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翻訳論としてのHieronymus論

2016-12-20 15:14:43 | 小論
翻訳をscienceとして論じるうえでのもっとも重要な点は、翻訳とはそもそもどういうphenomenonであるかを問うことである。多くの人は現代の言語の例を用いて論じるが、過去にどういう風に理解されてきたかも問題とすることこそ、現代における用例の変遷も含めた議論をするときには重要である。ここのメモでは、the Vulgateという西欧の聖書翻訳のnormを翻訳編集した古代のラテン教父・聖Eusebius Hieronymus (c.340-420)のPammachiusあての書簡を分析し、彼の翻訳者としての在り方を再考することを通して、現代の翻訳のあり方について考える。

I. 既成のTranslation Studies理論の問題点「word for wordかsence for senceか」
  翻訳translationとはどういう行為であり、どのような側面を持っているか。
「直訳」と「意訳」の違いをいかに論じるかと言うことに議論が集約されてしまいがちである。
完全な語の一致を目指すことで文全体の意味を損なってしまうことは、翻訳が試みられたHieronymus当時から知られていたことである。現代においても「dynamic and formal equivalence(Eugene Nida)」などの既成の論理展開は、結局のところ「一体何をequivalenceと認めるか」という議論であるといえる。この点は、現代になるにしたがって詳細になるとはいえ、問題設定の枠組みは、古代からほとんど変更がない。

II. Scienceとしての翻訳現象の把握
なお、Hieronymusはこの書簡で、ヘブライ語からギリシャ語に翻訳をしたAquilaと言う人物について、語源学Etymologyに偏りすぎていると批判をしている。しかし、古代のギリシャ語の口語であったコイネーの話者が、ヘブライ語原典を言語学的に理解するときにはAquila訳が重宝されたと想定されるものであり、現代のセム語研究にさえ寄与していることは間違いない。流暢であることを目標に掲げるばかりが翻訳ではなく、読者の使用用途によって大きく訳文が変わることになるのは明らかである。
Hieronymusが翻訳を論じる際に、translatorと言う意味でinterpres ( < n. interpritatio / v. interpretor)という名詞を使用していることは注目すべきである。このラテン語は辞書によるとtranslateのほかにinterpretやexpressなどの意味も含んでいた。Hieronymusにとって翻訳とは、ある言語を単に別の言語に置き換える単純作業ではなく、解釈や表現を含む(あるいは結果として含んでしまう)複合的な営為complex workだと認識していることを意味しており、同義語のreddo (repeat、imitate)ではないと受け取っていることが明らかである。翻訳は正確な意味の一致が不可能であり、翻訳そのものがすでに翻訳者の解釈であることをHieronymusは明確に認識していたということである。

III. translatiorに属するpropaties
このHieronymusの翻訳に対する認識は、translatorがどのような属性propertyを持っている存在かという深い自覚を持っていたことによるものだと思われる。そこで、the Vulgateの翻訳者としてのHieronymusが行った翻訳とその行為から想定される「翻訳者の属性」を下記に列挙してみる。

1. interpreter :意識的・無意識的を問わず訳者個人の解釈の流入は避けられない。
2. commentator :読者の正確な内容理解を目指せば訳注を付す必要に迫られる。
3. lexicographer :翻訳は辞書と同じ機能を持ち、後の翻訳者や著述家に影響を与える。
4. etymologist :原義から大きくかけ離れた訳語決定は、読者に望まれない。
5. editor :古代においては原典・翻訳を問わず写本。The Vulgateはeditionでもあった。
6. rhetorician :的確に表現するためaestheticやlogicの知識・訓練が必要である。
7. expert of the subject :訳文の内容理解が前提となるために、当然必要となる。


 文系理系問わずさまざまな領域での濃淡の差はあれ、これらのpropartiesがtranslatorsによって使い分けられながら訳語決定がなされていっているのが、翻訳と言う営為であると思われる。

IV. 現象としてのmethodologyの側面
以上の点を踏まえ、現代に適応可能に論旨を整理してみたい。
 完成された翻訳で使用された訳語や統語法の処理方法は、後の翻訳や著作に影響を与え、normとして社会に提示することになる。このような自己理解は、どのtranslatorsも(少なくとも聖書の翻訳家に限っては)持っていたと言える。当然上記のpropatiesに上げられた側面は、すくなくとも技術者engineerとしての属性である。この意味でそれぞれの翻訳家は何らかの翻訳にかかわる方針strategyを持つことになるが、工業技術者のなかで統一工業規格engineering specificationを求めていくethosと同じものである。
 聖書が翻訳されるときには、全巻を通した訳語の統一が行われる傾向がある。先ほどの辞書学者としての側面を考えれば当然のことだろう。これは工業規格における標準化standardizationという過程と言い換えることができる。言語間の違いによって文脈に応じた自由な訳語を与えるべきときですら、野放図であることは結局normからの逸脱を招くという「禍根」を残すとして、何らかのstandardizationが求められ続けることになる。Hieronymusはこの意味で、ヘブル語本文とthe Vulgateと新約聖書における旧約聖書の引用句の相違の分析を行っている。
さらに水平展開horizontal deploymentが求められる。英語で最も重要な役のひとつであるジェームズ欽定訳の翻訳家たちは、単に辞書に頼ったのではない。他の古代訳や近代訳を参考にしたのである。その方法が過ちを含んでいる可能性があることは否定できない。しかしながら、これは現代のどの分野のtranslatorsも、不明な箇所は他の役を参照にするということを行っている。辞書を見ても分からなければ「他山の石」をもとめるのが翻訳者の常である。
今後は、単にテキストだけの比較ではなく、古代から存在しているLexiconあるいはGlossaryの系譜の検討を含めた参考資料の研究もなされなければ、良い翻訳批判はなされないと思われる。

15 Jun 2007

( 参考文献 )
Hiero. Pammachius. Kathleen Davis trans., The Translation Studies Reader 2nd. ed., Lawrence Venuti ed. New York: Routledge, 2004.
Charlton T. Lewis rev., A Latin Dictionary: Founded on Andrews’ Edition of Freund’s Latin Dictionary,Oxford: The Clarendon Press, 1879.
Eugene A. Nida, HONYAKU-GAKU JYOSETU[Toward a Science of Translating] Trans. Takeshi Naruse, Tokyo: Keibunsha, 1971。
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