いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(424)「あなたは何に従うか」

2014年12月26日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネによる福音書」21章15節から22節までを朗読。

 22節「イエスは彼に言われた、『たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係(かか)わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい』」。

 イエス様はよみがえられた後、40日にわたっていろいろな人々にご自身がよみがえられたことをあらわしてくださいました。この時、弟子たちはガリラヤに戻っており、昔やっていた漁師の生活に戻っていたようです。ガリラヤ湖で夜通し漁をして、そろそろ明け方になって仕事を終わろうとしているときでした。その夜は何もとれなかったのです。それでとにかく戻ろうというとき、一人の人が岸の方から声を掛ける。「何か獲物があったか」と。「何もない」と答えると、「船の右の方に網をおろしてみなさい」と言う。それを聞いて「じゃ、もう一度おろしてみようか」と、網を下ろしたところたくさんの魚がとれた。改めてその声の人を見ると、それはイエス様であった。それでペテロはびっくりして上着を着て水に飛び込んだという、おまけまでついたのです。間もなく彼らはその魚を持って岸へ戻ってきた。するとイエス様は既に火をおこしてパンを備え、魚を焼いて彼らを待っていてくださったのです。彼らは一晩中労働をした後ですからおなかもすいていたし、疲れてもいたでしょう。イエス様は彼らにまず食事をさせてくださった。イエス様は小言を言われない。「何だ、お前たちはこんな所で何をしておった」とはおっしゃらない。言いたいことはたくさんあったと思います。それで食事を済ませて、その後のことであります。

 15節に「彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか』」と問われました。このときイエス様はペテロに対して格別この事をお語りになりました。他の人もそこにいましたので、どうしてペテロだろうか、と思いますが、理由は分かりません。もっともイエス様が十字架におかかりになる前に三度も「イエス様を知らない」と拒んだ、その見せしめのために彼を少し懲(こ)らしめてやろうと思われたというわけではない。イエス様はシモンを愛していたのだと思います。「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と言われました。ここで「この人たちが愛する以上に」とは、その周囲には他の弟子たちもいましたから「ほかの人たちがイエス様を愛する以上にお前はわたしを愛するか」と、他者と比較してより一層愛するかと、そういうことをイエス様は求めたのではなく、むしろその最後の「わたしを愛するか」に重点が置かれているのです。というのは、その後に、二度も繰り返して「わたしを愛するか」と問われているのです。「わたしを愛するならば、わたしの子羊を養いなさい」「飼いなさい」「養いなさい」と三度も語っておられます。これは具体的に何のことでしょうか? イエス様を信じる人々のために大いに力を尽くせと、そのために努力せよと、イエス様がおっしゃったのかというと、そういうことももちろんあったと思いますが、どういうことなのか私どもは分かりません。しかし、いずれにしても一つはっきりしていることは、イエス様の求めるところに従うことです。イエス様がペテロに願っているのは、イエス様の言葉に従ってほしいということです。「羊を飼う」、あるいは「養う」、これは非常に抽象的な大雑把な言い方です。しかし、イエス様が言わんとすることは、「わたしを愛するならば、その愛に応えて私の求めるところに従ってほしい」。これがイエス様のペテロに対する思い。と同時に、それはペテロばかりでなくて、いまイエス様の救いにあずかっている私たちに対してもイエス様は同じことを願っておられるのです。

かつてイエス様を知らない、この救いに縁のなかったとき、私たちはどういう生き方をしていたか。まず「自分」であります。自分のための人生、そしてこの世のいろいろなことを誇りとして、それを頼りとして生きていた。

「ピリピ人への手紙」3章2節から6節までを朗読。

これは聖徒パウロがかつてどんな生き方をしていたかを語った一節であります。「肉の頼み」、生きるエネルギーといいますか、力となっていたものは4節以下にあるように、この世における才能や資格や、氏素性、学歴、その他誇りとするもの、自慢するいろいろなものをもって自分の人生を築いていく。あるいは自分の生涯をそのために生きる。これがパウロのそれまでの生き方。この世にあって、誇り高く、多くの人から羨(うらや)まれるような、尊敬を受ける、そういう自分でありたい。自分を何とか人様以上に優れた者として誇りを持って生きようとすること。これは今の世の中も同じであります。かつて、私たちもそういう中に生きていた。今の日本の社会もそうであります。学歴であるとか、氏素性、家柄であるとか、その人の才能である、偏差値であるとか、いろいろな尺度をもって自分という者がどういう者であるかをアピールしていく。あるいはそういうものを築き上げていくのが人生を生きることと思う。自分のために自分の目的にかなう人生を生きたい、これが多くの人々の生き方であり、世の中の生き方です。かつて私たちもそういう生き方をした者であります。そこには神様を認める思いは少しもありません。だから「肉の頼み」とは、そのように神様抜きに人の力と人の知恵と人の業で自分のために生きていく。世間の人々にそんなことを言おうものなら、「それでどこが悪い」と言われるに違いない。「自分は何も人様に迷惑を掛けるわけではない。俺は俺のための人生を生きている。何がいけないのだ」と言われるに違いない。しかし、それは神様に造られた人としての生き方ではない。そこに神様を認めない生き方、自分の力を頼みとする。肉を頼みとする生き方です。

かつてパウロもそういう中にいました。5節以下にありますように、「八日目に割礼を受けた者」「ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人」「パリサイ人」「律法の義については落ち度のない者である」とありますが、私どもにとって「何のことかな。そんなのは何の誇りもない」と思います。ところが、ユダヤ人はこれを読むと、「え!こんな立派な人物か」と驚くようなことになるわけです。日本人にもそういう人がいるかもしれません。「私の先祖はこういう人で……」と自慢する。そういう肉の、この世での誇り、自分のより所とするべきもの、そういうものがパウロにはたくさんあったというのです。

ところが、その彼が大転換をする。人生が180度方向転換する。7節に「しかし」と、そういうものを誇りとして生きていた自分であったが、「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」。彼はそれまで「あれも誇り、これもどうだ、見てみろよ、私はこんなところがある。こんな立派な……」と誇り高く生きていた。それがダマスコの町へクリスチャンを迫害するために出掛けて行く途中でよみがえられたイエス様に出会いました。その時、大きな音と共にまばゆいばかりの光に照らされて彼は地面にたたきつけられてしまいました。他にも一緒にいた者がいましたが、彼だけがその音の中からキリスト、イエス様の声を聞くわけです。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と。それに対してサウロが「あなたは、どなたですか」と問うたところ、「お前が迫害しているイエスである」と。それっきり彼は目が見えなくなって人の手に支えられてしか動くことができなくなった。それからダマスコへ連れて行かれて、そこにアナニヤという人を神様が遣わして、祈ってくれた時、彼の目からうろこのようなものが落ちて、そして彼は初めて「イエスは主なり」と告白したのです。イエス様は救い主であるということを、神の御子であることを信じたのです。それから後、彼はしばらく世の中から消えるようにして、所在が不明になった時期がしばらくありましたが、やがて神様の時が来て、彼はもう一度神様の僕として、主に仕える者として引き出されて来るのです。彼が、それまで誇りとし、頼みとして自慢していた生き方から完全に変わった。その変わり具合を「コリント人への第二の手紙」に「わたしがいま生きているのは、わたしのために死んでよみがえった方のために生きるため」(5:15)と告白しています。自分がいま生きているのは、自分が自分のために生きるのではない。かつてはそうだった。肉を頼みとして自分のために生きる生涯を生きていた。今でもどうですか? 私どもはともするとそういう思いに駆(か)られる。私のために、私の利益のために、私の夢を実現する、私の安心のために、私が、私が……という、自我のために生きようとしている。ところが、パウロはそうではなくて、自分のためにではなくて、むしろわたしのために死んでよみがえった方、すなわちキリストのために生きる。キリストのために生きる者となった。これがパウロの大きな人生転換、生き方が根本的に土台がひっくり返る。それっきりキリストのために生きる生涯です。そして、そのことはパウロだけではなくて、いま私たちも同じであります。私どももかつてはイエス様を知らない、聖書に記された神様のことも知らない、縁もない、ただこの世の仕来たりや習慣、この世の様々な「よし」と言われるところ、誇りとするものを求め、自分が、自分がと自分の義を立てて、私こそが正しいと固執する。絶対わたしの考えが良い、と主張しながら来たためにあちらでぶつかり、こちらでぶつかり、悩みがあり、できないことばかりで行き詰って、失望落胆している。その中から、イエス様は憐れんで私どもをご自分の所へ引き出してくださった。イエス・キリストを信じる者と変えてくださった。私たちのために、十字架に命を捨て、罪を赦してくださった。さらにイエス様はよみがえって、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)と、イエス様が共にいてくださると約束しておられる。私たちも自分のために生きるのではなくて、自分のためによみがえってくださったイエス様、私たちのために今も生きていてくださるイエス様のために生きる者と変えられた。これがクリスチャンの姿です。しばしば聞いていることであると思いますが、私たちはいま自分のために生きるのではない。キリストのために生きる者です。これを決して忘れてはならない。事あるたびにそこに立ち返ってください。そうでなければ、わたしたちの救いは絵に描いた餅で終わってしまう。

 「ヨハネによる福音書」21章に戻ります。この時、ペテロに対して「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と言われました。まさにここがペテロにとっての大きな人生の転換点です。イエス様がサウロのダマスコの途上で現れてくださった時と同じように、ここでペテロに対して生き方の転換を求められたのです。それは自分のために生きるのではなくて、キリストのために生きてほしい。キリストのために生きるとは、愛に基づくことです。だから、ここで「わたしの小羊を養いなさい」「飼え」とおっしゃるイエス様の命令に従う。イエス様が願っておられることを実行するといいますか、それを行う者となる。その動機が「わたしを愛するか」と。イエス様に従うにしても、御利益のために従うのか、あるいは怖いから従うのか、その動機はいろいろあるでしょう。ところが、イエス様が求めているのは「あなたはわたしを愛するか。だったら、わたしの子羊を飼え、養え」と、愛に基づいての行動です。イエス様は私のために十字架に命を捨てて、罪のあがないを成し遂げてくださった。限りないご愛を私たちに注いでくださった主が、今日も「わたしに付いてきなさい」と言われる。その主のご愛に応答していくと。これが実はクリスチャンの生き方であります。私たちは何を動機にいま生きているか? 「死ぬに死なれんから仕方なしに生きている」と言う人もいるでしょうが、私どもはイエス様のご愛に感じて、愛のゆえに生きているのです。今日もイエス様が私を愛してくださって、「生きよ」と言われる。そして「わたしに従ってきなさい」と。その主の呼びかけ、招きに応えて、今日も目覚めて元気を与えられ、力を与えられて、それぞれの持ち場立場、与えられた事、所に遣わされている。だから、イエス様がよみがえられた時に、弟子たちに「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」と言われました(ヨハネ 20:21)。だから、私たちがイエス様の救いにあずかったことは、取りも直さず、もはや自分のために生きるのではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる。キリストのものとなって、今日も主の限りないご愛に感謝し、喜び、応えて生きること。これ以外にないのです。だから、ここでイエス様は繰り返し、念を入れて「あなたはわたしを愛するか」とペテロに問われたのであります。どうしてこんなに三度も同じことを言われるのだろうと思いますが、これがなくてはいのちがないからです。これこそがペテロにとって掛け替えのない大切なことだから繰り返しておられるのです。

ところが、ペテロはうんざりしている。17節「イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためて」とあります。「どうしてイエス様はわたしのことを分かってくれないのだ」という思いもあったでしょう。でも、これはペテロだけではなく、このペテロに代えて、ご自分のことをここに読み込んでいただきたい。だから「榎本よ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と、私に問われていることであり、ペテロの代わりにご自分の名前を入れてみてください。イエス様から「わたしを愛しているか」と問われる。それに対してどう答えていくか。最後にイエス様は19節「これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、『わたしに従ってきなさい』と言われた」。イエス様は「わたしに従ってきなさい」と言われます。愛に根差して、愛に励まされて、愛に押し出されて、わたしに従ってきなさい。同じ「わたしに従ってきなさい」でも、「俺に付いて来い」と言う言葉が、一時はやったことがありますが、この人に付いて行ったら食いっぱぐれがないというかもしれません。イエス様は「わたしに付いてきなさい」と言われます。「イエス様は何かくれるかしら」、「私に何か善いことをしてくれるのか」と期待したくなりますが、そうではなくて、既にイエス様は私たちを愛してくださったのです。「最早(もはや)われ生くるにあらず」と(ガラテヤ2:20文語訳)パウロは言っているように、私たちはキリストと共に十字架に死んでしまった者であります。そして、今はキリストのゆえに生かされて、主のご愛に応答する者と変えられている。こんなに主が愛してくださる、私たちは何をすべきか? それに対して主は「わたしに従ってきなさい」と。今もそうです。イエス様に従うということ、これが全てであります。

20節「ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、『主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか』と尋ねた人である」。そのとき、横を見るとヨハネがいたのです。「イエスの愛しておられた弟子」とは、ヨハネのことで、自分のことをこのように言う。「大した自信家だな」と思います。皆さんも「イエスに愛された弟子です」と言えるといいですね。是非言っていただきたい。そのくらい言っているとそのうち自分もそういう気になり、本物に変わりますから。この弟子は、最後の晩餐の時にイエス様のすぐそばに座っていた人物です。ペテロはその弟子を見て「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねます。「どうしてイエス様は、わたしだけに言うのか」と。つい私どももそういう思いを持ちます。連れ立つといいますか、一緒にことをしようとします。何でも人がするとすぐついて行こうとする。「これ買おう」と言うと、「あ、私も買おう」と。食堂に入ってもメニューを見ながら「何を食べる」「何を食べる」と悩み、一人が「私はこれにする」と言えば、「私も」「私も」と続く。だったらメニューを見なければいいのです。どこかでそういうものを求めるのです。それは自分に自信がないのです。人と一緒でいるほうが安心という。それは間違いです。イエス様は「あなたはわたしに従ってきなさい」と言われる。他の人ではないのです。誰彼ではなくて「あなたが」と。

だから22節に「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係(かか)わりがあるか」と。イエス様は「彼のことはわたしが知っている。お前が何も言う必要はない。お前とは関係がない」と。これは大切なことです。私はいつもそのことで教えられることばかりです。つい私どもはお節介をする。「あの人はどう? 」「この人はどう? 」。ところが、神様は一人一人を見ておってくださる。信仰はその人一人だけのものです。どんなに親しい仲間同士であっても、一人なのです。だから、イエス様が「あなたは、わたしに従ってきなさい」といわれるのは、「ここにいる皆に言われている」のではなく、いま皆さん一人一人に、主がそのように語ってくださる。聖書を読みますと、いろいろな所にそのことが語られています。イエス様は常に「主と私」という、この関係を必ず求められます。12年も長く病気だった女の人が癒されました。そのときに「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」(マルコ 5:34)と。「あなたの信仰」と。イエス様は必ず「あなたの信仰が」と言われるのであって、「あなたのお父さんの信仰が」とか、「あなたの奥さんの信仰が」とか言われません。あるいは「私の信仰によってお前は救われた」ともおっしゃらない。「あなたの信仰」です。だから、自分の救いについては自分に責任があるのです。「そんな自分だけじゃ、申し訳ない。あの人も、この人も」と、博愛主義のようなことを言いますが、それでは救われないのです。まず私が救われなければ駄目です。「使徒行伝」に語られているように「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(16:31)。「主イエスを信じて、まず自分が救われなさい」と。「そうすれば家族もまた救われます」と。それは神様のわざです。私たちが家族を救うこと、友人知人親族の救いなど、できません。それは神様がご存じです。ところが、こと自分に関してはあなたの責任です。だから常に「あなたは、わたしに従ってきなさい」と求められている。イエス様に従う。誰が? 「私」以外にありません。「あの人は? 」「この人は? 」ではなくて、常に「いま主が私に……」、いうならば「私だけに」です。他の人にも同じことを求められるかもしれませんが、それは私たちのかかわるべき領域ではない。私たちの権限の及ばない事柄で、神様の領域です。私たちは常にきちっと一線を引いて行かなければならない。イエス様に従うというのは、まさにそういう一対一の関係なのです。「イエス様と私」。これを徹底しておくことが大切です。だから、「私はいま主からこの事を求められている」、「私は今このことを通して主に従うんだ」と、ここをしっかりしておかなければ、他人から何か言われると「え!それじゃ、私はやめとこうかしら、ああしようかしら、こうしようかしら」と、人の言葉で右に左にと揺れて、せっかく善き思いが与えられながらそれを流してしまう。だから、常に私どもが心しておかなければならないのは「あなたは、わたしに従ってきなさい」と、主に従う道を選び取って行く。それは誰彼のことではなく、私たち一人一人がイエス様のご愛に応えて、聖霊によって私たちに求めておられることを信じて従う。これは「あなただけに」神様が求められることがあるのです。そこで主の招きに応えていく。これが私たちのなすべき事です。

 先だってもある方から「東日本大震災があっていろいろな方々が大変ひどい悲しいつらい中に置かれている。そのことを思うと自分も何かしなければおられない。だから、今度その地方にボランティアで出掛けてきたいと思う。少しでも役に立ちたい。そういう人たちの慰めになればいいかな、と思うのですけれども、先生、どう思いますか」と言うから、私は「それはやめた方がいいんじゃない」と言ったのです。「どうしてですか」と問われますから、「あなたの動機はどこにあるの? 困っている人を助けてあげたい。悲しんでいる人を慰めてあげたい。なるほど博愛的な、非常に慈善的であってあなたの立派な人間性が現れていいかもしれないが、それではイエス様が喜ばれない」「じゃ、どうすればいいんですか」と言われたのです。皆さんはどう思いますか? 「そのような人助けをするのはいいことだ。良きサマリヤ人だってちゃんと人助けをした」。問題は動機です。世間でクリスチャンというのは、そのように人様に良いことをする。親切をする。そういう愛に満ちた人だという誤解がありますが、そういうことをする人はもっと世間にたくさんいますよ。新聞なんか読んでいると、あのような震災の場所にボランティアで出掛けて行って、身を尽くすようにしている方が大勢いる。クリスチャン以上にクリスチャンらしいと言えばそうかもしれない。しかし、大切なのは、外側から見ると、同じように見えますが、「いちばん大切なことは、主の愛に応答しているのか、どうか。これをしっかりと自分のうちであなたが考えてほしい。いまあなたが思っているように、あの人たちが可哀想と、情にほだされて、感情に促(うなが)されて出て行って、人のため世のためにしたとしても、あとはつぶやきが残るだけです。相手が喜んでくれて涙を流して感謝されると、『ああ良かった。俺はやっぱりしてやって良かった』と思うかもしれないが、その後きっと心はむなしくなってきますよ」、「じゃ、どうすればいいのですか」、「どうすればと言うが、あなたはクリスチャンでしょう。イエス様を信じている。主がそのことをあなたに求めておられる。主のわざとして主に応答していくのでなければ、それはむなしい、何の意味もない。もう一度そこをよく吟味して、信仰に立って生きることが何より大切。『信仰によらなければどんなことも罪である』と聖書にある。あなたはよく祈ってしっかりと主の導きを得てほしい」と伝えました。というのは、イエス様のご生涯をご存じでしょう。イエス様は神の位を捨て人となってこの世に来てくださいました。わたしたちのために来てくださったと思います。しかし、イエス様はひと言も「お前のために来たのだ」とはおっしゃらない。ゴルゴダの丘で十字架にかかって、「おい、お前たち、ちゃんと見ておけよ。俺はお前たちのために死んでやるのだからな。この後、俺のためにちゃんと恩を返せよ」と言われたのではない。イエス様は父なる神様に応えたのです。「父がわたしを愛されたように」(ヨハネ15:9)と告白していらっしゃいます。イエス様は徹底して、ひと言も「お前のためにしたのだからな」と言われない。あそこに可哀想な人がいるから何とかしてやらなければ、とひと言もない。イエス様のご生涯は徹底して神にささげられたご生涯。父なる神様のために。この日この時この事のためにわたしは遣わされたと十字架におかかりになる前にイエス様は語っておられます。私たちが生きる生き方は、イエス様に倣(なら)うことです。私たちもいまイエス様のあがないにあずかって神の子供とされた。私たちが果たすべき責任は主に対して、キリストに対して、神様に対してです、ただそれだけです。この世のため、人のため、誰かのためではない。もちろん結果として、そういうことになるかもしれないが、私たちは徹底して神様に応えていく。それが人から喜ばれるか、受け入れられるか。それはどうなるか分かりません。しかし、それはどうでもいいのです。それよりも「いま私は神様に従い抜いてきた」という、その喜びを味わうならばこれが全てであります。だから、どんなときもイエス様に従うことを努めていく以外にないのです。「イエス様のために今日この事をさせていただきましょう」「主よ、あなたのご愛のゆえに、あなたのためにこのことを」。これが私たちの生きるべき事です。人から喜ばれたとか、感謝されたとか、そんなことで「ああ、やっぱりやって良かった」など、そんなものはすぐに消えます。そうではなくて、どんなことも、キリストのため、主のためにこの事をさせていただく。だから、それをしたらそれでおしまい。

 「コロサイ人への手紙」3章16、17節を朗読。

 17節に「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず」、とにかく有形無形、私たちのすることの全て、「生活の一切が、これは主イエスの名によってする」。「主イエスの名によってなし」と、イエス様のわざとしてする。イエス様がこれをさせておられるのですと、主の名に……。イエス様の身代わりとなってそのことをしているのだと。いうならば、イエス様のためにこれをしていることです。そして「彼によって父なる神に感謝しなさい」。そのうえで、したことを感謝しなさいと。「主イエスの名によってなし」とありますが、イエス様に代わってしていることです。感謝するのは大抵何かしてもらった時ですね。プレゼントをもらったら感謝する。何かしてもらったらから感謝する。お店に行っても、まけてもらったら感謝するけれども、高く買わせられて感謝する人はいない。ここにありますように「いっさい主イエスの名によって」したうえで、それを感謝する。「こんなにさせていただいて感謝です」と。神様に感謝する。外目で見れば、世の中のボランティアだとか、あるいは慈善家たちがしている慈善事業と同じようなことをしているかもしれませんが、しかし、その動機、思いは完全に違います。私たちは神様のために、主に喜ばれるために、主が「よし」とおっしゃってくださることを求めて生きているのであります。だから、それが人に喜ばれるか、感謝されるか、けなされるか、嫌われるか、どうか分かりません。そんなことはどうでもいい。とにかくここにあるように、主イエス・キリストによって父なる神に感謝していく。「今日もこうして、この事をさせていただきました。有難うございます、神様、感謝します。これもさせていただきます」と。だから、いつも感謝することばかりじゃないですか。皆さんがいろいろなことをしたうえで感謝する。感謝されるのではなくて、するのです。しかも神様に。これがいま私たちに求められていることです。「あなたは、わたしに従ってきなさい」。

 初めに戻りまして、「ヨハネによる福音書」21章22節に「あなたは、わたしに従ってきなさい」。どんな時でも「いま私は主に従ってこの事をさせていただいている」、「いま私は主の御心に従ってこの事をさせていただいている」と。そして、それをなし終わるなら、感謝したい。主に感謝したい。「させていただいた」と。これが私たちの生きる生き方であり、全てであります。

 私たちはいつも愛によって、愛に応答して、喜んで主に従いたい。そして、私たちのなすこと全て、ことごとくイエス様の名代(みょうだい)として、身代わりとしてこの事をしているのだと。それは主のためにであり、神様にささげるものとしてです。イエス様がそうでありました。イエス様がこの地上におられた時の全てのわざは、誰彼のためではない。常に父なる神様の御心に従って行く。イエス様は「ご自分の思いのままにではなく、父の御心に従うためにこの世に遣わされて来た」と語っています。私たちもそうです。いま私たち一人一人が御霊の、聖霊の御声に従って徹底して自分のためにではなく、主のために生きる生き方をしようではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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