いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(282)「終始を司る方」

2014年08月06日 | 聖書からのメッセージ

 ホセア書」6章1節から6節までを朗読。

 

 3節「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。

 

 1節から3節までは神様のみ思いが語られた記事であります。当時のイスラエルの民は、神無き者となったと言いますか、せっかく神様の選びの民イスラエルの名を頂いていながら、神様を忘れてしまったのです。そのため神様は何度となくいろいろな事を起こし、人を立て、預言者を与え、王を立てて警告を与え、何とかして、もう一度ダビデ、ソロモンの時代のように、神様を第一にする民となってほしいと願っていました。ところが、かたくなで言う事を聞かない。とうとう神様は「しばらく勝手にせよ」、放っておこうと決められたと、5章15節に書いてあります。「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう」。「口も出すまい、手も出すまい。本人が行き詰るまで待とう」と、神様は決められた。そして、いよいよ悩みが深くなって、行き詰った結果、神様を求めてくるに違いない。その時、人々がこう言って神様のもとへくるだろうというのが、この1節以下です。これは神様の願いです。歴史を見ますと、結局、神様はこのように待ったのですが、イスラエルはとうとうバビロンという大国に攻められて、イスラエルという民が消えていく事態になったのですが、神を求める者はいませんでした。バビロンに捕囚となり、ほかのものはよその国に頼って出て行ってしまい、ある時期歴史からイスラエルの民は消える事態に遭うわけです。神様の願いは結局無駄になりました。しかし、それは人の側の問題であって、神様のみ思いは今も変わりません。

 

 1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう」とあります。神様が私たちに切に願っていることは「主に帰る」ことです。どんな境遇にあっても、神様が求めておられ、喜び給うことは「主に帰る」、「神様に立ち返る」ことです。「私は神様を忘れたことはありません」と、皆さんは思っているに違いない。しかし「神様に帰る」とは、ただ神様を知っているとか、神様を信じていますという、そういう心構えと言いますか、スローガン、題目としてではなくて、もっと深く神様との交わりに立ち返る。神様と人との関係を正しい関係に置くことです。これが「神に帰る」こと。神様は私たちを造られた御方で、私たちは今日も神様の憐れみにあずかって生きていることを具体的な生活の中で実行する。私たちの日々の生活にはいろいろ多くのことがあります。その一つ一つの事柄を通して「主に帰る」ことです。神様を前に置いて、神様との関係を第一にしていくことです。これが私たちに求められる事です。日々の生活で、まず朝起きて一日が始まりますが、その始まりそのものもまずは主に帰ること。神様の恵みとして、神様のご愛の中に育まれ、持ち運ばれている自分であることを認めて、神様の前に自らを低くする。これが一日の始まりです。そうやって、いつも「神様はわたしの主です。あなたはわたしの神です」と、神様に信頼する関係を整えていく。

 

これが1節「さあ、わたしたちは主に帰ろう」ということです。そして、その後にありますように「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。神様は「事を行う御方、事をなしてこれを成就(とぐる)御方」(エレミヤ33:2文語訳)、言うならば始まりであり、終わりである。神様がすべての事を始める、かき裂かれる御方でいらっしゃると同時に、それを包んでくださる。私たちを打たれても、それを癒すことができる御方です。神様は私たちをたたいたりかき裂いたりして、片方では癒したり包んだりする。こちらで火をつけて水をかけて、あちらで火をつけて水をかけてと、「神様はそんなことをせんでもいいではないか」と思いますが、実はそれこそが「わたしが主である」ことの証しなのです。すべての事の始まりは神様にあり、その事を持ち運んでおられるのも神様である。その結末を決めなさるのも実は神様。だから、神様が火をつけ、神様が水をかけて消される。神様が打たれて、その傷を癒される。全部そうなのです。そのすべての事において神に帰ること、それを認めることです。

 

 ですから、「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。私たちが病気になったり、災いに遭うと、「仕方がない、これは私の身の不幸だ」、「私のせいでこうなった」などと言いますが、そうではなくて、すべての事の始まりが神様によるのだと言っているのです。「主はわたしたちをかき裂かれたが」と言うでしょう。かき裂かれた御方は神様です。だから、私たちはまずそのことを認める。日々の生活の中で「事を行うエホバ、事をなしてこれを成就(とぐる)エホバ」とおっしゃいます。「その名をエホバと名のる者、『汝われによび求めよ』」とおっしゃるでしょう。まず、神様との関係をきちっと整えていくこと、これが第一にすべきことです。

 

 私も突然のように神様からかき裂かれたと言いますか、打たれまして、「何事かな」と思いましたが、このことをもう一度教えられました。そうだと知ってはいますが、気がつかないうちに自分の生活の中で自分が主になるのです。あるいは人が主になる。あの人が、この人がこんなにしてこうなった、あれがこうなったからこうなのだと思いやすい。ところが、そうではなくて、人がどうしようと、神様がその事をしているのです。だから1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが」「わたしたちを打たれたが」と、神様がかき裂き、打ちなさる。私は今年の1月ぐらいから、何か胸の所に違和感がありました。ちょっと軽い痛みがある。「これは肋間(ろっかん)神経痛だろう」というぐらいに思っておったのです。でも、2月、3月ぐらいになると、家の中を歩いている分には何の支障もないのですが、家を出て町なかを歩き始めていると胸が痛い。「これはどうも、おかしいな」と内心思いました。「ひょっとしたら何かあるぞ」と思いながらも、できるだけ避けたいから、何とか自分に言い訳をしながら過ごしていました。でもやはり気になりますから、ホームドクターの所に行ったのです。すると「それはちょっと心配ですね」と首をかしげられまして、「検査を受けてください」と言われました。「そうだ、これは神様がその時を定められたのだから行きましょう」と心を定め、予約をしてもらいました。外側からの状況はそれほど悪くない。安静時の心電図には異常がないのです。そして、血液中のコレステロール値が高いわけでもなく、高脂血症でもなければ、高血圧といってもそんなに極端に高くはないし、コントロールされている。そのほか家族的な因子もないし、言うならば狭心症になる3大要因がありません。だから、専門のお医者さんも「薬で治るんじゃないか」と、心臓の動き具合をエコーで調べました。そうすると心臓の形も立派だし、動きもきちんとしている。どこにもいびつな所がない。レントゲンを撮っても心臓の肥大もなく、正常なサイズであると言う。そのような客観的なデータをずっと並べても、そうひどいものでない。しかし、ちょっと気になるから、入院をして検査をしましょうという話になりました。2泊3日での検査なら旅行と同じだと思って、「これはいい経験だろう」と思ったのです。それでいよいよその日、検査を受けましたが、30分足らずで腕の所から器具を通して造影剤で映す。それは20分ぐらいで終わりまして、「結果をお見せしましょう」と部屋に行きました。見ると造影剤が流れていって、ある箇所に来るとそれが細くなる。まるでウインナーソーセージのくびれのようになっている。調べてみると大体90%詰まっている。すると先生の方がびっくりして、「外側から診た条件と随分内容が違う」と。その夜遅く、担当の先生が来られて、「榎本さん、退院と言っていましたけれども、このまま帰すわけにもいかない、危険な状態です」と。一回造影剤を使って検査をすると、その造影剤が体から抜け出るまで三日間は、次の検査はできないのだそうです。「榎本さんの場合は木曜日にしましたから日曜日まで、三日間は治療ができないから、最短で月曜日に手術をしますので、このまま残ってください」「では、よろしく」と。そのとき家内は「自分の食事療法が悪かったのでは?」「もっと気をつけておくべきことがあったのではないか」と言って悩みましたが、そんなことが原因ではない。

 

 ここにありますね。「主はわたしたちをかき裂かれたが」と。事を起こしていらっしゃるのは神様です。私どもはそのように原因をすぐ事や人であったり、自分のしたことであったり、何かが元になってこうなったと、因果関係を探そうとします。しかし「主に帰る」とは、そのようなことではなくて、神様にすべての始まりがあり、また終わりがあると認めるのです。私はそのときにもう一度「この事を起こしてくださったのは神様なのだ」。しかも、あと一息で、もう少し詰まっていたら、100%詰まっていたら、一気に心筋梗塞(こうそく)を起こします。そうすると、心臓の本体、心臓そのものは筋肉の塊のようなものですが、一部分が壊死(えし)して、動かなくなってしまう。言うならば車のエンジンが100%馬力のあったものが80%とか60%に制限されるようになります。もっと悪くなれば、一気に命を失うことになります。そういう際どい、あと一歩というところで、神様はスパッととどめてくださった。1節の「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし」と言われるごとくです。だから、もし人がそのようなことを防ぐことができ、あるいは人の何かが原因でそうなるのだったら、頑張って寝ずの番をして、一生懸命に自分の状態を見張っていたら良さそうなものですが、そんなことで防ぐことはできない。それどころか、人の力では何にもできないのです。ただ言えることは「主がかき裂かれた」「また主が打たれた」。そのとおりだと思います。そして、そこからまた神様は助けを与えてくださる。そこから救い出すことがお出来になる。この1節「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。その打たれた者を包んで、もう一度新しくしてくださる。

 

すべての事の始まり、またその事を終わらせる御方はどなたでいらっしゃるかを、私自身にはっきりとあらわしてくださった事でした。だから「月曜日に手術をします」と言われたときには、「これは主が『そうせよ』と言われる」と確信しました。だから、うろたえない。慌てることはいらない。土曜日から日曜日ですから「どうしようか」と、以前はそのように思ったのです。前回「がん」と言われて、がんの治療をしたときは焦りました。「どうしようか。留守の間、ああしようか、こうしようか」「あれはどうしようか、これはどうしようか」と、いろいろなことが頭に浮かんでくる。ところが、いろいろとそういう中を通ってきて、随分教えて頂いたことがたくさんありますから、「これは神様が始めなさったことだ。神様が責任者ですから、後のことは全部よろしくしてください」と、神様に委ねました。ですから、平安であります。何も慌てません。お医者さんのほうが慌てたのです。「早く何とかしなければ」と。恐らく月曜日も予定が詰まっていたのでしょう。そこへ無理やりに私の時間を押し込んでくださった。ですから、何時になるか決まらなかったのです。ぎりぎり3時過ぎのところにたまたま空きがあって、そこへ私を入れてくださいました。それで血管を広げることと、再び縮まないようにステントと言われる網目で筒状の金具をそこへ留置する処置をしてもらったのです。これも手首からするので、麻酔は手首だけです。意識ははっきりしています。この事を起こしているのは、人のわざではない。どんな人がしようと神様が赦して下さらなければ、事はならない。だから、私は「主の手に委ねていく」。目に見えている若いお医者さんに委ねるのではなく、神様に委ねるのです。これが「主に帰る」ことです。私たちが主に帰る。そのとき神様は癒してくださる。その手術をしていただいて、その結果をまた造影剤できちっと血液が流れているかどうかを見せてくださった。つい二、三日前まで詰まっていたところに、現在は100%血液が流れているから、これ以上することはありません。神様のわざの中で、こうして事を起こし、それをきちんと整えて「わたしが神であるよ」「わたしが主であるよ」と私に自覚させ、確信を与えてくださいました。この度の事は本当に恵みであったと思います。

 

ですから、3節に「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」とあります。もう一つの事は「主を知る」事です。私たちがこの地上で生きている目的は主を知る、神様を知ることに尽きます。これが、私たちがこの地上に生かされている目的です。「神様を知る」といってもこれは一筋縄ではいきません。人を知るときでもそうですね。あの人はこうだ、この人はこうだと、いろいろな人がいろいろなことを言います。時にある方が「先生、あの方をご存知でしょう」「ああ、知っています」「あの方にはこういうところがありますね。こんなに優しい人ですよ」と言われる。またある方は同じ人のことを「先生、あの方はこんな意地悪なところがありましてね」と言ってくる。同じ人ですが、人によって見方が違う。いろんな見方がある。私でも「優しい先生ですね」と言われる方もたまにはいますが、時には「先生は、歯に衣(きぬ)を着せない、傷口に塩を塗り込むようなことを言う」と言われます。私の所にいる娘たちはそう言います。「おじさんのことを『優しい』と言う人は初心者だ」と。「付き合えばどんなにきつい人かがよく分かる」と言うのです。自分は誰よりも優しい人間だと思っている。これも分かりません。自分でも自分のことは分からない。皆さんもそうでしょう。「私ほどのいい人間はいない」「私ほど気前のいい人間はいない」と思っているでしょう。でも、家族に言わせると案外そうではない。人を知ることすらもなかなか難しい。ましてや、神様を知るにはどうしますか。どこをもって神様を知ったと言えますか。私たちを造った御方です、創造者でいらっしゃいますから、それを知ろうにも知りようがない。しかし、神様は知ってほしいと願っているのです。

 

いろいろな情報を通して知りたいものを調べます。旅行雑誌を見たり、料理の本を見て、どこのレストランがおいしいとか、テレビなどを通してその情報を知ります。そのような知り方もありますが、ここでいう「知る」とは、それに触れて、ファーストハンドと言いますか、直接に自分で知識を得ることです。市内のおいしいお店とか、評判のレストランとか、安くてとてもおいしいとか、安売りのお店とかいろいろな情報誌があります。だから、珍しい物を食べたい、あるいは普段行かないところへ行ってみたいときには、そのような情報誌を探ります。写真を見て、「この値段でこれだけの料理なら行こうか」と行ってみると、それは実は特別料理だったりします。広告の料理は別のメニューだったりして「何だ、これはいんちきじゃないか。だまされた」と思いますが、その写真と同じ料理はあるけれども値段は違うだけで、だましたわけではありません。家内は旅行好きですから、旅行雑誌を持ってきていろいろと調べて「ここの民宿は安くて、こんな料理が出るそうだ」と期待して行くと大抵がっかりする。「あの写真と違っていた」「あの本に書いているのとは違っていた」と言う。私たちが「知る」知識はそのような知り方です。ところが、実際にその情報にしたがって出掛けて行くと、いろいろなことが分かる。その記事に書いていない、情報誌やあるいは何かで見えないものが見えるのは、やはり実体験しなければ分からない。これが神様を知るということの目的です。神様を知るとは、ただ情報として知るだけならば聖書を読んである程度のことは分かります。しかし、神様が私たちに求めているのは、具体的に神様に直接触れて味わって、体験することです。そうやって知ることが大切なのです。

 

だから、聖書には神様がどのような御方でいらっしゃるか、いろいろな形で記されています。アブラハムに対して神様が「我は全能のなり」(創世 17:1文語訳)「わたしは全能の神である」とおっしゃいました。いわゆるオールマイティーな神です。「わたしはどんなことでもなし得る神だよ」と、アブラハムを通してそのように神様は臨んでくださった。そして、またヤコブには「いつもあなたと共におる」と、神様が共にいてくださる御方である。野宿をしているとき、神様が夢の中であらわれてくださった。そして「あなたがどこへ行くにもあなたを守り、共にいますよ」と、ヤコブの生涯を通して彼は共に居給う神様、神様が今も生きていらっしゃるのだと体験しました。モーセに対して神様は、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(出エジプト 34:6)とご自身をあらわしてくださいました。そこで神様は「わたしは愛であるよ」とお語りになられました。だから、旧約聖書を読んでご覧なさい。それぞれの人々に神様はご自身がこういうものであると語って、一筋縄ではない。いろいろな人に、時代を越えてあらわしてくださいました。その一つ一つを私たちが体験するために今生きているのです。だから、「神は愛である」から、それだけが神様の姿だと言うなら、片手落ちです。神様は愛である御方であり、力ある御方であります。全能なる御方でいらっしゃり、すべての事を知っていらっしゃる御方です。またハガルに対して、神様はどうやってご自身をあらわしてくださったか。ハガルはアブラハムの奥さんサライからいじめられて、とうとう家出をしました。死に場所を求めて荒野をさまよっていたとき、神様は彼女にあらわれてくださって、「ハガルよ、お前はどこへ行こうとするのか」、そのときに彼女は、「あなたは私を見給う神」と悟りました。いつも私に目を留めていらっしゃる御方ですと。彼女はそれを体験するのです。神様はいつも目を留めて私を見ていてくださる。私を見ておられる御方がいらっしゃるのだと知る。これは神様の一つの姿です。私どもは「いつも見ている」と言われたって、最近は監視カメラが町のあちらこちらにあって、24時間どこでも見られている。でも、それはカメラの視野に入らないと映りません。でも神様は私たちを追いかけて常に目を私たちの上に置いてくださる。だから「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」(歴代志下 16:9)。神様は全地を行きめぐって絶えず目を光らせて見ていらっしゃる神だと言われる。

 

神様がどういう御方であるか、皆さんにとってはどうなのでしょうか。私たち一人一人が「神様はこういう御方です。私にとってこんな神様でした」と確信を持って言い得る者でありたいと思う。アブラハムには全能の神、ヤコブには生涯共に居給う神であることをあらわしてくださった。またハガルには、私を見ていらっしゃる神様、あるいは、エリヤには「わたしの仕える万軍の主は生きておられる」(列王記上 18:15)、生ける神でいらっしゃることをあらわしてくださった。いろいろな人が、一人一人、それぞれが神様を知るのです。そのように神を知ってほしい。

 

 私はこの度の自分自身の受けた事を通して、癒し主、神様は病を癒すことのお出来になる御方でいらっしゃると知ることになった。これは誠に幸いな恵みです。神様は病を癒すことのお出来になる御方、命の源であって、私を握っていらっしゃる。だから黙示録には「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである」(黙示録 21:6)とあります。神様は事を始められた御方、それを完成に至らせ、それを終わらせなさる、決着をつける。すべてのことを貫いてご支配くださる御方です。そういうことを具体的な事柄を通して私たちが知るのです。そのために生きているのです。だから、私たちの生活の中にいろいろなことが起こってくる。思いがけないこと、予定しなかったこと、考えもしなかったこと。そこで私たちが「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、主に立ち返って、そして「せつに主を知ることを求めること」。今まで知っていた神様、「あなたはこういう御方です」と思っていた。しかし、今度は違った側面、違った事柄を通して、私たちにご自分をあらわしてくださる。どうぞ、私たちはこの神様をいよいよ深く知り、悟り、信じていきたいと思う。

 

そのために3節にありますように、「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」。問題があることは「ここで私に神様がご自分をあらわそうとしている」。私でなければ知ることのできない神様を味わう恵みの時であることを覚えておきたいと思う。そうしますと、私たちはどんなことも感謝ができます。また、そこでその一つ一つを通して深く深く主と交わることができるのです。だから、どうぞ私たちは事を恐れないで、問題を恐れないで、どんなことの中にも「主を知ろう」と、いよいよ熱心になって「神様、あなたはどういう御方でしょうか。このことを通して、あなたは私に何を、あなたご自身がどういう御方であると教えようとしているのでしょうか」と求めようではありませんか。

 

切に主を求めて、主はこんな御方です、神様はこのように恵み深い御方です、憐れみに富み給う御方ですと、神様の神たること、様々なご性質、権能、力を味わっていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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