いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(426)「恵みの流れ」

2014年12月28日 | 聖書からのメッセージ
 「ペテロの第一の手紙」5章6節から11節までを朗読。

6節「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう」。

 今お読みいたしました6節のすぐ前の5節後半には「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」と記されています。神様の恵みにあずかる、神様が備えてくださった祝福を受けるには、へりくだる者、また、ここにありますように「神の力強い御手の下に、自らを」低くする人である、と言われます。確かに他のことにおいてもそのように言えることであります。健康な人に医者はいらない。いるのは病人だけである、とイエス様がおっしゃったように、医者を必要とするのは自分が病気であると自覚する人です。私は、お医者さんは「気の毒だな」といつも思います。いつも会う人は病人ばかりで、健康な人ではありません。

 私も病院に掛って治療を受けます。調子がよくなると、「もう大丈夫、これでいいや」と、それっきり病院に行きません。行かないからと言ってお医者さんに「実はもうよくなりましたから、明日から行きません」とお断りする人はまずいない。黙ってスーッと消えてしまいます。逆に、もっと悪くなると「これは困った。病院に行こう」と、頻繁に出掛けます。久しぶりに行っても、「しばらくご無沙汰して、申し訳ありません」とは言わない。すぐに「早くこの熱を下げてほしい」とか「痛みを取り除いてほしい」と求めます。だからお医者さんは「実に忍耐強い方だ」としみじみ思います。相手は身勝手でありますから、痛いときとか、困ったときとか、苦しいときだけ駆け込んで来て、ああしてほしい、こうしてほしいと、あれこれ要求して、よくなったらうんともすんとも音沙汰なしとなります。「申し訳ないな」と思って、私はいつもホームドクターにそういう話をすると、「いや、それは当然でしょう。医者が必要なのは病人であって、しかも自分が病気だと思わないと来ませんよ」と言われて、「それはそうだな」と思う。いわゆる、自分は病気だから、これは何とか治療してもらおうという、求める思いがないと医者に来ることはない。時々「暇だからちょっと顔を見せてやろうか」なんて言う人はいない。できるだけ病院からは遠ざかって、あまり近づかないほうがさいわいです。自分は健康だ、と思うと行きたくない。中にはそうやって自分が病気でありながら、それを病気だと認めない人もいます。家族の者が「それはちょっとおかしい。最近、あなたは顔色が悪いよ」とか、「食欲が減っているよ」とか、いくら言われても「いや、俺は病人じゃない」と言い張る人にとっては、何をしても病院に出かけようとしません。ところが、自分が「病気だ」と自覚する。それは素直に自分の現状を認めることです。そうでないことには駄目です。「元気だ。熱は少々高いけれどもこんなものはへっちゃらだ」と言う人、「時にはそういうこともある」と言う人にとって、医者とは何の縁もありません。ところが「自分は病気だからなんとか癒されたい」と思う人は求めて行きます。そのようにどんなことでも、自分が求めないことには、得られないのであります。

 求めるというのは、下に自分を置かなければなりません。どんなことでも、上から下へと来るのであって、神様からの恵みもまた同じです。神様の前に自分を低くしなければならない。「別に私は神様の前に高ぶっている、高慢になっているとは思いません」と言われる方がいますが、「それが高慢です」と、本人は気付かないのです。

 5節に「神は高ぶる者をしりぞけ」とあります。「高ぶる」とはどういうことなのか? また「へりくだる者に恵みを賜う」とあるが、「へりくだる」とはどういうことなのか? 私たちは知っているようで案外知らないのです。「へりくだる」ということは、謙遜(けんそん)になることです。謙遜になるとは、自分が弱い者であるとか、足らない者である、あるいは自分は小さな者であることを認めるのです。人様の前に「あら、私はそんなことはできません。私はこんな小さな者です。私は到底そんな資格も値打もありません」と言って、自分を低くする。自己卑下とまで行きませんが、そうやって自分を卑しめることが謙遜だと、世間では思っています。そういう意味での「へりくだる」のは、必ずしもへりくだることにはなりません。“卑下慢”と言って、自分が弱い者であることを誇るのです。人間は実に複雑でありまして、謙遜振りながら自分を高めるのです。高等テクニックです。「私はあなたほど、そんなにできません」と言いながら、腹の中では「自分の方ができる」と思う。実にややこしいのです。

 神様の前にへりくだるとはどうすることか? 「神様、私はあなたのように力がありません。神様、あなたのように私は知恵もありません。あなたのように力もありません、神様」と言うことでしょうか。それも当たらずとも遠からずであります。神様に対して自分が弱い者であり、小さな者であることを認める。これは理の当然でありまして、「神様、わたしはあなたよりも偉いのだから」と言う人はいません。では、本当の意味で神様の前にへりくだるとは、どうすることなのか? それは自分が神様によって造られた被造物であることを認めることです。これが聖書でいうところの「へりくだる」ということです。自分は神様から造られた者にすぎない。そして神様は造り主、創造者であることを認めていく。これがへりくだることに他なりません。しかし、毎日の生活の中で自分が造られた者であることを忘れてしまうのです。造り主がおられて、その御方の許しがあっていま私はここに置かれている。そのことを絶えず自覚していくことが“へりくだる”ということです。何も殊更に自分が無能無力であること、力のないひ弱な者であることを、逐一言うことがへりくだることではありません。私たちが神様の前にへりくだるのは、自分が造られた者であること、神様の力によらなければここに存在し得ない、あり得ない自分であることを認めていくことであります。それがへりくだることであり、6節の「あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」ということです。自分を低くすることは、取りも直さず、自分が神様によって造られ、主の許しのうちにここで生かされている。許されて生きる者とされていることを認めていくことです。そうしますと、おのずから自分の歩み、生活に慎み深くならざるを得ないのであります。高慢なことが言えなくなります。いろいろな出来事に出会うとき、自分の計画したこと、思っているのと違うことが起こったり、自分の願わないことが起こると、「どうしてや!」「何でや!」と腹の中で憤る。そのとき自分が造られた者であることを忘れているのです。神様の手の中に握られている自分であることを忘れる。これが高慢です。私たちが神様の手に握られ、神様の御業によって生かされ持ち運ばれている自分であるといつも認めて生きるのです。

 6節に「神の力強い御手の下に」と記されていますが、これは言い換えますと、神様が全能者であり、神様の力によって全てのものが(私を含めて)生かされてここに在らしめていただいているのだ、と認めていくこと、これが「神の力強い御手の下に、自分を低くする」ことです。そうしますと、神様のほうが私たちをご自分の御心にかなう者としてくださる。だから、力強い御手の下に自分を委ねていく。これが私たちのいま求められる大切なことであります。ところが、ともすると日々の生活の中でそのことを忘れるのです。これは致命的であります。なぜならば、自分が造られた者であることを忘れてしまいますから、まるで自分が造り主であるかのように思い上がるわけです。「これはこうでなければ、嫌だ」とか、「これは私の思ったとおりになるべきである」、「絶対これが正しい」と主張する。「こんなことは許されません」と憤る。その思いを探っていくと、そこには被造物、造られた者としての自分を忘れてしまっているのです。だから、どんなときにも私たちは常に神様によって造られて、主の憐れみを受けて今ここに生かされていること認めていくことが大切です。

 「コリント人への第二の手紙」12章7節から10節までを朗読。

 これは使徒パウロが自分の受けている一つの弱点、「肉体に一つのとげが与えられた」と語っているように、どうしても受け入れ難い、納得し難いものがあったのです。それで何とかこれを取り除いてほしいと、神様に求めたのです。そのこと自体が彼にとってはまず高慢であった。7節に「高慢にならないように」と二度も繰り返されています。「肉体に一つのとげ」、いうならば、自分ではどうにもならない嫌なもの、何とかこれを取り除いてほしい。これさえなければ、というものを神様が与えてくださった。ところが、彼はそれが納得できないのであります。不満です。だから、何としてもこれを取り除いてほしいと、神様に求める。でも、このときの彼の姿勢は、いうならば、神様に要求するわけで、決してへりくだってではありません。ですから8節に「このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った」と。繰り返し神様に祈り求めたのです。そうしているうちに彼は初めて神様の前に自分が被造物であること、神様の手に握られている者であることを悟るのであります。それが9節であります。「主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である』」。いうならば、神様は「わたしは造り主であって、お前をそのように造ったのだ。何か文句があるか」ということです。私どもはともするとそのことを忘れます。神様が造られた。自分の性情性格、自分の身体的なことだとか、家庭状況だとか、いろいろなこと、神様が今この事を進めておられるとは思えない。「あいつが悪い」とか「これが悪い」とか「こんなことがあるからいけないのだ」と。このたびのご礼拝で教えられましたように、「わたしはアルパであり、オメガである。初めであり終りである」と神様は言われる。いうならば、全てのもの、過去、現在、未来にわたって貫いて変わらない力をもって私どもを握っておってくださる。私たちを創りだしてくださっている神様を認める。そのことがへりくだる、謙遜になることに他ならないのです。このときパウロもそうでありました。最初のうちは「これさえなければ、神様、あなたのためにどんなにでも、もっともっと大きな働きができる。これさえ取ってくだされば」と。いうならば、神様と対等な気持ちで「神様、私はこれまでこんなにやって来たんだから、もう少しできるはずだから、ちょっとこれを取ってください」という思いだったのです。それに対して神様が「わたしの恵みはあなたに対して十分である」、お前をそのようにしているのはわたしであるよと。そこを私たちが認めること。謙遜になるとはこのことです。それは人の前にどうあるか、ということとは違います。常に神様の前に自分がどういう者として生かされているかを認めていくことです。

このとき、パウロはそのことを聞いて初めて一つのことをそこで悟ったのであります。「そうだったのだ。自分に弱い所が与えられているのは、むしろ、それをもって神様がご自分の栄光をあらわそうとしてくださる」。確かにそうだと思います。私たちは生活上で「これさえなければ、これがあるから私は不幸だ」、「こんなことがあるから、私は楽しめない、喜べない。せっかくの人生を無駄にしてしまった」と思うことがあるならば、それは私たちが高慢になっている印(しるし)であります。そうではなくて、もう一度そこで「大能の御手の下に自らを低くする」。神様の御手に自分を委ねる。言い換えると、被造物、造られたものであることを認めていく。いま置かれている事情や境遇や事柄、あるいは自分が嫌だと思う状況、あるいは与えられている性情性格、身体的な条件にしても、どれもこれも神様が造っておられる。神様が「よし」とおっしゃっている。創造者であられる神様は、一つとして無駄なものを造ったわけではなく、役に立たないもの、「こんな物は無くて良いはずなのだ」というものはないのです。どれもこれも神様がご目的をもって必要だからこそ与えてくださるのですから、私たちはそこで造られたものとなりきっていく。言い換えると、神様がこの事も与えてくださる。いまこれがどういう目的であるか、何に役に立つのか、私には分からないけれども、自分にとっては今これが不幸の極み、私のいちばんの悩みはこれだ、という事態が、実は神様が必要だから与えていらっしゃる。といって、では何のために必要なのか、その先のことは分かりません。私たちはこの地上に生かされているだけであって、事の始まりから終わりまで全てを見通すことはできないからです。いま目の前にある事柄だけを主の御手に委ねていく。大能の手に自分を低くしていく。今こういうことが起こっているのは、神様、あなたが事を行っていらっしゃる。そして私は到底これに耐えられない。この重荷を負うこともできないような弱い者であることを、神様はご存じです。しかし、それに耐える力を与え、その弱い所を通してなお神様はご自分をあらわしてくださる。だから9節に「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』」。まさにそういう欠けたと思える事柄、不足している自分の状況や事柄、だからこそ、そこでこそ人の力ではない、人を超えた創造者、造り主でいらっしゃる神様のわざと力が現わされるのです。それがどのように現わされていくか、これは私たちが知る由(よし)もありません。しかし、神様は善にして善をなし給う御方です。私たちに善いことをしようとしてくださるのです。それを信じること、それが謙遜になることです。

私どもは日々の生活でいろいろなことに出会います。ともすると、自分の力が用いられるといいますか、役に立つことを誇りたいと思う。それが自分の生きがいに思います。人から喜ばれ、必要とされ、役立っている自分だ、と思いたい。その気持ちは分かりますが、それでは神様の前に立てません。それは高慢であります。神様の前に、主の大能の御手の下に自らを低くする、へりくだるのは、自分の弱さの中にこそ立つことです。だから、自分が必要とされる、あるいは皆から喜ばれていることは、幸いでありますが、その時は極めて危険な時であります。むしろ、自分が足らない、「本当にこんな……、神様に造られていながらも不足だらけである自分であるけれども、これも主が『よし』とおっしゃってくださるならば、感謝します」と、そこに私たちのへりくだる道があるのです。そうやってへりくだっていくとき、神様は弱い所にご自分を完全にあらわして、私たちをして「これは神様の御業としか言いようがありません」と、喜び感謝させてくださいます。

だから、9節に「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」。自分の足らない所、欠けた所、不足している所、だからこそ、神様はそこに働いてくださる。力をあらわしてくださるんだ。

皆さんもご本人のお証詞でご存じだと思いますが、このたびのU兄の大腿部骨折の再手術の経過は不思議に神様が一つ一つ準備してその中を通してくださいました。でも、考えてみたらご本人にとって嫌だったと思います。長いこと痛い中に置かれて、「どうして神様はこんなことをなさるのだ」と。「早く何とかならないか」と焦る。私もU兄のお話を聞きながら、手術日が次から次へと延びて行くので心配になりました。その間ちっとも状況は変わらないで痛みがひどい。いったいどうなることかな、と思っていました。そこで神様は徹底してU兄に、誰が主であるかを教えなさったのです。「お前は造られた者でしかない。造り主である神様が全てを知っている」と。日がたつにつれて兄は教会に来るにも、励んで来られるんだけれども、脚が痛くて歩くのもままならない。見ているだけで痛々しいのです。私も「主よ、憐れんでください」と祈っておりました。もっとそれ以上にご本人の祈りが必要だったと思うのです。しかし、神様の時があったのです。思いも掛けない形でいろいろな助けを神様は備えてくださった。まさに海の中に道を開くほどの御業をしてくださった。そのために必要だったのは、兄が神様の大能の御手の下に自分を委ねきる以外になかったのであります。お医者さんもいつどうしたらいいか分からない。ご本人は合併症などもありましたし、いろいろなもののバランスが上手くきちっと合わないことには、手術はできないという。そうなると、いつその時が来るのやら、分かりませんでした。しかし「へりくだる者に恵みを賜う」と、本当に神様はくすしき御業をしてくださった。ですから、兄が先の信徒会でも証詞してくださいましたが、その中で私が感銘を受けたことは、「このたびの手術は誰がしたと言って、神様による以外にない」と、「もうこれは奇跡です」と言われました。本当に私はU兄のこれまでのことを振り返ってみると、彼の口からこんな言葉が出るかと、思わしめる事態であります。忘れもしませんが、兄が奥様に引っ張られて初めて木曜会に来て後ろから2番目の席で腕を組んでにらみつけるようにして聞いておられたのです。私は「この方がU姉がいつも祈っていたご主人か」と思いました。顔を見ると「これは一筋縄ではいかんぞ」と思ったのです。ところが、神様は不思議なことをなさいます。私はこうやっていつもの集会のたびに兄の顔を見ていると、全く別人です。その表情を変えてくださった。これは不思議な神様の力だと思うのです。

それは兄だけではなく、私たち、それぞれに与えられているのです。ところが、それに気付かない。まだ、何か不足しているように思っている。そこが問題なのです。パウロも神様からの恵みは十分でありながらも「いやまだ何か足らない。これじゃ駄目だ」と思っていたのです。ところが神様は「お前はそれでよろしい。そのままでいいのだ」と言われて、「そうだった。自分が弱いから、足らないから、こういう悩みの中に、こういう苦しみの中を通して、神様の力が現れてくださる」。これが私たちの生きている目的であります。生かされている使命はそこにあるのです。ですから、私たちはいつも神様の恵みにあずかる道を歩ませていただきたい。そのために神様の大能の御手の下に自分を低くしていく。謙遜になって、神様の憐れみにあずかる者であることを感謝して行こうではありませんか。

パウロはその続きに「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と語っています。キリストの力が私に宿ってくださる。神様が私のうちに力を与えて、弱い所からご自身を現わしてくださるのだったら、感謝しようではありませんか。どんな不足があっても、足らない所があっても、神様は「わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり」、お前はそれでよろしいとおっしゃってくださるのですから、感謝して、「神様、私はあなたに造られ、あなたによって生かされている者にすぎません。どうぞ、あなたの御心のままにご自在に私を持ち運んでください」と、主の手に自分をささげていく。委ねきってしまう。そうすると、神様のほうが私たちをそこから引き上げて、大能の御手の下に自分を低くする者に、時至れば高くしてくださる、救い出してくださる御方であります。

「列王紀下」5章8節から14節までを朗読。

スリヤの将軍であったナアマンが、重い皮膚病にかかっていました。ところが、彼の下で働いていたイスラエルから連れて来られた奴隷の女性が「うちの国に行けばこんな病気ぐらいすぐ治してくれる神の人がいる」と言ったものですから、早速、スリヤの王様の紹介状を持ってイスラエルにやって来た。イスラエルの王様はびっくりしたのです。「この国に病気を癒す人なんかいるはずがない。これはきっと難癖をつけて自分の所へ戦争を仕掛けるつもりだろう」と思って、彼は大変心配になり、衣を裂いて神様の前に祈ったというのです。それを聞いたエリシャ先生が「その人を早く私の所へ来させなさい」と、使いをやりました。9節以下に「そこでナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った。10 するとエリシャは彼に使者をつかわして言った、『あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう』」。エリシャ先生の所へ彼はやって来たのです。ところが、彼は、きっとエリシャ先生が出て来て、厳かに手でも動かして、まじないのようなことをして癒してくれる、と思ったのですが、召使がやって来て「ヨルダン川へ行って七たび体を浸しなさい」と言ったきり、先生は出て来ない。彼は怒ってしまいました。自分は大国の将軍でありますから、それらしい取り扱いをしてほしいと。このときのナアマンも「失礼な、客を待たせやがって」という感じで、彼は怒って「帰ろう」と言う。しかも、よく見るとヨルダン川は濁流でした。「どうしてこんな汚い川で」と。「スリヤの国にはアバナとかパルパルというもっときれいな清流がある。そこで水に浸れば良いじゃないか」と言って、彼は帰ろうとしたのです。そのときに部下が言ったのが13節です。「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。このときの部下は大したものです。立派でした。とどめたのです。「ただ単に水につかれ、と言うだけだからいいじゃないですか。もっと大きなこと、もっと難題を言われても病気を癒してもらうためにはするに違いない。ましてや、ただ『ヨルダン川へ入れ』と言うだけだから、やったらいいじゃないですか」と。誠にそのとおりであります。プライドとか、そういう変なものがあったためにナアマン将軍はそれに気付かなかったのです。もう一度自分が病人であるという立場、そして、何としても癒されたいという切なる願い、それを持って神様の所へ来たのですから、本当に自分を低くしなければなりません。このとき彼はその部下の言葉を受け入れたのです。恐らく普段だったら、そのように部下が進言しようものならはねのけておったかもしれません。しかし、彼は幸いなことにそこでへりくだったのです。自分が弱い病人であることを認める。まさに、私たちが被造物であることを神様の前に認めていくこと。これが全ての事で必要な心のありようといいますか、態度であります。彼はそこで早速川へ下って行きまして、14節にありますように「七たびヨルダンに身を浸しました」。そうすると何と驚くべきことか、彼の肉体は「幼な子の肉のようになり、清くなった」と。新しいものに変わってしまったのです。これは後のイエス・キリストの十字架のあがないの予表でもありますが、その言葉を信じてそこに踏み出していくときに、そのように神様が恵んでくださる。

「ペテロの第一の手紙」5章6節に「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」。「神の力強い御手」、全能者でいらっしゃる神様の前に自分を低くする。被造物、造られた自分であることを認めていく。そうすれば「時が来れば神はあなたがたを高くして下さる」。「時が来れば」と、これは人の時ではなくて、神様の時があるということです。「伝道の書」にありますように「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(3:1)と語られています。そして「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(3:11)とあります。この時を外して他にあり得ないような恵みの時を神様は備えてくださる。その時が来れば神様は私たちを高くしてくださる。そこから救い出して、神様の御業をあらわしてくださって、「まさにこれは神様、あなたによる以外にありません」、「この事は、主よ、あなたから出たことです」としか、言い様がないようにしてくださる。私たちの口をして神様を褒めたたえ、感謝賛美する者と造り替えてくださる。これは神様が私たちに抱いてくださっている御思いであります。

ですから、日々の生活に不足すること、足らないこと、欠けること、いろいろなことがあります。その度に、まず自分が神に造られた者であること、神様の許しがあって今ここに置かれているのだ、と感謝したいと思う。まず、主に感謝して、主の御手に自分をささげて、全てを委ねて、創造者、造り主でいらっしゃる神様が、私のために限りないご愛をもって計画してくださることがあり、導かれることがあり、やがて時が来るならば、私たちをそこから高くして主の栄光、神様を褒めたたえる者としてくださるからであります。

神様のご計画、御思いを日々味わい、体験して行きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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