いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(567)「弱ければこそ」

2016年09月19日 | 聖書からのメッセージ

 コリント人への第二の手紙」4章7節から12節までを朗読。

 

 7節「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。

 

 8節以下には、「いろいろな悩みに遭っても倒れない、行き詰らない」と語られています。少しそこを読んでおきたいと思います。8節以下「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」と語られています。これを読み、だれでも「素晴らしいな、何とかそういう力を得たいものだ」と思います。普段の生活で問題や、困ったことが起こると意気消沈して、力が萎(な)えてしまい、「この先どうなるかしら」と思い煩い、悩みの中に落ち込んでしまいます。それを乗り越えることがなかなかできません。そうすると、願うことは、できるだけそういう悩みに遭いたくない。苦しい目や悲しいことに遭いたくない。遭えば自分が弱い者であって、すぐにへこたれてしまうといいますか、意気消沈してしまい、力を失ってしまうということを知っていますから、できるだけそういう苦しいことや悲しいこと、つらいことは避けて通りたい。そういうことがなくなることを願います。皆さん、私たちはお祈りをするときでもそうですね。「神様、どうぞ、こういう悩みに遭わないように、苦しい目に遭わないように守ってください。守ってください」と。ところが、現実私たちの生活はそれを避けて通ることができないのです。生きている間、私たちには悩みや苦しみがあります。皆さんがそういう悩みを感じ始める思春期ぐらいになって来ると、だんだんと人生を考え、いろいろなことで悩みだします。そして、自立して社会で働き始めると、そこでまたいろいろな苦しいことやつらいことや、悲しいことが待ち受けています。「そういう悩みから晴々と解放されるときはないかしら」と願う。「きっと定年退職して、毎日が日曜日というそんな生活になれば悩みがなくなるだろう。そうなれば楽だな」と夢想して逃避する。しかし、ここに退職された方が沢山いますが、「悩みがなくて、私は万々歳」というお顔ではない。やはり先行きを心配して、「もしこうなったらどうだろう、ここまではできると思うけれども、それ以上のことがあったら私はお手上げだ」と、毎日、恐れを抱きながら生活をしている。「できるだけそういう悩みが降りかかって来ないように、神様、守ってください」と祈る。しかし、神様は悩みに遭わないようにカプセルのような特別な部屋、あるいはコンテナに入れて暑さや寒さも感じないようにしてくださるのではありません。神様は、むしろ私たちをそういう悩みや悲しみや苦しいことにあえて置いておられるのです。「それじゃ、守ってくれないのか」と思います。確かに神様は悲しいこと、つらいこと、試練といわれること、困難と思われる問題や悩みから遠ざけることもできます。しかし、悩みや苦しみすらも、神様が私たちに与えなさるのです。

 

 それは私たちが徹底して自分の弱さを悟るためです。自分はできない者である、足らない者であることを徹底して悟る。「そんなつらい目に会わなくても、自分は弱い者であることを重々知っています」と思います。ところが、案外、人はうぬぼれが強いですから、「私は駄目、できない。私は弱い者です。無能無力です」と口では言いますが、どこか心の中では、「あのくらいのことはできる。このくらいのことはできる」と、いつも自分を頼りとする。自分に自信を持っている。世間では「自信を持たなければ、人は生きておれないじゃないか」と言って、できるだけ自信を得られるような生活、自信を付けることを求めます。「他の人よりあれができる、これができる」、あるいは「こういう良いところがある」と積み重ねて、それを自分の土台にしようとする。神様はそれを全部ぶち壊されます。私たちに何にもできない自分であること、取柄もない、価値もないことを徹底して教えてくださる。これを早く悟ったが勝ちです。いつまでも無駄な抵抗をして、「この苦しみから、何とかして自分で切り抜けてやろう」と、そう思うと、いよいよ傷口が深くなる、つらいことが多くなりますから、早く降参するのです。「私は何もできません」と神様の前にへりくだる。そうなるため、悩みや困難や苦しみに遭う。ですから年を取れば取るほど謙遜になるはずです。そういう悩みや苦しみを沢山受けて来ているわけですから。しかし若いときは自分に自信がありますから、「そのくらいのことは俺にできる」と。私もかつてはそのような気分でいました。「そんなもの、神様に頼らんでも私にできる」と、その位に思っていました。いま振り返って恥ずかしい限りです。ところが、社会に出ていろいろなことに遭ったとき、真に自分は力のない者であり、弱い者であることを徹底して教えられます。

 

 弱くなって、徹底して自分を無にする、空っぽにしてしまうとき、初めて神様からの力を受けることができるのです。これは鉄則です。自分の力を持っているかぎり、神様は力を与えてくださらない。神様は、弱い者にこそ力を与えなさる御方です。

 

 だから、7節に「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」と語られています。「この宝」とは、主イエス・キリストご自身のことです。よみがえってくださったイエス様をいのちとして私たちは内に頂いている者であります。イエス様のことも神様のことも知らないで、罪ととがとに死んでいた私たち、永遠の滅びに定められていた私たちを神様がそこから救い出して、罪を赦すためにひとり子をこの世におくって十字架にくぎ付けて、全ての罪の呪(のろ)いをことごとく取り除いてくださった。いろいろなことを通して神様はその救いへと引き入れてくださったのです。私たちもイエス・キリストを信じて、イエス様の十字架のあがないを信じました。イエス様が私の罪のゆえに死んでくださった。私がその刑罰を受けたことであって、私もキリストと共に死んだ者、そのことを認めて、イエス様を「私の救い主です」と告白する者になった。「じゃ、いま生きているのは何で生きているのか」。キリストが私の内にあって、生かしてくださっておられる。これは「ガラテヤ人への手紙」にパウロが語っているとおりです。パウロは「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」(2:20文語訳)と告白しました。そして「いま生きているのは、キリストが私の内にあって生きてくださっている」。私の命は私でなく、キリストの命が……。

 

 だから、「この宝」とは、死を打ち破ってよみがえった、新しいいのちであるイエス様を内に宿している。しかも「その宝を土の器の中に持っている」と。「土の器」とは、土器、低い温度で焼き固めた器、お茶碗やお皿などです。これは軽くはあるのですが、低い温度で焼き固めたものですから、もろいのです。すぐに割れてしまう。ところが、有田焼のような磁器は、もちろん土器とは材料も違いますが、高温で焼かれているので堅いのです。ちょっと落としても割れにくい。軽くて薄いから割れそうに思いますが、割れにくい。まさに私たちはそういうもろい「土の器」、弱いもの、欠けやすいものです。けれども、そういう私たちの内に「宝」、よみがえったイエス様が、“いのち”となって宿ってくださる。

 

 それは何のためか?私たちがこの地上に命を与えられている目的は、神様の力、神様の栄光といいますか、神様の恵みとご愛をあらわすためです。神様の作品として、「神の栄光のために仕立てた」(43:7)と「イザヤ書」に語られています。神様は私たちを通して、神の神たることをあらわそうとなさる。これが目的であります。だから、私たちが弱くなることによって、私たちの力ではなく、神様の力に100パーセント占領されてしまう。それによって、神様の栄光が表わされるのです。そのことが7節に語られていることです。「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。神様の絶大な力、それを私たちを通してあらわそうと、私たちを選んでくださったのです。自分に力がないから、私たちは選ばれるわけであります。

 

「コリント人への第一の手紙」1章26節から28節までを朗読。

 

神様は私たちをイエス様の救いに引き入れてくださった。その選びにあずかっているのです。しかし、世の中に沢山の人がいながら、なぜ私が選ばれたのか?よくいわれるように、日本の全人口の0.5%、クリスチャンは本当に希少価値です。絶滅危惧(きぐ)種というたぐいです。だから、大切です。私たちがなぜ尊い者として選ばれたのか? 弱いからです。ここにあるように、「愚かな者を選び」と、「愚かで無力な者」、この世で弱い者を選んで、身分の低い者、まさに私たちそのものです。さらに「無きに等しい者」と、あるかないか、何の役にも立たない、存在すらもはっきりしない。「無きに等しい」そういう私たちを、しかも「あえて」、わざわざ選んでくださった。

 

何のため? 29節に「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」と。世間の人々は自分を誇る。自分の力を過信する。それで神様を認めようとしない。それに対して、弱い者、取るに足らない者、身分の低い者、無きに等しい者を、神様はあえて選んで、私たちを通して、神の神たること、神様の絶大な力をあらわそうとされる。だから、何かできることがあるとすれば、それは神様の力であり、恵みであり、神様のなさるわざです。私たちが選ばれ召された目的は何であるかをはっきりしておきたいと思う。私たちは、弱いからこそ選ばれたのであります。だから、「どうして私はこんなに弱いのでしょう」と嘆くことはいらない。初めからそうなのですから。「どうしてこんなに記憶力が薄らいだ」と、そもそもなかったのですから。そう思っていると、生きていることが不思議。無きに等しい者が、ここに生きて、存在しているわけですから。神様がそのようにしておられる。だから、いろいろな力を失っていくように思いますが、「私のものがだんだん減っていってさびしい、あれも無くなった、これも無くなった」、記憶力も無くなった、目もしょぼくれて、健康も無くなった、お金も無くなった、人も亡くなって、気が付いたら私独りになった。「どうするね。何もすることができなくなった。もうお手上げ」となる、それを神様は待っていらっしゃるのです。そうなって、「私は何もできません。神様、どうぞ、あわれんでください」と、「神様、私はあなたの力なくしては何にもできません」と、そこに至る。これが私たちの求められていることです。だから「私はこんなだから、駄目」と思ったとき、「だから、神様が選んでくださったのです。感謝しましょう」と、むしろ喜ぶべきことです。嘆くことではありません。

 

私の友人で私塾をやっている人がいます。彼が書いた本に『息子が不登校になったら、赤飯を炊いてお祝いをしよう』という長々しいタイトルの本があります。なぜお祝いをするのか?不登校を決め込む子供は、そもそも誰よりも繊細な感受性豊かな子供なのだ。だから、そんな子供を今の社会の仕組みの中に押し込む方が間違っている。自分の子がそんな優れた能力を与えられていることを感謝して、親は大いに喜びなさいと、そんな内容の本を書いて売れたのです。

 

弱いことを喜ぶ、神様がそこに、私たちの内に働いて力をあらわそうとしてくださる。だから29節に「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」。神様の前に誰も誇ることがない。神様こそが全能者であり、オールマイティー、力ある御方です。そのことを全ての人が悟り、それをあらわす存在として私たちは選ばれたのです。

 

「コリント人への第二の手紙」4章7節に「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。そういう弱い、取るに足らない、欠けだらけで、すぐにでも失われてしまう、無きに等しい私たちを選んで、神様は力をあらわす。そのためにいろいろな問題や悩みや困難の中に置かれる。それは悩みに遭って私たちはお手上げであるが、そういう弱い私たちが、悩みを乗り越えていく。その中をものともしないで突き進んで行く力を、神様は私たちを通してあらわそうとしてくださる。だから、8節以下に「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない」。「四方から」です、前からも横から後ろからもいろいろな悩みが一気に押し寄せてくる。私たちは四方どころではない、一方から来ただけでもへこみます。「四方から患難を受けても窮しない」、なぜか? 自分が強いからではないのです。そこで徹底して弱い者になりきって、へりくだって、神様の前に謙遜になり、神様の力を求める。「力は神にあり」(62:11)と詩篇に歌われていますが、神様の力であって、私たちの力ではありません。私たちには力がないのです。この地上に命を与えられ、ここまで生かされてきた私たちは、自分の力で来たのではない。実は、無きに等しい何の取り柄もない者を神様はあわれんで、日々必要な力を、知恵を与え、そしてはぐくみ育て、守り、支えて持ち運んでくださるのです。私たちは自分の力で歩んで来たように、何かできるかのように思いあがることは、神様に大変大きな罪を犯すことです。だから、神様は私たちのような弱い者、取るに足らない者、出来損ないであるような者をあえて選んでくださった。それだからこそ、神の力があらわれてくる。できないことがあったら、感謝したらいいのです。そこに神様の力があらわれてくださるからです。その後に「途方にくれても行き詰まらない。9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」。何とタフな、しぶとい生き方でしょう。そのような力があったのではないのです。私たちはほんのちょっとの風の音ですらおびえるような弱い、小さな存在にすぎません。しかし神様の力を求めるなら、神様が私たちの内にいのちを注いでくださる。よみがえってくださったイエス様が私たちのいのちとなり、力となってくださる。そうしますと、知恵を与えられ、力を与えられ、どんなことでも不足のないように神様のほうが私たちを用いて、問題や事柄を通して「どうして、あの人があんなことができるの!」と驚きとなる。神様がその力を発揮してくださるからです。弱い者であることを嘆かないで、むしろ、喜んでそれを誇りとする。パウロはそのように語っています。

 

「コリント人への第二の手紙」12章7節から10節までを朗読。

 

どうでしょうか? パウロは自分に一つの大きなとげがある。弱みがあったのです。どんな病気であったか知りませんが、これさえなければ、私はもっと元気よく、力強く、神様のために働ける。だから、これを早く取ってほしいと三度も祈ったとあります。そのとき神様は、9節に「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と、そのままでいいということです。「お前の欠けているところで十分だよ」と。なぜなら「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。お前のその弱いところにこそ、神様が力をあらわされるのだ。もしそのとげがなかったら、彼は自分を誇ったでしょう。自分のなした業を大いに自慢したに違いない。ところが、彼はそれができないのです。自分の弱いことを知っていますから、もしできることがあったら、成し得たことがあるならば、それはただ一重に神様の力によるのだ。9節の後半に「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と。「弱さを誇る」、これは世間の考え方とは正反対です。世間ではできるだけ弱さは見せてはいけない。人に弱みを握られたら、その人はおしまい。だから、政治家などは虚勢を張るではありませんか。弱いくせに偉そうなことをいう。あれもできる、これもできる、うそ八百並べ立てて、自分を造り上げる。張り子の虎のようになる。だから、弱みを見せられない、病気もできないのです。入院しても秘密にする。強い人の所に人は寄りますから、実力者でないといけない。「どうも、あの人は健康が危ないらしい」となったら、みんな去って行きます。だから、病気にすらもなられないくらいに、虚栄を張らなければならない。だから、弱さを誇るなんてとんでもないことです。むしろできることを誇らなければ、世間では生きていけない。そういう意味では、私たちは死んだも同然、無きに等しい状態であります。ところが、神様はそういう私たちを必要としてくださるのです。そこにあるように「神の力は弱いところに完全にあらわれる」、キリストの力が私たちを通してあらわれてくださるのです。だから、パウロはここで繰り返し「私は弱さを誇ろう」と。

 

その少し前ですが、5節に「わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい」と語っています。「自分の弱さ以外には誇るところはない」。その前、11章30節にも「もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」と語られている。うれしいじゃないですか。私たちには仲間がいるのですから。先輩が「弱さを誇ろう」といっているから、私たちも弱い自分であることを認めようではありませんか。足らない者であります。それが今日この年に至るまで生かされているのは、一重に神様の力による。その力はいま私たちの内に宿ってくださっておられるキリスト、イエス様です。だから、私たちが四方から患難を受け、あるいは、迫害に遭い、様々な問題に遭うとき、内に宿ってくださるイエス様を私たちは頼みとする。その方に結び付いて、「主よ、あなたが力を与えてくださることを信じます。この問題に向かって行きます」と、積極的にイエス様の力に満たされて立ち向かって行く。これは神様が私たちに願っていらっしゃることです。だから、困難や問題が起こると、「なぜこんなことをしなければならない」とつぶやく思いが湧いてくる。「もっと健康に恵まれていたら良かったのに」と、いろいろなことで不足を感じたとき、それは神様があなたを必要としているときなのです。そこでこそイエス様の力を求めて、「いまこの問題の中を進ませていただきますから、主よ、力を与えてください」と、「私にはできないけれども、あなたにはできないことはありません」と、神様の力を信じて踏み出す。引いては駄目ですよ。「何とか、これを取りのけてください」、あれを避けて行きたい、これを避けて行きたいと、引いて行く人生。そうではなくて、キリストの力によって前に踏み出さなければなりません。どんな問題でも、どんな悩みがあろうと、そこで神様は力をあらわそうとしてくださる。

 

「士師記」6章11節から14節まで朗読。

 

これはギデオンという一人の勇士の言葉ですが、このときイスラエルの国は、ミデアンびとから略奪を受けていたのです。収穫時期になると襲ってきて収穫物を奪い取っていく。ところが、それに抵抗する力がなかった。やられっぱなしだったのです。これは大変なことです。収穫は年に一度のことですから、それを全部取られてしまうから生活ができない。このときギデオンは「ミデアンびとの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていた」とあります。収穫して、人に知られないように酒蔵の酒ぶねの中でこっそりとひそかに麦を脱穀する。大っぴらにやったらミデアンびとが「いま取りに行け」と襲って来ますから、隠れていたのです。そうやって恐れていたギデオンの所に神様の使いが来る。12節に「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。「大勇士よ」と呼びかけられ、「私をからかっているのですか」と言いたくなる。大勇士どころか小心者です。怖くてたまらなくて、ギデオンはひそかにこっそりと麦を打つ。ところが、主の使いは「大勇士よ」と、「主はあなたと共におられます」。神様があなたと一緒におられるのだから、大勇士である。ところが、その後に「いくら神様がわたしと一緒におると言ったって、神様はちっとも何もしてくれないじゃないですか。我々が先祖から聞いていたエジプトから救い出されたいろいろな不思議なわざを神様はしてくださったのに、今は何にもない。それでいて、何が主が共におられると言えますか」と。そのとき14節に「主はふり向いて彼に言われた、『あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか』」。「このあなたの力をもって行って」と。これは忘れられない御言葉です。父がいつも祈ってくれたとき、この御言葉をもって送り出してくれる。しかし、「力って、何のことかな? 」といつも疑問に思っていました。ここで言われているのは、ギデオンのいま与えられている力で十分ということです。先ほどのパウロが「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言われました。「お前の欠けているところ、そのままで結構、よろしい」と神様はおっしゃる。ここでもギデオンに対して「今あなたが持っている……」、「こんなちっぽけな力で何の役に立つ、何にもできない自分である」、「いや、その力でいい。その僅(わず)かな取るに足らない力でいいから持って出なさい」と。なぜなら「わたしがあなたをつかわすから」。遣わす方が不足しているところを全て補って、神の神たることを証してくださるから大丈夫。

 

その後、ギデオンは国中に有志を募り、ミデアンびととの戦いに出ますが、そのときも神様は集まった人々、最初は3万2千人以上の人々が集まりましたが、その数を減らしました。最初は「おじけづいている人は家に帰りなさい」と、3分の2ほどの人が帰りまして、1万人ほどになりました。その後更に神様は選びまして、とうとう300人になった。たったそれだけ、それでもってミデアンびとに立ち向かうのです。神様は不思議なわざを起こして、ギデオンに勝利を与えてくださいました。それはギデオンの力、あるいは、集まった人たちが力を合わせたからできたのではなく、神様が彼らの足らないところに不思議なわざを備えて、神の神たることをあらわしてくださった。今もその神様は変わらず、私たち一人ひとりをギデオンとして、それぞれに与えられた、「そのありのままで出て行け」とおっしゃいます。そうすると、神様のほうが私たちを補い満たし、神様の勝利をあらわしてくださる。

 

そのことが「コリント人への第二の手紙」4章7節に、「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」と。まさに、自分が弱い者であり、足らない者でありますが、神様が握って「お前がその中を通れ、この問題を負え」とおっしゃるならば、喜んで負おうではありませんか。逃げないで、神様の力を体験し、味わう者となりたいと思います。「あの人がなぜあんなことができる。あんな悩みに遭ったら、あの人はおしまいだ」と思われる、その中で力をあらわされるのです。

 

ですから、私たちは、自分の弱さを、足らないことを、不足だらけである自分を嘆かないで、いやむしろ、喜んで自分の弱さを誇ろうではありませんか。そして僅かばかりだけれども与えられた力をもって、主が「せよ」とおっしゃること、備えられた悩みであり、困難であり、苦しいことであろうと、そこに踏み出しましょう。主は「わたしがあなたをつかわす」と、私たちをこの世に遣わしてくださった。だから、大胆に主の力を信じて、主の主なること、神の神たることをあらわす器として神様の求め給うところに従って参りましょう。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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