第二講、大悲
佛教といふ大建築を載せている二つの大支柱がある、一を般若又は大智と云ひ、今一を大悲又は大慈と云ひます。智は悲から出るし、悲は智から出ます。元来は一つものでありますが、分別智の上で話するとき二つのものであるやうに分かれるのです。智即悲、悲即智の體は単なる幾何学的な点でもなく、又数学上の一でもありません。これを人格性といってもよいと思ひます。大智大悲は生きたものです。しかしこれは霊性的自覚の上に現れるものであるから、これを神格と見てもよい。即非の論理にいきてゐる者、これを絶対の一者としておきます。この一者の上に無分別の分別、分別の無分別があるのです。これを「不可思議體(アチンチャカーヤ)または不可思議身と云ひます。この身が不可思議でありますから知性的分別の世界に色々の形で自らを顕現するのです。この不可思議身は(智と悲の)双身であると考へてはならぬ。智と悲が機械的に融合したものならそのやうなこともあらうが、これはもともと融合體ではないのです。・・それには華厳哲学を知る必要があります。般若的空思想がここまで発展したといふことは実に驚くべき歴史的事実です。
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