バス・船舶硬券切符ジャーナル

主として民営バス・船舶・ケーブル等、普通の鉄道以外の古い硬券切符情報です

硬券追究0036 北鮮の鉄道と日本海汽船

2017年04月27日 | 硬券追究

北鮮の鉄道と日本海汽船

日本統治時代の朝鮮総督府鉄道は、昭和8年~15年の一時期に、大陸との関係の関係が強かった部分の経営を南満洲鉄道に委託している時代がありました。
その間、南側では委託が解かれたりしましたが、清津以北は満鉄に経営委託が再びなされました。

日本海汽船(新潟~清津~羅津)の航路は、満洲国への近道として、満洲丸などを就航させ、日満連絡の利便性に活躍しました。
昭和10~14年ぐらいのことです。この時の初代日本海汽船は、その後昭和15年に北日本汽船と合併して、国策航路の新しい日本海汽船に改組されました。


A型かD型か? 昭和13年 緑満鉄北地紋 補充片道券 日本海汽船連絡 旧2等異級(鉄道3等・航路2等)
朝鮮総督府北鮮線会寧~清津~(日本海汽船)新潟

これは鉄道線発の切符ですが、まさに日本海を縦断してくる日本海汽船経由が面白く、「硬券追究」の題材にも挙げました。
さらに裏には調べた通り、「満洲丸」の印が入っています。会寧~清津は清津以北になり、やはり切符地紋からして満鉄が入っています。

日本海汽船側の硬券も見たことはあるのですが、廃札のようなものを一度見ただけです。

 

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硬券追究0035 庄内交通バス

2017年04月23日 | 硬券追究

庄内交通バス

昭和18年に、鶴岡出羽自動車など四社合併で庄内交通㈱が設立されました。
       鉄道に対抗する危機感があったのでしょう。庄内交通は以前は鉄道線も持ち、バス事業も会社直営ですね。

平成26年に、(株)庄交ホールディングスになり、庄内交通はその子会社として新たに設立されております。

ここの硬券というのも、まだ面白い切符はありそうですが、少ししかお見せせきるものがありません。

バスとしては、硬券なるものは、主として3ヶ所のエリアに切符が残っていると考えていいでしょう。

上記2枚とも廃札のようで、A型硬券 青JPRしてつ地紋 一般式  国鉄連絡券

接続駅は羽越本線の「温海駅」、昭和52年に「あつみ温泉駅」に改称されていますから、それ以前の切符です。
また、そのタイミングで出された廃札でしょうか。現在では、バス停(駅)の「温海温泉」も呼び名は「あつみ温泉」に変わっています。
連絡運輸が残ったまま、鉄道駅とバス駅を同じにしていたとしたら混乱したでしょうね。連絡運輸はなくなり、バスも、あつみ温泉~あつみ温泉駅という発着名になっており、連絡運輸がのこっていたら、こういう改称はなかったでしょう。
そもそも、鉄道駅に「あつみ温泉」駅と、ひらかなを入れたのは、「温」の字がかぶってくるという理由だったとおもうのですが、
バス駅では既にそうなっていたのですね。

ここは、鉄道駅と温泉街は川の奥地へと離れているため、「温海温泉」をバス駅とした「羽越本線温海駅」を接続駅とした連絡運輸をしていたのですね。


あとは、鉄道線もあった湯野浜温泉ですが、ここは鉄道の切符ばかりが取り上げられますが、バスも併行して走っていました。
しかし、バスは見るのは軟券ばかりで」、バス専用の硬券はあったのかどうかも存じないです。
連絡運輸も鉄道の方のみでしょうね。共通券とか選択乗車とかもなかったのでしょうかね。

 

あと1ヶ所判っているのは、湯田川線の「湯田川温泉」バス駅からの国鉄連絡運輸です。
常備の券の存在も確認していますが、ここでは補充券を・・・


昭和43年 D型硬券 青JNR国鉄地紋 補充片道券 小児 2等   国鉄連絡運輸

ここはなかなか新鮮で、鶴岡の南西側の地だったと思いますが、やはり温泉街なのですね。

庄内交通は、もう少し集めるべき硬券は出てきそうな気がします。今後を見守ります。

 

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硬券追究0034 鶴岡出羽自動車

2017年04月21日 | 硬券追究

OSの不具合か、消えてしまった記事

鶴岡出羽自動車

画像のみ復旧します。


昭和11年 B型硬券 緑地紋 矢印式

このバス事業者は、合併され庄内交通になっていく前身のものでしょう。

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不具合にて

2017年04月21日 | ニュース

お世話になります。

OS不具合により、ちょっと休みます。

ご了承ください。

 

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硬券追究0033 合同汽船

2017年04月16日 | 硬券追究

合同汽船

合同汽船は、明治40年に会社設立され、明治42年に松江ー大根島ー境ー美保関の中海、境水道添いに就航され、
その美保関線に随時東航路、西航路を就航させていきました。
しかし、中海干拓で陸続きの場所が増え、陸上交通による内陸との利便性の向上の影響を受けて、昭和55年9月30日に終航しました。
合同汽船の松江港というのは、松江大橋のたもとで大橋川に乗り場がありました。

もっともありふれた廃札で、もう見飽きたものは


昭和 D型硬券 灰TTD地紋 補充片道券 2等  国鉄連絡運輸

もっと以前にはA型常備の連絡硬券も見られ、美保関を連絡駅とし、接続駅を境港駅としての国鉄連絡運輸をしていましたので、後年残って残券が廃札となったのがこの券でしょう。せめて着札で日付と着駅を入れて欲しいぐらいですが、決まってこればかり、これでもか!というぐらい余っていたのか、見ますね。


あまり見る機会のないものを公開したいですが、珍しいものは余り集めていません。


昭和13年 A型硬券 緑RTC地紋 一般式 社航路内 3等

戦前の硬券で、やはり味があります。
しかし、よく見れば、これは松江から美保関へ行ってから境港に戻るという変わった経路です。
美保関は半島の先へ出る(境水道の先)形になります。日本海へ出てすぐ戻る感じです。
この様式の切符、同じく「八幡灘ゆき」とかも見ました。

こういうのも


戦前 B型硬券 赤RTC地紋 一般式 社航路内 3等

これは上のA型硬券よりも古いのでしょうか。外江は境と同じ半島の西側(鳥取県)のごく近距離の航路券です。
時期の問題か、経路による様式の違いか、もっと収集しないとわかりませんね。

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硬券追究0032 隠岐汽船

2017年04月13日 | 硬券追究

隠岐汽船

始まりは隠岐島議会の議員でありました松浦斌氏が、郡長の高島士駿氏の協力を得て、明治17年に大阪商船から購入して改名した「隠岐丸」を回航し、
明治18年に菱浦~浦郷~境港間の運航が開始されたのが最初でした。
当初は便が少なく利用者が伸びずに、また明治23年に松浦氏も没しました。しかし、隠岐島四郡連合会が運航を継続し、航路維持にと島民の出資もあり、
明治28年に隠岐汽船㈱が設立されました。本社は最初は中ノ島菱浦でありました。

隠岐ー本土間のみならず、阪鶴鉄道と連絡すべく、まだ山陰本線も全通していない頃の明治末期、山陰山間断崖地区の集落を東西に拾っていくという航路ももちました。
また明治43年から大正6年までは、北韓航路という国際航路もその一時期に運航されていました。
さて隠岐~本土は、その後昭和8年には松江港まで航路が延長され、第一隠岐丸、第二御気丸を交互毎日の運航をするに至りました。
昭和47年にフェリー化、昭和59年には高速船就航と、時間も大幅な短縮を図りましたが、平成7年の創立100年の頃には離島人口や観光客も減少し、経営に翳りが見え、平成18年以降は、経営再生計画をもって広域連合とともに改善がとりくまれているところであります。

さて、隠岐汽船の硬券切符は、個人的にはあまり面白くは思ってないのですが


平成12年 D型硬券?(報告片を取られA型相当) 青自社地紋 相互矢印式 2等

表記が、隠岐⇔本土というのも味気ないのですが、昔は港別表記ではなかったのでしょうか。
発行港の印が違うだけとは寂しいです。
等級違いを集めるぐらいの楽しみしかないような平成12年頃でしたが、報告片も取られ、料金も高額とあって、色々とは買えません。
この切符は、身内らが隠岐へ釣りに行って実際使ったというものです。
平成24年に家族旅行で境港に行く機会があり、隠岐汽船の窓口に寄りますと、まだ硬券でしたが、「乗らなければ売れない」らしく、また高額とあって新しい券は買えておりません。


平成12年 D型硬券?(報告片を取られA型相当) 青自社地紋 相互矢印式 2等

これも同じで、隠岐側の「浦郷」から本土への硬券で、様式は同じです。
本社(西郷?)まで行って、報告片の取られない完全品の収集に挑んだ方も居られたようですが・・・。

 


平成4年 D型硬券?(報告片を取られA型相当) 青自社地紋 矢印式 2等

こちらの方がまだ良いです。道後と島前間のものですが、港別の表記がされています。
平成4年でこれですから、上記2枚の本土ー隠岐も、ちょっと前は、港別表記だったのでは?などと思ったのです。
今は就航されていない島根半島加賀からの航路もありましたし、券種が色々と楽しめれば奥が深くなるのですが。


上級の等級では


平成 D型硬券?(報告片を取られA型相当) 青自社地紋 青帯1条 相互矢印式 特2等

これも近年でしょう。ちょっと高級感が出ましたが、1等は?・・・知りません。

 

航送の硬券も


時期不詳 D型硬券?(報告片を取られA型相当) 矢印式 車両航送券

これが港別表記ということは、平成一桁時代かな。ダッチングが雑過ぎます。

 

これがJR(もしくは国鉄)連絡です。自社の地紋でのものも拝見したことがありました。


平成3年(合計料金からして昭和53・63年の可能性も) D型硬券 青RTC地紋  運賃のみ補充 発着駅常備の不思議な連絡硬券

多分、十の位のダッチングは欠けているのですかね。平成なら船と併せて運賃が安すぎる気がします。

それにしても、着駅、経由も常備印刷しておいて、金額のみ補充とは違和感を感じます。
どうせなら常備でいいのに、理由があるのでしょうね。
学割、身障、小児対応という他でもありふれたようなものでない何か?


さて、最後に、もっと分からない切符がありますが、どういうものでしょう。


明治末期? D型硬券よりも横長 灰色ベタ 隠岐丸 2等乗船券 補充式

これは、元の本物か、切符は壱~参等まであるのですが、明治村のような、どこかの遊覧船ででも使っていた模擬券でしょうか。
それとも隠岐汽船の廃札でしょうか。信用していませんでしかが、切符と歴史に違和感は見られないのです。
①明治なのに右書き・・・鉄道では普通はないが、明治に右書きというのはゼロではないらしいです。
            ましてこの時代、隠岐汽船は国際航路もあったぐらいですから、明治末期ではあり得ます。
②濱坂港・・・この切符は他でもたまに見てきましたが、至 津居山などと押されているものもあります。
       上記沿革のとおり、岩美(網代)~浜坂~津居山(城崎)~宮津湾方面と山陰本線全通(明治45年)前の海辺の町に寄港していました。
③隠岐丸・・・隠岐丸は就航していますので、おかしくはありません。
ということで、訳の分からないモノでしたが、辻褄は合っているのです。

とか解説しておいて、タダの模擬券・復興券でしたらすいません。

 

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硬券追究0031 サワタクバス

2017年04月09日 | 硬券追究

サワタクバス

それまで、聞いたことがなかったです。こういう事業体。
どうも通称名らしく、調べてみますと、大正15年に鳥取県岩美郡に創業した澤タクシーが乗合事業も行った頃のもので「サワタクバス」。
昭和41年に日本交通(これならよく聞きます)に改称されています。日本交通の前身だったのですね。

ほとんど古い時代の知識はないのですが、鳥取から砂丘方面、若狭方面を中心とした乗合バスとしていたようです。


昭和36年 A型硬券 緑RTC地紋 矢印式

タクシー会社のバス硬券とあってか、一風変わった様式が新鮮です。

日本交通になってからのバス硬券を逆に見ないのですが、早々になかったのでしょうか。

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硬券追究0030 広電バス

2017年04月06日 | 硬券追究

広電バス(広島電鉄自動車)

広島電鉄のバスは、広島瓦斯電気時代の昭和3年、広島乗合自動車が創業し、昭和4年からその路線のおおかたを取得したことに始まり、昭和5年に子会社とします。
昭和13年には、その広島乗合自動車を合併し、広島電鉄㈱に自動車部が設置されています。
広島電鉄自体は、昭和17年に広島瓦斯電気から分離独立されたことによりますが、乗合自動車も多数の事業者統合を経て、広島電鉄直営のバス事業本部で今も担当しています。通商の「広電」は昭和30年代後半から愛称として呼ばれてきたものと思われ、鉄道線の「電車宮島」が「広電宮島(現在は広電宮島口)」に改称されたのも昭和36年でした。

さてバスの方になりますが、硬券というのは見かける券種も知れておりまして


昭和45年 A型硬券 緑地紋 2社共同長距離路線 のりかえ

この路線の元は、一畑電鉄の長距離急行路線として始まったのですが、国鉄の列車「ちどり」の影響に圧されたことにより、広島電鉄が共同運航に参入して、
(米子)-松江ー玉造ー宍道ー木次ー三刀屋ー掛合ー三次ー広島バスセンターー広島駅ー(宮島口)を運行しました。
昭和62年に完全に高速バスへ変貌し、運行時間を縮めています。

当時この手の切符には「のりかえ」とあり、この路線なら三次ターミナルあたりで乗り換えが必要だったのでしょうか。


案外、自社短距離のものが出て来ず、前回のバスセンターの共同表記でないものとしては


昭和41年(裏に日付印) B型硬券 青自社地紋 金額式 乗換

これは「広島センター」からでありながら、広電バス単独路線となる硬券です。
まあターミナル初期は、路線バスの共同運行の協定をしていない各社別発行の時代だっただけなのかも知れません。
190円とはいえ、昭和41年なら結構な距離までは乗れると思われ、この切符にも広電特有?の「乗換」表記があります。

どこかの出張所を跨ぐと、乗り換えを必要としたのでしょうか。それとも単に「車両乗り換えも可能」という単純な意味なのか?


改変はありながらも、今も電鉄直営でやっているようです。硬券はとっくに無いのでしょうね。

 

 

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硬券追究0029 広島バスセンター

2017年04月02日 | 硬券追究

広島バスセンター

広島市内中心部に来るバスは、県内バスはもちろん、県外からのバス会社からのアクセスも種類が多く、また広島中心部においても各社ごとに異なる場所にそれぞれバス停を置いており、ややこしいこと極まりない状態でありました。乗り換え等も不便・混乱したものと思われます。

これらを一ヶ所にまとめて整理しようと、昭和30年3月にターミナル事業の会社を設立し,同7月には日本初となる一般バスターミナルが開業しました。
当初は、集まるバスの数の割に結構狭いところであったため、渋滞・混雑が頻繁にあったとそうです。
昭和39年に広島中郵便局の隣地を取得し、移転、土地代を緩和すべく商業施設の建設が考えられました。
結果的には「そごう」と覚書を交わしましたが、階数やターミナルの場所などの模索が繰り返され、さらに現在地である広島中央警察署のある場所へ移転し、広島センタービルを建設し、昭和49年10月に「そごう」を合築したセンター街として、バスターミナルは10階建の3階部分に設けられました。
(建設中の昭和48年頃の一時期は、県庁東の仮設ターミナルが使われたことがありました。)

多種の事業者のバスを一ヶ所のターミナルに集める発想は、他では、盛岡バスセンター、名鉄バスセンター、天満屋バスステーションなども思い浮かびますが、取りまとめて運営したはかりでなく、ターミナル会社自社の硬券(共同使用路線バス用)まで作ってしまうところは少なく思います。
しかし10社をも扱い、切符の表記も面白いものとなっておりました。


昭和44年 B型硬券 赤HB自社地紋 矢印式 10社共同

昭和44年なら、最初のターミナルからは移転された二代目の場所の時代になります。
しかし、10社表記と発行の自社表記はお見事な切符です。


昭和 A型 硬券 赤HB自社地紋 矢印式 10社共同

こちらはA型になり、B型時代より後のものと思われます。


昭和 A型 硬券 緑自社地紋 矢印式 10社共同 呉方面 小児印

少し厚さが微妙に減り、こういうものが硬券といえるの末期で、以降は紙質の薄いもののなっていったと思われます。

通称は「広島センター」で通っていたのですね。


後年になり「改札」というものがなくなっています。

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硬券追究0028 瀬戸巡航船組合

2017年03月30日 | 硬券追究

瀬戸巡航船組合

徳島市から鳴門の位置する吉野川をはじめとする複雑な河口は、迷路のように幾筋もの水路が張り巡っており、現在でもその様子は残っています。
新町川水系、吉野川、鳴門(撫養)には、そういった河口の水路を行き来する巡航船が明治・大正・昭和初期に発展しました。
5トン程度の軽量の「ポンポン船」と呼ばれた船が水上交通として人や荷物を運びました。中でも徳島市街(新町川畔~撫養航路)は最も利用の多い川筋で、大正から昭和10年頃まで運航されていました。「瀬戸」というのは瀬戸内海というよりは、狭い海峡の広義の「瀬戸」からきているのでしょう。小鳴門筋を北上した鳴門の堂浦(どうのうら)までも通っていたようです。大正2年で徳島~撫養は大人20銭(その時代にしては結構高い?)だったそうです。

そんな航路にも硬券は存在し


昭和8年 A型硬券 青PRCしせつてつだう地紋 一般式

立派なものがあったものです。昭和8年と書きましたが、ダッチングの感じから右印字の残りのようなニオイもしますので大正13年かもしれません。
撫養桟橋から鳴門の島側の堂浦へは急流の小鳴門の瀬戸を北上しながら横断する必要があるので、距離はそんなにない区間ですが小型船では結構大変で慎重な運航を強いられたのではないでしょうか。

堂浦」・・・海釣り(カセなど)で釣り人には有名です。小鳴門は急流ですが、入り組んだ湾内の「内ノ海」は穏やかです。

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硬券追究0027 南薩鉄道ロープウェー

2017年03月26日 | 硬券追究

南薩鉄道ロープウェー

昭和27年に、鹿児島交通の前身である南薩鉄道により薩摩湖の観光開発が進められることとなり、昭和30年11月に南薩鉄道に薩摩湖駅が新設されます。
昭和31年3月31日には、高低差21.3m(湖を渡る雰囲気のようで余り高低差はないですね)を5分で結ぶロープウェイが開業します。
麓駅~つつじが丘 水平長538.51m 16人乗り小型搬器2台を使って往復されました。
旅客用では、日本初となる湖面を渡るロープウェーとして宣伝されたのです。

国鉄の初乗り運賃が10円という時代に、当初から大人50円も取っていたのですから、それなりに期待も込められていたのだと思いますが、ブランド力もなく半島という利便性の良くない地理的事情のなか、利用者は減少していき、昭和44年5月に休止、遊園地は開始から5年、ロープウェーは14年で休止(そのまま廃止)と、事業者が昭和39年に鹿児島交通になってからは長くなかったようであります。薩摩湖の湖面にも、もう勝手に入れなくなっているかも知れません。

さて、貴重なロープウェー部分の硬券は


昭和35年 B型硬券 青てつだう地紋 一般式 小児

大人用ももちろん拝見したこがありますが、今のところ余りしょっちゅう見かけることはありません。

麓側の駅は「吹上遊園地」駅と表記されていました。つまりこれは、登った側で売られた切符ですね。

バリエーションを揃えたいところですが、弱小な当会では叶いません・・・。
何しろ南薩鉄道の主役、鉄道線の切符を一枚も所持していない変な会でございます・・・。

 

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硬券追究0026 六甲山乗合自動車

2017年03月24日 | 硬券追究

六甲山乗合自動車

六甲山乗合自動車㈱が設立されたのは、昭和4年でした。
昭和16年に、阪神合同バスに合併されまして、戦時中には山上バスは休止されましたが、後に復旧しています。
阪神バスが継承したのでしょうか。
しかし、六甲登山口(現・神鉄六甲)駅からのアクセスの部分はもうないような気はします。
登山口の駅も昔とは違い、他に六甲山に登るルートや広い道路が沢山出来て、ここから登山口とする雰囲気は薄れた感じです。
しかし駅前には、もう川が沢のような雰囲気で、徒歩でも登るような山間の駅であることには変わりはありませんが。

六甲山頂にかつては硬券も売られた時代はありまして


昭和戦前 A型硬券 青ベタ 一般式  神戸有馬鉄道連絡運輸

この経路の切符は地紋が付いたものも確認していますので、六甲山乗合自動車名義戦前時代は割と長く売られていたのかも知れません。

 

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硬券追究0025 三重交通と渡鹿野島

2017年03月19日 | 硬券追究

三重交通と渡鹿野島

先日申しました、的矢湾関連で不可解な硬券がこれです。
紐解けそうで解けない部分があり、推察の域を出ないのです。


時期不詳 A型硬券 無地紋 赤線縦4条 一般式

はっきり言って教えてほしいものです。
三重交通の設立は昭和19年ですから、戦後落ち着いてすぐの硬券ということは見てとれます。

これと同様式で、「山田」から「濱島」までのバス~鉄道~志摩観光汽船連絡の昭和34年の硬券(この様式を運賃訂正印で使用)を見たことがあります。
その券は地紋があり赤線縦3条です。濱島には戦前から真珠湾交運の遊覧船もあり不可解なところはないのですが、

画像の券に戻せば、まず三重交通に船舶部があった話は知りませんので、これは三重交通が発行はしているが「復路券」。しかし、志摩観光汽船が渡鹿野巡航船事業を始めたのは昭和33年です。昭和33年ならば、切符の運賃に「銭表示」は無くっている時代です。法的にも昭和28年までで、実質さ昭和23年には使われなくなっていると思います。作られたのは昭和22年頃とは思うのですが、その頃に巡航船が存在したかどうかです。こういう入り組んだ地区ですから、無くはないでしょうが、切符にある「穴」は、穴川港(駅)であることは間違いなく、的矢湾巡航や昭和19年まであった志摩航運に(戦争で中断したにせよ)穴川までの航路があっって、戦後に少し復活していたのか? 「渡鹿野」が今もある三重交通バスの渡鹿野渡船場バス停ということもありますが(対岸の渡鹿野への民渡船は結構ありました)。

このへんで、この切符が廃札にせよ本物であると仮定した推察ですが、
①戦後すぐにたとえ短期間や不定期にせよ、渡鹿野島から穴川港までの渡船が存在した。
②わざわざ経由地にある「鳥」は鳥羽、「二」は二見、「河」は河崎(山田から北東部河岸の古くから栄えた町)、
 「山田駅前」という表現は、昭和36年まであった三重交通神都軌道二見線で名乗られた駅名。これは二見浦までは軌道線かも?
③渡鹿野航路(穴川)~三重交通鉄道(鳥羽)~三重交通バス(二見・河崎)~三重交通軌道線(山田駅前)で赤線4条 もしくは
 渡鹿野島(民渡船)から?渡鹿野渡船場三重交通バス停~穴川駅から三重交通鉄道線(鳥羽)~三重交通バス(山田)? また

 ②と③の別パターンの組み合わせ。

いずれにしても不祥です。せめて往路の券があればいいのですが・・・。こんな解説、考察をしておいて、

どこかのタダの「模擬券」でした、というオチになったらすいません。

 

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硬券追究0024 真珠湾交運

2017年03月16日 | 硬券追究

真珠湾交運

真珠湾交運は、資料などでは真珠湾交通などと書かれたりしますが、
切符に真珠湾交運とあるので、この名称が正式なのでしょう。真珠湾交運㈱

まず英虞湾の入り組んだ地形に昭和2年に真珠湾交運は設立され、自動車事業開始されました。
昭和4年には、鳥羽・英虞湾の遊覧事業にも進出、巡航船事業開始しています。

今までのこのサイトではバスと船は分けて編集しましたが、沿革とか、会社についての記述もしているので一緒に扱います。

バス事業は、昭和18年に三重乗合自動車に引き継がれ、翌年昭和19年の合併で三重交通の路線になったはずです。

遊覧事業の方は、昭和19年に真珠湾交運の会社自体がが志摩湾交通と合併し志摩航運となりました。後の志摩観光汽船→志摩マリンレジャーです。

さて乗合自動車事業のあった開業直後の時代に硬券での乗車券が発売されていまして


昭和8年 A型硬券 無地紋 一般式

鵜方を中心に入り組んだ半島、入江に向かいバスを走らせました。立神口は、鵜方から東側の半島の付け根付近の地名です。
社名と自動車線で昭和一桁、沿革を裏付ける証人ですね。

 

さて、こんな硬券をゴロゴロもっているはずもなく、次は船舶(遊覧事業)の方ですが、


昭和6年 A型硬券 淡緑色ベタ 一般式乗船券  裏社名で真珠湾交運㈱

こちらは、半島向かいの側の和具ゆき、船の拠点は鵜方から賢島に移ったようです。志摩電機鉄道の影響もありそうです。
貨物駅としては真珠港駅があった時代ですが、遊覧船には賢島港が別に設けられていまして、和具、御座、濱島や半島の裏側へも廻り、バスと合わせて生活路線としても難しい地形の交通をまかないました。

これは、当会のテリトリー外ですが、あるのでオマケで


小型難券 無地紋 回数乗舩券 これも和具-賢島

 

次回は、こういう関連で、的矢湾地域の不可解?な券を推察を踏まえてご紹介します。

 

 

 

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硬券追究0023 姫路市交通局

2017年03月12日 | 硬券追究

姫路市交通局

姫路市交通局は、昭和21年に有料バスの営業を開始しました。
昭和33年に書写山ロープウェイも開業させます(後に神姫バスが指定管理者に)。
昭和41年には姫路モノレールを開業しますが、昭和49年に休止となって長らく施設跡が残っていました。

バス事業は、昭和41年の姫路博開催後に活発に広げられましたが、東・北・郊外部は、神姫バスへの部分的な随時移譲、
また競合路線も存在したようでした。

平成19年に水道局と統合し、姫路市企業局交通事業部となります。
平成22年には全ての路線(16路線、34系統)を神姫バスに移譲。さよなら運転を終えました。

こんなところにも硬券が存在したのは驚きでした。


昭和40年 B型硬券 淡緑地紋 東均一地帯区乗車券 金額式 姫路市交通局

薄く見える模様は市章か何かが描かれているのでしょうか。他にどんな券が出てくるのか今後の楽しみです。

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