バス・船舶硬券切符ジャーナル

主として民営バス・船舶・ケーブル等、普通の鉄道以外の古い硬券切符情報です

硬券追究0025 三重交通と渡鹿野島

2017年03月19日 | 硬券追究

三重交通と渡鹿野島

先日申しました、的矢湾関連で不可解な硬券がこれです。
紐解けそうで解けない部分があり、推察の域を出ないのです。


時期不詳 A型硬券 無地紋 赤線縦4条 一般式

はっきり言って教えてほしいものです。
三重交通の設立は昭和19年ですから、戦後落ち着いてすぐの硬券ということは見てとれます。

これと同様式で、「山田」から「濱島」までのバス~鉄道~志摩観光汽船連絡の昭和34年の硬券(この様式を運賃訂正印で使用)を見たことがあります。
その券は地紋があり赤線縦3条です。濱島には戦前から真珠湾交運の遊覧船もあり不可解なところはないのですが、

画像の券に戻せば、まず三重交通に船舶部があった話は知りませんので、これは三重交通が発行はしているが「復路券」。しかし、志摩観光汽船が渡鹿野巡航船事業を始めたのは昭和33年です。昭和33年ならば、切符の運賃に「銭表示」は無くっている時代です。法的にも昭和28年までで、実質さ昭和23年には使われなくなっていると思います。作られたのは昭和22年頃とは思うのですが、その頃に巡航船が存在したかどうかです。こういう入り組んだ地区ですから、無くはないでしょうが、切符にある「穴」は、穴川港(駅)であることは間違いなく、的矢湾巡航や昭和19年まであった志摩航運に(戦争で中断したにせよ)穴川までの航路があっって、戦後に少し復活していたのか? 「渡鹿野」が今もある三重交通バスの渡鹿野渡船場バス停ということもありますが(対岸の渡鹿野への民渡船は結構ありました)。

このへんで、この切符が廃札にせよ本物であると仮定した推察ですが、
①戦後すぐにたとえ短期間や不定期にせよ、渡鹿野島から穴川港までの渡船が存在した。
②わざわざ経由地にある「鳥」は鳥羽、「二」は二見、「河」は河崎(山田から北東部河岸の古くから栄えた町)、
 「山田駅前」という表現は、昭和36年まであった三重交通神都軌道二見線で名乗られた駅名。これは二見浦までは軌道線かも?
③渡鹿野航路(穴川)~三重交通鉄道(鳥羽)~三重交通バス(二見・河崎)~三重交通軌道線(山田駅前)で赤線4条 もしくは
 渡鹿野島(民渡船)から?渡鹿野渡船場三重交通バス停~穴川駅から三重交通鉄道線(鳥羽)~三重交通バス(山田)? また

 ②と③の別パターンの組み合わせ。

いずれにしても不祥です。せめて往路の券があればいいのですが・・・。こんな解説、考察をしておいて、

どこかのタダの「模擬券」でした、というオチになったらすいません。

 

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