「『福音書』解読」解読の部屋 ―キリスト教関係でいろいろ調べたり、話し合ったりしたこと。

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12月31日(土)のつぶやき

2017-01-01 02:49:37 | 記事一覧
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12月20日(火)のつぶやき

2016-12-21 02:43:15 | 記事一覧
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翻訳論としてのHieronymus論

2016-12-20 15:14:43 | 小論
翻訳をscienceとして論じるうえでのもっとも重要な点は、翻訳とはそもそもどういうphenomenonであるかを問うことである。多くの人は現代の言語の例を用いて論じるが、過去にどういう風に理解されてきたかも問題とすることこそ、現代における用例の変遷も含めた議論をするときには重要である。ここのメモでは、the Vulgateという西欧の聖書翻訳のnormを翻訳編集した古代のラテン教父・聖Eusebius Hieronymus (c.340-420)のPammachiusあての書簡を分析し、彼の翻訳者としての在り方を再考することを通して、現代の翻訳のあり方について考える。

I. 既成のTranslation Studies理論の問題点「word for wordかsence for senceか」
  翻訳translationとはどういう行為であり、どのような側面を持っているか。
「直訳」と「意訳」の違いをいかに論じるかと言うことに議論が集約されてしまいがちである。
完全な語の一致を目指すことで文全体の意味を損なってしまうことは、翻訳が試みられたHieronymus当時から知られていたことである。現代においても「dynamic and formal equivalence(Eugene Nida)」などの既成の論理展開は、結局のところ「一体何をequivalenceと認めるか」という議論であるといえる。この点は、現代になるにしたがって詳細になるとはいえ、問題設定の枠組みは、古代からほとんど変更がない。

II. Scienceとしての翻訳現象の把握
なお、Hieronymusはこの書簡で、ヘブライ語からギリシャ語に翻訳をしたAquilaと言う人物について、語源学Etymologyに偏りすぎていると批判をしている。しかし、古代のギリシャ語の口語であったコイネーの話者が、ヘブライ語原典を言語学的に理解するときにはAquila訳が重宝されたと想定されるものであり、現代のセム語研究にさえ寄与していることは間違いない。流暢であることを目標に掲げるばかりが翻訳ではなく、読者の使用用途によって大きく訳文が変わることになるのは明らかである。
Hieronymusが翻訳を論じる際に、translatorと言う意味でinterpres ( < n. interpritatio / v. interpretor)という名詞を使用していることは注目すべきである。このラテン語は辞書によるとtranslateのほかにinterpretやexpressなどの意味も含んでいた。Hieronymusにとって翻訳とは、ある言語を単に別の言語に置き換える単純作業ではなく、解釈や表現を含む(あるいは結果として含んでしまう)複合的な営為complex workだと認識していることを意味しており、同義語のreddo (repeat、imitate)ではないと受け取っていることが明らかである。翻訳は正確な意味の一致が不可能であり、翻訳そのものがすでに翻訳者の解釈であることをHieronymusは明確に認識していたということである。

III. translatiorに属するpropaties
このHieronymusの翻訳に対する認識は、translatorがどのような属性propertyを持っている存在かという深い自覚を持っていたことによるものだと思われる。そこで、the Vulgateの翻訳者としてのHieronymusが行った翻訳とその行為から想定される「翻訳者の属性」を下記に列挙してみる。

1. interpreter :意識的・無意識的を問わず訳者個人の解釈の流入は避けられない。
2. commentator :読者の正確な内容理解を目指せば訳注を付す必要に迫られる。
3. lexicographer :翻訳は辞書と同じ機能を持ち、後の翻訳者や著述家に影響を与える。
4. etymologist :原義から大きくかけ離れた訳語決定は、読者に望まれない。
5. editor :古代においては原典・翻訳を問わず写本。The Vulgateはeditionでもあった。
6. rhetorician :的確に表現するためaestheticやlogicの知識・訓練が必要である。
7. expert of the subject :訳文の内容理解が前提となるために、当然必要となる。


 文系理系問わずさまざまな領域での濃淡の差はあれ、これらのpropartiesがtranslatorsによって使い分けられながら訳語決定がなされていっているのが、翻訳と言う営為であると思われる。

IV. 現象としてのmethodologyの側面
以上の点を踏まえ、現代に適応可能に論旨を整理してみたい。
 完成された翻訳で使用された訳語や統語法の処理方法は、後の翻訳や著作に影響を与え、normとして社会に提示することになる。このような自己理解は、どのtranslatorsも(少なくとも聖書の翻訳家に限っては)持っていたと言える。当然上記のpropatiesに上げられた側面は、すくなくとも技術者engineerとしての属性である。この意味でそれぞれの翻訳家は何らかの翻訳にかかわる方針strategyを持つことになるが、工業技術者のなかで統一工業規格engineering specificationを求めていくethosと同じものである。
 聖書が翻訳されるときには、全巻を通した訳語の統一が行われる傾向がある。先ほどの辞書学者としての側面を考えれば当然のことだろう。これは工業規格における標準化standardizationという過程と言い換えることができる。言語間の違いによって文脈に応じた自由な訳語を与えるべきときですら、野放図であることは結局normからの逸脱を招くという「禍根」を残すとして、何らかのstandardizationが求められ続けることになる。Hieronymusはこの意味で、ヘブル語本文とthe Vulgateと新約聖書における旧約聖書の引用句の相違の分析を行っている。
さらに水平展開horizontal deploymentが求められる。英語で最も重要な役のひとつであるジェームズ欽定訳の翻訳家たちは、単に辞書に頼ったのではない。他の古代訳や近代訳を参考にしたのである。その方法が過ちを含んでいる可能性があることは否定できない。しかしながら、これは現代のどの分野のtranslatorsも、不明な箇所は他の役を参照にするということを行っている。辞書を見ても分からなければ「他山の石」をもとめるのが翻訳者の常である。
今後は、単にテキストだけの比較ではなく、古代から存在しているLexiconあるいはGlossaryの系譜の検討を含めた参考資料の研究もなされなければ、良い翻訳批判はなされないと思われる。

15 Jun 2007

( 参考文献 )
Hiero. Pammachius. Kathleen Davis trans., The Translation Studies Reader 2nd. ed., Lawrence Venuti ed. New York: Routledge, 2004.
Charlton T. Lewis rev., A Latin Dictionary: Founded on Andrews’ Edition of Freund’s Latin Dictionary,Oxford: The Clarendon Press, 1879.
Eugene A. Nida, HONYAKU-GAKU JYOSETU[Toward a Science of Translating] Trans. Takeshi Naruse, Tokyo: Keibunsha, 1971。
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「カラマゾフの兄弟」論 ~遺体の腐敗と肉体の復活~

2016-12-20 12:29:49 | 小論
「カラマゾフの兄弟」第七編第一「腐死の香」は、高徳な長老ゾシマの葬儀の場面であり、長老の愛弟子アリョーシャの霊魂と心情に決定的な影響を与えた 物語の転換点である。人々は高徳の長老の遺体に奇跡が生じると信じ、固唾を呑んで待ち構えていた。しかし、意に反し遺体は強烈な腐敗臭を放ち始めた。それも常軌を逸した早さで腐敗し出した為、人々は神の罰が現れたと考え長老の有徳を疑い動揺する。

では、長老の遺体の腐敗は何を意味しているのか。それは作者の持っている希臘正教会の信仰にその根拠を尋ねるのが望ましい。

正教会の神学に絶大な影響を持つ四世紀の聖ヨハネス・クリュソストモスの言葉が伝えられている。

「身体と腐敗とは全く別物である。身体が腐敗なのでも、腐敗が身体なのでもない。確かに身体は腐敗する。だがそれは腐敗ではない。身体は死ぬ。だがそれは死ではない。身体は神の被造物であるが、罪によって死と腐敗がその内に注入されたのだ。・・・(復活後の)来るべき生は身体に染み付く腐敗と死を粉砕・撤廃するのであって、身体がそうなるのではない。」

 ちなみに、作者は作品中でもその他の書簡でも、来世における「文字通りの肉体の復活」を確信すると明言している。

  彼はこの世での肉体が朽ちた後、霊としての永遠の肉体 を獲得すると考えている。従って作者は、長老の遺体を人々の思惑とは全く反対に、長老を復活させるために腐らせねばならなかったのだ。後の場面に出てくる愛弟子アリョーシャの信仰の劇的な変化(第七編第四終盤)を保証しなければぬからである。長老の遺体に群がったのは、摩訶不思議な神秘的奇跡を期待し、病気治癒等の御利益に預かりたいと思う利己的な連中である。そんな中でただひとり、アリョーシャの心中を占めていたのは「彼の愛してやまぬ長老の顔」であった。「彼が渇望していたのは正義であって、単なる奇跡ではない!」 しかし長老の遺体が腐敗し始めたのに気付き始めた人々は、長老の有徳を否定する神の啓示だと侮辱しだした。長老は「地べたへ引き摺りおろされ、顔へ泥を塗られた」 わけである。しかし、長老の顔は「『汚辱を受け汚名を被せられた』人の顔」 であった。明らかに作者は死んだ長老の被った侮辱を、基督が十字架で受けた侮辱と重ね合わせている。

 長老の受けた侮辱が間違いなく基督の姿を示すのは、動揺しながらも何とか場を取り繕いながら進行する葬儀に突然、苦行僧フェラポントが乱入し死んだ長老を罵倒する場面である。フェラポントの人物像を通常言われているように、長老の人間性と単純に比較して「取るに足りない」などと言う批評 は誤りである。むしろ彼は逆説的で困難な役割、嫌われ役を自覚的に演じている。フェラポントは長老の遺体を侮辱しかしない人々とは明らかに異なっている。彼は悪魔を払いに来たのである。主教たちの退去勧告の中「こんな所など空になってしまえ!」と言い、夕日に向かって「基督は落日に打ち勝ち給えり!」と叫び嗚咽する。フェラポントの叫びこそ遺体がなぜ腐敗したか本当の意味を見抜いていることの証拠であり、彼の嗚咽こそ心の底では長老を慕っていることの現れである。いまだ本当のことを悟らぬ感覚的熱狂の人々は彼こそ聖者と殺到する。だがフェラポントの「悪魔祓い」のあと葬儀が滞りなく進行し、彼の言葉がアリョーシャの心に突き刺さったことは明らかである。

 いわば作者は長老の葬儀の場である庵室を、福音書における基督の墓と見立てている。福音書ではイエスの遺体が消えうせ、墓が空になったと伝えている。戸惑う女たちに恐るべき天使が現れ、「もうここにはおられない。かねて言われたとおりによみがえられたのである。」 と告げている。基督と長老が重なる。庵室が「空になってしまえ」と命じるフェラポントこそ、滅び行く遺体への執着を断ち切り、永遠の身体の復活を信じることを命じる、恐るべき天使の役割を担ったのである。

 アリョーシャは一旦、葬儀の場面から不敵な笑いを残して姿を消す。彼はある女性の罪の告白を聞いてその重荷を取り去った後、夜の庵室に戻ってくる。うたたね転寝のうちに「カナの婚宴」の夢を見た彼は、その席に招かれた長老と出会う。夢から覚めたアリョーシャは突然、満天の星空の下に出て大地を抱擁する。「あのとき誰かが僕の魂を訪れたような気がする」というアリョーシャの確信に満ちた言葉 は、単なる神秘的体験であるという解釈を排除する。神の実在の問題に苦しみ続けた作者であるならば、神の世界がこの世に触れた瞬間であると語るであろう。


______________





(ドストエフスキーは、ラザロの復活をも視野において、イエスの墓の「空」を考えていたのではないかと思います。「4日もたっていますから、もうにおいます」(ヨハネ11:39)    腐死の香・・・福音書における現実性を表現する記事ですね。イエスの腐死はどうなのだろう・・・? ドストエフスキーの理性と感性は、その辺りまでも捕えていたのではないかと思います。→ 「罪と罰」でのラザロの復活 )

溝田悟士 もともと、マルコ福音書の「空の墓」物語の枠組みが、そのままヨハネ福音書の「ラザロの復活物語」の下敷きであったと思います。「神がイエスを『起こす』」のがマルコの墓物語であるのに対し、「イエスがラザロを『起こす』」のがラザロの物語です。おまけにラザロで、布が巻かれているのも象徴的です。私はマルコ福音書のからの墓の「若者」(16:5)は、イエスの逮捕のときに亜麻布を捨てて逃げる「若者」(14:51-52)であると考えています(そう認識すると否定しにくい認識として脳のロングータームメモリに刻印されてしまいます)ので、布をぐるぐる巻きででてくるまるで「ゾンビ」ともいうべき情景は、このマルコ福音書の若者を下敷きにしていると思うのです。三日で復活するはずがイエスと違うので四日めにはいるので腐ってしまうのですから、ここもアイロニーですね。三日で復活したのはイエスであって、イエスの力によらねば、ラザロも復活しないことが分かります。「死んだのではない」と「死んでしまったんだ」の発言のちがいも、死者からの復活と関係がありそうです。こういう下敷き構造は、他の新約文書の相互でも見受けられますが、ブルトマンが、ヨハネの最初をマンダ教の文書が下敷きだといったのは、行き過ぎだと思います。
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「わたしたちの本国は天にあります」

2016-12-20 12:02:45 | 小論
先ほど読んでいただいたイザヤ書も、お読みした福音書も、なんらかの「宗教」を信じていて信心深いからといって、神様に「望まれてない」ような者たちもいる、という厳しい内容でした。

ここで、聖パウロの言葉をもう一度お読みしたいと思います。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。」

この言葉を、苦しみのあるこの世とは違う「楽園」が天上にある、そこに入れる権利があるんだ、と理解するならば間違っています。

この地上での「苦しい生活」の現実を逃避する、そんな天国は、絶対にありえません。

苦しい家計、苦しい仕事、苦しい人間関係を逃れようとする、そんな「天国」はありえません。

人間にこの上ない苦しみや悲しみを与える災害、人の間を引き裂こうとする犯罪や戦争などといった「現実」から逃避するために「天国」を求めようとすることは、ありえないのです。

ましてや、そのような苦しい現実を「打破」するために、戦争を仕掛ける、戦争が出来ないなら無差別に人々を捕まえて殺す、そんなことはありえません。神の国建設のために、お金を騙し取る、そんなことはありえません。この世の生活を変えるために人を殺す、そのために「神の名」を用いる、そのようなことはありえないし、あってはならないのです。

「神様のために、人を殺したのだから、許される。」
そんなことは、絶対にありえません。

「神様のために、人を騙してお金を作るのは、許される。」
そういうことは、絶対にありえません。

「神様のためなんだから、しょうがない。」

「理想のためには致し方ないのだ。」

そういうことは、絶対にありえません。

「神の国はあなたたちから取り上げられる」

入れるはずの天国も取り上げられる時がある、という、この言葉を噛み締めましょう。

何度も言いますが、天国とこの地上で、善悪の基準が違う、そんなことは絶対にありえません。

だからこそ、互いに許しあう必要があるし、悔い改める必要があります。
人間の弱さを認め合うことが必要です。

そこに神の国の希望があるわけです。

「わたしたちの本国は天にあります」

この言葉に希望を見出すのでしょうか、絶望するのでしょうか、それが問われています。

天国のためと言いながら、この「地上」のことを望んでいるか、どうか、わたしたちは自分たちに常に問いかけていなければならないと思います。


2014年10月5日 聖霊降臨後第17主日

イザヤ書 5:1-7
「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」

フィリピの信徒への手紙 3:13-21
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。」

マタイ21:33-42
「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」
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