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サッカーとテレパシー

2006-06-02 | 金・コトバの力
金曜日のテーマは「コトバの力」。他者の意図を正しく理解し、そこに自分なりの意見や判断を加えて、相手に誤解や過不足なく伝わるように返す。人と人との社会的コミュニケーションに必須なこの力にまつわるあれこれを、あまり系統立てもせず断片的に綴っていこうと思う。

最初のお題は「テレパシー」。今日はその1。

コミュニケーションの理想的終着駅は、テレパシーだろう。以心伝心、何も語らなくてもお互いの考えていることがわかる。サッカーの試合における選手達のコミュニケーションなどは、これに限りなく近いはずだ。刻々とめまぐるしく変わる状況の中、大観衆の声援でお互いの声は届きようもない。届いたとしても声によるコミュニケーションは試合のスピードに追いつけない。であれば選手間のコミュニケーションは限りなくテレパシーに近いもので結ばれているに違いない。いて欲しいと思うスペースに彼がいる。欲しいと思ったボールが彼から出てくる。望んだスペースに彼が飛び込んでくる…。

ただし、このテレパシーは残念ながら非常に限定的である。幾多のハイレベルな試合経験から高度に鍛えられ磨かれた感性を持つ選手同士が、すさまじい集中力をもってボールを追う中でわずか一瞬だけ発現するものだからである。当たり前だが、試合後の彼らが食事に行ったとして、座りたい席を彼が空けてくれる、食べたいと思った料理を彼がことごとく頼んでくれる、誰一人話さないのに場が盛り上がっている、などということはないはずだ。

彼らが試合中に発揮する瞬間にして無言のコミュニケーションは、子どもの頃に憧れたあの超能力としてのテレパシーとは違う。子どもの僕は、念じるだけで相手に思いを伝えられないかと顔をしかめ頭の中でメッセージを繰り返したものだが、大体そんなに気合いを入れなければ伝わらないのなら、直接話した方がよほど効率的だと大人になってしまった僕は思う。それに選手たちはもちろん、超能力者なわけではないだろう。

サッカーの試合に見るテレパシーに似たコミュニケーションには、それが成立するための条件がある。一つは理解と信頼、もう一つは注視である。同一化と一体化と言っていいかもしれない。
(つづく)


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