いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(482)「信仰によって強し」

2015年02月26日 | 聖書からのメッセージ
「コリント人への第二の手紙」5章1節から10節までを朗読。

7節以下、「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。 8 それで、わたしたちは心強い」。

 教会にくると「信仰」、「信仰」と、よく聞かされます。しかし、「信仰」がなかったら、聖書の知識にどれほど通じていても、これはまさに死んだものであって、何の力もなければ、何の役にも立ちません。ここに「信仰によって歩いている」とあります。聖書では「歩く」とよく語られますが、「歩く」とは、なにも町の中を歩くとか散歩するという意味の「歩く」ではなくて、日々の生活のことを「歩く」と語っているのです。「信仰によって歩いている」、すなわち、「信仰によって生活をしている」、ということになります。「いや、信仰によって生活なんかしとらん。私は食べて働いて家族の世話をして暮らしている。それで何とか生活が成り立っている。信仰によって……、どこに信仰があるかな? 」と、そのように思うでしょうが、実は「信仰によって歩く」こと、これが私たちに最も大切な事柄です。
8節に「それで、わたしたちは心強い」とあります。「心強い」、いうならば、揺るがない、しっかりと安心に立つことができる道はここにしかない、ということです。「信仰によって歩く」に対して、その前半に「見えるものによらないで」と語られています。「見えるもの」とは何か?これは私たちの様々な生活の場、目に見えている仕事であるとか、家族であるとか、友人であるとか、あるいは、朝から晩まであれしたりこれしたり、あるいは、自分の生活のための財布、経済の問題であるとか、自分の健康であるとか、そういう私たちの肉体、それを養う諸々の生活、それらの全般を指して「見えるもの」ということです。
どちらかというと、私たちはもっぱら「見えるもの」で生きているのです。何を食べ、何を着、何を飲もうかと、まさにイエス様が「思いわずらうな」と言われる(マタイ 6:31)、そういうことがいちばんの肝心(かんじん)なものになっています。生きていくうえで食べる物も必要、着る物も必要、住む所も必要、しかも健康がなくてはどうにも仕様がない。だから健康も必要、お金も必要だし、また将来のことにもちゃんと蓄えもしておかなければいけないし、老後の心配もあるし、といって孫のことも心配だし、そういう見える生活のいろいろな事によって一日がバタバタと過ぎて行く。朝起きて夜寝るまで「あの人にこうして……」「あちらに走り、こちらへ走り」と、ほとんどが見えるもののために生活している。普段の生活は大抵そうです。毎日の生活がそういう目に見える事柄に追い掛けられるといいますか、そういう行事を追いながら生きている。これが見えるものによる生き方であります。

そういう生活をしていると、「見えないもの」の存在に気がつかない。「神様を信じている」と言いながら、神様がだんだんと遠くなってしまう。どこにいらっしゃるのか訳が分からない。神様を信じているつもりになってしまうのです。だから、信仰が形だけのものになって肝心な生活が見えるものだけ、信仰抜きの生活になる。では、その信仰とは何かというと、それは“神様を信じる”ことです。私たちの目には見えないけれども、天地万物、全てのものを創造し、今も力ある御手をもって一つ一つの問題を握っておられる。それを導いてくださる御方がおられる。その御方を信じて行くことです。ところが、私たちの日常生活は、自分が頑張らなければ、私が努力して働いて、自分が気配りをして、あの人、この人、家族の世話をして「私がいないとこの家は動かん」、「私がいないとあの主人は何もできん」、「だから、私が頑張らなければ」と、見える自分にすべてを結びつける。見えるものの中心に「自分」というものがある。「私の思っているように、私が計画したように物事を進めていかなければ、ことは上手く行かないのだ」と、生活全般に神様が働かれる余地がない。何もかも全て「あの人がこれをしてくれて、私がこれをして、この息子がこうして、娘がこうして、ああして」と、全部自分でスケジュールを立てる、シナリオを創り出してしまう。そして、そうありさえすれば安心、きっとそうなるから望みがあると安心している。いろいろな事柄を自分の思うように決めて掛る。普段の私たちの生活ぶりをもう一度よくよく振り返ってみると、そこにどれ程の神様の働いている所があるでしょうか。神様がそこにおられると自覚しているでしょうか。実は、ここが大切なのです。「私たちは見えるものによらないで信仰によって歩いている」というのは、まさに、その生活の全てが見えない神様の手に握られていることを信じて行くことに他なりません。ところが、現実の生活の中でそれがだんだんと乏しくなってしまう。

「イザヤ書」40章21節から26節までを朗読。

21節に「あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか」と、そもそも「主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる」とあります。神様が全てのものをご支配くださる。23節に「もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる」。歴史を振り返ってみますと、ローマ帝国が興(おこ)ってひと時の隆盛を誇りましたが、その国も今や姿形もありません。権勢を誇ったナポレオン皇帝もとっくの昔に消え去ってしまいました。大英帝国、「我が領土に日の沈む所なし」というぐらい権勢を誇ったその国だって一気に消え去ってしまったではないか。24節の中ほどに「神がその上を吹かれると」、どんなに力を誇った大国であろうと、帝国であろうと、何であろうと、神様がフッと一息吹かれると「彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる」。跡形もなくなってしまうではないか。そういう神様の力が全てのものをそこに在(あ)らしめておられる。そこに置いておられる。だから、25節に「聖者は言われる、『それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか』」。
神様はどんなものにも勝る力をお持ちの御方、知恵に満ちた御方です。その方が一切のものをご自分の御心のままにご支配しておってくださる。その神様がいらっしゃるのに、私たちはだんだんとそのことを忘れてしまう。いや、忘れてはいないのだけれども、それが遠くになってしまう。神様がはるかかなたに……、私たちの生活の隅っこのほうへ追いやられてしまう。神様が遠くのものになると小さく見えるのです。だから25節に「わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」と。「神様に頼ったって仕方がない」「お祈りしたって聞かれるかどうか分からない」と、だんだんと神様が頼りなくなり、信頼しなくなる。その代り、「私が頑張ってやらなければ……」「私の考えたほうがいちばん正しいに違いない」「神様はいるやろうけれども、それはそれとして……」と、だんだんと遠くへ、遠くへとやってしまう。そうすると神様の存在が小さくなってしまう。その結果、私たちの生活の中に、心の中に神様の姿が消えて行ってしまう。思いが消えて行ってしまう。これがいちばん危険なことというか、まことに不幸なことであります。だから、私たちは常に自分の思いをリフレッシュして、信仰を立て直して行かなければならないのです。気がつかないうちに、思わず知らず、そういう神様の思いからだんだんとずれて行ってしまう。見えるものに私たちは支配される。

私たちの普段の生活がそういうものばかりに囲まれていますから、余程心を強くしてしっかりと神様を見据えていないと、絶えずその御方に目を留めて行かないと、気がつかないうちに形だけのものになって、気がついてみたら、神様から心が離れて自分でいろいろなことを悩んでいる。思い煩いに満ちてしまう。「こうなったらどうしようか」「ああなったらどうしようか」「これがこうだし、あの人がこうだし……」と、そんなことばかりぐるぐる一日考えている。どうでしょう、皆さん、昨日一日、自分が何を考えていたのか。「私の老後はどうしようか、貯金が無くなったら、その次はこうなって、今、ニュースを見ると、あんなことを言っているが、年金は上手く続くだろうか。きっと何とかなる」と思いを定めるや、次の瞬間、また「いや、そうは行かんぞ……」と、同じことをズーッと考えながら一日の3分の1ぐらいを費やしてしまう。「あら、私、何しとったかしら」と。忘れているのは食事をしているときだけで、それ以外は全部心配事……。それが現実です。気がつかないうちに私たちは見えるものに捕らわれてしまう。これはサタンが私たちに仕掛けてくるわなであります。

だから26節に「目を高くあげて」と言われます。目の前の小さなことに囚われ、人の言葉が気になってグジュグジュ重箱の隅をほじくるように、朝から晩までその事ばかり考えている。「私はどうしてあんなことを言ったんやろうか」「あれがいけなかったのだろうか。いやそんなことはない。あの人はああいう性格やから……」と、そのひと言で2時間3時間が瞬く間に過ぎる。そういう小さな所に頭を突っ込んでしまう。そして神様から心が離れてしまう。これが私たちの普段の惨めな姿です。どうぞ、もう一度、「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」。そこから「いま私がここに生きているが、生かしておられる御方は誰であるか」? 万物の創造者、造り主でいらっしゃる。「だれが、これらのものを創造したかを見よ」。誰がこれらのものを創造したかと。「これら」とは、全てのことです。私たちの目に見えるものも含め、ありとあらゆる全てのものを今も造り出し、創造し、その力ある御手をもってご自分の御心のままにそれぞれを導いておってくださる。それをご支配しておられる。その神様が私たちを今日も生きるものとしてくださる。神様の御心に従い、神様の備えてくださった御業の中に私たちが置かれているのです。その神様に目を留める。「そうだ。いま私がこのことに悩んでいるけど、そうではなくてここに神様がおられる。だったら大丈夫。神様にはおできにならないことはない」。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ 10:27)オールマイティー、全能の神でいらっしゃる。神様を信じようとしないかぎり、私たちは思い煩い悩み、また失望落胆から抜け出すことはできません。私たちが「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したか」を思い、「そうだ。神様がおられる」と信じる。全てのものを造り、生かし、どのようにでも導くことができる神様がおられる。この御方に目を留めることです。その御方にいつも目を上げて行くこと、これが「信仰によって歩む」ことです。神様に目を留めていくならば恐れることがなくなる。思い煩うことがいらない。失望することがいらない。だから、神様に目を留めるのです。

 先だっても、あるご夫妻とお会いしていろいろなお話をしていました。結婚して5,6年になりましょうか。小さなお子さんを育てて一生懸命に頑張っておられるご夫妻にお会いしたのです。「こうして結婚生活をして……」と、ご夫婦とも感謝しておられる。「本当にここまで神様は恵んでくださって……」と、神様を褒めたたえていると喜んでいるのもつかの間、だんだんと話が怪しくなる。「いや、それにしても生活が困りまして……」「主人がこうで……」と、聞いているうちに「大変やね、あなたたちの生活も……」と口をはさむ、そうすると奥さんが「主人の働きが……、かい性がなくて」と、ご主人が「いや、そんなことはない。俺は一生懸命にやっているだけど……」「いや、あの時のあれは、あの仕事をあなたが断るから……」「いや、そんなことはない。あれはこういう内容だったから……」と、私を目の前にして、神様から離れていく。神様を抜きにしたらそういう話になるのです。「あのときもっとお前が……」「だって、あのときあなた……、そもそも私たちの結婚が……」と、話がそこまで行くのです。
「わたしたちは、見えるものによらないで」と言われるように、私たちはそこの所で「目を高くあげて」と、上げっ放しにしておけばいいのだけれども、すぐ目を下げるのです。目の前を見る、人を見る、事を見る。そして「あれがこうだからこうなった」「あの人があんなことを言わなければ良かったのに」「この人がこうしてくれたから変なことになってしまった」と、グチャグチャ、どろどろした沼地に引きずり込まれます。そこから「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したか」、誰が主でいらっしゃるか? 誰が神でいらっしゃるか? そこに目を留めなさい。先ほどのそういう話の中で、私も収拾がつかなくなって、どちらに付く訳も行かず、だんだんと言葉が少なくなり、頭が垂れて、祈っているうちに話が元へ戻ってきて、軌道修正して、最後は神様に感謝して終わりました。私たちは皆そうです。いつも見えるものばかりに目を留めるから、失敗するのです。

 「歴代志下」25章5節から9節までを朗読。

 これはユダの王、アマジヤが王様になったときのことであります。アマジヤは大変神様を畏(おそ)れる人で、神様を第一にした国造りを始めたのです。自分の国の軍隊を組織しました。それが5節以下にあるように「千人の長」「百人の長」と、部隊を造りまして、百人単位、千人単位という形で、そして20歳以上の戦いに出ることのできる人たちを数えたら、大体三十万人いた。ところが、彼は「三十万人では足らないのではないか。もうすこし力を強くしなければいかん」と。それで「銀百タラントをもって」と、どのくらいの金額になるか分かりませんが、そういう大金をもってイスラエルの国から兵隊を雇うのです。十万人を雇ったと。「よし、これで我が国は安泰。これで大丈夫だろう」と思ったところが、神の人がアマジヤの所へまいりまして、7節に「王よ、イスラエルの軍勢をあなたと共に行かせてはいけません。主はイスラエルびと、すなわちエフライムのすべての人々とは共におられないからです」。いうならば「十万人を雇ったけれども、この兵隊を一緒に戦いに使ってはならない」と言ったのです。なぜならば、それは神様が「駄目だ」とおっしゃっておられる。「主はイスラエルびと、すなわちエフライムのすべての人々とは共におられない」と語っています。「主が共におられない」というのは、神様がその人たちを必要としない、と言われる。アマジヤは神様を大切にした王様ですから、そう言われたら「それじゃ、これはやめるしかない」と決めました。そのとき神の人が何と言ったか。8節に「もしあなたがこのような方法で戦いに強くなろうと思うならば、神はあなたを敵の前に倒されるでしょう」。アマジヤがイスラエルの国から十万人を雇ってきて、それで戦いに強くなろうというのだったら、神様は「わたしはお前を滅ぼさせる」と言われる。その後に「神には助ける力があり、また倒す力があるからです」と。戦いに勝利するか、負けるか、これを決められるのは神様ではないか。軍隊の力ではない。これは神の人の言葉。神様は、そんなことで勝てると思ったら、神様はそれをつぶしてしまわれる。神様が付いているのだから、お前が与えられているその力でやればいいじゃないか。そう言われて、アマジヤは「そうか。それでは神様に頼ろう」となるかと思いきや、9節に「それではわたしがイスラエルの軍隊に与えた百タラントをどうしましょうか」と。話が違うのです。神の人は「神様を信頼して行きなさい」と言ったのですが、アマジヤは「それはそうだろうけれども、いや、あの時使った百タラントはどうやって回収しようかしら」と、そんなちっぽけなことに彼は心を留める。
私たちもこのアマジヤと同じようなことをするのです。「神様、あなたが全てのことをご存じで、何でも備えることができる。神様、あなたにはできないことはありません」と言いながら、「ところで、あれはどうしようか」、「あれは上手くいくだろうか」、「あれを何とかしとかなければいかんのではないか」と、神様から私たちは離れる。アマジヤは「そうか。勝つも負けるも神様次第だ」と、それを知ったのだけれども「いや、待てよ、あの百タラント惜しいことをした。あんな物をやらなければ良かった。あれがあったらもうちょっと他に使い道があったはずだ」と欲心を起こす。それに対して神の人は9節の終わりに「主はそれよりも多いものをあなたにお与えになることができます」。「そんな百タラントぐらいを、何をケチケチするのだ。神様はそれを補って余りある御方ではないか」と。
私たちもすぐちっぽけなちょっとした損失を恐れる。「あれを損したらどうしよう、こうしよう」と、そんなことを思わないで、まず神様を第一にして、神様にびたっと心を定めて、神様に信頼して行きさえすれば、そんな爪のあかのような僅(わず)かなお金のことで、どうしてギクシャクするでしょうか。皆さんが心配している金額なんて高が知れているでしょう。そんなお金ぐらい神様はお茶の子さいさい、どんなことでもできる御方です。だから、どこに目を留めているのか? 「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」と。そこに絶えず私たちの思いを向けて「これも神様、あなたが事を起こしていらっしゃる」。神様がどのようにしてくださるか、それに期待して行く。だから、思い煩うことをやめ、またあれこれ悩んで無駄に時間を費(つい)やすのではなくて、せっかくの時間を楽しく過ごすべきです。このときのアマジヤは、まさに神様を信じると言いながら、目先のことばかり計算して、あのお金はどうなるだろう、ここでやめてしまったらえらいことになる。せっかく投資したのに損をしたとか、そんな所に心がいつもとどまっているかぎり、神様に向かないのであります。だから。どんなことでも「わたしたちは見えるものによらないで、信仰によって歩く」のです。これが私たちの生き様であります。

 「コリント人への第二の手紙」5章7節に「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」と、いつも神様のことを絶えず心に覚えて行く。「このことも神様がどう導いてくださるだろうか」「いまこの心配なことを起こしていらっしゃるのも、神様、あなたです。主よ、あなたはここからどうしてくださるでしょうか」。そのことに期待して行く。これがここにある「信仰によって歩く」ことです。神様を信じて踏み出して行く。神様が共にいてくださる、神様が備えていてくださるのだったら、恐れないで大胆に、いま与えられていること、求められている所に信じて踏み出して行けばいい。「そんなことをしたら、ヒョットしたらああなるかもしれない、こうなるかもしれない」と思うのは、見える所にすぐに引っ掛かるからです。いま神様が私に「こうせよ」と求めておられることを知りながらも、つい時間を考えてみたり、健康状態を考えてみたり、財布の中を見てみたり、周囲を見回して見える所ばかりを探って、「やっぱりやめとこう。これはもう無理や」と、私どもは引いてしまう。そうであるかぎり神様の力を味わうことができません。そこでもう一度「目を高くあげて」と言われるように、「そうだ。主がおられる。神様がここから何をしてくださるか」と信じて立つ。どんな道を神様が備えてくださるか分からない。私たちが生きている間まだ結論が出ていない。主の御前に立つその時まで、見えないものに目を注いで、神様に、よみがえってくださったイエス様に、絶えず思いを向けて行く。主は私たちの生活の隅々までことごとくをご存じです。ですから、神を信じて行くことです。これが実に単純にして心強い生き方であります。
 「マルコによる福音書」11章20節から23節までを朗読。

 これはイエス様が朝早く弟子たちと一緒にエルサレムに行く途中のことであります。そこに枯れたいちじくの木がありました。実は前の日の朝、イエス様が実がないかと思って近寄ったらなかったために「こんな物は枯れてしまえ」と言われた木です。弟子たちはそれも聞いていました。「あんなことを言って、なるはずがない」と思っていたのでしょう。ところが翌朝同じ所を通ってみると、20節に「先のいちじくが根元から枯れている」。すっかり枯れてしまったのです。それを見てペテロは「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。「大変なことだ、どうしてこんなことになったのだろうか。そんなことになるはずがないのに。こんな風に枯れるなんて……」、ペテロはそこで見える状態のことだけを思っているのです。目の前に枯れた木がある。「どうして枯れたのだろうか。枯れるには理由があったに違いない」と、根掘り葉掘りその事柄の中を探ろうと思う。ところがイエス様はひと言、「神を信じなさい」と。「神様がなさったのだったら、できないことはないじゃないか。神を信じなさい」。神様を信じるならば一晩にしていちじくの木が枯れることだってあり得る。だから、イエス様は更に続けて「だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」と。神様がなさるならどんなことでもおできになる。山を海の中に移すことだって神様なら、何事もなく自由におできになる御方ではないか。
私たちはその神を信じないから失望し、望みを失い、喜べないのです。私たちは今もこの神様の手に握られて、今この地上に生かされている。私たちの生活だけではなく、この世界も宇宙もありとあらゆるものも実は神様によらないものは何一つないのであります。だから、「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」とおっしゃいます。神様が一つ一つのことを備えておられる。健康の問題にしてもそうです。私たちは自分の健康状態がどうだ、こうだと詮索しますが、それも一つ一つ神様がよしと思われることをきちんとしておってくださるのです。だから、神様を信じて、神様のなさるわざの中に自分を委ねて行くこと。これが「信仰によって歩む」ことに他なりません。このときイエス様は「神を信じなさい」とおっしゃいます。ペテロは「どうして枯れたのだろうか? 誰がこんなことをしたのだろうか。これをするにはどんな不思議な方法があるのだろうか? 」と小さな理屈の世界をこね回そうとするから分からない、理解できない。そうじゃない、神を信じる。そこで全てのものの中に働いておってくださる見えない神様に目を留めて行こうではありませんか。神様に目を留めて、目の前のことがどうであっても「大丈夫、きっと神様は必ずご自身の御心をなしてくださる」と、信じて行くのです。そうすると、そのとおりになります。

 「コリント人への第二の手紙」5章7節以下に「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。8 それで、わたしたちは心強い」と。だから信仰によって歩んで行くとき心強い。どんなものにも動かされない。どんなおとずれを聞こうと、事態に遭おうと、思い掛けないことに会おうと、そこで「このことは神様がご存じです」「神様がこのことを進めておられる」「神様の手の中にある」と、そこで信仰に立って神を信じる者となって、勝利を得させていただこうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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