いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(76)「試練のなかで」

2013年12月06日 | 聖書からのメッセージ
ヘブル人への手紙2章14節から18節までを朗読。

18節に「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」。
世の中には、たくさんの宗教があります。その信仰のありようを大きく分けますと、二つに分かれます。一つは他力本願と言われているもの、もう一つは、自力本願です。自力本願とは、自分の力で修行をしたり、訓練を受けて、努力して、なんとか救いや悟りに達するものです。自力の世界です。その代表が禅宗などであります。それに対して他力本願では、自分の力では何もできないから、神様や仏様になんとかしてもらおうとすがることです。真宗であるとか、浄土真宗などがその系統です。そうすると、キリスト教は、どれにあたるのだろうか、自力か、他力か。

そのことには、懐かしい思い出がありますが、亡くなられたTさんが、まだ結婚なさる前後、20代くらいだった頃、よく牧師館を訪ねて来て、父と信仰の話になります。Tさんは聖書を一生懸命に読んで、どうも聖書の中には矛盾していることがある。こちらではこう言い、あちらではああ言うと、先生、どちらが正しいのですか?と、疑問を投げかけます。父も若かったから、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論になります。私はまだ小学生くらいで、そばでじっと聞いていました。細かいことはよく分からないが、今でも記憶に残っているのは、夜中の12時、1時くらいまで、議論をします。そのころは求道心に燃えていますから、聖書を読むごとに疑問がわいてくる。その一番の疑問は、聖書の中には、こちらにはこうしなさいと、あちらにはああしなさいと、違うことが言われている。Tさんは、特に「ローマ人への手紙」に心酔していましたから、「ローマ人への手紙」を読んでいると、神様が全部救いを全うしてくださって、ただ、任せなさい、信じればいいのですと書いている。ところが、「ヤコブの手紙」には、信じるだけでは駄目だ、行いが伴わなければ、行いとは自分がすることではないか。そこで、信じるだけでいいのだろうか、何もしないでいいのだろうか、いや、やはりしなければいけないと議論が続きますが、結論はなかなか出ない。

最近、自力なのか、他力なのかと考えると、自力でも、他力でもないのがキリスト教だと思います。また、両方とも含まれているとも言えます。私たちにとって、救いは、苦しみや悩みや、困難の中から救われることをイメージとして持ちます。例えば、火事になって火の中に取り残されているところに、消防車が来て救い出される。あるいは、おぼれている人がいる。そこへ救助隊の人がやってきて飛び込んで救い出してくれる。あるいは、急に発熱したり、たまらなく痛くなったりして救急車を呼びます。救急車が来て運んで行ってくれます。

これは一つの救いではありますが、イエス様の救いは、そのような問題別に救うと言うのではない。そのように問題ごとに、おぼれているから、そこで救助隊が来る。病気だから救急車が来て病院に運ぶ。何か経済的に困っているところだから、こうして解決が与えられるという、そのためのイエス様ではありません。では、私たちの救いとは何か? 根本的な人生の生き方、土台、その方向性が変わることです。繰り返し申し上げますように、「コリント人への第二の手紙」5章に「生きている者がもはや自分のためにではなく」とあるように、イエス様の救いにあずかるとは、自分のために生きる生涯ではなくて、「死んでよみがえったかたのために、生きるためである」のです。イエス様のために生きる者へと変わる。人生の方向といいますか、向きが変わる。

救いの根本は罪の赦(ゆる)しです。神様を拒んで、神様をないがしろにして、神様を知らないで、自分の知識と、自分の努力と、この世の中の習慣やしきたりに頼って、あるいは、自分の感情、自分の損得利害などの情欲にしたがい、自分の自我に立って、これが絶対正しい、これは絶対許せないという世界に生きていた。だから、心に「これは絶対に」と思ったとき、あんな人は絶対許せないと言ったとき、自分が神様になっているときです。あるいは、私が言っていることは絶対間違いがないと言うとき、私が神様になっているのです。そのような生き方をしてきました。その結果、あそこでぶつかり、ここでつまずきと、満身創痍、傷だらけ、生きる望みを失い、生きることをのろうような生涯、ヨブのような苦しみの中に生きていたのです。

そこから、私たちを救い出してくださった。その救いは、個別の事柄の救いではない。中には、イエス様の救いもそのようなものだと思っている方もいます。教会にある方が一生懸命に通ってこられる。それで、私も熱心だなと思って、つい熱を入れて一生懸命にします。半年くらい各集会休まずに来ている。ところが、ある日からパタッと見えなくなった。どうしたのかなと思って聞いてみたら、問題が解決した、心配がなくなってしまった、もういいですと言う。それはまさに、救急車で運ばれておしまいと同じです。

私たちは、どちらかと言うと、そのようなたぐいの信仰を考えやすい。これは日本人がなかなかイエス様の救いにあずかれない大きなブロック、妨げの石だろうと思います。目先の対症療法としての救いを求めようとする。ところが、イエス様が与えてくださる救いは、もっと根本的なものです。自分の生き方、その根底が変わる。自分が中心になって世界が回っていた生き方から、神様を中心として、私が神様に仕えていくものと変わっていく。これは、天動説から地動説への、ガリレオの問題どころではないくらい、大変な世界観の変革です。だから、毎週礼拝に集い、また、ウイークデーでも神様のところに来て、御言葉を聞きながら、神様を中心にして、神様に仕える者としての生涯を歩みます。世の中の人は、そのような信仰のあり方がわかりません。熱心に教会に行かれるけれども、あなたは、何か心配事でもあるの? と尋ねられる。そんなに毎週毎週日曜日、ほかの人は遊びに行くのに、熱心に教会に通っているけれど、ご家族に何か問題でもおありなのですかと心配された方がいます。そんなものは何もない。なぜなら、そうやって神様を第一にしていくことが、新しい人生だからです。

ある伝道者の方のお証しを読んだのですが、彼が食道のガンになったのです。そして大学の附属病院に入院しまして、手術を受けた。ご本人は、伝道者ですから、イエス様を信じて、感謝して過ごす。自分の死を知っていました。先生は、毎朝、聖書を開いて読んで、祈って感謝してという生活を病室でしながら、治療を受けていました。ところが、あるとき、同室の人たちがちょっと集まって、暇だからひそひそしゃべっているのが耳に聞こえてきた。あの方はもう後がないそうだ、あんなに熱心にお祈りをしているのに、効き目がないのだね、かわいそうにね、という言葉が聞こえてきた。世の中の人は、救いとはそのようなものだと思っている。私はイエス様に買い取られて、もう私のものではない。これは本当に大きな救いであることを確信したと書いていました。

確かにそうだと思います。お祈りして、あんなに熱心に教会に行っているのに、あんな病気になって、あんな不幸な目に遭って、あんなことになってかわいそうにと言われますが、それは神様を知らない人たちの言葉です。でも、彼らの中には神様を信じている、知っているという方もいるのですが、その内容が違います。私たちの救いとはイエス様が生涯を変えてくださったことです。その結果、絶えず、朝に夕に24時間365日、神様、神様と、神様を信頼し、神様を主とあがめて、その方に仕える者となっていることなのです。だから、私たちは幸いです。救急車が来て、あるいは救助隊が来て、救い出して、はい、事が終わったから、さようなら、後は勝手にやってくださいという救いではなくて、イエス様は、私たちのために死んで、そしてよみがえって、今度は、絶えず私たちと共にいてくださるのです。ところが、私たちは、共にいてくださるイエス様に、おんぶに抱っこされていくものだと思いやすい。イエス様がいつも私と共にいてくださって、何でもやってくださるから、果報は寝て待てと、横になって楽をしようというのではありません。それはイエス様の救いではない。

今読みました18節に「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」。イエス様は、人の姿をとって、肉体をもって弱い者となってくださいました。イエス様は、神の位にあった方、神ご自身でもあり、パーフェクトな方です。どこ一つ欠けたところのない方が、あえて、私たちと同じこの地上の罪の世界に身を置いてくださいました。

ヘブル人への手紙4章14節から16節までを朗読。

15節「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」。先ほどの言葉にもあったように「試錬の中にある者たちを助けることができる」。同じ試練を受けたからと。確かにそうです。“同病相憐れむ”という言葉がありますが、同じ病気をすると相手の気持ちがよくわかります。自分自身そう思います。だから、頑丈で病気したことがない、熱一つ出したことがないという人は、弱い人のことがわからなくて、思いやれない。頭ではわかっても、それに届くということができません。

私もガンの宣告を受けて治療をしました。2年程前になります。病気がわかったのが5月だったのです。その前の2月に名古屋に行きました。親しくしている一人の姉妹のご主人が肺ガンでした。そのご主人も前の年の秋に胸に腺ガンがあり、調べたらリンパ節にも転移していることがわかった。その方は、手術を拒み、一切の治療を止めました。今のところガンの細胞が動いていない。ご本人もお医者さんですから、自分の状態は良くわかっている。だからこれ以上は何もしない。ただ、免疫力を高めるために散歩をしたり、食べるものに気をつけたり、きちんとした生活をするようにしています、と言っていました。2月にお会いしたとき、「よかったですね。できるだけガンと仲良くしてやってください。ガンが眠っていてくれたらいいですね」と言ったのです。私がガンを宣告されたのは、その3ヵ月後です。自分がなってみて、なんとごう慢なことを言ったことかと思いました。相手の思いに達し得ないことにしみじみと思い至りました。そんなえらそうなことを言ったから、では、お前、なってみたらどうだと、神様は、実にねんごろにそうやって教えてくださいました。今はよくわかります。本当に痛いほどに相手の気持ちが、「ああ、そうだろうな」とわかります。そういう意味で、いろいろな試練に会うことはうれしい。いろいろなことがわかってきます。生涯、死ぬまで病気一つしたことがない、入院一つしたことがない人は気の毒です。世界が狭いから、いろいろなことがわからない。神様はいろいろなことに私たちを会わせてくださいます。それはお互いが相手を理解し合うことができるようにするためです。イエス様は、「わたしたちの弱さを思いやること」ができように、あえて、神の位にいた方が、人となって弱さを知り、私たちと同じ暑い、寒い、痛い、苦しいこともわかる方になってくださった。ですから4章15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。イエス様は私たちの思いを知り、言葉にならない心の隅々にまで達することのできる方となってくださった。どうぞ、このことを感謝したいと思います。だから、どんなときでも、祈ることができます。言葉では自分の気持ちを全部表しきれない。でも、イエス様は、知っていてくださいます。「ローマ人への手紙」8章にあるように「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。

15節以下にありますように、「わたしたちと同じように試錬に会われたのである。16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。だから、遠慮しないで、まず、イエス様のところへ来て、すべてを打ち明ける。人に言ってもわかりません。やはり今申し上げましたように、同じ悩みを持たないと、同じ試練に遭っていなければ、夫婦であろうと、親子であろうとわかりません。「痛み」もそうです。腰やひざが痛いと皆さんが日ごろ経験なさる。でも、いくら家族に訴えても、「ああ、痛いの? じゃ、休んでいたら」と、そのくらいですね。どんな痛みかなんてわからないですよ。体が一緒ではないのだから。体が一つにくっ付いたシャム双生児という方が、ときにいます。ああいう方は、相手が痛かったら、自分も痛いのだろうと思うのです。ところが、私たちにはそれがない。ある意味では幸せであると同時に、また、通じ合えないものがあります。ところが、イエス様は、どんなことでも知ってくださいます。

イエス様が知ってくださって、「時機を得た助けを受ける」ことができる。どのような助けでしょうか。救急車で運ぶように、イエス様が私たちを運んでくださり、痛みを取り除いてくださるのでしょうか。お祈りしたら、イエス様は私の痛みのことを知っているから、瞬時にパッと痛みを止めてくださるのでしょうか。確かにそのようなこともできるに違いない。そのようなことが福音書には記されています。ところが、イエス様は、もっと素晴らしいことをしてくださる。それは、弱い者、悩みの中にある者、苦しみの中にある者とそば近くに共にいてくださって、苦しみを味わってくださる、知ってくださる。そして共に寄り添ってくださるのです。これは大きなことです。イエス様は、その力でもって私たちの悩みを一瞬にして取り除いてしまうこともできますし、また、事実それをしてくださるに違いない。しかし、そのような対症療法として痛みや苦しみを取り除くばかりでなく、魂の内側にある不安や恐れの中に、主が共にいて安心を与え、寄り添って、痛んでいるところに手を添えてくださる。これがイエス様が与えてくださる祝福であり、救いです。それは信じる者に与えられるのです。

コリント人への第二の手紙1章3節から5節までを朗読。

この3節に「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神」とあります。詩篇103篇には「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる」と記されています。愛なる神とも言われます。しかし、ここだけです。「慰めに満ちたる神」と記されているのは。「慰めに満ちたる神」がいてどうなるのだ。もっと力強く、全能の主であるとか、そのようなことのほうが役に立ちそうに思えます。しかし、「慰めに満ちたる神」のほうが、大きな力だと思います。なぜなら、今の4節に「いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり」とあるでしょう。患難にいるときに慰めるよりは、早くその患難から救い出して、患難を取り除いてくださったらよさそうにと思いますが、私たちにとっての救いは、イエス様が慰めとなって、どんな中にも共にいてくださる、そして私たちを慰めてくださる。その慰めにあずかるとき、人は力を得るのです。本当の意味の慰めは、ただ言葉だけではなくて、何も言わなくても、病気で寝ているときに、高熱に浮かされて、あるいは、痛みの中にあっても、そばに寄り添ってくれる人がいて、何も言わなくても、手を握ってくれる人がいたら、その苦しみに耐える力が与えられます。限りある人ですらもそうですから、イエス様はどんな中にあってもそばに共にいて、私たちを慰めてくださいます。それによって、その患難を越えていく力が与えられるのです。これは、ある意味では自力の世界です。神様が私たちに力を与えてくださる。私たちの力を百倍にも二百倍にも変えてくださるのが、イエス様の慰めです。

褒めるのもそうですね。頭ごなしに、どやしつけて励まそうとしても、これは駄目です。萎縮してしまって、出るはずの力も出なくなって、できることもできなくなります。最近の冬季オリンピックを見ていたら、日本の選手はそうかもしれません。皆プレッシャーに弱い。国のため!なんて思っているから、もっと励まさないと力が出ません。あなたはできるよ、上手だよと、おだてるわけではありません。口先だけでは駄目です。心からそうやって褒めてあげると、思わない力を発揮する。その人になかった力を現します。だから、子どもは褒めて育てよと。ところが、親としては褒めすぎたらどうなるかと、そればかり心配して、しかっておこうと思いますが、それは間違いです。褒め過ぎてもかまわないくらいにすると、思いもかけない力を発揮してくれます。

それと同じで、神様は私たちのうちに本来力を与えてくださっているのです。その力を出せないでいます。神様は忍耐力を与えているのですが、耐え切れないでいるのは、プレッシャーに弱く、しかられ続けて、とがめられて罪の縄目の中にいるからです。だから、私たちを解放して、今度はイエス様が共にいてくださる方となって、どんな試練の中にあっても、4節「神は、いかなる患難の中にいる時でも」、主は同じ患難を、試練を受けておられて、私たちの思いを知ってくださっている。だから、私たちの思いの深みにまで届いてくださり、主の慰めを受けるとき、気が付かないうちに喜びと命と力があふれてくる。ですから4節に「わたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである」。自分は人を慰めるどころではない、自己憐憫(れんびん)に陥って、私は何とかわいそうなのでしょうと、思い込んでいる。しかし、神様はあなたには私がいるではないかと慰めてくださる。神様は私の思いを知ってくださって、私たちの祈り、つぶやく、あるいは嘆くような祈りを、知り尽くして、聞き届けて、励まし、慰めてくださる。今度は、人を慰めることができる者に変えられるのです。これは神様の大きな力です。そして、神様の力を受けて、私たちができなかったことができるように変えられます。

ピリピ人への手紙4章11節から13節までを朗読。

ここで聖徒パウロは、どのような境遇にあっても、それに対処する秘けつを知っていると言っています。私は弱くても、私は足らなくても、13節に「わたしを強くして下さるかたによって」、力を与えていただく。どうやって神様は私たちに力を与えてくださるのか。私たちを慰め、褒めてくださるのです。神様が私たちと共にいてくださって、「ああ、そうか、お前の気持ちはよくわかった。大丈夫だよ」と励まされるのです。人の慰めや、励ましではなくて、みことばを通して、主が慰めてくださる慰めと、主が励ましてくださる中から、「そうだ、神様が、私をかえりみてくださっているのだから、大丈夫です」と、問題や事柄に勇気と力を持って立ち向かうことができる。また、それを乗り越えていく。これが自力です。自力と言いますと、自分の力のように考えますけれども、神様が与えてくださる力を十二分に発揮できるように励まし、慰めてくださるからです。

イザヤ書の43章には「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない」。また、詩篇23篇には「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」と。主が共にいて、水の中、火の中、川の中でしょう。神様が、共にいてくださるのなら、そんな火の中を通さなければいいのに、また、どうして水の中に……と思いました。しかし、今はそうは思いません。そのような中を通して、神様の恵みを味わうことができる。神様は、その中を通らないと、知り得ないことがたくさんあることを知っています。しかし、主がいなければ、火の中を通るだけで、私たちは一気に燃えて消えてしまいます。水の中でも主がいなければ、耐えられません。しかし、主が慰めをもって共にいてくださる。また、試練に遭うとき、試練を知り尽くした主が私たちと共にいてくださいます。主が私たちの心の中に共にいてくださって、慰めてくださいますから、患難や試練に遭うことを恐れないで、立ち向かおうではありませんか。

「ヘブル人への手紙」2章18節に「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」。そのとおりです。神様は、試練の中にある私たち、悩みの中に、苦しみの中に、悲しみの中にある私たちの思いを知ってくださって、私たちに寄り添ってくださる。私たちを慰めて、その慰めをもって強くしてくださる方は、どんなことでもできるように、私たちを励まして力を呼び起こしてくださいます。そして、耐えることができるように、乗り越えていくことができるようにしてくださる。また、その慰めをもって、多くの人々を慰める者へ変えてくださいます。ですから、いつもどんなときにも、イエス様が私と共にいる大きな恵みとご愛を感謝していきたいと思います。

ただに、目先の救急車のような救いではありません。イエス様の救いは私たちを根こそぎに完全に新しくして、神様の手の中に私たちを置いてくださいます。主が持ち運んでくださると聞くと、つい「私は何にもしないでいいのか」と思いますが、そうではありません。私は駄目ですと、意気消沈していたところから、神様の慰めにあずかって、私ではない、主が働いてくださると信じて、一歩を踏み出していくとき、神様は新しい力と恵みを注いでくださいます。主は試練の中にある者と共にいてくださるのですから、主を呼び求めてまいりたい。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。






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