バス・船舶硬券切符ジャーナル

主として民営バス・船舶・ケーブル等、普通の鉄道以外の古い硬券切符情報です

硬券追究0026 六甲山乗合自動車

2017年03月24日 | 硬券追究

六甲山乗合自動車

六甲山乗合自動車㈱が設立されたのは、昭和4年でした。
昭和16年に、阪神合同バスに合併されまして、戦時中には山上バスは休止されましたが、後に復旧しています。
阪神バスが継承したのでしょうか。
しかし、六甲登山口(現・神鉄六甲)駅からのアクセスの部分はもうないような気はします。
登山口の駅も昔とは違い、他に六甲山に登るルートや広い道路が沢山出来て、ここから登山口とする雰囲気は薄れた感じです。
しかし駅前には、もう川が沢のような雰囲気で、徒歩でも登るような山間の駅であることには変わりはありませんが。

六甲山頂にかつては硬券も売られた時代はありまして


昭和戦前 A型硬券 青ベタ 一般式  神戸有馬鉄道連絡運輸

この経路の切符は地紋が付いたものも確認していますので、六甲山乗合自動車名義戦前時代は割と長く売られていたのかも知れません。

 

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硬券追究0025 三重交通と渡鹿野島

2017年03月19日 | 硬券追究

三重交通と渡鹿野島

先日申しました、的矢湾関連で不可解な硬券がこれです。
紐解けそうで解けない部分があり、推察の域を出ないのです。


時期不詳 A型硬券 無地紋 赤線縦4条 一般式

はっきり言って教えてほしいものです。
三重交通の設立は昭和19年ですから、戦後落ち着いてすぐの硬券ということは見てとれます。

これと同様式で、「山田」から「濱島」までのバス~鉄道~志摩観光汽船連絡の昭和34年の硬券(この様式を運賃訂正印で使用)を見たことがあります。
その券は地紋があり赤線縦3条です。濱島には戦前から真珠湾交運の遊覧船もあり不可解なところはないのですが、

画像の券に戻せば、まず三重交通に船舶部があった話は知りませんので、これは三重交通が発行はしているが「復路券」。しかし、志摩観光汽船が渡鹿野巡航船事業を始めたのは昭和33年です。昭和33年ならば、切符の運賃に「銭表示」は無くっている時代です。法的にも昭和28年までで、実質さ昭和23年には使われなくなっていると思います。作られたのは昭和22年頃とは思うのですが、その頃に巡航船が存在したかどうかです。こういう入り組んだ地区ですから、無くはないでしょうが、切符にある「穴」は、穴川港(駅)であることは間違いなく、的矢湾巡航や昭和19年まであった志摩航運に(戦争で中断したにせよ)穴川までの航路があっって、戦後に少し復活していたのか? 「渡鹿野」が今もある三重交通バスの渡鹿野渡船場バス停ということもありますが(対岸の渡鹿野への民渡船は結構ありました)。

このへんで、この切符が廃札にせよ本物であると仮定した推察ですが、
①戦後すぐにたとえ短期間や不定期にせよ、渡鹿野島から穴川港までの渡船が存在した。
②わざわざ経由地にある「鳥」は鳥羽、「二」は二見、「河」は河崎(山田から北東部河岸の古くから栄えた町)、
 「山田駅前」という表現は、昭和36年まであった三重交通神都軌道二見線で名乗られた駅名。これは二見浦までは軌道線かも?
③渡鹿野航路(穴川)~三重交通鉄道(鳥羽)~三重交通バス(二見・河崎)~三重交通軌道線(山田駅前)で赤線4条 もしくは
 渡鹿野島(民渡船)から?渡鹿野渡船場三重交通バス停~穴川駅から三重交通鉄道線(鳥羽)~三重交通バス(山田)? また

 ②と③の別パターンの組み合わせ。

いずれにしても不祥です。せめて往路の券があればいいのですが・・・。こんな解説、考察をしておいて、

どこかのタダの「模擬券」でした、というオチになったらすいません。

 

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硬券追究0024 真珠湾交運

2017年03月16日 | 硬券追究

真珠湾交運

真珠湾交運は、資料などでは真珠湾交通などと書かれたりしますが、
切符に真珠湾交運とあるので、この名称が正式なのでしょう。真珠湾交運㈱

まず英虞湾の入り組んだ地形に昭和2年に真珠湾交運は設立され、自動車事業開始されました。
昭和4年には、鳥羽・英虞湾の遊覧事業にも進出、巡航船事業開始しています。

今までのこのサイトではバスと船は分けて編集しましたが、沿革とか、会社についての記述もしているので一緒に扱います。

バス事業は、昭和18年に三重乗合自動車に引き継がれ、翌年昭和19年の合併で三重交通の路線になったはずです。

遊覧事業の方は、昭和19年に真珠湾交運の会社自体がが志摩湾交通と合併し志摩航運となりました。後の志摩観光汽船→志摩マリンレジャーです。

さて乗合自動車事業のあった開業直後の時代に硬券での乗車券が発売されていまして


昭和8年 A型硬券 無地紋 一般式

鵜方を中心に入り組んだ半島、入江に向かいバスを走らせました。立神口は、鵜方から東側の半島の付け根付近の地名です。
社名と自動車線で昭和一桁、沿革を裏付ける証人ですね。

 

さて、こんな硬券をゴロゴロもっているはずもなく、次は船舶(遊覧事業)の方ですが、


昭和6年 A型硬券 淡緑色ベタ 一般式乗船券  裏社名で真珠湾交運㈱

こちらは、半島向かいの側の和具ゆき、船の拠点は鵜方から賢島に移ったようです。志摩電機鉄道の影響もありそうです。
貨物駅としては真珠港駅があった時代ですが、遊覧船には賢島港が別に設けられていまして、和具、御座、濱島や半島の裏側へも廻り、バスと合わせて生活路線としても難しい地形の交通をまかないました。

これは、当会のテリトリー外ですが、あるのでオマケで


小型難券 無地紋 回数乗舩券 これも和具-賢島

 

次回は、こういう関連で、的矢湾地域の不可解?な券を推察を踏まえてご紹介します。

 

 

 

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硬券追究0023 姫路市交通局

2017年03月12日 | 硬券追究

姫路市交通局

姫路市交通局は、昭和21年に有料バスの営業を開始しました。
昭和33年に書写山ロープウェイも開業させます(後に神姫バスが指定管理者に)。
昭和41年には姫路モノレールを開業しますが、昭和49年に休止となって長らく施設跡が残っていました。

バス事業は、昭和41年の姫路博開催後に活発に広げられましたが、東・北・郊外部は、神姫バスへの部分的な随時移譲、
また競合路線も存在したようでした。

平成19年に水道局と統合し、姫路市企業局交通事業部となります。
平成22年には全ての路線(16路線、34系統)を神姫バスに移譲。さよなら運転を終えました。

こんなところにも硬券が存在したのは驚きでした。


昭和40年 B型硬券 淡緑地紋 東均一地帯区乗車券 金額式 姫路市交通局

薄く見える模様は市章か何かが描かれているのでしょうか。他にどんな券が出てくるのか今後の楽しみです。

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硬券追究0022 愛宕山鉄道

2017年03月09日 | 硬券追究

愛宕山鉄道

愛宕山鉄道は、京阪電気鉄道と京都電燈が共同出資して昭和2年に設立された会社です。
昭和4年に嵐山~清滝3.39km、徒歩連絡して、清滝川~愛宕(鋼索)2.13kmを開業させていまして、愛宕神社への参詣をはじめ観光施設やホテルが立ち並ぶようになり、賑わいを見せましたが、戦時中の不要不急線に指定され昭和19年廃線となり、観光施設は全て閉鎖、戦後の復帰をとなえるも復帰に至ることなく、自然に還ってしまいました。
昭和34年に解散しています。

 切符も硬券となると余り残っておらず、廃札・着札が少々出ていまして

 
昭和4年? A型硬券 青自社地紋 新京阪連絡 一般式 小児用

このような素晴らしい券があり、新京阪鉄道側からの券もあったのですが、惜しいですね。
さて、この新京阪の本線部分への乗り継ぎは結構面倒で、愛宕から鋼索、徒歩、平坦線鉄道、新京阪嵐山線で桂へ出て、また乗り換えとなります。

なお、新京阪鉄道は、昭和5年には京阪電気鉄道と合併し、京阪電気鉄道新京阪線となりまして、昭和18年に京阪神急行電鉄に統合され、
戦後の分離で阪急側に渡ってしまいます。

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硬券追究0021 九州郵船

2017年03月05日 | 硬券追究

九州郵船

九州郵船の発端は、まず大正9年に対馬商船㈱の設立に始まります。貨客船「睦丸」の就航が最初でした。
昭和4年に北九州商船㈱と称号変更されますが、昭和10年には現在名の九州郵船㈱と再改称しています。
航路は博多~壱岐~対馬(厳原)が主となり、昭和34年には唐津・呼子~壱岐航路の貨客船も就航しています。
昭和42年に上対馬の比田勝~下関航路に「関州丸」が就航します。国鉄へも連絡されていたようです。
昭和44年頃から貨客船は次第に大きくなり、セミフェリー、フェリー化していきます。
博多からの壱岐・対馬航路では、船の大型化に対応出来なくなった歴史ある壱岐最北部の勝本港への寄港が昭和50年までで中止されます。
昭和54年に比田勝~小倉の航路にフェリー「あがた」が就航されます(それ以前にも貨客船の航路は実はあったのですが)。
この航路は、平成10年に比田勝~博多に変更され、船も平成19年にフェリー「げんかい」になります。
壱岐(印通寺)~呼子間航路を唐津東港へ変更します。

船の硬券切符収集に力を注ぎ始めた頃、流石に九州郵船はハードルが高く感じました。確かに九州商船のようにはいきませんが、少しずつ違った券種も見えてきました。


昭和42年 D型硬券 青てつだう地紋 準常備 壱岐からの国鉄連絡

最初は常備券でなく、この類が発行されていたことが分かりまして、それでも貴重に感じておりました。
この券は博多駅を接続駅とする連絡運輸で、壱岐は港が4つありましたが、詳細な港名が記されず、どれも「壱岐」ですが、よく見れば〇印のKとか記号違いがあることが判り、K=勝本港? などと、これは勝手に考えたりしています。
博多から壱岐・対馬へ向かう場合は、壱岐島の芦辺港が郷ノ浦港につけた後、勝本港に寄港してから対馬へと北上していたものと思われます。


昭和46年 D型硬券 青てつだう地紋 準常備 厳原(対馬)からの国鉄連絡

これも博多接続ですが、九州内の鹿児島ゆきのものです。


昭和44年 D型硬券 青てつだう地紋 補充片道 小児用 壱岐からの国鉄連絡

これは、たまたま小児用です。しかし名古屋まででも常備ではありません。
〇G=郷ノ浦港? 本当?

さて、常備は無かったのかな?と思っていると


昭和44年 A型硬券 青(灰)てつだう地紋 一般式 壱岐からの国鉄連絡

やっと見つかった常備券
〇Sが迷うのですが、無理矢理「芦辺港」?と解釈?

博多連絡ばかりですが、下関連絡の準常備は見ました。

上対馬の比田勝にも国鉄連絡駅がありました。


昭和47年 A型硬券 灰色てつだう地紋 一般式 比田勝からの国鉄連絡

直観では小倉接続、しかし、昭和54年の「あがた」就航前に果たして小倉ゆきの貨客船があったのかどうか?の調査が課題でした。
色んな資料を調べると、40年代後半のフェリーでなく貨客船の時代があり、昭和47年夏の時刻表では、下関ゆきが短縮されていて、小倉止まりになっていることが判明し、切符に小倉印もあり、やはり小倉接続の貴重な資料と解釈しました。比田勝から直接博多へ出る航路は平成10年になるまでありません。
貨客船時代は、比田勝から小倉は6時間半ほどかかっていましたが、フェリーになってからは50分ぐらい時間短縮されています。

比田勝港は、厳原から北上する貨客船もあったようですが、昔は下関と釜山を結ぶ中継寄港地としての時代もあり、また近年になり国内ターミナルとは離れた場所に国際ターミナルも再開し、別会社で釜山へ結ぶ国際航路も開設されています。九州郵船でもジェットフォイル(高速船)が就航したりと、一度は寂れた上対馬航路も見直されてきています。

国鉄連絡の硬券をいくらか見てきましたが、社航路内の硬券の方がむしろ貴重でありました。なかなか出てきません。」


昭和戦前 B型硬券 無地紋 一般式 赤線斜2条 小児 3等

これが社航路内だけの硬券で、廃札かも知れないですが、存在は知れました。


昭和戦前 B型硬券 青てつだう地紋 一般式 旧2等

これは島同志の間を結ぶ、壹岐と対馬を結ぶしっかりとした硬券です。戦後の乗船券は?


乗船券でなく料金券というべきものなのですが・・・


昭和31年
 A型硬券 青てつだう地紋 相互矢印式 赤帯1条 特別2等船券 厳原港発行

なぜか310円を300円に値引き訂正してあります。しかしデラックス感のある券です。
乗り心地はどうだったのでしょう。戦後ですが、これと乗船券を一緒にもって乗ったと思うのですが。

印通寺~呼子の券が出て来ないのは残念です。硬券しか相手にして来なかったのは、やはり集まりが遅いですね。

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硬券追究0020 高知県交通

2017年03月02日 | 硬券追究

高知県交通

野村産業からの流れで、高知県交通にやってきました。

高知県交通㈱は、昭和19年6月1日に野村産業㈱のバス部門が独立したものと、同調の数社の統合で高知市に設立されました。
しかし昭和44年には経営不振に陥ったようで、昭和45年に自社で作った桂浜有料道路を県に売却・施設譲渡しており、
また昭和46年から49年の間に会社更生法への動きを見せましたが、自主再建することに至ります。

その後は、後年になりバス事業の分社化などがあり、平成26年に「とさでん交通㈱」なる新事業会社設立後、特別清算・解散に合意しました。

当会に残る切符は、まあまあ面白いものもありまして


昭和41年 A型硬券 青自社地紋 一般式

鉄道の通じていない足摺岬へのもので、土佐佐賀、足摺岬ともに出張所もあったのですね。

 


昭和44年 A型硬券 黄自社地紋 社バス内の補充片道券

土佐清水にも出張所がありましたね。

 


昭和40年代 A型硬券 青自社地紋 座席指定券 赤線斜1条

「足摺号」などに使われまして、実券も見られます。

このあたりの路線、まだ色んな券は見るのですが・・・

 

続きまして


昭和40年 A型硬券 赤自社地紋 一般式 運賃影文字

高知市内の桂浜出張所の発行券です。

 

桂浜といえば


昭和45年頃? A型硬券 赤自社地紋 桂浜観光道路通行券 乗用自動車用


昭和45年頃? A型硬券 赤自社地紋 桂浜観光道路通行券 小型貨物自動車 三輪用

この通行料を高知県交通に払うというのは、この道路は昭和32年供用開始で高知県交通自身が建設した道路だからです。
こういう工事で資金的に無理をしたのでしょうか?この道路は、浦戸大橋南詰から桂浜に下るもので当時は有料とし、
高知県交通から高知県へ譲渡された際に無料化となりました。昭和45年12月下旬のことでした。

切符の記号に(I)とか(J)とかふってありますから車両により種類は多かったのかもしれません。

 

最後に国鉄連絡運輸ですが、バス駅とされたところは結構多く(そのうちのどこにどんな券種があったのかは手探りですが)、
当会に残る、またこだわる硬券として少しだけ・・・


昭和41年 A型硬券 青自社地紋 一般式 国鉄連絡運輸 2等時代

これは、まだ鉄道がないころの宿毛からの連絡硬券で、ここや土佐中村などにも同じような券が結構見られます


 

硬券が少ないのは、むしろ高知東部側で


昭和34年 A型硬券 赤自社地紋 一般式 国鉄連絡運輸 3等時代

こちらは大杉からの西石原線からのもので、現在までのところ、あまり見ない券かと思います。
天坪(あまつぼ)駅は、改称前の土讃本線繁藤駅です。

他に、補片の連絡硬券が発行されていたところもあります。


 

資料がまだまだ不十分で、高知県交通の切符の魅力ははこんなものではありませんが、現時点のコラムということで
ご了承ください。

 

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硬券追究0019 野村産業

2017年02月26日 | 硬券追究

野村産業

大正8年8月、野村茂久馬氏により㈱野村自動車部が設立されました。
昭和3年に野村自動車㈱に商号変更します。
昭和14年、㈱野村組と合併し、野村産業㈱に商号変更。
昭和19年、バス部門が独立して高知県交通となりました。


昭和24年? A型硬券 赤自社地紋 一般式 省線連絡 

切符の日付が見辛く戦前様式ながら戦後すぐなら、混乱期に新券が出来ず旧券で、残券を手直しして使っていたのかも知れません。
昭和21年以前なら省線は土佐久礼までしか開通していませんし、切符の「久」もそれでしょうが、昭和22年以降なら影野駅まで伸びていた時期になります。

昭和60年、会社自体はその後もあり高知福山通運に商号変更。

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硬券追究0018 安倍自動車商会

2017年02月23日 | 硬券追究

安倍自動車商会

昭和6年~大正8年までの間に、山下バス、山下自動車商会を開始・運行させた山下氏が、
安倍鉄道に対抗させる安倍自動車商会を設立させた後、
昭和8年に、その安倍鉄道自動車部(鉄道線は同年廃止)も買収します。
(安倍鉄道自動車部→安倍自動車商会→静岡鉄道バス)
安倍自動車商会のバス路線は後の静岡鉄道バスに移っています

たまたま、入手してあった硬券があります。
戦前のバス硬券などは、いつも出会うのがたまたまです。


昭和7年 A型硬券 橙PRCしせつてつだう地紋 一般式 

井宮(いのみや)は、確か安倍鉄道にも沿っていた場所で、この商会の拠点あたりかも知れません。
六番という場所は、少々南西側にで西進すれば安倍川に出ます。
この切符(昭和7年)の翌年にこの安倍自動車商会は、安倍鉄道のバスも買収しているのですね。

南側に路線を伸ばして、静岡(新静岡)へ出られるようにもなっていたようです。
静鉄バスの路線では、井宮から繋がって当時の路線の名残りと思える部分がみえてはきますが、
当時のバスの路線網や終点がはっきりは判りません。井宮から安倍鉄道に沿って北上していたことは確かでしょう。

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硬券追究0017 両島運輸

2017年02月19日 | 硬券追究

両島運輸

創立のいきさつなど、あまり詳しくないのですが・・・

昭和10年に、苫前両島定期航路株式会社が創立し、苫前-羽幌-手売-焼尻航路が就航します。
昭和17年に、両島運輸に社名変更されます。
昭和44年に苫前航路がなくなり、羽幌港基地となり天羽丸が就航します。
平成元年に、 フェリー「おろろん」が就航。
平成3年に、高速船「さんらいなぁ」就航。

平成4年に、羽幌沿海フェリー㈱に社名変更します。
便は減っていますが、定期船は運航されています。

硬券では、両島運輸の時代の券で終了したのか、羽幌沿海フェリーになってからの名義の硬券は見かけていません。
当方が見ていないだけかも知れませんが・・・。


昭和60年 B型硬券 灰(青みあり)色HPRしてつ地紋 一般式 2等

もちろん両島運輸時代のもので、西の果ての天売(てうり)島への切符です。まあ普通のものです。


平成2年 B型硬券 灰(青)HPRしてつ地紋 一般式 2等 焼尻駅(島側)発行

これは社名が変わる硬券末期頃になるのでしょうか。焼尻(やぎしり)島へのもの。
焼尻は天売よりも北海道本土側の島になります。

こういうものも


平成3年 B型硬券 無地紋 団体整理券


平成3年 B型硬券 薄黄HPRしてつ地紋 団体整理券

これら団体券は、発行港違いか何だったか?で3色あったと思います(あと淡赤か?)。

 

国鉄連絡運輸も羽幌駅を接続駅として行われていました。


昭和 D型硬券 青JNRこくてつ地紋 補充片道券国鉄連絡用 2等 小児

しかし、この券は結構廃札多くて、よく見るので珍しくはありませんね。焼尻港のものも見ますが、小児用ばかり見かけるような気がします。
いつ頃まで使っていたものなのか、焼けているものばかり見ます。

あまり出ないものとしては


昭和50年 A型硬券 灰色HPRしてつ地紋 一般式 国鉄連絡運輸

希少価値としては、やはりこういった常備券ですね。

 

あとは、気になるのは苫前航路時代の券です。


昭和39年 B型硬券 青JNRこくてつ地紋 2等 苫前航路  焼尻港駅発行

なぜか国鉄地紋、苫前での国鉄への接続というのはあったのでしょうか?


昭和39年 B型硬券 緑JNRこくてつ地紋 1等 苫前航路  天売港駅発行

1等のこくてつ地紋、綺麗な状態で残ってくれていました。


昭和43年 B型硬券 灰色HPRしてつ地紋 一般式 2等 苫前航路 苫前港駅発行

羽幌発着に切り換わったのが昭和44年で、切り換えの一時時、苫前~羽幌寄港で両島へ向かう便があったようですが・・・
元々苫前郡という地域になるのですが、町制では昭和34年に両島(村)が羽幌町に編入され、段々そういう雰囲気・流れに動いていったのでしょう。
昭和43年ではまだ羽幌寄港もなく両島に向かっていましたが、S45年の時刻表では、もう切り換って苫前からの就航はなくなっています。
苫前の時代の券には発着地の表記に「港」が付けられましたが、いつしか羽幌時代の券から消えています。

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硬券追究0016 北見バス

2017年02月17日 | 硬券追究

北見バス

網走管内では戦前から多くの小規模バス事業者がそれぞれ運営しましたが、
戦時時代の昭和17年に12事業者統合して、北見乗合自動車が誕生し、
昭和18年5月28日より営業が開始され、昭和21年に北見バス㈱に称号変更されました。
昭和34年に東急グループ入りし、北見市には関連企業が躍進しました
昭和62年9月には、旭川までの都市間バス「特急石北号」を道北バスと共同運行が開始されました。

しかし、平成10年、主として路線バスの赤字体質からの自主再建には至らず、引き受け会社として、
東急出資の新しい「北海道北見バス株式会社」ができ、旧会社は平成11年3月31日までで解散」しています。

硬券切符類はあまりないのですが


昭和37年? B型硬券 青自社地紋 一般式

この時代の資料では、この路線には層雲峡バスとの共同で急行バスも運行されていました。

 


昭和40年 B型硬券 青自社地紋 一般式


昭和40年 B型硬券 橙自社地紋 一般式

色違いのものが見られ、この券でいえば様式が少し変わっています。
昭和40年の途中で変わったのでしょうか。

 

もっと面白い券もありそうなのですが、弱小な当会にはなく、最後はこれぐらい・・・


昭和53 or 63年  A型硬券  黄地紋 一般式   都市間2社共通

これが、前述の「特急石北号」に相当する切符なのでしょう。
道北バスが先頭に刷られているので、「道北バス」として紹介すべきでしょうが、こちらで。

 

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硬券追究0015 千曲バス

2017年02月12日 | 硬券追究

千曲バス

大正8年、鉄道とバスとの関係の混乱期に佐久自動車商会を継承する形で、小池氏が昭和元年に小池自動車として創業します。
昭和12年千曲自動車に改称します。この称号は昭和57年までの正式名称で、切符など「千曲バス」としていても正式に称号変更して千曲バスとなるのは結構後のことでありました。

昭和15年に 北佐久郡・南佐久郡内の乗合自動車業者を統合、昭和16年には佐久自動車を買収統合しました。
昭和18年には東信自動車、上田丸子電鉄のバス部門をそれぞれ統合。これによりしばらくは、長野県東信地区唯一の乗合自動車業者となっていました。

昭和63年、経営悪化改善のため、グリーンキャブ(東京のタクシー会社)の傘下に入りました。

さて切符ですが、結構券種もありそうなのですが、当会にはたいしてありません~。


昭和45年 B型硬券 赤JPRしてつ地紋 金額式 野沢


昭和46年 B型硬券 赤JPRしてつ地紋 金額式 望月

こういう金額式が、バスのものに関しては実は好きでして、それぞれの営業所の存在を強調する入場券的要素をもっていて、そういう見方では良いのです。


昭和39年 B型硬券 赤JPRしてつ地紋 矢印式

これは小諸からのものですが、国鉄に沿っている区間ですね。

社バス内の硬券としては、他の様式もみられます。
小児専用を見ていないような気がするのですが、そのうち見るのでしょうね。

 

国鉄連絡運輸もいつからか行われまして、上田~奥鹿教湯の温泉街方面のバス路線で、温泉街中心の「鹿教湯温泉」をバス駅として国鉄との連絡切符を扱っていました。


昭和55年 A型硬券 青JPRしてつ地紋 一般式 鹿教湯(かけゆ)温泉駅発行

やはり国鉄連絡運輸の硬券となると貫録を感じます。

しかし、「鹿が教える湯」とは、いい名です。

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硬券追究0014 善光寺ロープウェイ

2017年02月09日 | 硬券追究

長野国際観光 善光寺ロープウェイ

事業者は、昭和35年6月にに地元資金によって設立された長野国際観光株式会社で、観光都市化を目指す長野市五か年計画による観光開発案の一環でありました。
昭和36年春の善光寺御開帳と長野産業文化博覧会に合わせ、雲上殿近くから地附山頂までロープウェイが設置され、3月20日に開通、運転が開始されました。
当時ゴンドラは長野県下で初めてで、雲上台駅の駅舎は鉄筋で食堂もあったらしく、その規模は全国一と言われたようです。

施設も増え賑わいましたが、昭和39年8月に戸隠バードラインが完成したことにより地附山は通過点となってしまい、地附山観光にとっては痛手を受けました。
昭和40年頃までは盛況でありましたが、昭和46年に長野国際観光としては閉鎖し、ロープウェイも市開発公社に移譲されまして、転機が図られますが、
昭和49年4月に運休、昭和50年10月に廃止となりました。


昭和44年 B型硬券 青地紋 相互矢印式 往復券 大人


昭和30年代? B型硬券 赤地紋 矢印式 片道券 小児

麓の側は「雲上台」のいう駅名で既に高原のイメージを連想します。
上下の券では地紋など微妙に異なるところがあります。


昭和40年 B型硬券 赤地紋 乗車整理券 往復用

団体券でしょうか。盛況だった頃の終盤あたりの時期ですね。

初回の発表分としては、これだけです。また券種を補充していきたいと思います。

延長685m 高低差235mのロープウェイでありました。

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硬券追究0013 東京湾フェリー

2017年02月05日 | 硬券追究

東京湾フェリー

現事業としての東京湾フェリー㈱は、昭和37年に設立され、昭和38年に東京汽船㈱から出資を請け(旅客部門の譲渡を受ける)、
東京汽船㈱が親会社となります。
昭和39年3月28日に浦賀港への航路が廃止され、久里浜港に集約されることになります。

昭和40年 横浜-木更津港間の航路も就航されますが、昭和47年にはそれは廃止になっています。

現在は、東京アクアラインの通行料値下げなどを受けて、久里浜-金谷を以前の3隻航行から2隻に減らして運航されています。


昭和52年 A型硬券 青JPRてつどう地紋 相互矢印式 京浜急行連絡


昭和54年 A型硬券 青JPRてつどう地紋 相互矢印式 京浜急行連絡

上記の硬券は定番ですが、浦賀同様久里浜も港と駅は京浜急行のバスで移動するもので、
船~バス~鉄道の三線連絡ともいえる券であります。


昭和55年 A型硬券 青JPRてつどう地紋 相互矢印式 小児用 京浜急行連絡

この手の硬券は、平成7年頃まであったと聞きます。

 

何故か40年代のものをあまり見かけず、少し新鮮なのは


昭和41年 A型硬券 青JPRてつどう地紋 2等 矢印式 東急連絡 算定金額式というのでしょうか

時刻表では横浜港は「横浜高島」と書かれ、高島町で接続して東京急行電鉄へも連絡運輸していました。
東京湾フェリー名義の実券では、今や貴重な資料と思います。

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硬券追究0012 東京汽船

2017年02月02日 | 硬券追究

東京汽船

東京汽船㈱は、昭和22年に設立され、
昭和24年に浦賀水道を横断し、浦賀港へ結ぶ定期旅客航路が就航されました。

この会社は主に曳船業種(一般に水路から港へ牽引するような、接岸のための補助作業)を横浜港をはじめ各地に展開しました。
昭和35年に久里浜港との間に自動車航送が開始されています。
昭和38年に旅客船部門を東京湾フェリー㈱に譲渡し、資本参加、親会社となりました。
会社としては今も主として曳船事業は続けられています。

ここの切符は廃札が多いのですが、券自体は貫禄はあり(主観ですが)
昭和38年には航路譲渡していますから S35~37年頃製造の券なのでしょうか。

 
昭和30年代 A型硬券 赤JPRてつどう地紋 矢印式 赤線2条 特3等 横浜航路(社航路内券)

特3等というのは、あまり聞かない等級ですが、昔の佐渡汽船などにもみられます。


昭和30年代 A型硬券 青JPRてつどう地紋 矢印式 赤線2条 2等 小児用 横浜航路(社航路内券)

木更津港からのもの。また、小児専用もしっかりあったということですね。3等時代の2等。


昭和30年代 A型硬券 青JPRてつどう地紋 矢印式 赤線2条 特2等 浦賀航路(社航路内券)

「特」の判を追加しただけの特2等


昭和30年代 A型硬券 緑JPRてつどう地紋 矢印式 1等 浦賀航路(社航路内券)

やはり1等の硬券は少ないので新鮮で、緑色も良い感じです。ただ赤線はありません。

どの券の結構良い状態で残された券ですが、実券を沢山見たいところです。


昭和30年代 A型硬券 青JPRてつどう地紋 矢印式 2等 浦賀航路(京浜急行連絡)

浦賀港から京浜急行の浦賀駅までは離れており、バスで連絡する旨が書かれています。
船~バス~鉄道 報告片側にある「京連」は「京浜急行電鉄連絡」の意でしょう。

 


昭和32年 B型硬券 赤JPRてつどう地紋 矢印式 3等 浦賀航路 金谷扱所

これは3等の硬券で、貴重な実券、このころはB型でありました。


昭和30年代 A型硬券 青JPRてつどう地紋 矢印式 2等 浦賀航路 金谷営業所

これも廃札でしょうが、小児にB型

この時代(S30年代前半)は、赤線も見られません。

次回は、後身になる東京湾フェリーの話に移ります。

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