バス・船舶硬券切符ジャーナル

主として民営バス・船舶・ケーブル等、普通の鉄道以外の古い硬券切符情報です

硬券追究0019 野村産業

2017年02月26日 | 硬券追究

野村産業

大正8年8月、野村茂久馬氏により㈱野村自動車部が設立されました。
昭和3年に野村自動車㈱に商号変更します。
昭和14年、㈱野村組と合併し、野村産業㈱に商号変更。
昭和19年、バス部門が独立して高知県交通となりました。


昭和24年? A型硬券 赤自社地紋 一般式 省線連絡 

切符の日付が見辛く戦前様式ながら戦後すぐなら、混乱期に新券が出来ず旧券で、残券を手直しして使っていたのかも知れません。
昭和21年以前なら省線は土佐久礼までしか開通していませんし、切符の「久」もそれでしょうが、昭和22年以降なら影野駅まで伸びていた時期になります。

昭和60年、会社自体はその後もあり高知福山通運に商号変更。

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硬券追究0018 安倍自動車商会

2017年02月23日 | 硬券追究

安倍自動車商会

昭和6年~大正8年までの間に、山下バス、山下自動車商会を開始・運行させた山下氏が、
安倍鉄道に対抗させる安倍自動車商会を設立させた後、
昭和8年に、その安倍鉄道自動車部(鉄道線は同年廃止)も買収します。
(安倍鉄道自動車部→安倍自動車商会→静岡鉄道バス)
安倍自動車商会のバス路線は後の静岡鉄道バスに移っています

たまたま、入手してあった硬券があります。
戦前のバス硬券などは、いつも出会うのがたまたまです。


昭和7年 A型硬券 橙PRCしせつてつだう地紋 一般式 

井宮(いのみや)は、確か安倍鉄道にも沿っていた場所で、この商会の拠点あたりかも知れません。
六番という場所は、少々南西側にで西進すれば安倍川に出ます。
この切符(昭和7年)の翌年にこの安倍自動車商会は、安倍鉄道のバスも買収しているのですね。

南側に路線を伸ばして、静岡(新静岡)へ出られるようにもなっていたようです。
静鉄バスの路線では、井宮から繋がって当時の路線の名残りと思える部分がみえてはきますが、
当時のバスの路線網や終点がはっきりは判りません。井宮から安倍鉄道に沿って北上していたことは確かでしょう。

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硬券追究0017 両島運輸

2017年02月19日 | 硬券追究

両島運輸

創立のいきさつなど、あまり詳しくないのですが・・・

昭和10年に、苫前両島定期航路株式会社が創立し、苫前-羽幌-手売-焼尻航路が就航します。
昭和17年に、両島運輸に社名変更されます。
昭和44年に苫前航路がなくなり、羽幌港基地となり天羽丸が就航します。
平成元年に、 フェリー「おろろん」が就航。
平成3年に、高速船「さんらいなぁ」就航。

平成4年に、羽幌沿海フェリー㈱に社名変更します。
便は減っていますが、定期船は運航されています。

硬券では、両島運輸の時代の券で終了したのか、羽幌沿海フェリーになってからの名義の硬券は見かけていません。
当方が見ていないだけかも知れませんが・・・。


昭和60年 B型硬券 灰(青みあり)色HPRしてつ地紋 一般式 2等

もちろん両島運輸時代のもので、西の果ての天売(てうり)島への切符です。まあ普通のものです。


平成2年 B型硬券 灰(青)HPRしてつ地紋 一般式 2等 焼尻駅(島側)発行

これは社名が変わる硬券末期頃になるのでしょうか。焼尻(やぎしり)島へのもの。
焼尻は天売よりも北海道本土側の島になります。

こういうものも


平成3年 B型硬券 無地紋 団体整理券


平成3年 B型硬券 薄黄HPRしてつ地紋 団体整理券

これら団体券は、発行港違いか何だったか?で3色あったと思います(あと淡赤か?)。

 

国鉄連絡運輸も羽幌駅を接続駅として行われていました。


昭和 D型硬券 青JNRこくてつ地紋 補充片道券国鉄連絡用 2等 小児

しかし、この券は結構廃札多くて、よく見るので珍しくはありませんね。焼尻港のものも見ますが、小児用ばかり見かけるような気がします。
いつ頃まで使っていたものなのか、焼けているものばかり見ます。

あまり出ないものとしては


昭和50年 A型硬券 灰色HPRしてつ地紋 一般式 国鉄連絡運輸

希少価値としては、やはりこういった常備券ですね。

 

あとは、気になるのは苫前航路時代の券です。


昭和39年 B型硬券 青JNRこくてつ地紋 2等 苫前航路  焼尻港駅発行

なぜか国鉄地紋、苫前での国鉄への接続というのはあったのでしょうか?


昭和39年 B型硬券 緑JNRこくてつ地紋 1等 苫前航路  天売港駅発行

1等のこくてつ地紋、綺麗な状態で残ってくれていました。


昭和43年 B型硬券 灰色HPRしてつ地紋 一般式 2等 苫前航路 苫前港駅発行

羽幌発着に切り換わったのが昭和44年で、切り換えの一時時、苫前~羽幌寄港で両島へ向かう便があったようですが・・・
元々苫前郡という地域になるのですが、町制では昭和34年に両島(村)が羽幌町に編入され、段々そういう雰囲気・流れに動いていったのでしょう。
昭和43年ではまだ羽幌寄港もなく両島に向かっていましたが、S45年の時刻表では、もう切り換って苫前からの就航はなくなっています。
苫前の時代の券には発着地の表記に「港」が付けられましたが、いつしか羽幌時代の券から消えています。

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硬券追究0016 北見バス

2017年02月17日 | 硬券追究

北見バス

網走管内では戦前から多くの小規模バス事業者がそれぞれ運営しましたが、
戦時時代の昭和17年に12事業者統合して、北見乗合自動車が誕生し、
昭和18年5月28日より営業が開始され、昭和21年に北見バス㈱に称号変更されました。
昭和34年に東急グループ入りし、北見市には関連企業が躍進しました
昭和62年9月には、旭川までの都市間バス「特急石北号」を道北バスと共同運行が開始されました。

しかし、平成10年、主として路線バスの赤字体質からの自主再建には至らず、引き受け会社として、
東急出資の新しい「北海道北見バス株式会社」ができ、旧会社は平成11年3月31日までで解散」しています。

硬券切符類はあまりないのですが


昭和37年? B型硬券 青自社地紋 一般式

この時代の資料では、この路線には層雲峡バスとの共同で急行バスも運行されていました。

 


昭和40年 B型硬券 青自社地紋 一般式


昭和40年 B型硬券 橙自社地紋 一般式

色違いのものが見られ、この券でいえば様式が少し変わっています。
昭和40年の途中で変わったのでしょうか。

 

もっと面白い券もありそうなのですが、弱小な当会にはなく、最後はこれぐらい・・・


昭和53 or 63年  A型硬券  黄地紋 一般式   都市間2社共通

これが、前述の「特急石北号」に相当する切符なのでしょう。
道北バスが先頭に刷られているので、「道北バス」として紹介すべきでしょうが、こちらで。

 

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硬券追究0015 千曲バス

2017年02月12日 | 硬券追究

千曲バス

大正8年、鉄道とバスとの関係の混乱期に佐久自動車商会を継承する形で、小池氏が昭和元年に小池自動車として創業します。
昭和12年千曲自動車に改称します。この称号は昭和57年までの正式名称で、切符など「千曲バス」としていても正式に称号変更して千曲バスとなるのは結構後のことでありました。

昭和15年に 北佐久郡・南佐久郡内の乗合自動車業者を統合、昭和16年には佐久自動車を買収統合しました。
昭和18年には東信自動車、上田丸子電鉄のバス部門をそれぞれ統合。これによりしばらくは、長野県東信地区唯一の乗合自動車業者となっていました。

昭和63年、経営悪化改善のため、グリーンキャブ(東京のタクシー会社)の傘下に入りました。

さて切符ですが、結構券種もありそうなのですが、当会にはたいしてありません~。


昭和45年 B型硬券 赤JPRしてつ地紋 金額式 野沢


昭和46年 B型硬券 赤JPRしてつ地紋 金額式 望月

こういう金額式が、バスのものに関しては実は好きでして、それぞれの営業所の存在を強調する入場券的要素をもっていて、そういう見方では良いのです。


昭和39年 B型硬券 赤JPRしてつ地紋 矢印式

これは小諸からのものですが、国鉄に沿っている区間ですね。

社バス内の硬券としては、他の様式もみられます。
小児専用を見ていないような気がするのですが、そのうち見るのでしょうね。

 

国鉄連絡運輸もいつからか行われまして、上田~奥鹿教湯の温泉街方面のバス路線で、温泉街中心の「鹿教湯温泉」をバス駅として国鉄との連絡切符を扱っていました。


昭和55年 A型硬券 青JPRしてつ地紋 一般式 鹿教湯(かけゆ)温泉駅発行

やはり国鉄連絡運輸の硬券となると貫録を感じます。

しかし、「鹿が教える湯」とは、いい名です。

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硬券追究0014 善光寺ロープウェイ

2017年02月09日 | 硬券追究

長野国際観光 善光寺ロープウェイ

事業者は、昭和35年6月にに地元資金によって設立された長野国際観光株式会社で、観光都市化を目指す長野市五か年計画による観光開発案の一環でありました。
昭和36年春の善光寺御開帳と長野産業文化博覧会に合わせ、雲上殿近くから地附山頂までロープウェイが設置され、3月20日に開通、運転が開始されました。
当時ゴンドラは長野県下で初めてで、雲上台駅の駅舎は鉄筋で食堂もあったらしく、その規模は全国一と言われたようです。

施設も増え賑わいましたが、昭和39年8月に戸隠バードラインが完成したことにより地附山は通過点となってしまい、地附山観光にとっては痛手を受けました。
昭和40年頃までは盛況でありましたが、昭和46年に長野国際観光としては閉鎖し、ロープウェイも市開発公社に移譲されまして、転機が図られますが、
昭和49年4月に運休、昭和50年10月に廃止となりました。


昭和44年 B型硬券 青地紋 相互矢印式 往復券 大人


昭和30年代? B型硬券 赤地紋 矢印式 片道券 小児

麓の側は「雲上台」のいう駅名で既に高原のイメージを連想します。
上下の券では地紋など微妙に異なるところがあります。


昭和40年 B型硬券 赤地紋 乗車整理券 往復用

団体券でしょうか。盛況だった頃の終盤あたりの時期ですね。

初回の発表分としては、これだけです。また券種を補充していきたいと思います。

延長685m 高低差235mのロープウェイでありました。

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硬券追究0013 東京湾フェリー

2017年02月05日 | 硬券追究

東京湾フェリー

現事業としての東京湾フェリー㈱は、昭和37年に設立され、昭和38年に東京汽船㈱から出資を請け(旅客部門の譲渡を受ける)、
東京汽船㈱が親会社となります。
昭和39年3月28日に浦賀港への航路が廃止され、久里浜港に集約されることになります。

昭和40年 横浜-木更津港間の航路も就航されますが、昭和47年にはそれは廃止になっています。

現在は、東京アクアラインの通行料値下げなどを受けて、久里浜-金谷を以前の3隻航行から2隻に減らして運航されています。


昭和52年 A型硬券 青JPRてつどう地紋 相互矢印式 京浜急行連絡


昭和54年 A型硬券 青JPRてつどう地紋 相互矢印式 京浜急行連絡

上記の硬券は定番ですが、浦賀同様久里浜も港と駅は京浜急行のバスで移動するもので、
船~バス~鉄道の三線連絡ともいえる券であります。


昭和55年 A型硬券 青JPRてつどう地紋 相互矢印式 小児用 京浜急行連絡

この手の硬券は、平成7年頃まであったと聞きます。

 

何故か40年代のものをあまり見かけず、少し新鮮なのは


昭和41年 A型硬券 青JPRてつどう地紋 2等 矢印式 東急連絡 算定金額式というのでしょうか

時刻表では横浜港は「横浜高島」と書かれ、高島町で接続して東京急行電鉄へも連絡運輸していました。
東京湾フェリー名義の実券では、今や貴重な資料と思います。

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硬券追究0012 東京汽船

2017年02月02日 | 硬券追究

東京汽船

東京汽船㈱は、昭和22年に設立され、
昭和24年に浦賀水道を横断し、浦賀港へ結ぶ定期旅客航路が就航されました。

この会社は主に曳船業種(一般に水路から港へ牽引するような、接岸のための補助作業)を横浜港をはじめ各地に展開しました。
昭和35年に久里浜港との間に自動車航送が開始されています。
昭和38年に旅客船部門を東京湾フェリー㈱に譲渡し、資本参加、親会社となりました。
会社としては今も主として曳船事業は続けられています。

ここの切符は廃札が多いのですが、券自体は貫禄はあり(主観ですが)
昭和38年には航路譲渡していますから S35~37年頃製造の券なのでしょうか。

 
昭和30年代 A型硬券 赤JPRてつどう地紋 矢印式 赤線2条 特3等 横浜航路(社航路内券)

特3等というのは、あまり聞かない等級ですが、昔の佐渡汽船などにもみられます。


昭和30年代 A型硬券 青JPRてつどう地紋 矢印式 赤線2条 2等 小児用 横浜航路(社航路内券)

木更津港からのもの。また、小児専用もしっかりあったということですね。3等時代の2等。


昭和30年代 A型硬券 青JPRてつどう地紋 矢印式 赤線2条 特2等 浦賀航路(社航路内券)

「特」の判を追加しただけの特2等


昭和30年代 A型硬券 緑JPRてつどう地紋 矢印式 1等 浦賀航路(社航路内券)

やはり1等の硬券は少ないので新鮮で、緑色も良い感じです。ただ赤線はありません。

どの券の結構良い状態で残された券ですが、実券を沢山見たいところです。


昭和30年代 A型硬券 青JPRてつどう地紋 矢印式 2等 浦賀航路(京浜急行連絡)

浦賀港から京浜急行の浦賀駅までは離れており、バスで連絡する旨が書かれています。
船~バス~鉄道 報告片側にある「京連」は「京浜急行電鉄連絡」の意でしょう。

 


昭和32年 B型硬券 赤JPRてつどう地紋 矢印式 3等 浦賀航路 金谷扱所

これは3等の硬券で、貴重な実券、このころはB型でありました。


昭和30年代 A型硬券 青JPRてつどう地紋 矢印式 2等 浦賀航路 金谷営業所

これも廃札でしょうが、小児にB型

この時代(S30年代前半)は、赤線も見られません。

次回は、後身になる東京湾フェリーの話に移ります。

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硬券追究0011 東日本急行バス

2017年01月29日 | 硬券追究

東日本急行バス

正式な会社名に「バス」は入っておらず東日本急行㈱です。
東日本急行という会社は、当時宮城バス、宮城中央バス、岩手中央バス、岩手県南バスが出資して昭和43年に設立された会社です。
国鉄バスと共同で仙台盛岡急行線運行を始めます。
昭和51年には中尊寺~盛岡バスセンターの運行からは離れ、この部分は国鉄バス専用となりました。


昭和44年頃? A型硬券 黄TTD地紋 一般式(急行券との一葉式でもある) 赤線1条

これを見れば、岩手急行バスも参加していることがわかりますし、先頭に東日本急行となる社バス側の発行券です。
同一共同運行の国鉄発行のものもみられます。
しかし、終着仙台まででも補充なのですね。前回の「金ケ崎」でもそうでしたが、小規模営業所発の券は補充で全区間まかなっていたのでしょうか。
急行料金は印刷ですから距離に関わらず一定させていたのでしょうね。しかし良い券ではあります。


平成元年には数社で共同運行される「アーバン号」に関わり盛岡までの運行というものに再参入します。


 

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硬券追究0010 岩手急行バス

2017年01月26日 | 硬券追究

岩手急行バス 

岩手急行バスという会社は、岩手中央バス・花巻電鉄・岩手県南バス・花巻バス(後に岩手県交通)が共同出資して昭和39年7月23日に設立され、8月1日から盛岡~一ノ関間の路線バスの運行を開始しています。
こういう「急行バス」というのは大概、既存会社の共同出資で設立されているのですね。

昭和51年に岩手中央バス・岩手県南バス・花巻バスが岩手県交通への合併を機に路線廃止し、岩手急行バスは一旦は貸切専業となりました。


昭和45年 A型硬券 黄緑TTD地紋 一般式 赤線1条 急行料金共

岩手急行専用の硬券というのもあって、赤線1条は急行料金含むの意味で入っているのでしょうね。
最盛期がこのあたりまでで、徐々に出資元会社の合併への動きで、貸し切り専業へ向かわせたのでしょう。

月日は流れ平成15年晩秋になって、 東日本急行が単独で運行していた 仙台 - 一ノ関線に一ノ関側拠点事業者として参入。
平成20年8月1日に、仙台 - 平泉線(平泉中尊寺号)に参入していまして、平成21年以降も季節の一時期など「運行協力」という形で関わっています。

現在は東日本急行が仙台 - 一ノ関線の一部便を中尊寺まで季節延長の形で運行します。
その「東日本急行バス」は次回・・・

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硬券追究0009 群山-長項 渡船

2017年01月22日 | 硬券追究

朝鮮半島 群山-長項 渡船   正式名・事業者名とも不詳

天安 - 長項間は、日本統治時代に私鉄の朝鮮京南鉄道により、忠南線として昭和6年に全通、のちの長項線です。
群山 - 益山間は、群山港への貨物輸送を目的に、朝鮮総督府鉄道群山線として大正元年に開通していました。

長年、群山と長項を阻んでいた錦江は、河口付近の幅1.2km、延長401km(日本一の信濃川よりも長い)の大河川であり、群山は港町で賑っていました。
ここに向かい側の長項との間には渡船が活躍しました。出来たのも長項駅が出来た昭和6年頃でしょうか。


昭和8年 A型硬券 無地紋一般式 縦型乗船券

しかし、こういう日本語時代の硬券が昭和の初めにあり、つい最近の平成19年末頃まで残っていたということには驚かされました。
切符では、東水里という場所(上陸地)も見られます。地図を調べると上流側のようでした。寄港したのですね。


平成20年1月1日に、錦江を隔てた長項駅と群山線大野駅の間に新線が開業し、
群山線が長項線に編入され、天安から益山までのひとつの路線となりました。
この際、新しい長項駅と群山駅は錦江上流側の新線上に移設され、旧駅・旧路線は
それぞれ長項貨物線・群山貨物線として貨物専用となっています。

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硬券追究0008 熊野川飛行艇

2017年01月19日 | 硬券追究

「熊野川飛行艇」

大正9年がどうも最初で、小西正明氏の個人企業として、プロペラ船事業を発足、熊野川河口の新宮から本宮、十津川、瀞方面に航路を伸ばし、生活・観光・郵便船としての役目を担いました。「プロペラ船」としたのは、水深が浅くスクリューには適さず、船尾にプロペラをつけて推進力で川を遡りました。
7~8年後、馬力も格段に上がり、昭和初期には熊野川飛行艇株式会社となりました。

昭和18年に那智山自動車と合併して熊野合同交通㈱、昭和20年には熊野交通(本社新宮)となり、昭和22年南海グループ入りとなりました。
昭和34年に十津川ゆきは廃止。昭和40年にウォータージェット船か運航開始されます。瀞峡観光プロペラ船㈱と共同乗船を開始し、瀞峡観光プロペラ船㈱が瀞峡観光船㈱に改称されます。昭和47年にプロペラ船は廃止になりました。


昭和9年 赤PTRてつだうきっぷ地紋 一般式 (九重は本宮への途中、川が分かれるあたりでしょうか)

この類の着札券で、行き先違いが時々見られますが、この他に廻游タイプや往復の硬券も見られ、今は揃えるのは大変ですが、いずれもっと出回ることもあるかも知れません・

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硬券追究0007 熊野交通

2017年01月15日 | 硬券追究

「熊野交通㈱」へやってきました。昔の紀勢中線、紀勢西線を中継させていた事業者「熊野自動車㈱」とはまた違うようです。

「熊野川飛行艇」と「那智登山自動車」という会社が合併し、昭和18年に熊野合同自動車㈱が発足したのが起源となります。
さらに同年、和深自動車㈱、古座川自動車㈱、串本自動車組合、太地青年同志会、熊野中央自動車㈱をも合併させ、
昭和20年に熊野交通と称号変更し、昭和22年には南海グループに入り、連結子会社になっています。
新宮、那智を中心とした路線バスの運行、熊野川上流への観光や昔は郵便船の運航事業を行いました。


昭和31年 B型硬券 青PJR地紋 矢印式

これは、那智山へ向かう路線の途中部分のもので、麓はまさにその山に差し掛かる場所の集落名です。
ここの硬券も沢山見かけることはなく、時折、という程度で見かけます。
青地紋ですが、赤地紋だと紹介されたものも存在したようです。


昭和37年? B型硬券 青PJR地紋 往復乗車券

実券で古い割に良い状態で残っておりますが、往復券には表に社名表記がありません。
でもこちらの方が希少という感じはします。

さて、ここのバスは、国鉄連絡運輸もしていた会社です。


昭和53年 D型硬券 灰色(淡緑)自社地紋 補充片道乗車券

国鉄天満ゆきですが、明らかに「紀伊天満」。那智滝(那智大社)のある那智山から那智駅を接続駅として連絡運輸の便が図られていました。この自社地紋もなかなか良い味です。常備の連絡券は画像で一度見た経験があります。常備券がここに飾られて更新されるのは何年先でしょうか。

さて、前述で「熊野川飛行艇」という事業者を出してしまうと、流れ上、次回はそちらへ、となります。

 

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硬券追究0006 叡山電車八瀬遊園地

2017年01月12日 | 硬券追究

叡山電鉄が営んでいた八瀬遊園は、多くの方が知る施設は二代目だったようで、戦前に近くに初代八瀬遊園地がありました。
最初は京都電燈が叡山電車を経営していた時代です。

大正14年12月に、旧・八瀬遊園地が開設されます。昭和10年には洪水被害を受けまして、初代遊園地は使えなくなっていたようです。
昭和17年になって、叡山電車自体は京都電燈から京福電鉄へ譲渡され、昭和39年になってようやく向かい側に新・八瀬遊園を開設します。
その後は、電鉄事業者がまた叡山電鉄に変わったりしましたが、平成11年に遊園地も名を変えるも平成13年に閉園されました。


昭和戦前 A’型硬券 青ベタ 八瀬遊園地 子供切符

入手当初は(今も確信ではないですが)子供用の遊戯施設で古めかしく作っただけか?などとも思いましたが、初代遊園地の戦前それも開業間もない右書きなら、番外編の硬券ながら、これも立派な資料です。「叡山電車」と記入されているのも嬉しいですね。

この券の類で発行時期が違うのか、ピンク色の硬券も拝見したことがあります。

本家の鉄道線でも遊園地がなくなり駅名を変えざるを得なくなったのですね。

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硬券追究0005 冬鳥越スキーリフト

2017年01月08日 | 硬券追究

昭和7年に蒲原鉄道直営のスキー場が開設されます。
昭和43年にリフトが設けられたときに、出資して創られた子会社、冬鳥越リフト株式会社の経営となります。

昭和60年に最寄りの冬鳥越駅が廃止された後も残るのですが、平成11年にリフト撤去で役目を終えスキー場は加茂市に移管されます。
スキーガーデンとして存続しますが、それからのリフトは昔のものとは違います。

 
平成7年 A型硬券 青BJRてつどう地紋 リフト1回券 大人  冬鳥越リフト(株)経営スキー場の時代

こんなのが、鉄道の一部廃止後、蒲原鉄道線全廃の時期まであったのです。

小児用も拝見した覚えがありましたが、一枚で満足してしましました。

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