福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

永山博士の「矛盾論 第5」その4

2010-01-23 | 永山國昭博士の福聚講通信
最後に上記パリティーエッセイの最後の問いかけ「無矛盾の物質的自然をどうやって矛盾を含む言語表現に投影できるのか」に答えよう。科学、特に物理では無矛盾の客観世界を記述する無矛盾の言語体系を自然言語と対置して作るという方法を取った。すなわち数学言語または数学言語的なもの(情報科学もその1つ)を客観世界の表現としたのである。
科学が日常言語から遠く分かりにくいといわれるこれが根源的理由である。私は国の1機関科学技術振興機構の嘱託として理科離れ問題や一般社会の科学理解の問題にも関与している。その中で数学言語的なもの以外による科学理解の可能性も探っている。(第5話終わり)
***永山國昭 Kuniaki Nagayama, PhD岡崎統合バイオサイエンスセンター・教授Professor of Okazaki Institute for Integrative Bioscience自然科学研究機構 National Institutes of Natural Sciences (NINS)生理学研究所・教授 National Institute for Physiological Sciences, Professor(併)総合研究大学院大学 The Graduate University for Advanced Studies生理科学専攻・教授 School of Life Science, Professor国際純粋応用生物物理学連合(IUPAB)会長(http://www.iupab.org/)
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1 コメント

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仏教でも言語の限定性が問題にされてきました。 (高原)
2010-01-25 14:16:06
八宗の祖といわれる竜樹の中論にも「行く者は行かない、行かない者も行かない。行く者と行かない者を離れて第三の行く者は存在しない」
とか「行く者が行くと言うなら、そんなことがどうしてあり得るだろうか。行く事を離れて行く者はあり得ないのだから」(第九偈)などと言語の限定性をとくところがあります。お大師様も「文は是これ糟粕そうはく、文は是これ瓦礫がれきくなり、糟粕瓦礫を受くれば則すなわち粋実至実を失う」といわれています。いずれも世俗諦がいかに頼りにならないものかをお説きになったものと思います。


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