いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(435)「主を尋ね求めよ」

2015年01月08日 | 聖書からのメッセージ
 「イザヤ書」55章6節から13節までを朗読。

 6節「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。

 これまでの生涯を振り返ってみたとき、幸いだと思えることは幾つかありますが、中でも幸いなのは神様を知る者としていただいたことです。私は牧師の家庭に生まれて、生まれながらに神様と一緒に生きていたというか、記憶に残る最初から神様が常にそばにいたようなものでした。自分の好むと好まざるにかかわらずそういう境遇に置かれたことは、今になって感謝だと思います。しかし、ズーッと喜んだわけではないのです。そういう境遇に生まれた身の不幸を嘆いて、人生をはかなんだことがあります。高校生ぐらいから思春期に入ります。それまでは比較的おとなしい素直なできの良い子であったのです。成績はどうであれ親にとっては非常に扱いやすい子であったと自分なりに思っています。ところが、あるときからだんだんと自我に芽生える。どうも自分の生まれ育った境遇に疑問を感じ、不満を覚えるようになりました。そうなると「どうして自分はこんな牧師の家庭に生まれたのだろうか。もう少し親が普通の人のようにサラリーマンであってくれたらどんなに良かっただろうか」と。なぜかというと、経済的な問題があったからです。常に我が家は文無しであり、ピーピーしていましたから。「これは神様のたたりだ」と思っていました。「我が家は貧乏の極みだ」と思っておりました。後になって両親の話を聞くと、「その頃、自分たちは貧乏と思ったことはない」と。息子たちが「我が家は貧乏だ」と言うのを聞いて「ほう、うちは貧乏なのかな」と自分は思ったと言うのですから、能天気な親だったと思います。学校での友達の親は大抵、八幡製鉄所、今の新日鉄ですが、そこに勤める人が多かったのです。八幡製鉄所に勤めている家の子供たちは、なかなか羽振りがいい。給料の度ごと、ボーナスの度ごとに着る物、持ち物が変わる。自分は年中着たきりすずめで同じ物です。小学校時代のクラス写真、私などは3年ぐらい同じ物を着ている。そういう境遇の中におりましたから、「どうも、神様というものは厄介者だ」、「そんなものがない所に行きたい。そんなものを信じないほうがいいに違いない」と思った時期があります。親から、また神様から逃げ出そうと思いました。「神様から離れて行こう」と思いました。できるだけ遠くの学校へと行きました。しかし、今度は一人っきりになるわけです。それまで親の元にいましたから、確かに物は乏しくはありましたけれども、食べるに事欠くことはありません。「おなかがすいた」と言えば、何かが出て来る。その頃は冷蔵庫などが普及していなかった時代でもありますが、家に帰れば取りあえず水屋の中におにぎりやふかし芋などがあって、自由に食べられた。ところが、家を離れて下宿生活です。まず食べることに苦労しました。朝と夜はまかない付きでありますから食事が出ます。お昼は自分でしなければなりません。与えられた自分の手持ちのお金は限られていますから、その中でやり繰りをしなければならない。仕送りはほんの僅(わず)かですから、奨学金をもらったときは気も大きくなってごちそうでも食べようかと。といっても、ラーメンにチャーハンをつけますが、それでも豪華な食事になる。ところが、だんだんと手持ちが少なくなってくると、考えるのが鬱陶(うっとう)しくなる。朝と夕食はまかない付きでしたから、そこで思いっきり食べて後は抜かすこともできました。ところが、就職をしてアパートで一人暮らしになりました。そうしますと、朝食べて昼食べて夜食べる。「どうして人は3回も食べるんだろうか」と考えてしまう。食べ終わったらまた次を考える。「何とか1回で済む方法はないかしら」と思いました。しかし、若いからすぐおなかがすく。今なら、1日1食だろうと2食だろうと構わないのですが、その当時は苦労しました。人が生きることは食べることだと自覚したことがあります。そういう生活の中で、初めて人の力の限界、自分で何でもやれる、と思って飛び出してはみたけれども、生活のいちばん基本である食べること自体がままならない。そればかりか、他にもいろいろなことで自分の力の限界、しようと思ってできない、こうありたいと思ってもできない。そういう自分の弱さ、周囲に家族がいませんから、風邪でも引いて横になっているといろいろな思いが心に湧(わ)いてきて収拾がつかない。そういう体験をしつつ、人は自分一人の力で生きることができない。そればかりか、自分がどんなに小さな弱いはかない者であるかを痛切に感じました。そういう経験を通して初めて「人は神様を頼らなければやれないのだ」と悟ったのです。

世の中に宗教とか、神や仏というものがたくさんあるのは、多くの人がそれを感じるからでしょう。人生は必ずしも自分の思いどおりに行かない、願いどおりに行かない。いやそれどころか思わないこと、考えないことのほうが多い。こうしたいと思いながら思いどおり事が進まない。これが良いと思いながら全く裏目に出てしまう。人生の運、不運、そういうものの中に翻弄(ほんろう)されている自分、多くの人の心に安らぎ、安心を得たいという願いがある。その結果、神なるものを創(つく)り出していく。確かに、周囲の社会を見ていますと、あちらこちらにいろいろな神々が置かれています。私の父が子供の頃、郷里の実家は仏教信仰に熱心な家庭でありました。そればかりでなく、井戸に行けば水の神様、便所に行けば便所の神様がいる、そういう時代だった。どこにでも神様がいる。だから、お正月の餅(もち)をつくと鏡餅というのがあります。床の間に大きいのを一つ飾っておしまいではなく、玄関にも、あちらにもこちらにも飾る。自分の不安感、自分の頼りなさ、人間の弱さを表したひとつの行為であります。何とかそれで思いがけない不幸や災難から自分を守ってほしいと、それが人の心の奥底にある思いであります。人が神を求める、自分の力を超えた大きなものにあこがれることは、人間が生まれつき持っているものです。これはどんな人にもあるのです。『神は死んだ』と言った哲学者がおります。「私は神なんか信じない」と言う人もいます。私の知っている高校の物理の先生は「私は教育一本で行きます。科学は信じるけれども神様は信じません」と言われました。科学を信じるという、その人は科学が神様というわけです。神様を否定する人はそれに代わる別のものを神にしているだけのことです。ある人にとっては、経済力を神にしているでしょうか。あるいは、人を神にしている。あるいは、自分の仕事、家柄、「これが私に安心を与えてくれるもの」というものを握っています。たとえ、神や仏といわれる、伝統的なものを拝むことはしないが、人はどこかで何かにすがらなければ、何かによらなければ自分一人では立てないのであります。そこで何に頼るか、これが実は問題です。頼るものを間違えたらとんでもないしっぺ返しをうけます。「これが大丈夫」と頼ってみたところ、それがとんでもない落とし穴であったりします。よくニュースに取り上げられる「霊感商法」であるとか、新興宗教的なものに引っかかってしまう。人は本当にそういう意味で弱いのです。だからそういうものにだまされない、惑わされないにはどうするか? 目を見開いてどれが正しいか自分で判断してやろうとするのは間違います。自分にそもそも判断力がないのですから。私たちはすぐにそういうものにだまされる。考えなければならないのは頼ろうとしている相手、神様であれ仏様であれ、それが全ての人類、自分一人ではなく多くの人にとってどういう御方であるかを明らかに知ることです。

社会にはいろいろな神社があります。そこにご神体として祀(まつ)られている神様がいるわけです。でも、それがどういう神様であるか、何であるか、案外と誰も知らないままに拝んでいます。近くに『護国神社』という立派な神社があります。素晴らしい中庭と立派な拝殿があります。周囲のけん騒から離れて鬱(うつ)そうとした木々に覆われた静かな所です。散歩をするにはいい場所ですが、しかし、私は何がご神体なのかは知りません。戦争によって犠牲になった人たちの霊を祭っているそうですが、祭られた人たちが神になっていると思うのですが、考えてみたらそれはあまり有効な方法とも思えない。皆さんが死んで神として祭られ、お孫さんや曾(ひ)孫さんや玄孫(やしゃご)さんが将来拝みに来たとき、何ができますか? できないです、私たちは。いくら私が「神になりました」と、名前を付けられて「ご神体です」と言われても、そもそも何もできない人間がいくら死んで祭られ「神様になりましたから何でもしてあげましょう」とはいかない。そんなことはちょっと冷静に考えたら分かることです。人は神様を求めている。これは疑いのない事実であります。ただ、何を求めているのか? 聖書に語られている神様は、万物の創造者であられる。

「創世記」1章1節から5節までを朗読。

1節「はじめに神は天と地とを創造された」。はじめに神がおられて、それまでは何もなかったということです。神様がおられるだけで他に何もなかった。そこに神様が天と地とを創(つく)られた。これは私たちの想像を超えた神様の宣言であります。いろいろな民族に創造神話というのがあります。自分たちの民族がどのようにして生まれてきたかを語る。日本にもあります。そういう創造神話の特徴は、ある一つの地域であり、一つの民族に限られた事柄であります。だから、日本の創造神話を見ますと、神様がドロドロッとしたものを混ぜているうちに、ヒョッと持ち上げて滴(したた)った滴(しずく)が固まって日本ができた、というような話だったと思います。他の所がどうなったか、他のことは一切触れていないのです。ヨーロッパはどうなのだ、アメリカやアフリカ大陸はどうなのだと。神様は「わたしは知らん」とおっしゃるのです。日本の国だけです。また他の国の創造神話でも、その国その民族がどうであったかを語りますが、聖書のように天と地をひっくるめて、ありとあらゆる森羅万象の全てのものの創造者としての神、この考えは聖書以外にありません。ここがいちばん大切なのです。神様という御方は天と地の創造者、万物の造り主でいらっしゃる。そして、神様が全てのものを今も力ある御手をもってご支配している。これが聖書にまず語られている事柄であります。いま読みましたように、光を創り、闇を創り、昼と夜とを創られた神様です。それから後6節以下にも一日一日、一つ一つの創造のわざが語られて、26節に「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這(は)うものとを治めさせよう』」。全ての森羅万象、創られたものの最後に神様は人を創られたのです。しかも人を創るに当たって「われわれのかたちに」と、神様のかたちに似た者として創造なさった。これが聖書でいわれている神様の力です。神様ご自身のことであります。だから、私たちは神様によって創られた者。更に27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」。人を創られた神様は全ての被造物、造られたものを御心に従って、神様の思いに従って治める者、管理していく者として創ったのであります。神様がそうやって人をこの地上に生きる者としてくださった。そればかりか2章7節に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」。それまでいろいろな動物を創られました。それらには神様の命の息が吹きいれられたものはありません。私たち全ての人に神様は命の息を吹きいれて、神様と通じ合う、神様に近い者として、神様の内にある命を分けていただいて、人は生きるものとなったのです。私たちに神様の命が分け与えられて生きている。それはただ単に肉体的な命とは違う別の命であります。それは魂、あるいは、心といいますか、私たちの内に神様を求める思い、そういう永遠を思う思いが、まさに神様からの命なのです。そして、その命に満たされるには神様とつながる以外にありません。神様が命の根源となって人を生かしてくださる。ここに神様と私たちとの関係、神様に対して私たちがどういう者であるかが語られています。

自分たちの信仰の対象、頼る御方として私ども人間は神仏といわれるものを創りましたが、しかし、この聖書に語られているような関係はありません。これは極めてユニークな、不思議としか言い様のない宣言であります。これを私たちが信じないかぎり、私たちの平安はあり得ないのです。だから、神様から注がれる命、神様の命が注がれ、そこに命があるかぎり私たちは生き生きと生きることができる。どんな困難な中にでも苦しいつらい中にあっても、その命があるかぎり決して行き詰ることがない。消え去ることがない、乏しくなることがない。絶えず命に生かされている。弱い私たち、知恵も力もない、ちょっとしたことにもフラフラ揺り動かされて心定まらない小さな私たちでありますが、命の根源でいらっしゃる神様に私たちがつながること。また、つながることができるように、全ての人に神様はご自身のご性質、霊を与えてくださっておられる。だから、その霊のゆえに人は自分を超えた力ある神なるものを求めたくなるのです。ところが、求める先が間違ってしまうために人は平安を得ることができません。私たちが神様の所へ帰ることが何よりも幸いなことです。人は神様の命に生きる者とされながら、神様から離れて行ってしまう。

「創世記」3章8節から10節までを朗読。

神様に創られた私ども人間の始まりといいますか、アダムとエバという二人の男女は、裸ではじない神様との密接な交わりの中に生きていました。これが人の本来あるべき生き方であると聖書は語っています。頼るべき御方は私たちの創造者、創り主でいらっしゃる神様以外にない。神様は私たちに生きる命を与える御方だからです。神様と何の妨(さまた)げもなく共に生きることができる幸いな生活、これがエデンの生活であります。ところが、そこにサタンが忍び込んで人を神様から引き離してしまう。とうとう人は神様の前におられなくなってしまう。神様の言葉に背いてしまったために人は神様と共におられなくなる。とうとう彼らが神様の顔を避ける。8節の後半に「人とその妻とは主なる神の顔を避けた」。これは誠に不幸な事態であります。私どもでもそうです。親しい人との間に何か行き違いがあり、問題が起こって反目し合い、お互いが不愉快な思いをするようになると、顔を合わせたくない。夫婦げんかでもそうです。けんかをするとそっぽを向くじゃないですか。顔を避ける。神様に対して顔向けができない。これは人の不幸な姿です。神様をまともに見ることができない。そのため自分に気安いもの、顔を向けやすいものとして、いろいろな神々を創りだすのです。そこでは神様に対する罪を問われない。それどころか自分に都合の良いような神や仏を人は求めて行こうとします。神様は9節に「あなたはどこにいるのか」と言われます。神様の前から失われた人を神様は求めておってくださる。決して神様は罪を犯したゆえに私たちを抹殺してしまう、滅ぼし尽してしまおうという御方ではないのであります。だったら、「あなたはどこにいるのか」と言う必要もない。神様は人をご自分のかたちに創られ、ご自分と同じ命を分かち合う者として、私たちを決して捨てておられるわけではない。いや、それどころか、切に求めておってくださる。では、何もとがめないでいいじゃないかと。もし神様がご自分に対して犯した罪を不問に付して、問わないままに白紙撤回だったら、神様としての権威が失われます。神様はあくまでも神として義を全うする正しい道を求めざるを得ない。それをとことん突き詰めて行きますと人は滅びるしかないのであります。しかし、神様は同時に私たち一人一人を愛しておられる。私たちを惜しんでくださって、何としてでも初めのエデンの園の恵みに私たちを取り返したいというのが、神様の本意、真の御心なのです。だから、ここで「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」と。神様は「お前はどこにいるのだ」とやける思い、切なる願いをもって私たちを求めておってくださる。いま神様はいろいろな手立てをもって呼びかけてくださるのです。「いや、でも神様に帰るには、自分の罪を償(つぐな)わなければいけない。死んでおわびしなければいけないか」と。確かにそのとおりで、私たちはなにもせず神様の前に立つことができません。しかし、私たちは神様の前にごめんなさいといって、何をもってその罪をあがなうことができるか。旧約聖書には人が罪を犯した場合にはその値積(ねづも)り、罪のはかりに従ってささげ物をもって、犠牲をもって神様の前に出なければならない。小羊であったり、あるいは牛であったり、血を流さなければその罪をあがなうことができない。それほどに神様に対して罪を犯したため、祝福、恵みを受けることができなくなっている。では、私たちは何をもって神様の前に立つことができるか? 無いのであります。いくら自分の身をささげるといっても、そもそも汚れた値打も価値もない自分を「ささげます」と言っても、それは何の役にも立ちません。神様は私たちの罪をそのままに放っておくことはできません。だからといって、私たちに何も無いことをご存じです。その究極の解決として神様はご自分のひとり子、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。これほど理路整然とした神様のご計画、御思いは、恐らく他にはない。神様はご自分の神としての権威、義を全うすると同時に、また神様の中に相反する罪を犯した者をなお愛してやまないその愛をどうやって二つ共に解決するか。これは解き難い大変な問題であります。そこに神様は一つの解決として、それはご自分の罪なき御方、ひとり子神なる御方を罪人としてこの世に遣わす。これ以外にない。これ程の犠牲はありません。このひとり子イエス様にとって代わる「私のほうが役に立つ」と言う人は誰もいない。イエス様が私たち一人一人の罪のあがないとなって十字架に命を捨ててくださった。だから、バプテスマのヨハネがイエス様を見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)と、はっきり告白いたしました。「世の罪」、私たちの罪を負ってくださる御方としてイエス・キリストは十字架に命を捨ててくださった。そして私たちの過去、現在、未来にわたって、私たちが犯すであろうと思われる罪ですらも、既に主は完全なあがないを全うしてくださった。私たちは今イエス様の十字架のいさおしによってはばかることなく父なる神様に近づくことができる。

 「イザヤ書」55章6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。私どもはこの神様に立ち返って行きたい。いま申し上げましたように、私たちは神様の前に立つこともできません。神様に顔を合わせることすらも許されない。汚れたる者、罪を犯した者であり、自己中心で我がままな、己を神とするような傲慢(ごうまん)な者であります。しかし、神様はそういう私たちの罪をご存じで、そればかりかその罪のあがないとしてひとり子を世に遣わしてくださった。既に私たちの罪を赦し清めて、今は「憚(はばか)らずして惠(めぐみ)の御座に来たるべし」(ヘブル 4:16文語訳)と勧められているように、今はどんな所からでも十字架の血潮のゆえに父なる神様に近づくことができるのです。「ローマ人の手紙」の8章に「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」(8:34)とあります。どこにあってもはばかることなく主の御前に立ち返ることができるのであります。だから、神様は私たちを愛して「人の子よ、神に帰れ」「わたしに帰れ」とおっしゃる。7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」。素晴らしいですね。神様が「主に帰れ、神に帰れ」と熱烈に呼びかけておってくださる。私たちはそれに対して何と答えているでしょうか。いつも自分が、自分が、私が、私がと、いつまでも神様を信じようとしない。神様の所へ帰ろうとしないで人に行き、事柄に行き、あれにこれにと、目に見える事情や境遇や事柄によって事を進めよう、それで自分の思いを遂げよう、自分の考えを推し進めようとするがゆえに、私たちはどんなに苦しみもがいているか分かりません。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて」と、自分の思いを捨て、自分の中にある罪なる思いを離れて、自己中心な我がままな自分本位で自分を義とする思いを離れて、主に帰る。神様の所へ帰る。6節に「主にお会いすることのできるうちに」と、神様の前に出ることができるのはいつか? 今です。しかもいま私たちのためにイエス様が十字架に命を捨ててくださって、そのご犠牲のゆえに、いさおしによって、私たちははばかることなく神様の前に出ることができる。いま神様に近づく扉が開かれているこの時にこそ、私どもは自分の生き方、歩み方、人生の一つ一つを振り返って、思いを新しくして「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ」と、主に立ち返ろうではありませんか。「主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と今は恵みの時であります。いま神様のほうが「早くわたしに帰ってきなさい」「わたしに求めなさい」「わたしに全てを委ねなさい」「わたしに従ってきなさい」とおっしゃる。この神様の招きに応えて行きたいと思います。

 「ルカによる福音書」15章に放とう息子の記事があります。弟のほうがお父さんの身代を分けてもらって遠くの町へ「親から離れて自立する」と、まさにそういう思いで出て行った。ところが、大金を持って財産を使い果たしてしまう。遊びほうけて放とう三昧で全部失う。とうとう彼は豚を飼う者となってしまう。仕事があったから良かったようなものですが、それでも彼はひもじい思いをする。ちょうどそのとき飢きんになって、そのために食べる物がなくなり、豚の餌(えさ)ですらも欲しいと思う。そのとき彼はどうしたか? つらつらと自分のこれまでの生きてきた道筋を振り返って、どこからこんな風になったのか。今の自分が何とみじめな憐れむべき者であるかを彼は痛切に思い知ったのです。自分は誠に情けないものである。「私はこんな惨めな、自分に人たる尊厳、そういうものがあるだろうか」と嘆くような自分。「まだ私は取り柄がある」「私は何かできる」と思っているなら大間違いです。その放とう息子は徹底して悔い改めたのです。自分が今こういう豚の餌すらも食べたいほどのひもじい思いをして、誠にみじめな気の毒な状況の中に置かれたとき、彼は「本心に立ち返った」とあります。「そうだ、お父さんの所から離れて出てきた自分が間違っていた。今でもお父さんの所には雇い人がたくさんいて、彼らはたらふく食っている。おなかも満ちている。それに引き換え自分は何とみじめではないか」。それを知ったとき彼は本心に立ち返って、父の所へ帰ってこう言おう、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と。これは幸いですね。彼がお父さんではなくて別の所へ行っていたら、もっとひどい目に遭ったでしょう。

 私どももいろいろな悩みに遭い、困難な中に置かれるとき「人として造られて生かされている私が、こういう生き方でいいんだろうか」と、つらつら自分を考えて、振り返って、間違っているのだったら早くその道を捨てて、本心に立ち返って、お父さんの所へ帰って行く。弟が帰ってくるのを今か今かとお父さんは待っていたのです。遠くから彼の姿を認めてお父さんは走り寄って彼を抱きとめる。新しい洋服を着せ、靴を履かせ、手に指輪をはめて、自分の子供として彼を迎えるのです。

 神様の御思いは今も変わらない。6節にありますように「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と、主に立ち返る。「神に帰れ」「主に帰れ」とおっしゃる。主は豊かに許しを与えてくださる。神様はとがめない、罰しない、そうおっしゃっておられる。どうぞ、この神様に立ち返って、神様に一切をささげて主のものとなりきって行きたい。「私の人生も、私の命も、私の健康も、私の家族も、仕事も、ことごとくこれは主のものだ、神様、あなたが私のために備えてくださったものです」と認めること。これが神様に帰って行くことです。そして、神様に託せられた、与えられたこの地上の使命を神様の御心に従って果たしていく者となりたい。これが人として生きる生き方であり、誠に幸いな生涯はそこにあることを覚えておきたい。

 どうぞ、主にお会いすることができるうち、今、恵みの時、救いの日です。このときに真剣に主を求め、主に立ち返る者となりたいと思う。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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