福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

悟りと慈悲

2017-03-07 | 法話

先日瞑想していて、「悟りとは慈悲心になりきること」、と思いましたが、いろいろなお経等ではこういう慈悲を否定されてることもたしかです。
末木文美士氏は「仏教と倫理」の中で、梵天勧請の例を引き、「梵天が勧請しなければ仏陀の説法はなかったかもしれないのである。このことは、仏陀の教説が少なくともその中核には”人々のために教えを説く”ということを含んでいなかったということを示している。」とおっしゃっているようです。
そういえば夢窓疎石も夢中問答で、「(涅槃経を典拠に)慈悲には衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲とあり、衆生縁の慈悲というのは、生死に迷っている衆生がいるのを見て、これを度して出離させようとすることであるが、これは『維摩経』の中で、「愛見の大悲(衆生の苦しみを見て、苦しんでいると、苦しんでいることだけにとらわれること)」と謗られている。 法縁の慈悲というのは、縁によって生じた諸法は、有情も非情も皆幻のようなものであると通達して、幻の如くの大悲を起こし、幻の如くの法門を説いて、幻の如くの衆生を済度するのである。これはつまり、大乗の菩薩の慈悲である。このような慈悲は、実有の情を離れて、愛見の大悲とは異なっているけれども、しかし、「幻の如く」という姿を残すため、これもまた真実の慈悲ではない。無縁の慈悲というのは、仏果に至ってから後、本有性徳の慈悲が現れて、化度の心を起こさないのにも関わらず、自然に衆生を度すること、諸の水が月の影を映すようなものをいう。そうであれば、つまり、法を述べても、説・不説の隔てもなく、人を度するのに、益・無益の姿もない。これを、真実の慈悲と名付けるのである。衆生縁・法縁の慈悲にこだわる人は、その慈悲に邪魔されて、無縁の慈悲を発すことは出来ない。「小慈は大慈の妨げ」というのは、この意義である。百丈大智禅師が、「小功徳・小利益を貪ってはならない」と誡められるのも、この意義である。」とおしゃっています。
観無量寿経でも「仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す。この観を作せば、身を捨てて他世に諸仏の前に生じて、無生忍を得。このゆえに智者、応当に心を繫けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし」とあり、仏心とは大慈悲心でありこれは無縁の慈悲のことである、といわれています。
しかし私は、事相・教相とか教・行・信・証というように教えと体験とが両輪と思っていますので、自分の体験からはとても、こういう高等な考えには到達できません。「衆生縁の慈悲」でもエゴの塊の現代人には相当むつかしいとおもっています。むしろ「衆生縁の慈悲」を徹底して行じることが悟りなのではないかとさえ愚考している最近です。宮城まりこさんやマザーテレサは覚っているといっていいのではないかと思うのです。数十年前、重度障害児を預かる鉄道弘済学園で禅僧から施設の職員になったという人が「自分は覚れなくてもここの障害児を世話することのほうがいいとおもった」と言われたことを思い出します。

そして弘法大師様は「虚空尽き 涅槃尽き 衆生尽きなば我が願いも尽きなむ」とおしゃって高野山奥の院に入定され現実に今日でも日々無数の衆生を済度されていることをおもう度に、「悟りとは慈悲そのもの」という気持ちになるのです。
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