バス・船舶硬券切符ジャーナル

主として民営バス・船舶・ケーブル等、普通の鉄道以外の古い硬券切符情報です

硬券追究0043 高尾登山鉄道

2017年05月25日 | 硬券追究

高尾登山電鉄

教徒の多い高尾山薬王院への参拝は、かつて鉄道駅からの徒歩によるもので苦難を要しておりました。
このため、大正10年に高尾索道という会社が設立され、大正14年に高尾登山鉄道に社名変更されました。
昭和2年に、ケーブルカーで清滝~高尾山が開業しました。
昭和17年、腐食による事故、昭和19年の戦時に不要不急線として休止となり、資材が搬出されました。

さて、ここの硬券と言われますと、恥ずかしいほどに少なく、戦前なので見かけても高価で取引されます。


昭和10年 A型硬券 青てつだう地紋 一般式

発行所、片・往・大人・小児など、一通りありますが、一枚一枚が入手し辛く、一般券はこれだけを・・・

しかし下車1回とあっても、片道で一駅なので、降りる駅はないですね。
昭和10年の25銭は結構高いほうなんですかね。

あとは、偶然ながら、こういうものもありました。


昭和戦前 A型硬券 青てつだう地紋 団体員ノ章

戦前はこのタイプの方が少ないですが、戦後の「電鉄」で出る(見かける)券は団体補助券ばかりです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0042 函館バス

2017年05月21日 | 硬券追究

函館バス

函館バス㈱は、前回の「函館乗合自動車」が昭和26年に称号変更した会社です。
昭和32年からは、東急電鉄傘下・グループに入っておりましたが平成15年に東急グループからは離脱。
平成18年には、観光貸切の部門は連結子会社に分離しています。

函館バスの硬券は営業所も結構散らばっていたため結構残っており、昭和30~40年代は、結構バリエーションもありました。
硬券末期は、函館市内の松風町の営業所で金額式だけが平成5年頃まで生きづいていました。


昭和33年 B型硬券 赤自社旧地紋 一般式  函館営業所

函館乗合自動車時代の流れは、あまり見られないもので、こちらの様式が主流になります。


昭和36年 B型硬券 赤自社地紋 一般式 金額補充  江差営業所

上の券とは、あまり変わらないのですが、地紋と左の縦の注意書きに違いがみられます。


昭和39年 B型硬券 赤自社地紋 一般式  函館営業所(発駅は松風町より)

一見、同じような地紋ですが、羽根が上下しており、微妙に違うのです。


昭和38年 B型硬券 赤自社地紋 一般式  松前営業所

原口はさらに海沿いの奥ですね。


昭和39年 B型硬券 赤自社新地紋 一般式 線名入り  函館営業所(発駅は松風町より)

これまた、地紋は羽根上下に別の絵文字が入ったものです。同じような時代に地紋が異なって入り交じり、一体どうなっているのか訳が分かりません。
また、この券では経由線名記入と、会社名が下蘭にきています。縦書きの注意事項は、横になっています。
川汲温泉は低い峠を越えた太平洋側になります。


昭和45年 B型硬券 赤自社新地紋 着駅式  函館営業所

この券は、同金額で行ける場所を、ひとまとめにしています。随分思い切ったものです。
水堀・長万部・江差と全然方向が異なります。


昭和39年 B型硬券 赤自社新地紋 地図式  函館営業所

地図式も種類違いで複数出ていたようでして、まま見かけます。


昭和47年 B型硬券 赤自社新地紋 金額式  松前営業所

やはり、地紋は昭和39年途中以降、これに落ち着き長く使われたようですね。
しかし、営業所からの金額式、末期への先駆けが垣間見えます。

ここで変わり種を



昭和30年代 A型硬券 赤自社地紋 御乗車順番券  大沼営業所

どういう使われ方をしたものか判りませんが、ほぼA型で硬さも硬券といえるものでした。
大沼は観光地なので、多客時のバスの順番取り用にでも人数を制限して用意されたのでしょうか。


硬券の末期は、こればかりになり実に金額式の口座のみ85種とかあったようです。


平成 B型硬券 赤東急グループ地紋 金額式  松風町営業所

一枚だけでいいですわ。でも社名も大きく表示され、悪い券とは思っていません。

一番多く出回る路線バスの一般式では、この他「北桧山営業所」のものとかもあって、場所的にはバラエティーに富んでいました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0041 函館乗合自動車

2017年05月14日 | 硬券追究

函館乗合自動車

渡島・桧山地区のバス事業者は戦前から既に多かったが、太平洋戦争による物資の不足を受けて、北海道の統合要綱に基づき、
乱立14事業者統合により昭和18年に函館乗合自動車㈱が設立されました。実際の営業開始は昭和19年6月からでした。
昭和26年に、函館バスに改称されます。

函館乗合自動車の年代に合致したものではないのですが、あまり売れない区間だったのか、旧社名の残券を使っているものがありました。


昭和33年 B型硬券 赤PJR地紋 区間式  旧社名残券 旧字

社名変更後7年も経過して、「函館乗合自動車」の残券を訂正せず使っていました。
通常券だとは思いますが、運賃表示もありません。

実際は「函館バス」時代のものです。たまたま。これだけありました。

次回は、その「函館バス」を特集します。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0040 小川久回漕部

2017年05月13日 | 硬券追究

小川久回漕部

古く大正の頃から石崎汽船の回漕取扱店でもありましたが、東予運輸会社の尾道(東予桟橋)~鞆経由~多度津、
多度津~東予(新居浜・今治)~宇品の航路にも参入していた回漕店でありました。

硬券は尾道~松山(三津浜か)航路の、同じようなものが時折みられます。


大正5年 A型硬券 赤ベタ 補充片道 3等  連絡券  裏社名

三津浜港からは、直接伊予鉄道へ連絡して、古町へ行ったのでしょうね。
右書き時代の古いものです。


陸上交通も不充分な昔は、廻船問屋が多く存在して、統合前は下請け的な会社の活躍も活発だったのでしょうね。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0039 石崎汽船

2017年05月07日 | 硬券追究

石崎汽船

文久2年という1862年に愛媛の新浜村の庄兵衛氏が廻船業を起こすことに端を発します。
明治6年に、県内で外輪船を使った旅客船業でありましたが、明治23年11月から三津浜~広島間の定期航路を開始させます。
明治36年8月には三津浜~尾道航路も開始します。大正7年になり、石崎汽船㈱の設立に至ります。

昭和40~44年のかけて、フェリーを導入していきました。
また昭和50年には三原航路ができますが、これは瀬戸大橋開通時の再編でなくなっています。
平成11年に、しまなみ海道開通による再編で、松山・尾道航路も廃止されました。

平成16年に、中島町営汽船(高浜港から出ていた)の経営を引き継ぎ、傘下に中島汽船㈱を設立し、新たな営業を開始させます。

さて、硬券として昔よく見かけたのは、廃札で


昭和時期不詳 A型硬券 青JNRこくてつ地紋 補充片道券  国鉄連絡用


昭和時期不詳 A型硬券 青JNRこくてつ地紋 補充片道券 小児  国鉄連絡用

ともに高浜港を駅として戦前から連絡運輸しており、連絡が無くなって不要になったのでしょうか。

こういうのは実券で見ないのが残念です。


社航路内のものは実券でのものを少し所持しています。


平成12年頃 A型硬券 赤BJRてつどう地紋 上陸券付 2等

これは、硬券が無くなる確か平成12年の実券で、広島~呉~松山観光港を、瀬戸内海汽船との共同運航しており、裏に二社並記になっていますが、石崎汽船の様式を組む流れの硬券です。広島~呉間を船に乗ることは実際は少ないでしょうね。

同航路で裏が石崎汽船のみの表記のかなり古い券があります。


昭和42年 A型硬券 緑TTD地紋 補充式 上陸券付き 1等

流石は1等で、この時期でも1080円しています。
インク汚れはあるものの、色合いが程よく残っていてました。

広島港は宇品港、高浜は旧港から出ていた時代ですね。

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0038 全但交通

2017年05月04日 | 硬券追究

全但交通

全但交通は、大正6年に(現在の)養父市内大屋町で南但自動車として創業され、事業が開始されました。本社は程なく八鹿へ移されました。
昭和13年から但馬各地の事業者を合併し拡大され、昭和14年に社名を全但交通㈱に称号変更しています。

全但交通は、旧出石鉄道の鉄道線休止後、自動車運輸も昭和27年に譲り受けています。

昭和50年以降、路線バスの他に長距離高速バスも運行されるまでになり、昭和53年5月に社名を全但バス㈱に改めました。
但馬地区の人口減少、マイカー化により、平成20年から路線の一部が自治体などに移管されたり、平成21年には主要株主の神姫バスとの経営統合の噂も立ちましたが、これは両社共に否定しています。


昭和35年 A型硬券 赤RTC地紋 一般式 3等  国鉄連絡  出石バス駅

これは、出石鉄道が休止(実質は廃止)になって、それに沿う路線バスを走らせ、国鉄連絡運輸もしていました。
この券は豊岡経由ですが、江原連絡も設定としてはあったとのことことでした。


昭和37年 A型硬券 青RTC地紋 一般式 2等 国鉄連絡  湯村温泉バス駅

こちらは、元々鉄道線もない温泉観光地のものですが、ここも国鉄連絡運輸が設定されており、他に但馬村岡などにもバス駅が置かれていました。
硬券ではこの湯村温泉からのものをたまに見ます。
陰経由は「山陰」の意味で、他で見る券もそうなっていることから印刷漏れではないようです。
諸寄などという極近い駅でも常備券で、逆に硬券での補充片道券を見ていません。(後年の軟券では見ましたが)
JR連絡運輸は、平成初期の補充券で見ましたが、現在は取り扱いは終わっていそうですね。


国鉄連絡もそう出回っている硬券ではないのですが、社バス内の硬券も今のところあまり見ません。
ですが、あることはありまして、


昭和33年 A型硬券 赤RTC地紋 矢印式 急行乗車券(指定券)

表記は「全但バス」ですが、正式にはまだ全但交通です。昔から愛称・通称では全但バスで通っていましたね。
なかなか良い様式で、これは急行乗車券なので、券種のバリエーションはもっとあったと思うのですが、まだ見る機会に遭遇しません。
姫路方面への急行路線だったはずで、これの区間違いは一度見た覚えはあります。

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0037 大山観光電鉄

2017年04月30日 | 硬券追究

大山観光電鉄

大山観光電鉄の鋼索線は、昭和40年に開業したものなのですが、
元々戦前に、大山鋼索線があり、それは戦時に廃止されました。
昭和25年になり大山観光㈱が設立され、観光地の復旧が模索されてきたようです。
昭和28年8月に大山観光電鉄㈱に社名変更していまして、昭和32年には小田急電鉄の関係会社となりました。
昭和40年7月、やっとのことで、大山鋼索線の復旧開業がかなうのでした。

ここの硬券は、平成10年代初期の硬券末期に着札券などの放出、難券化して駅名も一新してからも旧券の土産販売などもあったようで、あまり強い興味が湧かずに真剣に収集を目指していませんでしたので、またポツポツと補充はしたいと思います。

古いものは、たまに戦前時代のものも見ますが、


昭和40年 B型硬券 地紋不詳(無地紋?) 矢印式  大山観光

これは、復旧開業初年の硬券で、旧社名の意味ではないのでしょうが、「電鉄」抜きの「大山観光」と表記されていました。


あとは近年(といっても硬券の発売がなくなってから結構経ちますが)のあまり面白くないものです。


平成11年 B型硬券 淡赤PJR地紋 矢印式

昭和40年の再開業時にものと、変化点は意外に少なく思います。
麓の追分と山上の下社の中間駅に不動前駅がありました。


平成10年 B型硬券 青PJR地紋 矢印式

区間違いで色が違うのか、様式自体は同じです。


平成9年 B型硬券 赤PJR地紋 矢印式 往復券


平成10年 B型硬券 青PJR地紋 矢印式 往復券 小児用


平成12年 A型硬券 淡青PJR地紋 矢印式 往復券 小児用 平日割引乗車券

これはA型で見映えはします。山上側からの切符ですね。

とまあ、あるものだけ並べて、大して研究・追究にはなっていないことはご了承ください。
収集は所詮趣味で気分次第のものですから・・・


時期不明 B型硬券 無地紋 日付器試験用紙

これも多分昭和から平成の硬券末期まであったものでしょう。


厳密には、大山観光電鉄の切符ではなく、系列の小田急電鉄からのものですが、


時期不詳 A型硬券 青PJR地紋 矢印式着駅補充 小児用 連絡券 大山片道乗車券

小田急電鉄発行の小田急~神奈川中央交通バス~大山観光電鉄という3社連絡となります。
接続駅は伊勢原駅です。
この切符があるということは、逆もあったのかも知れませんね。
あまりよく見るというものではないので、硬券末期ではないのかも知れないです。

鋼索線が硬券でなくなった現在の切符、鋼索線の運営にはあまり興味を持つこともなく過ごしてしまっています。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0036 北鮮の鉄道と日本海汽船

2017年04月27日 | 硬券追究

北鮮の鉄道と日本海汽船

日本統治時代の朝鮮総督府鉄道は、昭和8年~15年の一時期に、大陸との関係の関係が強かった部分の経営を南満洲鉄道に委託している時代がありました。
その間、南側では委託が解かれたりしましたが、清津以北は満鉄に経営委託が再びなされました。

日本海汽船(新潟~清津~羅津)の航路は、満洲国への近道として、満洲丸などを就航させ、日満連絡の利便性に活躍しました。
昭和10~14年ぐらいのことです。この時の初代日本海汽船は、その後昭和15年に北日本汽船と合併して、国策航路の新しい日本海汽船に改組されました。


A型かD型か? 昭和13年 緑満鉄北地紋 補充片道券 日本海汽船連絡 旧2等異級(鉄道3等・航路2等)
朝鮮総督府北鮮線会寧~清津~(日本海汽船)新潟

これは鉄道線発の切符ですが、まさに日本海を縦断してくる日本海汽船経由が面白く、「硬券追究」の題材にも挙げました。
さらに裏には調べた通り、「満洲丸」の印が入っています。会寧~清津は清津以北になり、やはり切符地紋からして満鉄が入っています。

日本海汽船側の硬券も見たことはあるのですが、廃札のようなものを一度見ただけです。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0035 庄内交通バス

2017年04月23日 | 硬券追究

庄内交通バス

昭和18年に、鶴岡出羽自動車など四社合併で庄内交通㈱が設立されました。
       鉄道に対抗する危機感があったのでしょう。庄内交通は以前は鉄道線も持ち、バス事業も会社直営ですね。

平成26年に、(株)庄交ホールディングスになり、庄内交通はその子会社として新たに設立されております。

ここの硬券というのも、まだ面白い切符はありそうですが、少ししかお見せせきるものがありません。

バスとしては、硬券なるものは、主として3ヶ所のエリアに切符が残っていると考えていいでしょう。

上記2枚とも廃札のようで、A型硬券 青JPRしてつ地紋 一般式  国鉄連絡券

接続駅は羽越本線の「温海駅」、昭和52年に「あつみ温泉駅」に改称されていますから、それ以前の切符です。
また、そのタイミングで出された廃札でしょうか。現在では、バス停(駅)の「温海温泉」も呼び名は「あつみ温泉」に変わっています。
連絡運輸が残ったまま、鉄道駅とバス駅を同じにしていたとしたら混乱したでしょうね。連絡運輸はなくなり、バスも、あつみ温泉~あつみ温泉駅という発着名になっており、連絡運輸がのこっていたら、こういう改称はなかったでしょう。
そもそも、鉄道駅に「あつみ温泉」駅と、ひらかなを入れたのは、「温」の字がかぶってくるという理由だったとおもうのですが、
バス駅では既にそうなっていたのですね。

ここは、鉄道駅と温泉街は川の奥地へと離れているため、「温海温泉」をバス駅とした「羽越本線温海駅」を接続駅とした連絡運輸をしていたのですね。


あとは、鉄道線もあった湯野浜温泉ですが、ここは鉄道の切符ばかりが取り上げられますが、バスも併行して走っていました。
しかし、バスは見るのは軟券ばかりで」、バス専用の硬券はあったのかどうかも存じないです。
連絡運輸も鉄道の方のみでしょうね。共通券とか選択乗車とかもなかったのでしょうかね。

 

あと1ヶ所判っているのは、湯田川線の「湯田川温泉」バス駅からの国鉄連絡運輸です。
常備の券の存在も確認していますが、ここでは補充券を・・・


昭和43年 D型硬券 青JNR国鉄地紋 補充片道券 小児 2等   国鉄連絡運輸

ここはなかなか新鮮で、鶴岡の南西側の地だったと思いますが、やはり温泉街なのですね。

庄内交通は、もう少し集めるべき硬券は出てきそうな気がします。今後を見守ります。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0034 鶴岡出羽自動車

2017年04月21日 | 硬券追究

OSの不具合か、消えてしまった記事

鶴岡出羽自動車

画像のみ復旧します。


昭和11年 B型硬券 緑地紋 矢印式

このバス事業者は、合併され庄内交通になっていく前身のものでしょう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

不具合にて

2017年04月21日 | ニュース

お世話になります。

OS不具合により、ちょっと休みます。

ご了承ください。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0033 合同汽船

2017年04月16日 | 硬券追究

合同汽船

合同汽船は、明治40年に会社設立され、明治42年に松江ー大根島ー境ー美保関の中海、境水道添いに就航され、
その美保関線に随時東航路、西航路を就航させていきました。
しかし、中海干拓で陸続きの場所が増え、陸上交通による内陸との利便性の向上の影響を受けて、昭和55年9月30日に終航しました。
合同汽船の松江港というのは、松江大橋のたもとで大橋川に乗り場がありました。

もっともありふれた廃札で、もう見飽きたものは


昭和 D型硬券 灰TTD地紋 補充片道券 2等  国鉄連絡運輸

もっと以前にはA型常備の連絡硬券も見られ、美保関を連絡駅とし、接続駅を境港駅としての国鉄連絡運輸をしていましたので、後年残って残券が廃札となったのがこの券でしょう。せめて着札で日付と着駅を入れて欲しいぐらいですが、決まってこればかり、これでもか!というぐらい余っていたのか、見ますね。


あまり見る機会のないものを公開したいですが、珍しいものは余り集めていません。


昭和13年 A型硬券 緑RTC地紋 一般式 社航路内 3等

戦前の硬券で、やはり味があります。
しかし、よく見れば、これは松江から美保関へ行ってから境港に戻るという変わった経路です。
美保関は半島の先へ出る(境水道の先)形になります。日本海へ出てすぐ戻る感じです。
この様式の切符、同じく「八幡灘ゆき」とかも見ました。

こういうのも


戦前 B型硬券 赤RTC地紋 一般式 社航路内 3等

これは上のA型硬券よりも古いのでしょうか。外江は境と同じ半島の西側(鳥取県)のごく近距離の航路券です。
時期の問題か、経路による様式の違いか、もっと収集しないとわかりませんね。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0032 隠岐汽船

2017年04月13日 | 硬券追究

隠岐汽船

始まりは隠岐島議会の議員でありました松浦斌氏が、郡長の高島士駿氏の協力を得て、明治17年に大阪商船から購入して改名した「隠岐丸」を回航し、
明治18年に菱浦~浦郷~境港間の運航が開始されたのが最初でした。
当初は便が少なく利用者が伸びずに、また明治23年に松浦氏も没しました。しかし、隠岐島四郡連合会が運航を継続し、航路維持にと島民の出資もあり、
明治28年に隠岐汽船㈱が設立されました。本社は最初は中ノ島菱浦でありました。

隠岐ー本土間のみならず、阪鶴鉄道と連絡すべく、まだ山陰本線も全通していない頃の明治末期、山陰山間断崖地区の集落を東西に拾っていくという航路ももちました。
また明治43年から大正6年までは、北韓航路という国際航路もその一時期に運航されていました。
さて隠岐~本土は、その後昭和8年には松江港まで航路が延長され、第一隠岐丸、第二御気丸を交互毎日の運航をするに至りました。
昭和47年にフェリー化、昭和59年には高速船就航と、時間も大幅な短縮を図りましたが、平成7年の創立100年の頃には離島人口や観光客も減少し、経営に翳りが見え、平成18年以降は、経営再生計画をもって広域連合とともに改善がとりくまれているところであります。

さて、隠岐汽船の硬券切符は、個人的にはあまり面白くは思ってないのですが


平成12年 D型硬券?(報告片を取られA型相当) 青自社地紋 相互矢印式 2等

表記が、隠岐⇔本土というのも味気ないのですが、昔は港別表記ではなかったのでしょうか。
発行港の印が違うだけとは寂しいです。
等級違いを集めるぐらいの楽しみしかないような平成12年頃でしたが、報告片も取られ、料金も高額とあって、色々とは買えません。
この切符は、身内らが隠岐へ釣りに行って実際使ったというものです。
平成24年に家族旅行で境港に行く機会があり、隠岐汽船の窓口に寄りますと、まだ硬券でしたが、「乗らなければ売れない」らしく、また高額とあって新しい券は買えておりません。


平成12年 D型硬券?(報告片を取られA型相当) 青自社地紋 相互矢印式 2等

これも同じで、隠岐側の「浦郷」から本土への硬券で、様式は同じです。
本社(西郷?)まで行って、報告片の取られない完全品の収集に挑んだ方も居られたようですが・・・。

 


平成4年 D型硬券?(報告片を取られA型相当) 青自社地紋 矢印式 2等

こちらの方がまだ良いです。道後と島前間のものですが、港別の表記がされています。
平成4年でこれですから、上記2枚の本土ー隠岐も、ちょっと前は、港別表記だったのでは?などと思ったのです。
今は就航されていない島根半島加賀からの航路もありましたし、券種が色々と楽しめれば奥が深くなるのですが。


上級の等級では


平成 D型硬券?(報告片を取られA型相当) 青自社地紋 青帯1条 相互矢印式 特2等

これも近年でしょう。ちょっと高級感が出ましたが、1等は?・・・知りません。

 

航送の硬券も


時期不詳 D型硬券?(報告片を取られA型相当) 矢印式 車両航送券

これが港別表記ということは、平成一桁時代かな。ダッチングが雑過ぎます。

 

これがJR(もしくは国鉄)連絡です。自社の地紋でのものも拝見したことがありました。


平成3年(合計料金からして昭和53・63年の可能性も) D型硬券 青RTC地紋  運賃のみ補充 発着駅常備の不思議な連絡硬券

多分、十の位のダッチングは欠けているのですかね。平成なら船と併せて運賃が安すぎる気がします。

それにしても、着駅、経由も常備印刷しておいて、金額のみ補充とは違和感を感じます。
どうせなら常備でいいのに、理由があるのでしょうね。
学割、身障、小児対応という他でもありふれたようなものでない何か?


さて、最後に、もっと分からない切符がありますが、どういうものでしょう。


明治末期? D型硬券よりも横長 灰色ベタ 隠岐丸 2等乗船券 補充式

これは、元の本物か、切符は壱~参等まであるのですが、明治村のような、どこかの遊覧船ででも使っていた模擬券でしょうか。
それとも隠岐汽船の廃札でしょうか。信用していませんでしかが、切符と歴史に違和感は見られないのです。
①明治なのに右書き・・・鉄道では普通はないが、明治に右書きというのはゼロではないらしいです。
            ましてこの時代、隠岐汽船は国際航路もあったぐらいですから、明治末期ではあり得ます。
②濱坂港・・・この切符は他でもたまに見てきましたが、至 津居山などと押されているものもあります。
       上記沿革のとおり、岩美(網代)~浜坂~津居山(城崎)~宮津湾方面と山陰本線全通(明治45年)前の海辺の町に寄港していました。
③隠岐丸・・・隠岐丸は就航していますので、おかしくはありません。
ということで、訳の分からないモノでしたが、辻褄は合っているのです。

とか解説しておいて、タダの模擬券・復興券でしたらすいません。

 

コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0031 サワタクバス

2017年04月09日 | 硬券追究

サワタクバス

それまで、聞いたことがなかったです。こういう事業体。
どうも通称名らしく、調べてみますと、大正15年に鳥取県岩美郡に創業した澤タクシーが乗合事業も行った頃のもので「サワタクバス」。
昭和41年に日本交通(これならよく聞きます)に改称されています。日本交通の前身だったのですね。

ほとんど古い時代の知識はないのですが、鳥取から砂丘方面、若狭方面を中心とした乗合バスとしていたようです。


昭和36年 A型硬券 緑RTC地紋 矢印式

タクシー会社のバス硬券とあってか、一風変わった様式が新鮮です。

日本交通になってからのバス硬券を逆に見ないのですが、早々になかったのでしょうか。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬券追究0030 広電バス

2017年04月06日 | 硬券追究

広電バス(広島電鉄自動車)

広島電鉄のバスは、広島瓦斯電気時代の昭和3年、広島乗合自動車が創業し、昭和4年からその路線のおおかたを取得したことに始まり、昭和5年に子会社とします。
昭和13年には、その広島乗合自動車を合併し、広島電鉄㈱に自動車部が設置されています。
広島電鉄自体は、昭和17年に広島瓦斯電気から分離独立されたことによりますが、乗合自動車も多数の事業者統合を経て、広島電鉄直営のバス事業本部で今も担当しています。通商の「広電」は昭和30年代後半から愛称として呼ばれてきたものと思われ、鉄道線の「電車宮島」が「広電宮島(現在は広電宮島口)」に改称されたのも昭和36年でした。

さてバスの方になりますが、硬券というのは見かける券種も知れておりまして


昭和45年 A型硬券 緑地紋 2社共同長距離路線 のりかえ

この路線の元は、一畑電鉄の長距離急行路線として始まったのですが、国鉄の列車「ちどり」の影響に圧されたことにより、広島電鉄が共同運航に参入して、
(米子)-松江ー玉造ー宍道ー木次ー三刀屋ー掛合ー三次ー広島バスセンターー広島駅ー(宮島口)を運行しました。
昭和62年に完全に高速バスへ変貌し、運行時間を縮めています。

当時この手の切符には「のりかえ」とあり、この路線なら三次ターミナルあたりで乗り換えが必要だったのでしょうか。


案外、自社短距離のものが出て来ず、前回のバスセンターの共同表記でないものとしては


昭和41年(裏に日付印) B型硬券 青自社地紋 金額式 乗換

これは「広島センター」からでありながら、広電バス単独路線となる硬券です。
まあターミナル初期は、路線バスの共同運行の協定をしていない各社別発行の時代だっただけなのかも知れません。
190円とはいえ、昭和41年なら結構な距離までは乗れると思われ、この切符にも広電特有?の「乗換」表記があります。

どこかの出張所を跨ぐと、乗り換えを必要としたのでしょうか。それとも単に「車両乗り換えも可能」という単純な意味なのか?


改変はありながらも、今も電鉄直営でやっているようです。硬券はとっくに無いのでしょうね。

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加