福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

釈雲照師「十善業道経講義」から・・その51

2018-04-20 | 諸経
「神足の荘厳のゆえに恒に身心をして軽安快楽ならしむ」
これは四神足即ち三十七道品の中の四神足じゃ。神というは不思議なこと。この神変不思議なことはどうして起こるかというと禅定の功が積むと自然と智慧が明瞭になり遂に通力自在になる。通力自在になると心の思う通りになるからこれを神足とも如意足ともいう。・・我が思う通り空を飛んで行こうと思うと行かれる、それから他心通というて他の心を知ろうとおもえば知られる。そういう通力が六通りあるので六神通という。・・真言宗の「大日経」「蘇悉地経」等をはじめとして片端から説いてある、そういう通力が六神通というて六通りある。その第六の漏神通というは仏法に説くところで外道にはない。漏とは煩悩のたくさんあることでこの眼耳鼻身意の六根はみな煩悩の穴にして夜も昼も水が漏れる如くに始終煩悩が漏れ出て増長しておる。これを漏という。その漏の煩悩を断じつくして仕舞うたのを神という。声聞や縁覚の断煩悩の人がこの六神通を得られる。・・・仏法の修行も四念処と四正勤によって智慧が増してきたが禅定という定力が弱い。そこでこの四神足を修して定力を得る。かく定慧の二足が均等になってはじめて仏法真実の修行のできることである。定というは心が静かになって真如の法に道理の上に一心が安住するのが定である。それによって智慧が愈愈明瞭になって真如の境を微細に照らして誤まることなき、これを真実の智慧という。・・世間の智慧がいかに有って博士となってもその智慧ばかりでは本当の真理を求めて無明の闇を破ることはできない。これを破するには禅定をせねばならぬ。定慧が均等にならねばならぬ。この均等した時を神足という。
この神足に四つの別がある。一つには欲神足、四念処の法を楽(ねごうて)て心を一にする、それを欲という。二には精進神足、三には心神足、仏法の心理に心を安住してほかにちっとも心を散乱せぬこと。四には思惟神足、思惟とは今の四念処即ち仏法の真理の方に心を向け種々と工夫して考えること。
この四つによって不思議な神力が生ずるからこれを神足となずけたのである。
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