地球あちこち旅あるき

まるい宇宙船地球号

アメリカ横断・絵はがき日記(9月12日旅の終わりに JFケネディ空港から)

2006-09-12 17:06:49 | Weblog

912日(木)NY

アメリカも終わり。830分朝食を食べ、ナイキまでくつを買いにいく。少し、だきょう。タクシーでJFKへ。1445で帰る予定。本当にあっというまの一ヶ月。けっこう、かんたんにいった。どこもうよかった気がする。また、行きたいかなあ――。日本が楽だしな――。とりあえず、今は日本に帰りたい。宿題もあるけど。とりあえず、アメリカ最高かな―。

12/09/2002, 1345 p JFK空港にて 記> (日本には、9月18日配達)

 【同行ノート】

私にとっては、たかが45日の最終日。しかし、息子にとっては30日のアメリカ横断の旅。最終日の朝があけた。嬉しいのだがちょっとさびしそうである。とうとうやって来てしまった朝である。旅の終わりはいつもそうである。

前夜の帰り支度、パッキングははかどらず寝てしまい。私は、暗いうちから起きてごそごそと始めた。いつもやたらパンフレットや新聞、それに書籍のたぐいがかさばる。
そうだ家族へのおみやげも買わねばならない。

最後の朝食は印象深いものにしたい。7時ちょっと前に、外に出ようと息子を起こす。今日もいいお天気である。ホテルから2、3軒離れたレストランで、コンチネンタルのブレックファースト。ひとり旅の間は、きちんと朝に食べることもなかったろう。

ホテルを11時ごろ出れば間に合うね、確認しあって、めいめい最後のニューヨークのために別れる。息子はナイキにスニーカーを買いに出かける。私は、家族へのおみやげを思い、ユニオン・スクエアをいったり、きたり。レコード屋のウインドウの奥深くに、ジョニー・キャッシュのサイン入りのマーチンギターがある。joan baezモデルのギターがあったら買っただろう。

11:00チェックアウト。空港には迷わずタクシーで向かう。このタクシーはめずらしく、マンハッタンを北上して、セントラルパーク、“いちご白書”のコロンビア大学、ハーレムあたり、ヤンキース・スタジアムのそばを通っていく。アメリカの出国手続きは簡単。航空会社のカウンターがやってしまう感じである。息子は、絵葉書の最後の一枚を書いている。持ち帰っては意味がない。書き終わった絵葉書をもって私が、メイルボックスを探した。

飛行機は、ノースウェストNW-017便14時45分発。いつの旅行も、帰りの飛行機は際限なく寝ている。機内食にも迷わず日本食と言い、コーヒーいかが、には、お茶と答えるのが常である。

9月13日(金)成田到着

予定通り17時40分、成田についた。もう日本である。入国審査などなんの不安はない、どの旅行者にも緊張はない。ここは混雑する前にさっと通過したい。余裕である。入国審査。そして税申告である。今日は申告するものは何もない。ほとんど調べない。
あれほどコンパクトな荷物の旅を目指しながら、両手に持てないぐらいになってしまう。しかし、キャスターを押すのは重いが気持は軽い。そうして帰国者の花道に出る。

少し離れたところにいた家人が、母親の顔でいた。家人の運転のライトバンで、息子も私もしずかに、わが家への道筋を過ごした。車で迎えてくれることはほんとうにありがたい。

次の日から、息子はパソコンに向かって、レポート課題たぶん夏休み課題をはじめていた。それから数日の間、息子の絵葉書が配達されてきたが、次第にもとの生活に戻っていた。

 【おまけ】

この旅で、息子は45枚の絵はがきを送ってきた。出発前に、私が、必ず1日に1枚の絵葉書を書くように言っていたのである。
しかし、外国のはじめての旅先で、絵葉書を書くことはそんなに簡単なことではない。その気になってもなかなかできない。
第一、短い旅では、本人帰着の方が早く、その後で家族宛に現地の感動が着いても、いささか間がぬけた照れくささもおきる。

急ぎ足の旅では、絵葉書を買ったとしても、ゆっくりペンを持つゆとりが持てない。それでも、その街での、その時の気持は、そこで書いておかなければならない。あとから再現することはとてもできないのだ。切手はどうする、どこで投函するか。もちろん、ツアー向きのホテルでは、カウンターのサービスでやってくれるが、そこでさえ口を開くのもけっこう勇気がいる。貧乏旅行なら、なおさらそうであろう。街歩きの中で、日本と同じように、郵便局は気軽に立ち寄れるところであることに気づいただろうか。ちよっときれいな切手を買うことができる。
ホテルのみやげものを扱うショップには、よく探すと切手(スタンプ)の自動販売機がある。少し高いし味気ない切手が多い。ホテルのフロント、ロビーで目をこらすと、どこかにメイルボックスがある。

私自身30年前、初めてのアメリカで、ポストはどこですか、と尋ねて、懸命に遠いポスト・オフィス(郵便局)を教えてもらったことがあった。そして、おお、メイルボックス!と笑われた経験があるのだ。

 【次回からの予告】
アメリカ・シェラ山系、ヨセミテ国立公園<ハーフドーム>登頂記を書きます。
2000年夏の記録です。


アメリカ横断・絵はがき日記(9月11日米国同時多発テロ1年目のその時刻に)

2006-09-11 21:54:37 | Weblog

9月11日(水) NY

朝、530に起きて、グランド・ゼロに向かう行進に参加。眠い。暗い。人が少ない。ちょっとすごいかなと思ったけど。疲れる。ひたすら南に歩く。人が多い。中には、入れそうにない。847ぐらいになっても何も聞こえてこない。がっかり。少し歩いて、自由の女神に向かう。風が強い。思ったより混んでいない。海から見るマンハッタンはアメリカな感じ。島を30分歩いて戻る。地下鉄でホテルへ。地下鉄がまだよく分からない。歩いて、エンパイヤステートビルへ。高いところから見るのも良かった。800から、ジャニス・ジョプリンのミュージカル。英語で全然分からない。ライブだけ楽しむ。ミュージカルっぽくない。なぜか   (日本では9月18日配達)

9月11日(水)#2 NY

2人で、$57(学生)。2230タクシーでホテルにいってから、シーフード・レストラン。ロブスターがうまい。初めて“Great”と言う。帰ったら1200をまわる。寝る。

 

 【同行ノート】

*ニューヨークに着いてから、ずっと、ニューヨーク・タイムス、USAトゥディ を見ていた。あるいはローカル紙やフリーペーパーにも気をつけていた。9月11日の1年目に、ニューヨーク・グランドゼロにいたいと思っていた。そしてニューヨークで行われるメモリアル・イベントのどれかに参加したいと思っていた。一番わかりやすく整理して提供してくれたのが、DAILY NEWS だった。

*10日の夜、ヤンキース・スタジアムから帰ってから、寝る前に私は息子に伝えた。
“明日は、9月11日だ。その時間にグランドゼロをめざす、市民の行進と一緒に歩こう。明日は5時起きだ”。郊外5方向から、グランドゼロをめざす行進のひとつに参加するこにした。

*夜は明けていない。窓をあけて、かすかなバグパイプとざわめきを感じ息子を起こした。予定では、ブロードウェイの北端を2時に出発した行進の、ホテル近くのタイムス・スクエアの通過時刻は5時48分と予定されていた。先頭にバグパイプ隊。市民の自由な行進があった。まだ、夜は明けない。私らもくわわった。

 南へ

 バグパイプ隊の演奏に合わせて南へ

 南へ

 8時少しすぎグランドゼロに到着した

 今ここで、追悼式典が行われている

*私らふたりは、黙って歩いた。街はごったがえしてきた。そのまま、マンハッタン島の南端へ。バッテリー公園に、世界各国の国旗がはためいていた。日の丸はなかった。アメリカと共に軍隊を出している国々のようだった。私らはそのまま、自由の女神に向う船に乗った。自由に向う船だなと思った。

*ここから見えていたワールド・トレード・センターのツイン・タワーは、今、見えない。この日、街中に星条旗が掲げられていた。そして全て半旗である。追悼の日である。

*いったんホテルに帰り、一休みした。そして夕方、もう一度、街に出た。今夜はこの旅の、とうとうアメリカ最後の夜になった。

*今夜もまた、グリニッチ・ビレッジに足が向いた。ワシントン広場の人の集まりは、手にロウソクの火。ニューヨーク中でこの夜、追悼の集まりがあった。

*私らは、小さな劇場で行われている、ミュージカル“LOVE,JANIS”を見ることにしていた。1960年代の後半に、力強く、短く生きた、ロック歌手・ジャニス・ジョプリンの生涯もまた、私ら世代に強い印象を与えていた。


米国横断・絵はがき日記(9月10日ニューヨーク・ヤンキース球場)

2006-09-11 17:36:48 | Weblog

9月10日(火)NY
寝すごした親父が、Woodstockに行かないので、カーネギーのデリで。サンドイッチ。量が多すぎる。おいしく食べられるのは1つまで。もったいないけど残す。1100すぎのこと。歩いてヤンキースのクラブハウスへ。今日のチケットを買う。2人で$100ボーダーズへ。Snow Boardの本を買う。セントラルパークを歩いて美術館へ。オレは入らず、(日本には、9月17日配達)

9月10日(火)#2 NY
反対側へ。パタゴニアが見つからない。ダコダ・アパートへ。こんなもんかというかんじ。イマジンの写真をとり、タクシーでホテルに。1700すぎ、タクシーでスタジアムへ。$26.ボッタくられたかも――。かばんが持ち込めないので預けて、中に。日本とちがって近い。アメリカの方がいいよとよく言うけど納得。でも、ホットドッグ2個とコークと水で$15はありえない。席はあいてる。有名な選手はでてこない。実はこの日、2試合目で、主力メンバーは、休けいといった感じ。がっかりジーターのTシャツ買ったのに…。ヤンキースが勝ったのでよし。ホームランも出たし。(#2;日本には、9月17日配達)

9月10日(火)#3 NY
また来たい感じ。帰りは地下鉄。2人で$3。混んでないので座れる。ホテルのそばの日本食屋でみそラーメン。久々すぎるラーメン。おいしい。NYではけっこう日本食。さすがにNYは、レベルが高い。2300ごろホテルに。シャワーも浴びて荷物を軽くまとめる。たまっている手紙を9枚書く。それで、時計は0100amすぎ。明日も早起きだけど、まあしょうがない。あと2日。短い。もうちょっといたい気がする。英語もがんばらなければ。あー眠い。疲れた。
10/09/2002, 0100 am ホテルにて 記> (#3;日本には、9月17日配達)

 【同行ノート】
夜は、メジャーリーグをヤンキース・スタジアムで見ることにし、それまでの時間は、自由行動ということにしていた。私は、4時起きで、ウッドストックにバスで行ってくることにしていた。1969年のウッドストック・コンサートのウッドストックではない。まあ、軽井沢といった感じの芸術家村だろうか。1960年代後半、ボブ・ディランやザ・バンドのひそんでいた所だ。彼らがセッションをしたビッグ・ピンクという建物をみたいと思っていたのだ。そのセッションは、ブートレッグ(海賊盤)で世に出て、公式盤も出ている。
前夜が1時まわっていたこともあって、起きられなかった。さあ、どうしようかと、まず、ヤンキースのチケットを買いにいった。息子主導で進んでいった。
じゃあ、セントラル・パークだね、と。メトロポリタン美術館にいく。表で写真を撮っても入るつもりはない。何回か、ニューヨークにきていたが、いつもそうである。大きすぎて、ちょっと見るようなわけにはいかないのだ。
しばらく別行動ということで、私はホイットニー美術館に行った。エドワード・ホッパーの絵を見たかったわけである。それから、毎回出かけた、マンハッタン中心にある NYmomaは、改装中で移転していた。

再会の約束は、ジョン・レノンが住んでいて、そして撃たれたダコダ・アパートのそばの、ストロベリー・フィールドにしていた。しばらく、イマジンのモニュメントをベンチに座ってみていた。

ヤンキース・スタジアムには、タクシーで行った。入場時に、息子が背負っている、何にも入っていないディパックの持込を認めないという。コインロッカーもない。どうすりゃいいのと聞いて、なんと近くのボーリング場で預かってもらった。

その日は、ダブルヘッダーで、主力は第一試合に出て、ほとんど出てこない。ベンチにいるのかどうかもわからない。まあいいかと、ニューヨーク・ヤンキースを楽しんだ。息子は、ジータの背番号2のTシャツを買って、着替えていた。スタンドで、ホットドックをほうばる。ここはニューヨークだ。入場時にキーホルダーをくれた。4年前のことで、むろん松井がいるわけじゃあない。

7回ごろだったと思うが、全員総立ちで、ゴッド・ブレス・アメリカを歌った。私らも、直立不動で立った。米国同時多発テロ1年目の前夜のことである。

試合は、ヤンキース対オルリオールズで、3対1でヤンキースが勝ったのだが、試合の結果はどうでもよかった。
売店で買った、ヤンキース・マガジンには、試合のスコアがつけられるようになっていた。私は小学生の頃から、野球のスコアをつけることができた。その日のスコアも載せておきます、ブログ上では読めませんが。

さほど込み合うこともなく地下鉄で帰ることができた。ラーメンを食べホテルに着いて、“明日は9月11日だ。5時起きして、8時30分に現場・グランド ゼロ到着をめざす、市民の行進に入って歩こうと宣言した。この旅行のフィナーレが近づいていた。

 


アメリカ横断・絵はがき日記(9月9日) ソロー森の生活のウォールデンへ

2006-09-10 23:23:46 | Weblog

9月9日(月)BOSTON
600バンで空港に向かう。630デルタ航空のところに着く。ボストン行きはここではないらしい。とりあえずチケットは買う。1人$200以上。高すぎ。空港のはしまで、バスで行く。830の飛行機。ほとんどビジネスマン。オレらはうきまくり。さすがにCHECKは厳しい。940あっという間に到着。タクシーでStationに。コンコード行きは1120。博物館まで時間つぶしに行く。電車はすいている。古いし、降りるドアは、おそらく1ヶ所。1200ごろコンコード着。駅員にいない駅。でも家はたくさんある。水を買って歩き出す。観光案内所が変わっていることを知らずに歩き、先にコンコード博物館へ。コンコードの歴史みたいのがあり、時間がかかりそうだけど…。(#1;日本には9月17日配達)

#2 とりあえず、中を通ってすぐ出る。観光案内所に寄らず、歩いてソローの家に向かう。やっぱり遠い。思ったほどではないけれど疲れる。暑い。思わずヒッチハイク。止まらない。歩き続ける。30分ぐらい。森の中をぬけて、ソローの家の跡地へ。ほんとうにここにあったというしるしだけ。湖のそばまでおりる。泳ぎにくる人は多い。ソローに会いに来る人は皆無。復元された家はほんとうに狭い。小さい。ショップで親父がいろいろ購入。そのまま駅に向かって歩き出す。帰りはあっという間。駅周辺には何もない。1630の電車でBOSTONへ。切符は電車の中で購入。1700着。タクシーでターミナルへ。(#2;日本には9月17日配達)

#3 ボストンのバスターミナルは一番きれい。NYまで$20でいける。安すぎ。でも5時間。最後のグレハン。特に思い入れはない。1830発で2200に到着。吉野家で牛丼をテークアウト。つけものがおいしい。疲れた。寝る。
10/09/2002, 0030 am ホテルにて 記>

 【同行ノート】

*マサチューセッツ州のコンコルドを一日で往復する計画であった。朝7時のラガーディア空港発ボストン行きの飛行機に乗るはずであったが、乗り場を間違えて乗り遅れ、結局9時発になった。ほんの少しでも、ボストンを歩けるかなの目算もはずれ、すぐに列車に乗り、コンコルド駅についた。1時ごろだった。

 列車時刻表

*コンコルドは、エマソン、若草物語のオルコットなど、アメリカ文学の聖地、文学者村である。ゆかりの建物、記念館を大急ぎでまわる。

*コンコルド訪問には特別の目的があった。H.D.ソローはひとりウォールデン ポンドの湖畔に、小屋を建て、自然の中に暮らし、“ウォールデン・森の生活”を書いた。その自然に立ち、森の生活を実感しておきたかったのである。、“ウォールデン・森の生活”は、日本でも、明治以来、すでに5,6種の訳書が出ている。

 まもなくウォールデンの森にはいる。

 ここに、小屋があったのだ。

 *小屋跡あたりから湖をのぞむ。

 *湖面に近づいて、湖畔を歩く。

 *復元された小屋とソローの像

 

*コンコルド駅から、電車でボストンに戻り、グレイハウンド・バスでニューヨークに。ニューヨークに着いたのは夜10時を回っていた。5時間のバスの旅だった。


アメリカ横断・絵はがき日記(9月8日米国集中テロの現場に行く)

2006-09-09 23:51:47 | Weblog

9月8日(日)New York

朝食をホテルのカフェで食べる。パンケーキとベーコン。初めはおいしいけど、すぐにあきる。こっちの食べ物、そんな感じ。ひたすら南に歩く。親父の行きたいところについていく。お店をのぞきたいけど、日曜だし、朝早いので、まだやっていない感じ。本屋でバイクの本を買う。昼食は、ブルーノートでジャズを聞きながらハンバーガー。オレは場ちがいな感じ。まあ良かったかな。地下鉄で、グラウンド・ゼロへ。工事現場なかんじ。実物を見ていないので、ビルがあったことが想像つかない。人が多いし、みやげ屋も多い。地下鉄でホテルに戻ってから、ライブハウスに行く。(#1日本には、9月17日配達)

#2;ライブハウス“ビターエンド”に行く地下鉄がうまくいかない。急行にものってしまう。結局少し歩く。830pm開始なので、先に夕食。ステーキが固い。まあ、うまいけど食いきれない。量が多すぎ。ビターエンドに行く。主な客は、オレら入れて日本人4人。いい曲で、いい人だったので申しわけない。コーク2本のんで$5.安い。2200ごろタクシーでホテルに。シャワーだけあびて寝る。NYは夜でも人が多い。おそらくまあ安全。いつもは800ごろ寝ていたのに、NYでは遅い。まあ、いい経験。

10/09/2002, 0000 am エジソンホテルにて 記>(#2日本には、9月17日配達)

 【同行ノート】

 

ニューヨーク、日曜の早朝は気持ちがいい。ただショッピングには向かない。オープンはだいたい11時頃である。このニューヨークの旅。暗黙の中に、息子を案内しようという気持が働いていたに違いない。ともかく、グリニッチ・ビレッジに行こうと、ホテルを出たのである。私は、60年代の思いのグリニッチ・ビレッジに行きたかったし、連れて行きたかったのであろう。

街を知るには歩くことが一番、どこという観光地でなくても、街並みを知り、人ごみの中に、その街が発する文化の匂いを感じることができる。グリニッチ・ビレッジのワシントン広場を目指して、歩くことにしていた。

ニューヨーク一番のストランド・ブックストアに行く。11時オープン。10分ほど前に着く。すでにかなりの人が表で待っていた。オープンにあわせてわっという感じで入っていった。待っていたように日曜の一日を、この古本屋で過ごす人たちだろか。本箱の陰に消えていって混みあうという感じではない。いい感じであった。私は、ここにいることだけで充分満足していた。ここには寄ることだけの予定であった。それでも、息子と別れて、本棚の本の背表紙を目で追っていた。時に息子を気にしたが、彼は、バイクの棚の前にいたようだった。

このエリアにだけ、ほんの1時間ほどいただけである。まだニューヨークに着いたばかりである。古本や古レコードを買うことには自己規制が働いていた。ソローの散歩とエマーソンがセットになっているハンディなソフトカバーを1冊買った、記念みたいなものである。少し早めに出て待っていた息子は、この店のポスト・カードを貰ってきてくれていた。“おお、ありがとう”。

ここから、ワシントン広場はすぐである。この日は日曜日。お昼。にぎわいはいつものとおり。あちこちに、ギターを弾いている若者。まわり取り巻くもの、無関心なもの、雑多の人がそれぞれ公園を楽しむ。今でも、ここは、ギター好きには一度は立ってみたいところなのか。むろん私は、ここにギターを持ってきたことはない。どこまでも明るいワシントン広場である。

さあ、どこかのオープンなカフェで軽くお昼にしようかと、思いながらも、ブルーノートの前を通りかかって、ジャズのブルーノートだよ、と話しかけて、入ってしまった。何度かきていたが、日曜のお昼ははじめてである。客でいっぱいである。オーダーがしづらいほどの混みようである。とはいえ、ここはニューヨークのブルーノートである。若いドラムスの確実な刻みに感嘆してしまった。店中は大歓声だった。ジャズの店は、やはり夜の方がふさわしい。

マグドゥガル・ストリートを歩く。ボブ・ディランがニューヨークについた日の話をする。もちろん、40年の歳月の流れの中に、フォーク・クラブ、フォーク・カフェのほとんどは消えてしまっている。それでも、ディランの2枚目のアルバム、“風に吹かれて”が入っている、フリー・ホィーリンのジャケットに、ディランと並んで登場していた、スーズ(スーザン・ロトロ)の書いたマップを思いながら、店の看板を追う。cafe・wha?があった。場所は変わっているのだが、この店は、おのぼりさんであったディランがニューヨークに到着した日に歌った伝説の店である。日曜のお昼、やっていそうな雰囲気ではない。

とにかく、グランド・ゼロに行ってみるのが、第一の目的であった。

私が、セプテンバー・イレブンの1年目の、911日にニューヨークにいるようにと勧めたのは、むろん、この夏休みに、アメリカ旅行の計画を持っていたことを知っていたことが前提にすぎなかったが、世界の大きな分岐点になるに違いない米国集中テロといわれる、セプテンバー・イレブンの現場で、風化する前に、見て、感じておくことが大切と思ったからである。ただ見ておくだけで、日本のそれまでや今後の報道がより大きなインパクトを与えると信じたからである。

私の知っている、ファイナンシャル・センターをめざした。そこは、私の仕事で関係のあった、ウォールストリートジャーナルが入っているビル。ツウィン・タワーの目の前である。ツウィン・タワーの崩壊時に、新聞発行の危機をのりきったシステム部門のメンバーに知り合いもいた。一年以上たって、そのビル内に復帰したことも聞いていた。感慨が深かった。歩道橋をわたり、次第に全体が見渡せてくる。近隣のビルをおおうように星条旗。何度か写真でみたこの風景。この星条旗が現場であることを示していた。

ファイナンスセンターから、現場におりていく道には、1年目を4日後にそなえて、テレビ各社のSNGが並ぶ、全世界への報道の発信地である。今、あわただしい報道クルーの動きがあるわけではない明日を待っている。世界の動きの現場なんだ、と思いとおりすぎた。NHKのSNGもあった。裏から接近したわけである。現場にできるだけ近づこうとした。工事現場の鉄パネルにさえぎられる。パネルにそって歩き、工事用のトラックが出入りする入口から中を伺うだけである。黙って見ているだけである。真正面の黒いビルにはられた、大星条旗が雄弁に物語っているように思えた。パネルにそいながら歩く。しだいに、追悼の花、犠牲者の写真、メッセージが悲しく飾られている。びっちりである。言葉は不要であった。わずかにパネルの隙間から、鉄骨で残した十字架がのぞめる。ここがグランド・ゼロである。

疲れたな。いったんホテルに帰ることにした。夜は、どこかライブに行こうか、グリニッチ・ビレッジしかないね。と、ふたたび、グリニッチ・ビレッジにでかけた。ビターエンドのライブ開始の8;30にあわせて、席をたった。お客は誰もいない、ほどなく日本の若い男性ふたり連れがきたのだが、私らだけのためにライブは始まった。


アメリカ横断・絵はがき日記(9月7日ついにニューヨークだ、おやじと合流)

2006-09-08 22:47:35 | Weblog

9月7日(土)Washington DCからNew York

朝6:30起きて、7:00にユースをCHECK OUT。地下鉄の駅へ。閉まっている。土曜なので8:30かららしい。しかたなく歩いてターミナルへ向かう。途中でNYでわかれたマナブと再会。すごい偶然。30分ぐらい情報交換。8:30すぎ、ターミナル着。9:00発に並ぶ。最後のグレイハウンドと思いきや、会社がピーターパン。かわいらしくてがっかり。でも最新型。映画が上映される。NYが近づき、エンパイヤステートビルが見える。やっとNYに着いた。長いようで本当にあっという間。NYは、人が多すぎる。エジソンホテルに直行。13:30ごろCHECK IN。部屋へ。けっこう古い。少し休けいして、ターミナルのそばの吉野家へ。牛丼とみそ汁。日本と変わらぬ味。おいしい。日本人も多い。(#1;日本には、9月13日配達)

#2.お店を見ながら、7th.Ave.を北上し右のロックフェラーセンターへ。何があるかわからない。とりあえず通っただけ。聖パトリック教会へ。結婚式が行われる感じ。今から。大きな立派な教会。5th Ave.を北上。NBAの店。ナイキタウン、リーバイスととりあえずのぞく。何も買わない。どこの店にも日本人。ちょっとうざい。歩いてホテルに戻り、親父と再会。これで安心。一緒に歩いて、またナイキ周辺まで行く。店をのぞきながら。夜は、めちゃんこ亭へ。本当の日本食。さすがにうまい。歩いてホテルに戻る。久々のシャワーときれいなベッド。NYはむし暑い。人が多すぎ日本人が多すぎ。

<10/09/2002, 00:00 am エジソンホテルにて 記>(#2;日本には、9月17日配達)

 

*最後のバスは、グレイハウンドでなく、ピーターパンでちょっとがっかり。エンパイアステートビルが見え、いよいよニューヨークだ。

【留守番ノート>合流オヤジノート】

息子が、夏休みに米国貧乏旅行を計画していると聞き、“9月11日には、ニューヨークにいるようにしろ、たぶんオレも行くからと言ってしまった。9.11ニューヨーク集中テロの1年目のその日には、私は、ニューヨークにいたかったのだ。

ニューヨーク、ジョン・F・ケネディ空港に着いて、イエローキャブで、ホテルに向かった。ホテルは、エジソンホテル。このホテルに決めた理由、場所と安さである。そもそも息子と合流しようとしたのは、ニューヨークではユースホステルはやめておけ、ホテルは一人も二人も同料金だ、というところから来ていた。まともに仕事をしてなくて、シェラトン、ヒルトンというわけにもいかないだろう。

息子との約束は、午後4時にホテルのロビー。ほぼきっかりの4時に着いた。ロビーのソファに座っていた息子の方が、見つけてくれた。思わず、手なれた感じで握手する。日に焼けた息子の笑顔がいい。荷物を置いて、すぐに街に出る。

その日朝、ワシントンを発ったバスで、ニューヨークに着いていた息子は、すでにほぼ半日ニューヨークで過ごしていた。私は自然に、もとの会社の方に足が向いていた。息子のの好みそうなリーバイス、ナイキの店に寄ったのだが、すでにもう行っていたようだった。リーバイス、パタゴニアは、共通の好みである。ニューヨーク出張のみやげに買ったリーバイスの小さなグッズ、財布やキーホルダーは2人の息子が愛用してくれている。ニューヨーク・リーバイスの斬新なディスプレーにひたるだけである。私の好きなカントリー&ウェスタンのイメージも、西部劇のジーンズの雰囲気も、微塵もない。誰も、ここでジーンズを買うわけではない。

 めちゃんこ亭は、林家木久蔵の店

長旅の労をねぎらって、日本食を食べようかと、めちゃんこ亭にはいる。“うまいね”と息子。1ヶ月の貧しい食料事情が推察された。(f)

 


アメリカ横断・絵はがき日記(9月6日ワシントンDC3日目)

2006-09-07 13:47:02 | Weblog

9月6日(金)Washington DC

 8:30起きる。ベッドの中でごろごろ。10:00前に、CHECK OUT。荷物を預けて観光に行く。地下鉄でUnion Stationへ。とりあえず、Food Courtに行く。日本食らしきお店で、天ぷらうどんとコーラを頼む。分かっていたけど、それほどおいしくない。汁が薄い。たくあんが入っている。でもおいしかった。きゅうりも入っている。これはダメ。Stationモールを歩く。久々のきれいなところ。やはりでかい。その後、となりの郵便博物館へ。そこでこの葉書をつくる。人もいないので気にせず、つくる。22才なのにやってて、少し恥ずかしい。そんなわけで手紙を書く。

<06/09/2002, 12:00 pm 郵便博物館にて 記>(日本には、9月17日配達)

9月6日(金)#2 Washington DC

全種類のハガキをもらうため、3,4回並ぶ。隣の郵便局で切手を買う。自動販売機で80¢しかないのでしかたなく買う。まとめてハガキを出す。国会議事堂へ。外からながめる。航空宇宙博物館へ。アメリカは展示の数が多すぎる。ロケットをそのままおいている。あいかわらずセキュリティが厳しい。朝CHECK OUTしたが、やはり泊まることにする。Union Stationの地下で今度は、Chineseを食べる。チャーハンにエビのソース…。すごいおいしかった。けど途中であきた。17:00ユースにCHECK IN。同じ部屋の韓国人と英語で話す。自分のできなさを痛感。明日は朝早く出発。明日こそ、ついにNew York City。

<06/09/2002, 20:00 pm DCユースにて 記>(日本には、9月13日配達)

 ワシントン・ユースホステル

*今朝は、10時のチェック・アウトまで、ベッドの中でごろごろ。

わかっていたけど、おいしくない。

 郵便博物館のパンフレット

 航空博物館で

 国会議事堂をじっと見る

*3日間のワシントンの見納めだ。明日は、いよいよニューヨークに入る。


アメリカ横断・絵はがき日記(9月5日ワシントン2日目)

2006-09-06 20:58:15 | Weblog

31)9月5日(木)Washington DC

ゆっくり寝て、930起床。さすがによく寝れる。1030ごろユースを出発。地下鉄でアーリントン国立墓地へ。JFK、無名戦士の墓を見る。衛兵交代はすごい。その後ペンタゴンへ。入れそうにないので地下鉄でアーリントンへ戻る。川をこえて、リンカーン記念館へ。ここから見る。ワシントン記念塔が一番アメリカを感じる。ずっと見ていてもあきない。そこへ弾き語りのギター弾きがくる。ネィティブかと思いきや日本人。有名な人か分からないが、カメラマンなどを連れて4人ぐらいでロスから来たらしい。NYでイベントに参加するらしい。(日本には、9月12日配達)

9月5日(木)#2

そこにいた人たちと鶴をおる。おり方を忘れていた。しばらく話してからモールの方に歩いて帰る。ユースに戻る途中、マックによる。店員はみな黒人。客も黒人が多い。久々のマック。ボーダーズで立ち読みしてからユース。1830ごろ着。シャワーをあびるが、湯がでない。水ですぐ終わる。今日もこのあと寝る。昨日(4日)ボールペンのインクがなくなる。これはアメリカ製。なんかいまいち。手紙が8枚たまる。切手がない。早く出さないと。明後日は、NY。あっというま。短かった。日本食が食べたい。部屋が寒い。明日も博物館へ。疲れた――。

05/09/2002, 1930 pm DCユースにて 記>(日本には、9月11日配達) 

 【留守番ノート】

 スミソニアン博物館パンフレット

 アーリントン墓地パンフレット

 アーリントン墓地

 ペンタゴン

 リンカーン記念堂

*リンカーン記念堂から風景が一番アメリカを感ずる。ずっと見ていてもあきない。


アメリカ横断・絵はがき日記(9月4日首都ワシントンに着いた)

2006-09-05 21:31:33 | Weblog

9月4日(水)Washington DC

朝、5:30着。眠い。6:30ごろからベンチで寝る。1時間で、警備員に起こされる。アメリパスで、9:00発のNY行きに乗るといったら、問題なし。朝食を食べて、9:00ごろユースに向かって歩く。40分ぐらい。暑いし重い。失敗した。CHECK INの時にもう一泊したいと言ったが、通じていないみたい。とりあえず、観光に、まずホワイトハウスのビジターセンターへ。ビジターセンターなのに荷物CHECK.。飲食物がダメで、水を捨てる。ホワイトハウス、ワシントン記念塔を外から見学。アメリカ歴史博物館で、見学し昼食。広かったが英語が分からず苦戦。国立自然史博物館も似たようなのを見てきたので、こんなもんかといった感じ。17:30ぐらいまでいる。FBIの横を通り、MCIセンターへ。やっていない。ユースに帰る。かぎがオートロック。クーラーがききすぎさむい。スイッチがない?DCは太陽が暑い。黒くなった。このハガキは高かった。もう寝る。

<04/09/2002, 19:00 pm DCユースにて 記> (日本には、9月11日)

 【留守番ノート】

 ワシントンDCのオフィシャルガイド

 地下鉄ガイド

 地下鉄ルート図;お世話になった。

 ここがホワイトハウスだ

 ここがアメリカの首都だ


アメリカ横断・絵はがき日記(ナイアガラ、そしてまた夜行グレイハウンドバス)

2006-09-04 18:50:53 | Weblog

9月3日(火) Niagara Falls

朝9:30にユースを追い出されて、リュックをかついで3人でインターネットカフェへ。オレはベーグルを食べる。その後、2人と分かれてアメリカ側の展望台へ。50セントなのにいい景色。アメリカ側の島の中を歩く。滝に行く途中で突然の雷雨。やってきたトロリーバスに乗り込む。タダと思ったら、ツアー解説付きで$4.50。しぶしぶ払う。Visitor Centerに着いて降りたとたんに雨が止む。10分ぐらいのとおり雨。アメリカに来てから初めての雨に焦ってしまった。高かった。かなり後悔。滝を見る気にもなくなり。バスターミナルに行き、2人と合流。Niagara Fallsにもグレイハウンドのカウンターがある。(日本には、9月11日配達)

9月3日(火) No.2

アメリパスを見せて、チケットをもらう。14:45pmのバスが15:30分に来る。New York行き。このまま乗りっぱなしになりそう。BuffaloでChicagoに行く一人と分かれて。バス2人旅。日本人が1人でもいると強気になれる。日本の歌を聞いて、本を読む。気がゆるみそうになる。00:30am着予定。22:00ごろミールストップがあり、その後眠る。何の前ぶれもなく、NY着。こんなもんか。どうってことはない。でもさすがNY。広いし、きたないし、人が多い。深夜なのに人がたくさんいる。もう一人ともここでお別れ。1:45のWashington DC行きに乗る。これが最悪。手紙に書けないぐらい。けど無事に着く。

<04/09/2002, 19:00 pm DCユースにて 記>(日本には、9月17日配達)

 【留守番ノート】

 ナイアガラ・ユース前で

 ナイアガラの滝だ

 バッファロー=ナイアガラ;バス時刻表

 グレイハウンド・バスチケット

 ザック背負うバスの旅はこんな感じ

 

*日本人が一人でもいると、気が強くなる。深夜のニューヨーク途中下車。ここで、またひとりの深夜バス。ワシントン行き。

  ニューヨーク=ワシントン;バス時刻表