2017年2月4日。
ここはレバノン南部の都市、スール(ティール)。
レバノンはイスラエルと長らく対立しており、
約10年前の2006年には、ヒズボラ(レバノンのシーア派系イスラム原理主義政党)とイスラエル軍との激しい戦闘があり、
レバノン南部はその舞台となった。
「イスラエルにほど近い場所にある人々のリアルを感じたい」
僕はベイルートからバスに乗り、サイダを経由してスールへと辿り着いた。
ちなみに、途中で立ち寄ったサイダは素晴らしい街でした!
良い意味で観光化しておらず、まさに「中東のリアル」な生活がそこにはありました。
スール。
美しい地中海に面した港町。
バスを降りて海岸沿いを歩くと、左手に「大きなサイコロ状のブロック」が積み上げられているのが見えた。
それは、ベイルートで見たものと同じ光景。
そう、パレスチナ難民キャンプの目印である。
ベイルートと大きく異なるのは、その周辺に全くと言っていいほど兵士の姿がなかったことだ。
僕は近くの住民に聞いてみた。
「この中に入ることはできるの?」
「ああ、もちろん大丈夫だよ!パレスチナ難民のひとびとはみんな良い人ばっかりだよ!」
「危険?あははは!全然そんなことはないぞ笑!」
・・・ベイルートとは全く異なる反応だった。
これはいったいどういうことなんだろう?
地元の人々の言葉を信じ、僕は難民キャンプの中へと足を踏み入れた。
入ってすぐ分かった。
「明らかに空気が違う。」
前にも書いたけど、人々が紡ぎ出すオーラはその場の世界を創り出す。
明らかに、この場には危険な匂いがしなかった。
キャンプの中をほんの少しだけ歩いていた僕。
突然、おじいさんから声をかけられた。
「お~い!中に入っていけ!休んでいきなさい!」(みたいなことを言っていたのだと思う)
そこは自転車の修理屋さんだった。
おじいさんは僕をソファーに座らせてくれて、満面の笑みで話しかけてくれた。
「どこから来たんだぃ?」
「僕は日本人です。東京から来ました。」
「東京?日本人か!ちょっと待ってなさい!」
と言うと、家族と思しき子どもたちや若者(どういう関係なのかは分からないのだけれど)を続々と呼んでくれた。
そこには全く敵意などなく、心から僕を歓迎してくれているようだった。
「見ろ、この人は日本人だぞ!」
「そうなんだ、この国は日本の製品で溢れている。本当にすごいよね!」
「うちの店にもたくさん日本の製品があるよ。」
「この子を見て!今2歳なの。可愛いでしょ?」
信じられないかもしれないが、まるでホームステイに来ているかのような雰囲気になってしまった。
ここはスール。ベイルートよりもさらにイスラエルに近い街。
僕は、更なる緊張感を予想していた。
ベイルートからの道でも何度も検問があり、パスポートを見せる度に怪訝な顔をされた。
バスから降ろされずに済む度に肩をなで下ろしていたのだが、
スールの街中や難民キャンプの雰囲気はそんな緊張感とは程遠いものだった。
「ねぇねぇ、うちに遊びに来てよ。家を案内してあげる!」
一人の女の子が僕の腕を掴んで引っ張ってくる。
学校で英語を勉強しているようで、少しだけ言葉での会話ができた。
僕は彼女の家にお邪魔させてもらった。
庭にはたくさんのニワトリを飼っており、すごく明るい雰囲気の家だった。
しばらくすると、なんとお母さん方まで笑顔で玄関から出てきてくれるではないか!
一般的に、イスラム教徒の成人女性は家族以外の男性と顔を合わせることはないし、
ましてや外国人と笑顔で話をし、さらには写真まで撮らせてくれるなんてことは絶対にない。
このフレンドリーさは、いったいどういうことなんだろう・・・?
「マサキ、お腹空いてるでしょ?ゴハンをご馳走するね!」
ということで、レバノン風サンドイッチまでご馳走になってしまった。
相当長い時間、僕はこのご家族のお世話になってしまった。
最後はベイルートに戻るバスの乗り場まで案内してくれたのだ。
バス乗り場には、滅多にみることなどないのであろうアジア人の姿を見て、
子どものようにはしゃぐ地元のおっちゃんたちがたくさんいた。
最後の最後までお笑顔を絶やすことなく、僕はスールの難民キャンプを後にした。
レバノンに限らない。
どこに行っても、パレスチナの人々は日本に対して良いイメージを持ってくれている。
これはいったいどういうことなんだろう。
ただ、これだけは言える。
もしそうであるなら、それが事実として世界の一部分に存在しているのなら、
僕たち日本人に与えられた役割は、中東に対して「何か」ができる役割は、きっとあるのではないだろうか。
笑顔が絶えなかったこの時間の中で、たくさんの温かさをいただけたこの時間の中で、
一度だけ、おじいさんが涙を流す場面があった。
壁に掛けられた一枚の写真。
自転車の部品の中に埋もれるように掲げられた、一枚の写真。
「この子は俺の息子だ。イスラエルとの戦争の犠牲になってしまったんだ・・・。」
おじいさんはその話の時だけ、涙を流していた。
でも、おじいさんはイスラエルの話を長くすることはなかった。
恨みや憎しみを、僕に語ることはなかった。
すぐに笑顔を取り戻し、明るく家族に話しかけていた。
たくさんの温かさに触れることができたこの時間。
だけど、僕の心に一番刻まれたのは、
おじいさんの涙だった。
藤本正樹(ふじもん先生)
ふじもん先生ホームページ
http://fujimosensei.com/
著書『中学教師が行く、無計画世界紀行』
http://www.amazon.co.jp/dp/B00YO9OL3K/ref=cm_sw_r_tw_dp_9x5Bvb0HR324E
ここはレバノン南部の都市、スール(ティール)。
レバノンはイスラエルと長らく対立しており、
約10年前の2006年には、ヒズボラ(レバノンのシーア派系イスラム原理主義政党)とイスラエル軍との激しい戦闘があり、
レバノン南部はその舞台となった。
「イスラエルにほど近い場所にある人々のリアルを感じたい」
僕はベイルートからバスに乗り、サイダを経由してスールへと辿り着いた。
ちなみに、途中で立ち寄ったサイダは素晴らしい街でした!
良い意味で観光化しておらず、まさに「中東のリアル」な生活がそこにはありました。
スール。
美しい地中海に面した港町。
バスを降りて海岸沿いを歩くと、左手に「大きなサイコロ状のブロック」が積み上げられているのが見えた。
それは、ベイルートで見たものと同じ光景。
そう、パレスチナ難民キャンプの目印である。
ベイルートと大きく異なるのは、その周辺に全くと言っていいほど兵士の姿がなかったことだ。
僕は近くの住民に聞いてみた。
「この中に入ることはできるの?」
「ああ、もちろん大丈夫だよ!パレスチナ難民のひとびとはみんな良い人ばっかりだよ!」
「危険?あははは!全然そんなことはないぞ笑!」
・・・ベイルートとは全く異なる反応だった。
これはいったいどういうことなんだろう?
地元の人々の言葉を信じ、僕は難民キャンプの中へと足を踏み入れた。
入ってすぐ分かった。
「明らかに空気が違う。」
前にも書いたけど、人々が紡ぎ出すオーラはその場の世界を創り出す。
明らかに、この場には危険な匂いがしなかった。
キャンプの中をほんの少しだけ歩いていた僕。
突然、おじいさんから声をかけられた。
「お~い!中に入っていけ!休んでいきなさい!」(みたいなことを言っていたのだと思う)
そこは自転車の修理屋さんだった。
おじいさんは僕をソファーに座らせてくれて、満面の笑みで話しかけてくれた。
「どこから来たんだぃ?」
「僕は日本人です。東京から来ました。」
「東京?日本人か!ちょっと待ってなさい!」
と言うと、家族と思しき子どもたちや若者(どういう関係なのかは分からないのだけれど)を続々と呼んでくれた。
そこには全く敵意などなく、心から僕を歓迎してくれているようだった。
「見ろ、この人は日本人だぞ!」
「そうなんだ、この国は日本の製品で溢れている。本当にすごいよね!」
「うちの店にもたくさん日本の製品があるよ。」
「この子を見て!今2歳なの。可愛いでしょ?」
信じられないかもしれないが、まるでホームステイに来ているかのような雰囲気になってしまった。
ここはスール。ベイルートよりもさらにイスラエルに近い街。
僕は、更なる緊張感を予想していた。
ベイルートからの道でも何度も検問があり、パスポートを見せる度に怪訝な顔をされた。
バスから降ろされずに済む度に肩をなで下ろしていたのだが、
スールの街中や難民キャンプの雰囲気はそんな緊張感とは程遠いものだった。
「ねぇねぇ、うちに遊びに来てよ。家を案内してあげる!」
一人の女の子が僕の腕を掴んで引っ張ってくる。
学校で英語を勉強しているようで、少しだけ言葉での会話ができた。
僕は彼女の家にお邪魔させてもらった。
庭にはたくさんのニワトリを飼っており、すごく明るい雰囲気の家だった。
しばらくすると、なんとお母さん方まで笑顔で玄関から出てきてくれるではないか!
一般的に、イスラム教徒の成人女性は家族以外の男性と顔を合わせることはないし、
ましてや外国人と笑顔で話をし、さらには写真まで撮らせてくれるなんてことは絶対にない。
このフレンドリーさは、いったいどういうことなんだろう・・・?
「マサキ、お腹空いてるでしょ?ゴハンをご馳走するね!」
ということで、レバノン風サンドイッチまでご馳走になってしまった。
相当長い時間、僕はこのご家族のお世話になってしまった。
最後はベイルートに戻るバスの乗り場まで案内してくれたのだ。
バス乗り場には、滅多にみることなどないのであろうアジア人の姿を見て、
子どものようにはしゃぐ地元のおっちゃんたちがたくさんいた。
最後の最後までお笑顔を絶やすことなく、僕はスールの難民キャンプを後にした。
レバノンに限らない。
どこに行っても、パレスチナの人々は日本に対して良いイメージを持ってくれている。
これはいったいどういうことなんだろう。
ただ、これだけは言える。
もしそうであるなら、それが事実として世界の一部分に存在しているのなら、
僕たち日本人に与えられた役割は、中東に対して「何か」ができる役割は、きっとあるのではないだろうか。
笑顔が絶えなかったこの時間の中で、たくさんの温かさをいただけたこの時間の中で、
一度だけ、おじいさんが涙を流す場面があった。
壁に掛けられた一枚の写真。
自転車の部品の中に埋もれるように掲げられた、一枚の写真。
「この子は俺の息子だ。イスラエルとの戦争の犠牲になってしまったんだ・・・。」
おじいさんはその話の時だけ、涙を流していた。
でも、おじいさんはイスラエルの話を長くすることはなかった。
恨みや憎しみを、僕に語ることはなかった。
すぐに笑顔を取り戻し、明るく家族に話しかけていた。
たくさんの温かさに触れることができたこの時間。
だけど、僕の心に一番刻まれたのは、
おじいさんの涙だった。
藤本正樹(ふじもん先生)
ふじもん先生ホームページ
http://fujimosensei.com/
著書『中学教師が行く、無計画世界紀行』
http://www.amazon.co.jp/dp/B00YO9OL3K/ref=cm_sw_r_tw_dp_9x5Bvb0HR324E