いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(454)「神われらと共にいます」

2015年01月28日 | 聖書からのメッセージ
 「マタイによる福音書」1章18節から25節までを朗読。

 23節「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である」。

 今年もまたこうしてクリスマスを迎えることができました。毎年クリスマスを迎えるわけですが、ともすると惰性といいますか、習慣化されまして、あまり感動もなければ喜びもなくなります。またあれをしてこれをしてと行事をこなして行くような思いになってしまいやすいのです。もう一度、クリスマスとは何であったかをよくよく味わいたいと思います。

聖書に語られている事柄はおおむね歴史的な出来事として見なされます。アブラハムやモーセのこと、あるいはダビデのことなど歴史的な一つの事象、事柄として取り挙げられたりします。しかし、歴史には、江戸時代がどうであったとか、その時代にこういう事件があった、事故があったとか、天然災害があったなど、過去のいろいろな出来事が歴史でもあるわけです。そういうことを学び、またそれを知ります。しかし、それと今の私たちの日常生活、現実の生活とはあまり関わりません。というか、ほとんど関わらない。過去にそういうことがあった。「昔こういうことがあったそうだ」「ああ、そうなのか、へぇ、今とは違うな」と思うだけです。それは今の生活と全く切り離された昔の話なのです。ところが、クリスマスの出来事、物語は皆さんもご存じのように、ベツレヘムの馬小屋にイエス様がお生まれくださったという、これは一つの歴史的な事柄、過去の出来事でもあると思いますが、2千年前、過去にこういうことがあったのだ、と知るだけで「そういうことだったのか」と言って「今の生活はそれと関係がない」と、切り捨てて行くといいますか、過去の出来事として受けとめる。知っているだけで終わるとしたら、これは大きな間違いです。聖書には確かにいろいろな過去のことが語られていますが、それは取りも直さず、この現実に生きている私たちの生活に直接的に関わった事柄、内容です。だから、ただ過去の出来事としてではないのです。

クリスマスのこともそうです。いま読みました記事にはヨセフというマリヤさんのいいなずけであった人のことが語られています。主の使がマリヤさんとヨセフに現れて、やがて一人のみどりご、男の子が与えられることを伝えました。これが22節に「すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである」と語られています。この出来事が起こったのは、実は神様のあらかじめ約束されたことが具体化したことである、ということです。23節に「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう」と、これは「イザヤ書」の引用文(7:14)でありますが、預言者イザヤを通して神様が救い主イエス・キリストのご降誕を約束してくださった言葉が何百年かの長い年月を経た後に具体化された。これはどういうことでしょうか?
一つは神様のご真実を現しています。神様は一度(ひとたび)こうすると約束なさったことは必ずそれを成し遂げてくださる。これは繰り返しいろいろな場面で聖書を通して語られていることであります。「神の真実」ということが明らかにされる事柄であります。私たち人間は、いい加減でありますから、たとえ約束しても実行されない。あるいは語る言葉は、その時その時に応じて変わります。日替わりメニューのように「今日はこうしよう」「明日は……」今日は天気がいいから皆さんも明るい顔をしている。昨日のように荒れた天気だと表情も荒れて来るし、そうすると気持ちも変わってくる。
してやろうと思っていてもしたくなくなる。私どもは不真実なのです。ひと言約束してもそれを最後まで守り通すことができない。だから、私どもには言葉に対する不信感があります。「あの人はあんな良いことを言っているけれども、ご愛想よ、挨拶(あいさつ)だけよ」と。よく言われるように日本人は「是非、近くにお越しになったらお寄りください」と言いますが、実際に行ったら嫌われたという話があったりします。それはただご挨拶ですから「有難うございます。じゃ、時には寄らせていただきます」と言いながら、行くものか、と思っている。
そういう人の言葉の不真実さに私たちはどっぷり漬(つ)かっている。だから、聖書の言葉を聞いても「神様はそんな良いことを言っているけれども、そんなことになるはずがない」と、どこかで疑っている。不信感です。これがいちばんの罪です。それに対して神様は徹底して真実な御方でいらっしゃることを、あらゆることを通して証明なさる、あらわしてくださるのです。その代表がクリスマスの出来事なのです。だからクリスマスの出来事は、ただに過去の出来事としてではなくて、その約束されたことが成就し、約束の言葉は今に至るまで何千年たっても変わることのない神様のご真実が貫かれているのです。

だから、22節に「すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである」という。神様は「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」(イザヤ 9:6)と約束しています。その言葉が成就することによって生まれ出てきた御方、イエス・キリスト。そしてイエス様がお生まれくださったご目的は、信じる私たち全ての者の罪を取り除いて生きる者としてくださるという約束。そして、その約束は過去に終わったのではない。イエス様は確かに十字架に命を絶たれました。しかしそこからよみがえって今も、今日も、神様の約束してくださったご真実なお言葉は信じる私たちの内に力となり、具体的にいのちとなって様々なわざを起こしてくださる、導いてくださるのであります。ですから、22節に「主が預言者によって言われたことの成就するためである」といわれている。神様の御言葉が具体化する。その一つが先ほど申し上げた「真実」ということです。

それからもう一つの事柄があります。それはこのクリスマスの出来事が人の計画や人の業によるのではなくて、神様の一方的な力の働きによることです。いま読みましたようにヨセフはマリヤと婚約をしていましたが、とんでもない事態になってしまったのです。婚約者である彼女が身重になって子供を産むなんて、こんな不名誉なといいますか、彼にとっては到底許し難い、耐え難い事態でした。ですから19節に「夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した」とあります。彼の苦しみたるや、悩みは余程深かったと言わざるを得ません。ところが、その時に主の使いが彼に臨んでくださった。「心配するな」と、そして「約束のようにマリヤを妻として迎えなさい」と勧められたのです。これは仲立ちする人があって「お前、そんなに怒らんでもいいじゃないか」と取り持った話ではなくて、神様の一方的なわざが具体化している。だから、クリスマスの出来事を通して誰が事の主人であるか。いろいろなことの、事を起こしてそれを導いておられるのは誰であるか? これは初めから終わりまで、まさに「初めであり終りである」とおっしゃる神様ご自身のわざです。神様が直接的にマリヤに、またヨセフに、またあの羊飼いたちに、また東の3人の博士たち、様々な者たちに直接的に関わって、事を起こし、それを導いてくださる。これがこのクリスマスの一つの大きな力、そしてクリスマスの出来事を通して神様が証詞なさっていることは、まさにそこなのです。神様が主であって、どんなものも神様の御心のままに取り扱われて行くものであること。この時のヨセフもそこで神様のなさるわざに自分を委ねるほかありません。またマリヤさんもそうであります。ご存じのように「ルカによる福音書」に語られているように「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(1:38)と、神様の御手に自分を委ねざるを得ない。いや、それによって喜びの道に変わって行くのであります。神様はクリスマスの出来事を通して、ご自分が真実な御方であって、一つ一つどんなことも人の力や人の知恵や人の業によるのではなく、一方的な神様のわざによって事が進められているのだと証詞しておられるのです。

そして、もう一つの事がありますが、23節に「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である」と。なぜ神様はご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったか?その子は「インマヌエルと呼ばれる」というように、“名は体を表す”、イエス様が地上に遣わされたご使命ご目的を明らかにした言葉であり、またその名前でもあります。「インマヌエル」というのは、「神われらと共にいます」という意味であると語られています。「われらと共にいます」、神様が私たちと共にいてくださる。これは驚くべき事ではないでしょうか。私たち人間は、自分の肉の力、生まれながらに持っている肉体的な能力、理解力や体力や知力、そして、それによって日常生活の様々な生活を営むことによって「生きている」と思っています。しかし、それもこれも実は神様によって備えられたものであって、神様の憐れみによって私たちがそれを頂いてといいますか、預かって生きている者であります。それを忘れ、知らないままに過ごしてきた。私たちは神様に造られた者でありながら、その造り主を忘れてしまった。その結果、私たちは不安と恐れと失望の中に生きる者となってしまう。

私たちが造り主を忘れるとは自分が何者であるか、ルーツがなくなるのです。人は、自分がどういう者であり、何が自分を生かしているものであるか、私のよるべきもの、私の立つべき場所がどこにあるかが失われるとき、精神的に宙ぶらりんになるのです。しっかりと土台に立っていますならば揺るがない。安心感がありますが、それがないと、ちょっとしたことで揺れます。時々震度1とか2とか揺れることがあります。揺れると、いちばん不安になるのです。普段揺れない、大地を踏ん張って立っていますが、それがちょっとでもぐらぐらっと揺れると不安定になります。すぐに私たちの心に不安と恐れと何か闇(やみ)のようなものがスーッと入って来ます。「大丈夫かしら」と思います。物理的に物が揺れるとか、あるいは大地が揺れる地震というような事態にあたってのことであります。しかし、自分の生活している土台は何によっているのか? 誰がそれを置いておられるか? その土台が消えてしまう、見えなくなってしまう。そういう生活を送っていますから、人は常に不安です。絶えず、何かに苛立ち、ジッとしておられない焦燥(しょうそう)感、焦り、そういうものが絶えず私たちの心を揺り動かす。
私たちの住んでいる日本の社会もそうです。事が起こるとビクッ、ビクッとします。あちらで何かちょっと悪いニュースを聞くと、日本中が震え上がるという。ここに何かあると「ひょっとしたら何かあるんじゃないか」と、常に恐れと不安と心配、思い煩い、そういうものが絶えず私たちの心に湧(わ)きあがる。それを何とか解決しようと、人はあれを使ったり、これを求めたり、経済力であったり、人の力であったり、あるいは自分の限りある能力であったり、いろいろな物を求めて安心を得よう、幸いを得ようと努力しますが、全てそれらは裏切られてしまいます。失望します。「これがあれば」と思ったらそれが駄目になる。「あれがあれば」と思ったら駄目になる。次から次へといろいろなものが私たちの心と思いを揺さぶってくる。それは造り主でいらっしゃる神様を離れて、自分の居場所が分からないからです。心から安心できるものがなくなっている。

聖書に「暗黒の地に住んでいた人々」(イザヤ 9:2)とイザヤは語っています。暗闇の中に生きた人たち。確かに私たちは真っ暗な中に置かれると目の前に何があるか何も分かりませんから、手さぐりになり、不安になります。私たちの家のように狭い中で電気が消えて真っ暗だったら、すぐにいろいろな物にぶつかる心配があります。広い体育館のように物のない所の真ん中に立って真っ暗にされてご覧なさい。何もないはずですが、心配になります。まさに、そのような闇の中に私たちが置かれている。私たちの在り方、生き方を造り主でいらっしゃる神様は嘆いて、気の毒だと哀れに思ってくださる。神様に造られた私たちは本来そのような闇の中に生きているわけではないのです。常に輝いて喜び望みにあふれて生きるべき、いのちに輝いた者となるはずの者、それが罪の結果といいますか、神様を離れた結果、そういう闇の中に生きている。どうですか?自分を振り返ってみると案外そうですね。ところが、その私たちをもう一度造り主でいらっしゃる神様に立ち返る。神様に結び付けてくださる道を開いてくださるために主イエス・キリスト、ご自分のひとり子をあえてこの世に送ってくださったのです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に死んでくださって、もはや私たちが神様の前に罪なき者として、「義なるもの」と聖書には語られていますが、キリストの義によって私たちは神様に近い者としていただいた。

 「エペソ人への手紙」2章11節から16節までを朗読。

 12節に「キリストを知らず」とありますように、以前はイエス様のことも知らない。神様がいらっしゃることも知らないで、ただ人の力、自分の知恵、自分の計画、自分の願いや思い、あるいは欲望の赴(おもむ)くままに生きていたのです。その頃は「この世の中で希望もなく神もない者であった」とあります。私たちはまことに闇に生きていた者であります。しかし、13節に「このように以前は遠く離れていたが」とありますが、何から離れていたのでしょうか? 神様から遠く離れた者となっていたのです。光の源であり、望みと力といのちを与えてくださる神様から遠く離れた存在になってしまった。それを「今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである」と。イエス様が私たちの罪のゆえに十字架におかかりになって、私たちが死んで当然のところをイエス様が身代わりとなって私たちのために死んでくださった。そして今は神様と近い者となった。いや、近いどころか一つにしてくださったとあります。14節以下に「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。いま読みました14節から16節までに「二つのものを一つに」という言葉が3度も繰り返されています。二つものを一つに、いうならば、神と私たち、造り主と造られた被造物である私たちとを一つのものにしてくださる。神様に結び付けてくださる。そして、神様と私たちを妨げていた敵意という「隔ての中垣」、神様を認められない、神様に従えない私たちの心を取り除いてくださって、神様と私たちを一つにしてくださった。これがイエス・キリストです。イエス様が私たちの所に来てくださることによって、イエス・キリストを信じることによって、私たちは神と共にある者、神様と共に生きることができる者と変えていただいた。

 ですから、「マタイによる福音書」1章23節に「これは、『神われらと共にいます』という意味である」と。神様が私たちと共にいてくださる。そのためにイエス・キリストがこの世に来てくださった。そのことが「ヨハネによる福音書」には「言(ことば)は肉体となって私たちの内に宿った」と語られています。神様の約束の言葉、預言の言葉が成就して、その言葉はただ単に言葉としてではなくて、具体的に肉体をとって私たちの内に、イエス様が、神の御子が、見えない霊なる神の御子でいらっしゃった御方が、私たちの肉体の目をもって見ることのできる人の子となってこの世に来てくださった。それはいま信じる私たちの内にもキリストが宿ってくださることの約束でもあります。
だからペンテコステの時に聖霊が、使徒たち、祈り待ち望んだ人たちに臨んで、新しいいのちと力に生きる者と変えてくださった。まさにそれはこのクリスマスの出来事の完成であります。弟子たちの中にキリストが宿ってくださる。そして、それは今も変わらない。信じる私たち一人一人の内にキリストが宿ってくださる。「二つのものを一つに」、私たちと神様とが共に生きることができる、在ることができる者に今は変えてくださっている。これがクリスマスです。そのクリスマスは、2千年前のことではなくて、いま信じる私たちの内にもマリヤさんの内に宿ってくださった神の霊が、一人一人の内にも宿って、キリストを内に宿す者としてくださった。「神われらと共にいます」、どうぞ、このことを堅く信じて行きたい。
私たちの毎日の生活のいろいろなことの中に、いま神様が私と共におられる。そして、共におられる神様は、携帯のストラップのようにいつも付けてぶら下げているから、共におるというのではないのです。共におられるとは、神様が私たちのなすこと、語ること、ことごとくを知っておられる。そればかりか、私たち生活のどんなことの中にも神様が働いて具体的にその事を導いてくださる。これを信じるとき、これは私たちの本当に大きな力になります。いろいろな出来事に会うと「これはどうなるだろうか」「あれはどうなるだろうか」「こうしたらどうなるだろうか」「その先どうなるだろうか」と、思い煩います。思い煩うとき、まだ実際に事は起こっていない、またそうなるとも限らない、また分からないのですが、不安があります。私たちが神様と共に生きるとき、先のことは神様の手の中に握られている。キリストが私と共にあって、私はキリストと共に十字架に死んだ者であって、いま生きているのはキリストが私と共にあり、私を生かしてくださる。このことをしっかり信じようではありませんか。だから私たちの日々の生活に起こってくるどんなことも神様の知らないことはあり得ないのであります。神様が「え!お前にそんなことをやったのか。おお、私の知らない所で誰がした」とおっしゃるような神様ではなくて、私たちに起こってくる、願わないことも願うことであろうと、どんなことでも神様のわざなのです。そして、神様は私たちに力を与え、知恵を与え、神が神たることを私たちに味わい、体験させてくださる。「神われらと共にいます」ことを私たちはただ単にスローガンとし、掛け声としてではなく、具体的に生活の中にその事が具体化して行くのであります。

 先日、私の家内の母が突然倒れまして入院いたしました。脳内出血を起こしたのです。家内は娘ですし、弟と二人ですが、弟は遠くにいますので何もかも自分に責任が掛かる。お医者さんから「どうしますか? この処置はどうしますか、決めてください!」とせっつかれる。果たしてO.K.していいのか、あるいは断るべきなのか、迷いながらも「サインしてください!家族の方は早くサインしてください」と、承諾書を書かせられる。その後悩む。「良かったのだろうか? 」「ああして、良かったのだろうか?」。そればかりでなく、今度は義母が取りあえず一命は取り留めましたし、いろいろな面でいちばん善いことを神様はしてくださったと感謝はしているのですが、また次に「これからどうなるだろうか」。今置かれている所は急性期の治療のためでありますから3週間ぐらいしか置いてくれない。その後リハビリのための病院に移っていくでしょう。ところが、その間にこれまでお世話になっている介護施設は、一ヶ月留守をしますと自動的に解約になってしまいます。だから戻れなくなるわけです。そうすると次にどこへ行くか? どこに受け入れていただくか? これは分からない。帰られるかどうかも分からない。どの程度まで機能が回復してくるか分からない。分からないことだらけです。
そうするといちばん不安になる。「どうしようか」「こうしようか」「早く次なる手を打たなければならないだろう。あそこへ行こうか。ここへ行こうか。あそこの施設はどうだろうか」と、夜も眠られないぐらいになってしまうのです。私は「大丈夫!」と言うのです。「神様が付いていてくださる。インマヌエル、神われらと共にいます。あなたが独りで心配しなくても神様が共にいてくださって心配してくださる。行く所まで行きなさい」と言うのです。「病院から『もうこれでやめてください。出てください』と言われたら出ればいいじゃないか」「いや、そのとき行く所を前もって調べておかなくては……」「前もたなくてもいい。前もつのは神様だ。そのときに祈って行けば神様がちゃんと道を開いてくださる」。神様は共にいてくださるのです。イスラエルの民がエジプトを出立して2週間ほどしたときに紅海にぶち当たる。そこまで行くのです。いよいよ行き止まりまで行ったとき、神様が「つえを伸べよ」とおっしゃる。行く前から「そのうち行き詰るだろうから、その時はちゃんと用意して……、持っているか、つえは? 」と神様はおっしゃらない。そこが「神われらと共にいます」ことを信じるか信じないかの瀬戸際なのです。「大丈夫!そのとき神様はどんなことでも成し得る御方」。「神われらと共にいます」ことは、ただ単に言葉だけではないのです。信じて行くとき神様のほうがそのことを具体化してくださる。前もって、前もって心配のないように、今不安があるから何とかこれをしておけば、どうなる、こうなる、いくら考えてもそうなるかどうか分からないのです。そのとき、そのとき、一歩一歩いま目の前の一足を、主が共にいてくださると信じて進む。必ず主が備えられたことがあるのです。その先を考えて、義母が1ヶ月後にリハビリが終わって帰ってと考えますが、……帰ってくるやら来ないやら分からないのであります。これは分からない、神様の手の中にある。

私は自分自身のことを通してその事を大変探られたことがありまして、人というのは先走りしすぎるのです。神様を追い越そうとするのです。それが問題です。私はあるときから「神われらと共にいます」と確信しました。神様の手に任せる。生きるも死ぬも、そんなことは神様がご存じです。人が心配することではないのであります。

「神われらと共にいます」、そのことをクリスマスで神様が具体的に御子を人の中に宿らせてくださったごとくに、信じる私たちの中に御言葉の具体化、神様のご真実をもって今日も応えてくださる。それは2千年前の単なる過去の出来事ではないのです。今も信じて委ね、従って行く者に思い掛けない、想像もつかない見事なわざを進めてくださる。皆さん、この1年を振り返ってみてください。神様は皆さんが思うよりも願うよりも勝る本当に驚くことをしてくださったのではないでしょうか。「これは駄目だ」と思った瞬間に、スッと……、「下には永遠の腕がある」(申命記 33:27)と、神様が手をすけてきちんと滞(とどこお)りなく納まるべき所に納まるように導いてくださる。だから、私たちは何も思い煩うことも悲観することもないのです。どこかで自分を惜しんで逃げようとするから、神様に触れることができないのです。「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」とおっしゃる。(エレミヤ 32:27 )

「神われらと共にいます」。ヨセフはその事を聞いて初めて眠りから覚めて主が命じられたとおりにマリヤを妻に迎えた、とあります。これは彼にとって大変不名誉なことであり、耐えがたい事態であったかもしれません。しかし、それを通して神様がご自分のご計画と御業を、神様の力を現わしてくださるのであります。ですから、私たちはどんなことでも、格別自分のことについて、何も心配し、思い患うことはありません。今ここまで来たことを喜び、感謝し、楽しめばいいのであります。またこれから先どうなるかこれは分かりませんが、神様の御手の中にちゃんと準備されているのですから、思い患うことなく、今日1日喜び、楽しみ、感謝し、歌って行けばいいじゃないですか。しょぼくれて「ああなるだろうか」「こうなるだろうか」うつむき加減で猫背になってしまう。そのため食道がひん曲がって食べ物が止まってしまい、難儀しましたが、「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」とおっしゃる(イザヤ 40:26)。どうぞ、もう一度「神われらと共にいます」、主が私と共にいてくださると信じましょう。その御方がいちばん善いことをしてくださる。

 ですから、どんなものでも絶対先走らないように、行き詰るまで行きましょう。相手に「もう駄目だ」と言われたときに、初めて神様は動き始めますから。「主は待っていて、あなたがたに恵みを施される」とイザヤ書にあります(30:18)。待っておられるのです。私たちがお手上げになるのを。だから、私たちは「そのときになったら神様はちゃんと備えてくださるから大丈夫です」と信じて、与えられたいま目の前の一歩、いま置かれた所で、今すべきことがあるならば、それを力いっぱいしたらいいのです。「いや、こんなことをしたら、後でまた何が起こるかしれない」、「この時のために、今の内に取っておこう」などと、そんなことを思わないで、今なすべきことがあったら精一杯やっておけば、また必要なものは、力も知恵もどんなことも神様によらないものはないのであります。

 「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは、『神われらと共にいます』」。クリスマスはただ過去の出来事ではなく、いま信じる私たちにも神様の約束が具体化して、御言葉が私たちの内に肉体をとって宿ってくださるのです。神様の大きな力とわざを体験しようではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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