福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

滝川政次郎「日本人の国家観念と国体観念」から

2017-07-01 | 法話

滝川政次郎「日本人の国家観念と国体観念」(昭和33年)
1、「・・(唐の時代の)極東は高句麗・百済・日本の三国同盟と唐・新羅の二国同盟の対抗となり、日本はついに大国唐と戦いを交えるに至った。日本人の愛国心がこのときほど高揚したことは前後にその比を見ないといってよい。
わが百済救援軍は天智天皇の元年(662)五月、船百七十艘、兵二万七千を以て半島に赴いたが翌年八月二十七日、錦江の河口なる白村江に唐の水軍と戦って大敗した。・・吾水軍の武将朴市田来津(えちのたくつ)は白村江の戦いにわが軍の敗績するを見て天を仰いで誓言し、敵中に行って数十人を斃し、壮烈なる戦死を遂げた。またこの戦争で唐軍の俘虜となった筑紫国上八女郡の軍丁大伴部博麻(おおとものべのはかま)は同じく俘虜として送られてきた土師富杼(はじのほと)等四人が唐人の計るところを聞いてこれを本国に諜報戦と苦慮しているのを見て、自らを奴隷に売らしめて旅費を作りこれを四人に与えて日本に帰らしめた。かくて博麻は唐国にありて苦役に服すること二十余年、持統天皇の四年(690)新羅の使いの同情によって漸く本国に帰還することができた。まさに古代版アナタハン物語である。持統天皇は博麻を務大司肆の位に叙し三族の課役を免じてその忠を表彰せられた。ここに一言付言しておきたいことは隋唐の東方侵略に際して日本がその本土まで侵されずにすんだのは強国高句麗がその中間に介在して日本の障壁をなしていたからである。・・ロシアの侵略を防ぎ得ない韓国を隣邦に持ったことは日本のおおいなる不幸であった。韓国がもし立派に独立を保持しうる圀でったなら日本はあるいは帝国主義の過誤を犯さずにすんだかもしれない。・・・・

2、日本は敗戦後東京裁判によって侵略国の烙印を押され満州事変以後に行った戦争行為はすべて侵略戦争であると判定せられた。しかしこれは正当な判断ではないのであって、・中立国印度のパル判事は満州事変までは日本の自衛戦争であると認めている。・太平洋戦争を日本の侵略戦争とすることにはアメリカ以外の国は皆反対であった。パル判事は太平洋戦争を日本の自衛戦争と認め、ハルノートの如き無法なる最後通牒をつきつけらるればルクセンブルグの如き小国といえども干戈をとって立であろうと激語を発している。太平洋戦争がアメリカの侵略戦争であったことを雄弁に物語るものは、降伏文書の調印の行われたミーズーリ号がペルリが嘉永六年に掲げてきた星条旗を掲げてきたことである。・・国民国家の観念は根が浅いにしても大八洲、大大和の国家観念は日本固有のものであるだけにその根が深い。幸いに終戦後日本は明治以来かって経験したことのない(昭和三十三年当時で)十三年という長い平和の日を送ったので国民はもっぱら戦争の疲れを休めているが、世界情勢の変化によっていずれの日か敗戦によって反省せしめられた正しい国家観念に燃え立つことがあろうと思う。それは歴史の証明するところであって私個人の希望的観測ではない。・・日本が敗戦した最大の原因は軍・官・民の不和にあったがこの不和の原因をつくったのは明治政府の首脳たちの『私』であった岩倉、伊藤等は政権を国会に渡すまいとして立憲政体の天皇の他に神権的家産的元首としての天皇を作り、山県は長州藩がつくりあげた軍部の勢力を失うまいとして統帥権を統治権の外に置いた。いずれも彼らの私心の致すところである。・・」

3、日本は東日本大震災・原発事故という世界史に大書される大惨事を起こしておきながら担当省庁は一切反省せず、それどころか相変わらず責任転嫁・省益拡大至上主義で走り続けています。東京都に代表される自治体の無責任主義も然りです。こういう官僚のセクショナリズム・私益追求の風土は滝川博士の指摘するように、明治以来の日本の各組織に根深く巣食っていると思われます。敗戦をへても東日本大震災という大災害を経てもなおしぶとく生き残っているこの「セクションナリズム・私益追求」という国民病をなんとかして克服しなければロシア・朝鮮半島・中国という大脅威に囲まれた日本の将来は真っ暗です。

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