたのです。ペテロはびっくりして、これはどうしたことだろうと、イエス様に「あなたが呪われたいちじくが枯れていますよ」と言った。そのときにイエス様は、22節「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」と言われました。

私たちも神様を信じているつもりです。しかし、心から神様を信じることは、なかなか難しいですね。神様を信じていると言いながらも、どこかで自分を信じているのです。自分の考えていること、自分のしてきたこと、自分の願いや何かを信じているから、徹底して神様を信じているかと問われると、そうではないところがある。それでイエス様はもう一度「神を信じなさい」と念を押された。続けて、23節「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」と言われた。これは大変なことです。「山に向かって『海に移れ』と言えば、そう信じるならば、そのとおりになる」というのですから。山に向かって「湾を埋めてくれ」と言えばそのようになるのだったら、世の中は混とんとして、毎朝山の場所が変わっていたとか、そんな話になりますが、これはイエス様がたとえで語っていることであって、必ずしも山が移ることを言っているわけではありません。もっとも、私たちの生活の中にも具体的な目に見える山ではなくて、いろいろな山があります。越え難いもの、またどうにも手の付けようのない、お手上げ状態の事柄がいくらでもあります。そんないろいろな山を神様が動かしなさることがある。

だから、「心に疑わないで信じるなら」とあります。私たちは「神様はオールマイティー、全能の神である」と信じます。神様にはできないことのない御方です。ところが、先ほど申し上げましたように、神様を信じることが難しいのは、そこなのです。私の命も、健康も、家族も、すべて必要な物を備えてくださっていると徹底して信じているでしょうか。建前としてそういうことを説明もするし、「そうです」と口では言います。しかし、実際の生活の中で神様が不思議なわざと力をもって、全能の力をもって、全てを与えてくださっていると確信を持っているでしょうか。案外、忘れています。そして、事情、境遇、事柄、目に見える状態で、「ああなったら、こうだ。こうだから、こうなるしかない」、「これはもうあきらめよう」とか、「これはもう望みがない」と決めて掛かっている。これでは本当に神様を信じているといえない。「しかし、先生、そう言われても、現実、目の前の問題、見ていたら不可能なことは目に見えていますよ」と。確かに目に見える状態や事柄、聞くおとずれ、人の言葉、あるいはこれまで経験したことの中から、「これ以上のことはなるまい」とか、「これはもうこうしかなるまい」と、決めて掛かりやすい。そこが、神を信じることとの攻めぎ合い、心の戦いが戦われる。失望しかけている、望みを失いかけている、「これは期待できない」、「行き止まりだ。あきらめよう」というところで、もう一度「しかし……」と。「しかし、神様はどんなことでもおできになります」と信じるのか、あるいは自分を信じるか。これは、絶えず私たちが問われるところです。

それに対して、イエス様は、24節「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」と言われる。この言葉は皆さんもよくご存じで、私も子供の時から教えられて、覚えている言葉の一つですが、なかなかこの意味がよく分からない。「分からないということはないだろう。これはもうはっきりしているじゃない」と言われたら、そのとおりなのですが、どうですか、皆さん、ご自分で祈ったことはかなえられたと信じますか? なかなかそれができない。「そうすれば、そのとおりになるであろう」と。お祈りしたら、私の思いどおりになるのかと。私たちの願いどおり、思いどおり、打ち出の小づちのように、神様が右から左に「ホイ」「ホイ」と聞いてくださると、期待して読んでいたのです。そうしている間は、どうしても分からない。「どうも現実と違うな」と思う。ところが、最近教えられたことなのですが、誠にこのお言葉のとおりだと思います。ここに「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられた」とありますが、既にかなえられているのだ、神様はおできになる。できないことのない御方、オールマイティーな御方が、祈りを聞いてくださって、それに答えていらっしゃる。「では、事実を見てください。目の前にある問題、この事柄、あの家族のこと、まだなっていないじゃないですか」と、見えるところで結果を求めようとしますが、神様は信仰に立って生きることを求めておられます。「我に屬(つ)ける義人は信仰によりて活(い)くべし」(ヘブル10:38文語訳)と、信仰によって生きるとは、神様の約束を信じていくのです。結果がどうであるとか、こうであるとか、見える状態がこうなったから、「あのようになったから大丈夫だ」とか、「いや、やはり駄目だ」というのだったら、信仰はいらない。そうではなくて、神様はこのことについては既に答えてくださった。私の祈りに答えてくださったと、信じてしまうことです。

 一人の方が、「先生、高齢の母と一緒に生活していますが、母が救われていないものですから、それが気掛かりでなりません」。それを聞いていた時、この言葉を神様が教えてくださったのです。私はその方に「お祈りをしていますか?」と。「ええ、母のために祈っています」、「祈ったら、信じたらどうですか」と。「何をですか?」、「救われているのでしょう、お母さんは」、「いいえ、まだ本人がそうは言っていません」、「では、本人がそう言ってくれたら『救われた』と言えるわけですか?」。そこのところです。家族の救いについて、よく心配なさいます。「私は10年来祈っています。でもまだ聞かれていません」と。そんなことはないでしょう。この御言に「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」とあるように、神様が、オールマイティーな神様が、家族の一人一人を救ってくださるのだと、どうして信じられないのでしょうか。いや、それどころか「すでにかなえられた」というのですから、もう救ってくださったのではないでしょうか。ところが、救ってくださっているのに、家族の行動や言動を見て、疑っている。「いや、そんなはずはない。まだ洗礼も受けていないから」と。洗礼を受ける受けないが救われたことの基準なのかというと、そのようなことは聖書のどこにも書いてない。確かに「心に信じて口で告白する者は救われる」(ローマ 10:9)ともありますから、洗礼を受けたり、告白したりすることが救いのあかしでもあります。しかし、その前に心に信じなければ、洗礼も告白も形だけです。また、そのような機会が与えられなかった人は、滅びでしょうか。時々そうやって訊(き)かれます。ところが、聖書にはイエス様の救いはすべての人を救うものとあります。例外なしにすべての人を救ってくださる。では、みんな救われて喜んでいるかというと、喜んだ姿はない。でも、人の事はどうであれ、それは神様のなさることであって、私たちは、自分が救われているのだったら、祈っている家族が救われていると、どうして信じないのでしょうか。私はその方に「お母さんのことを祈ったのでしょう」、「はい、祈っています」。「神様が十字架を立て、主イエス・キリストのあがないを完成してくださったのは、あなただけではなくて、あなたのお母さんのためでもあるのではないですか。お母さんのためにもキリストは死んでくださったのですよ」、「でも母は認めません」、「いや、認めるか、認めないか、あなたが判断することではなくて、それは神様がなさる。あなたができることは信じる以外にないでしょう」と。「神様が救ってくださった。『お母さん、あなたはもう救われているのですよ』と、どうして言ってあげられないのですか?」。ともすると、「あの人はまだ救われていない」、「この家族は救われていない」、「あんなことをして、あんな生活ぶりだと、神様から捨てられているわ」と言って、信じるよりは裁いている。だから、私はその方に「あなたがいつまでも『お母さんは救われていない。お母さんはまだ救われていない』と、お母さんを非難している。だから、お母さんに対しても優しくなれないし、わだかまりがいつもある。それはお母さんのせいではない。あなたが信じないだけです。神様はお母さんを救ってくれている」と話しました。見える状態、教会に来てくれたら、聖書を読んでくれたら、お祈りをした時、アーメンと言ってくれたら…と、そのような見える基準を勝手につくって、神様の言葉から離れてしまう。

「神を信じなさい」、「神にはできないことはない」(マルコ 10:27)と、主は言われます。神様は私たちがかかわるべき者たちを置いています。見も知らない人の名を電話帳をめくって祷告しているわけではありません。神様から託された魂として、祈り、執り成すべき人を与えられている。その魂のために祈ったならば、「得たりと信ぜよ」(マルコ11:24文語訳)です。もう完成している。ただその具体化に神様の時が来ないだけで、それがいつであるか、私たちは分からない。ここに「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」とあるように、現実が成っているとか、成っていないが問題ではない。と同時に、祈ったことについては、全能の神様、力ある御方が「人にはできない、神にはできる」と言われる。どんなことでもおできになる神様が引き受けてくださった。しかも、その御方はこれから何とかしようというのではなくて、既に救いは完成しているのです。「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)とイエス様はおっしゃいました。これは過去、現在、未来、すべての人に対して備えられたことです。だから、私はその方に「これから、お母さんに対して心を変えて、『私は祈ったことだし、神様は祈りに答えて、救いに入れてくださったことを信じます』と感謝したらどうですか。そして、『お母さん信じなさい』と言うよりは、お母さんと一緒になって、『お母さん、もう大丈夫よ。神様が救ってくださったのだから、安心して一緒にお祈りしよう』と、どうして言わないの」と。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」と言われます。神様がおできになるのに、「いや、できてない」「できてない」と言い続けるのは、こちらに信仰がないからです。自分が不信仰だからです。それでいて、「私は救われています」と。この御言にあるように、「あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」。もちろん元気な間に、お母さんを導いて、教会に来て、聖書の御言を通して、新しいいのちに加えられ、洗礼でも受けてくれたら、これで万々歳、「もうお母さんは救われた」となります。でも、それでは私の功績、努力であって、神様を信じた結果ではない。それは神様の前に大きな罪です。私たちのできることは、信じてあげること以外にない。人を罪に定めることはできません。「あれだけ口を酸っぱくして言ったのに、とうとうあいつは地獄に行った、ざまあ見ろ」と言うために、私たちは救われているのではありません。私たちが救われたのは何のためか、読んでおきたいと思います。

 コリント人への第二の手紙5章16節から19節までを朗読。

 最後のところに「わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」とあります。私たちが今イエス様の救いを信じて、「私は救われた」と喜び、感謝している。それは誠に幸いです。と同時に、同じように今なお「イエス様を知らない」と口では言うけれども、「信じない」と偉そうなことを言っているが、しかし、この者のためにも主は命を捨ててくださったのだと伝えてあげる。言うならば「あなたも赦されたものですよ」、「あなたも救われているのですよ」と、神様の福音を持ち運ぶために召された者です。偉そうに人を裁いて、「あんたは救われている」「あんたは救われていない」と、そのような裁きをするために救われたのではないのです。ただ私たちのなすべきこと、できることは、信じてあげることです。「『この方も、神様、あなたが救ってくださったことを信じます』と、あなたが信じてあげなくて、誰が信じますか」。だから使徒行伝にあるように、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(16:31)と約束されています。あなたが救われ、家族も救われるのです。なぜそうなるかというと、先に救われた者が、和解の福音を託せられた者として、19節「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」とあるように、神様はこの世のすべてのものを例外なくご自分に和解させてくださった。神様との間に罪のない者としてくださった。神様は一方的に私たちに赦しを与えてくださった。それを信じて受け止めるかどうか、これは私たちの側に掛かっている。神様があの人のために「この人は救う」「あの人は滅ぼす」とおっしゃっているのではなく、神様の救いは家族のすべての人、教会に来る来ないにかかわらず、すべての人に与えられたのです。和解が完成されている。私たちが和解の務めを果たすようにと先に召されたのです。それは私たちが執りなし、祈り、信じていくことです。19節「その罪過の責任をこれに負わせることをしないで」と、神様はすべての人々の罪を赦して和解してくださった。相手の罪を責めることをやめられたのです。罪を消してくださった。それに代えて、先に救いにあずかった私たちに「和解の福音をゆだねてくださった」。これは私たちの恵みです。

私たちに求められることは、神様は私たちの味方となってくださって、あなたのためにも最善をしてくださいますと言ってあげることです。「そんなのはダメだ」とか、「これは無理だ」と結論付けるのではなく、神様を信じていく時、常に「神様はどうなさるか」と期待する。ご家族が救われてほしいと願います。「お祈りはしているが、できるだけ救われんほうがいい」とか、「私だけは天国に行きたい。家族の救いのためには、『どうぞ、救ってください』と祈っているが、救われんやろうな、あいつは」などと思っているなら、とんでもない大きな罪を犯しています。「この者を救ってください」と、本当に願っているのでしたら、その願いを神様が聞かないはずがないではありませんか。聖書に「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」(マタイ7:9,10)とあります。涙を流してこの子のためにと祈っているその祈りに、神様は聞かないはずはない。「神を信じる」とは、神様が救ってくださったのだと信じて感謝すること。そうなると相手に対する態度が変わります。今までは私と相手と向かい合った関係でいた。ところが、彼も私と同じ神様の仲間なのですから、「一緒にお祈りしようよ」と言えばいいことです。「でもあの人はまだ救われていないから、お祈りのこともよく分からないから遠慮しとこう」なんて、そんなことを言うから、こちらの信仰までなくなる。

 マタイによる福音書15章21節から28節までを朗読。

 カナンの女がイエス様の所へ来まして、自分の娘の病気のために「癒してください」と願いました。そのとき、イエス様はつれなく断りました。ついには「子供にやるパンを子犬に投げてやるような親はいない。私はあなたのことは知らない」と言われた。その時、この女は「いや、私はその子犬です」と。「そのお言葉のとおりです。私は子犬ですが、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくではありませんか」と。この女は徹底してイエス様を信じたのです。また、イエス様以外に救われる道がないこと、助かる道がないことを知っての、背水の陣です。け飛ばされようと何されようと、イエス様から離れない。そこまでイエス様を信頼しきったのです。そのとき、イエス様は「あなたの信仰は見あげたものである」と言われた。彼女はイエス様にはできると信じたのです。イエス様以外にはできないのだと信じた。私たちも同様です。自分にできることなんてありません。殊に家族の救いであるとか、あるいはいろいろな問題を抱えた子供たちに何もしてやれない。年金生活ですから、経済力もないし、年も取って徹夜もできない。何もできないのです。そうなると、神様を信じる以外にない。まことに幸いなことです。このカナンの女と同じで、神様にどのように言われようと、すがる以外にありません。「神様、あなたはおできになります」と信じる。これがこのカナンの女の信仰です。 

その時にイエス様は「あなたの願いどおりになるように」と言われた。私はここで大変励まされます。皆さんが願っているとおりに神様はしてくださるのです。「いや、まだ成ってない」と反論されますが、結果は後付です。それがいつになるのか、神様がなさてってくださるのですから、ただ私たちは信じる以外にない。信じて喜んでおけばいいのです。ところが、信じようとしないで、目に見える状態ばかりを目を皿のごとく開いて見ていて「あそこがいけない」「ここがいけない」「ああなっている」「こうなっている」と、逐一そんなことばかりに思いを向けているから、神様のことがどこかへ消えてしまう。そして、失望し、落胆し、暗い思いになり、その挙句が「あいつなんか、もう死んでしまえ」とか「あんな者、もう地獄に行くぞ」とか「もう救われんから、もうこれは駄目や」と言って、嘆いている。

あなたが本当に願っていることは何ですか。「私はこの子が救われること、この子がこういう悩みの中にあるところから救われることです。この問題の中にあるこの子がこうなってほしい。私がこうなってこうなることが私の切なる願いです」と切に求めてください。神様は「あなたの願いどおりになるように」と言われます。しかし、願いつつも「そうなるかいなー」とか、「お祈りをしてみよう。駄目であってもいい」という気持ちだから、どうしても感謝ができません。成るか成らないか、私たちの目の黒い間に結果が出るのか出ないのか、これは分かりません。それは神様がなさること。私たちは信じることです。「あの子のために、この子のために、神様、私の願いはこうなんです。主よ、あなたはそのことについてはちゃんと手はずを整えてくださっているから有難うございます」と言い切ってご覧なさい、信じ切ってご覧なさい。そこに喜びがあり、心の平安があるのです。「これから、神様、どのようにしてくださいますか」と望みが持てる。アブラハムのように、「見れども信仰弱らず」というのがいちばん理想ですが、信仰が弱りそうだったら、見ないほうがいい。御言のほうに心を懸けたほうがいい。

 マルコによる福音書11章24節「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」。信じようではありませんか。イエス様はこのように約束してくださったのですから。時には家族の方からは、「事はそんなに楽天的に行くかな。お馬鹿さんやね」と言われる。それでいいのです。現状が大混乱の中にあっても、「大丈夫、神様はここからどうしてくださいますか。神様はオールマイティー、『できないことはない』とおっしゃる。だから私は信じます」と、言い続けるのです。「でも、将来ならなかったらどうする」と、サタンが語りかけてきます。一瞬にして心が暗くなる。そういう時、イエス様は「心に疑わないで」と言われる。「そうすれば、そのとおりになるであろう」。心に疑わないで神を信じなさい。
 
 赦されて救いにあずかっている私たちのなすべきことは、ただ一つだけです。ゆるすこと。だから、イエス様は「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ20:23)と。神様は大変大きな責任を負わせて下さる。「和解の務め」とは、そういう意味です。だから、私たちは「神様の憐(あわ)れみによって、尊いイエス様の命がこの子のためにも失われた。この人のためにも、あの人のためにも、神様は全部ご存じで備えてくださることがあるのですから大丈夫です」と神を信じていく。そして、「救われていますよ。あなたにもイエス様の救いが与えられているのですよ」と宣言してあげる特権が私たちにはあるのです。だから、「駄目よ、この人、もうあんな生活ぶりではもう救われんわ」と、あなたが決めた途端に、その人は永遠の滅びに定められるのです。大変大きな責任を私たちは負っている。私たちのできることは「あの人も必ず神様が救ってくださる」「この子も神様が救ってくださった。信じます」と言う以外にない。これ以外にない。

24節「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」。私は両親のことを振り返るとそう思います。父も母も決して「駄目」と言ったことはないし、「もうあかん、これはもうあきらめ」と言ったことは記憶にありません。私どもが「もうこれは駄目だ!」と言っても「神様はどんなことでもおできになるから、まぁ、神様がなさるわざを見ていればいい」と。「『見ていればいい』と言ったって、どうするんだ」と、いつもそうやって父に食って掛かっていたことがあります。いま思うと「本当に素晴らしい人生だな」と思います。

皆さん、何も心配はいりません。神様が万事万端ちゃんと握っていてくださる。それは自分が救われていることを信じないとできません。「あいつもまだ駄目だ。こいつもまだ駄目だ」と、人のことを駄目だと言っている時は、自分に信仰がない、救われてないのです。「あの人も大丈夫よ、この人も救われていますよ」と、言える時、自分が救われている時です。こんな救われ難い自分が救われているのですから、周囲の人々はそれよりも立派ではないですか。救われないはずがない。

 24節に「あなたがたに言うが、なんでも」とあるように、「なんでも」ですよ。「祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」。だから、不安になる時、心配がある時、祈って、「そうです。神様、大丈夫です」というところに立とうではありませんか。これが、私たちに神様が求めていることです。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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